蔓草
「蔓草」
七月の太陽が燦々と照りつける暑い昼下がり、三組の夫婦が細い山道を一列となり山奥へと歩いていた。
そのやっと人が通れるほどの道幅しかない道の両脇には鬱蒼とした木々や雑草が生い茂り、生気に満ちた芳しい香りを辺りに充満させていた。しかし歩いて行く道中は木陰とはいうものの、さしたる風も無く、強烈な熱気と湿気に包まれて、さながら蒸し風呂のような暑さだった。
そんな中三人の夫達は皆背中に大きな重いリュックを背負い、ポタポタと汗を垂らしつつ、黙々と歩を進めていた。
それにひきかえ前を行くご婦人達はというと、それはもうハイキング気分で、手にしたスマホで風景やお互いを撮り合いながら笑い会い、さながら賑やかで楽しい仲良しのお散歩風景だった。
中沢はその笑い声を遠く前に聞きながら、すぐ前を歩く小池に愚痴をこぼした。
「まったくあいつらはお気楽なもんだな。こっちはもう、膝も腰もガクガクだってのに・・。おい小池ぇ!そのテン場とやらにはまだ遠いのか?俺はもう足が吊りそうだよ。ちょっと休んだほうが良いんじゃねぇか?なぁ、そうしようよ・・。」苦しそうな顔に汗を滴らせて、細身の中沢は小池に懇願した。そんな中沢に振り返りつつ、呆れ顔で返答した。
「はぁ?もうかよ。まだ歩き始めて三十分も経ってないってのに。だらしないなぁ。もうちっと頑張れよ。」そんな中沢を振り返り、山歩きに熟練している筋骨逞しい小池は苦笑いしていた。
けれども其処に立ち止まった中沢は、もう降参だとばかりに小池に両手を挙げて見せて、汗だくの顔で訴えた。
「そんなこと言ったってねぇ。俺達はお前みたいに、しょっちゅうこんな山の坂道歩いてる訳じゃ無いんだからさ。おまけにこんなに暑い中での大荷物だ。へたるのが当たり前だよ。とてもじゃないけど、そのスピードには付いていけないよ。それを証拠にほら、あの後ろから来る大木の顔を見てみろよ。ありゃどう見たってレジャーに来た顔じゃないよ?何処かの山で大層な難行やってる、苦行中の坊さんみてぇだ。」
中沢にそう言われて、小池も後ろから付いてくる大木の姿に目をやった。
後ろから遅れてくる丸坊主頭の大木は、仁王様のようなしかめ面で辺りを睨みながら、太ったその巨体を苦しそうに運んでいた。そしてそのぜぇぜぇと吐く息が、こっちにまで聞こえていた。
そんな大木を見て、小池は呆れ顔で溜息を吐いた。
「ふぅ・・しょうがないなぁ。じゃあここらで一休みするかぁ?おーい!奥様方ぁ!ちょっと待ってくれぇ!旦那方がへたっちまったよっ!」
そんな小池の呼び声を聞いた奥様方は、え?と意外な顔をして戻ってきた。
「どうしたの?あらまぁお二人とも、すごい汗だこと!」小池の妻の佐代子が、道端に腰を降ろしてへたばっている中沢と大木を見て驚いて言った。
「ねぇあなた、こんなとこで死なないでよね。まだまだたっぷり家のローンが残ってんだから。」と、大木の妻の陽子が夫を睨んだ。
そして中沢の妻の静恵はというと、ただ二人を静かに見下ろしているだけだった。
「はぁはぁ・・ひっくっ。し、仕方が無いだろう・・。はぁはぁ・・。こんなにハードだとは・・思いもしなかったよ・・ひっくっ。」大木は切れ切れに、しゃっくりを交えて弁明した。
「そうだよ。こんなに重い荷物と空手じゃ、どんなけ違うって。この重さの十分の一でも良いから、あなた方に分散してもらいたいよ。」
汗だくの顔で奥様方の顔を見ながら中沢がそう言うと、奥様方は一様にジロッと中沢を睨んだ。そして陽子が口を開いた。
「あら、私たちだって分担して持ってるわよねぇ?ねぇ、そうでしょ?
私たちが背負ってるこのリュックの中にはペットボトルの1リットルのお水と、それにお鍋が、それぞれ一個ずつ入ってるもの。
それにね。何故うちの旦那と中沢さんのリュックがそんなに重いのか、教えてあげましょうか?それはね。昼食を食べた後此処に来る最後のコンビニで、お二人はそれぞれ一ケースものビールを買ったでしょ?足りないと口が寂しいからなぁとか何とか言ってね。それを見ていた小池さんが首を傾げながら注意するのも振り切って、意気揚々とへっちゃらさぁとか言い合って、そのリュックの底に沈めたわよねぇ。だから重いの。それだけで十キロは違うんだから。自業自得ってもんよね?小池さんみたいに焼酎にしとけば良かったのよ。ねぇ、小池さん?」
「あ・・いや・・。ハハッ。俺はビールが苦手なだけだから・・。」
陽子の容赦ない言葉の迫力に気圧されて、小池は苦笑いを浮かべていた。
「はいはい・・分かりましたよ・・。」中沢は説教をくらっている学生のように頷いた。
(はいはい、あなたの仰るとおり。確かにその通りで御座いますがね。だからってねぇ、こんなとこで子供を叱りつけるように言う事ねぇじゃねぇか・・。えらく上から目線でさ・・。)陽子の言葉にカチンときた中沢はそう思い、旦那である大木をチラと見やった。すると当の旦那は口をへの字に曲げて、申し訳無さそうに上目遣いで自分の妻を見上げていた。
(あーあ・・何だよ。これじゃあ本当に叱られてる、でっかいだけの子供じゃねぇか。まったく情けねぇなぁ・・。ほんとに大木んちも、大変な事だわ・・。)中沢は小さく溜息を吐くと、小池を見上げて小さく頷いた。それを見た小池は、奥様方に声を掛けた。
「よし、じゃあそろそろ行くとするか。此処からだと後一時間くらい歩けばそのテン場に到着するから。中沢と大木はゆっくりとで良いから休み休み歩いて来てくれ。この道は一本道だから迷うことも無いしな。」
そのやり取りを見ていた小池はその場をほぐすようにほがらかにそう言うと、奥様方達を促して出発した。
残された中沢と大木は座ったままそれを見送り、二人して目を見合わせた。
「大木、大変だなぁ・・。しみじみと同情するよ。だからまぁ、ゆっくり一服してから行こうや。」中沢はポケットから煙草を取り出し大木に勧めた。
「あーいや・・。俺、煙草は止めたんだ・・。」しょぼくれた顔つきで大木は断った。
「へーえ。そりゃ驚いた。あんなにヘビースモーカーだったお前がねぇ。」中沢が驚いた顔で問うと、
「仕方が無いだろう。家を建てちまったからなぁ。そのしわ寄せが全部、俺の娯楽を奪っちまったんだよ。」と大木は淋しそうに微笑んだ。その顔を見て、中沢も同じ顔つきで微笑み、軽く溜息を吐いた。
「ふーん・・。大変なんだなぁ・・。」
中沢は煙草に火を点け汗が引くのを待っていたけれども、やがて申し訳無さそうに、吹かしていた煙草を携帯灰皿でもみ消した。
「じゃあ行くか。後戻りはもう、出来ないんだからな。」そう言うと中沢は力を入れて立ち上がり、リュックサックを背負い治した。そしてなかなか起き上がれない大木の手を取って引っ張り立ち上がらせた。
それから中沢は、大木にしみじみと言った。
「でもな大木。後戻り出来ないのは、こんな事ばかりじゃ無い。日々の生活だって、ただ退屈に過ぎていくばっかりだ。つまらない事の繰り返しでさ。
だからな大木、今夜は大いに呑もう!そんでこのビールは全部空にするぞ!帰りにもあんな小言を聞くのも真っ平だし、それにこんな時しか日頃の憂さを晴らせやしないしな。」そう言う中沢の言葉に、大木は真顔で頷いた。
「うん、分かった。お前の言う通りだよ。こんな時にこそ、日頃の憂さは晴らすべきだな。
そうだよ、まったくなんだってんだ!あんなにえらそうに言いやがって!頭に来る!よし、中沢ぁ!今夜は徹底的に飲み明かしだぁ!」
「おおよっ!そうこなくっちゃあ!」
そう意気込み凄まじく叫んだ二人だったけれども、少し経った頃にはまたとぼとぼと、登りの一本道を汗だくで歩き続けるしか無かった。
「小池さんとこは良いわよねぇ。共通の趣味があって、こうして仲睦まじくて。ねぇ静恵、そう思わない?」順調に山道を登って行く中、陽子の口舌も益々順調だった。
「うちなんかもう・・。結婚してから五年経つけど、あの結婚当初のメッキは全部剥がれ落ちたって感じ。幻滅させられることばっかりでさ。でもやっぱり子供と家のことがあるから、どうしようも無いのよねぇ。お金もいっぱい掛かるしね。その点佐代子と静恵は良いわよねぇ。佐代子は小池さんの実家に入ったし、静恵も中沢さんの親が残してくれた家に二人暮らしでしょう?本当に羨ましいわ。あ、そう言えば佐代子、お子さんはおばあちゃんに預けてきたの?」
「うん。もう小学生だし、手もそんなに掛からないしね。」
「そうよねぇ。大きく成るまでが大変なのよね。うちはまだ一歳半だから、手が掛かっちゃってまぁ・・。でも今日はこのイベントの為に、嫌がるお母さんを無理矢理引っ張り出しちゃった。たまには私も羽を伸ばしたいしね。静恵も今から考えといた方が良いよ?子育てって、そりゃもう大変なんだから。」
「そうね。でもうちはまだまだ先みたい。ひょっとしたら、生まないかもね・・。」そう言って、静恵は弱く微笑んだ。
「ええ!ダメダメ、そんなんじゃ。子はかすがいって言うでしょ?これは本当にそうなんだから。亭主は子供で変わるものなの。結婚してやっと分かったわ。亭主は教育していくもんだって。子供という、餌を使ってね。」
小池達一行はテン場に着いた。其処は川から少し離れた、二十畳ほどの真っ平らな場所だった。
「奥さん方は夕食の準備をして下さい。俺はブルーシートを張って、寝床やトイレの用意をしますから。」
小池はリュックからブルーシートを取り出して、先ず奥様方のトイレの作成に取り掛かった。女性の自然の営みを先ず楽にする。でなければ、とんでも無い喧噪が待ち受けている。小池はその事を経験から良く知っていた。
それが済むと、今度はテン場の寝所作りだ。ブルーシートを原っぱに敷いたり、頭上に屋根代わりに張ったりしていた。
「ごめんなさいね、小池さん。うちの亭主が何にもお役に立てなくて・・。」陽子は申し訳無さそうに小池に声を掛けた。
「いやいや、もうすぐ到着するでしょう。そしたら彼等には、やってもらう事があるから。」
小池がブルーシートを張り終えた頃、中沢と大木は到着した。
ぜぇぜぇと息を切らし、ブルーシートを目にすると、その上に倒れ込むように腰を降ろした。
「いやぁ!参ったっ!山歩きがこんなに苛酷だとは、思いもしなかった。
あぁ・・疲れた。でも、達成感ってのはあるよな?なぁ大木。」
「ああ、まさしく・・。でも、くたびれたぁ・・。」
二人がブルーシートの上で息を整えていると、小池が歩み寄ってきた。
「お二人さん、寛ぐのは、もうちっと後にしてくれないかな?まだ仕事が残ってんだよね。」微笑んで二人を見下ろす小池に、当の二人は「え・・?」と小池を見つめるばかりだった。
それから中沢と大木の重労働が始まった。
先ず焚き火をするための木材を切り出して来なくてはならない。それも生い茂っている生木では無く、流木の乾いた部分を集めるのだ。二人はのこぎりを片手に、薪となりそうな流木を見つけてはそれを運んだ。
「なぁ小池、もうそろそろ良いんじゃねぇか?もう随分と運んだよなぁ・・。」中沢がほぼ泣き顔で小池に懇願した。
「いやあ、まだまだ。何せ一晩中燃すわけだからさ。火を絶やしたら、熊だの猪だのが出て来ちまう。それでも良けりゃ、これで充分だけどな。」
「言ってくれるねぇ・・。分かったよ!おい大木、まだ足りねぇってよ!もう一踏ん張りするかぁ。きっと後のビールが旨いだろうからさ。」
汗だくの中沢と大木は、眼を座らせてまた流木を探しに行った。奥様方はそのやり取りを、ニヤニヤと笑いながら聞いていた。
「おい、中沢、中沢ぁ!」
それから小一時間ほど経った頃、枯れ木を探して中沢の前を行く大木が、振り向き様に中沢を呼んだ。
「ああ?何だよ。ああ分かった。どうせまた蛇に出くわしたってんだろ?大木ぃ、こっちも忙しいんだからさぁ、そんな事でいちいち呼ぶんじゃ無いよ。そんな事で俺を呼んだところでさ、何にも出来ないのは分かってんだろうに・・。それにもういい加減、この暑さで倒れちまいそうだよ・・。」
「いや、そうじゃ無いよ。こっちに来てこれを見てみろよ。これ一本切れば、この耐え難い重労働は終わるんじゃ無ぇか?」
そう言う大木を中沢が見やると、大木が何かを見上げて佇んでいるのが見えた。
「なに怠けて休んでんだよ。早いとここれを終わらせないと、宴会どころじゃ無いぜ?」中沢はそうぼやきながら、大木の元へと歩いて行った。
「なんだってんだよ、いったい・・。」
「中沢・・これって、もう枯れ木だよな?」
「うん?」
大木が見上げているその木は、細いけれどもけっこう高い木で、十メートルほどはあるだろうか。しかし所々の皮は剥がれていて弱々しく、葉も無くて、立っているのがやっとと思われる木だった。何故ならその木には太い蔓草が、まるで大蛇のように纏わり付き、その幹に深く食い込んでいたからだ。
「はぁ・・自然界も大変なんだなぁ。これじゃあこの木は、蔓草に食い殺されてるって感じだよなぁ・・。」気の毒そうに中沢は呟いた。
「そうだろ?だからお前を呼んだんだよ。生木は切るなって小池は言ってたけど、これはもう、生木じゃ無いよな?」
そう言う大木の言葉に、中沢は正直返答に困った。けれどもあまりの暑さと滴る汗に妥協して、大木に同意した。
「うん、そりゃそうかもなぁ。これじゃあ生き地獄もいいところだ。蔓草に締め上げられてじわじわ死んで行くなんて、残酷さも通り越してるよなぁ。」
その返答を聞いた大木は、眼を見開いてニッコリと笑った。
「だからさ、この木を切り倒して細切れにしてさ、そんで今夜の燃料にしようや。流木なんて、もうそうそう見つかりゃしないよ。これ以上、どう探せってんだよ。それにお前が言うように、この木はもう死に体だ。助かりっこないよ。だから俺達がそれを供養するんだと思えば、この木だって幸せだと俺は思うんだけどさ。」
「ふむ・・。」
中沢はまだ少し躊躇した気持ちもあったけれども、大木の言う事ももっともな気がした。と言うよりも、この重労働を終わらせるという言葉の誘惑に負けた。
「そうだな。これはお前の言う通り、善意の行いってやつかもな。じわじわ死んで行くより、潔くばっさりってやつだ。俺がもしこうなっちまったら、きっとそう思うかもな。」
「だろ?だからこれをさばいて、もうこんな仕事は終わりにしようや。
もう俺は、これ以上は働けないよ。」
そう言って頷き合った二人は炎天下の中、その木を根元から伐り、木に深く絡んでいた蔓草も粉々に切り刻んだ。そして少し残っていた木の皮も剥いだ。何故ならそうしなければ、小池にばれてしまいそうだったからだ。
「おお、これなら流木と変わり無ぇな。元々死に絶えそうに枯れていた木だからな。まぁ俺達二人は、この木を苦しませること無く、極楽浄土に送ってやったってことだ。だからこの木も幸せだったろうし、俺達も幸せになるってことだ。大木ぃ!この山に来て良い事をしたな!」中沢が朗らかにそう叫ぶと、大木も上機嫌で叫んだ。
「おおさ!人助けならぬ、木助けだな!」
それから二人でその木を鋸で切り分けてから、それをロープに結わえて背中に担いだ。
そして二人は、元来た道を戻って行った。
「ハァハァ・・。大収穫とは言え、この木は重いなぁ・・。背中に食い込んでくるよ・・。」大木はまだ苦行中の顔だった。
「もうちっとの辛抱だよ、大木。もうすぐだろうからさ・・。」
滴る汗に、二人は前を見る事も出来ずに、ただ足元を見ながら重い足を動かしていた。
そんな道中の中、暫くして前を歩いていた中沢は、ふと顔を上げて辺りを見回した。
「うん?大木ぃ、来るときこんな景色だったっけ?」
いつしか二人は川を離れて、山を奥深く分け入ってしまっていた。中沢の言葉を聞いて、大木も汗だくの顔を上げた。
「ほんとだ・・。ええ?ひょっとしたら俺達、道に迷っちまったってか?そんな・・。俺はただお前の後を付いてきただけなのに・・。」不安げに大木は呟いた。
そんな大木を見て、中沢は陽気に声を掛けた。
「今更そんな愚痴こぼしたってしょうが無いだろうに。まぁここは落ち着いて、一休みしようや。ほら、あそこにでかい木がある。あの木陰で少し休もう。要は川を見つけりゃ良いことなんだからさ。何て事無いよ。」
二人は大樹の木陰に腰を降ろし、重い荷物を肩から降ろした。
「ふぅ・・まぁ大木落ち着けよ。こんなアクシデントだって、きっと後になれば良い思い出になるってもんだよ。落ち着いて、よーく耳を澄ませて、川の音を聞けば良いんだ。それが聞こえりゃ戻れる。それだけの事さ。」
そんな中沢の言葉に、大木も微笑んだ。
「まったくお前は暢気だなぁ。俺もそうだけど、お前の方がよっぽど上手だよ。」
「一服点けるか?」中沢は微笑んで大木に煙草を勧めた。大木も微笑んでその煙草を手にした。
「ああ、もらっとくよ。こんな時に吸う煙草は格別だからな。きっと普段は味わえない味がするだろうよ。」
十分ほど休んで、二人は腰を上げた。その涼やかな木陰は、二人に活力を蘇らせていた。
「ふぅ・・。この樹に感謝だ。何だか疲れも取れたみたいだしな。やっぱりこんな大樹ってのは、パワーがあるのかなぁ。」中沢が呟くと、大木もその大樹を見上げた。
「なぁ中沢、この樹はなんて言うんだ?感謝はするけど、名前が分からないと人に自慢出来ないよ。」
「俺に樹の名前なんか分かるわけ無いだろ。不思議な大樹があってななんて、人には話しゃ良いんだよ。それとその特徴をさ。」そう言いながら樹を見上げた中沢は驚いた。
「なぁ大木、見てみろよ。この樹にも蔓草が、これでもかってほど巻き付いてるぜ。でもこの樹は、さっきの木みたいに負けてない。逆に蔓草で身を守ってるみたいだ。樹もいろいろだなぁ・・。俺もいつか、こんな逞しい樹みたいになりたいもんだよなぁ・・。」
「ああ、そうだな。でもうちの蔓草は強力だからなぁ。体はこうでも、心はもう絶え絶えだよ。」大木はそう言って苦笑いを浮かべた。
「ハハッ。そりゃ大変だ。でもな、これからの人生もまだ長いし、どうなって行くのかは分からないんだからさ、夢は持とうよ。
お、何となくだけど、あっちから川の音が聞こえてないか?ちょっと下ってみようよ。」
そして二人はようよう川を見つけて、その脇を通って、どうにかテン場に行き着いた。
「はぁ・・着いた・・。大木、これでやっと休めるぜ。」そう言って後ろを振り向くと、大木の目はもう疲れで座っていた。
「小池ぇ!どうだい?こんだけありゃ足りるんじゃねぇか?」
やっとテン場に辿り着いた喜びも手伝って、中沢は大きな声で小池に呼ばわった。
その声に振り向いた小池は、彼等が持って来た木に目をやった。経験の深い小池には、その木がどういう木だかはすぐに分かった。けれども目にする彼等の汗に免じて、微笑みと共にそれを許した。そしてその薪の量を確かめてから、しっかりと頷いた。
「うん、これなら明け方まで持つだろう・・。お二人とも、ご苦労さんでしたね。」
そうやってようよう小池がOKを出す量に達したことを知った二人は、その場に崩れ落ちた。
「ああ・・。もう・・ヘトヘトだ・・。」声にも成らないようなか細い声で、中沢は溜息を吐いた。
「はいよ、お二人さん。ご苦労さんでした。」小池は二人に、よく冷えた缶ビールを手渡した。
「先ずはこれで活力を取り戻してくれ。それからこの木を組んで、火を入れるからさ。」
二人はそのビールを、矢も楯もたまらず喉に流し込んだ。乾き切ってどろんとした体にそれは染み渡り、眼に活力が蘇った。
「あーっ!旨いっ!こんなに旨いビール、久々だわ!」中沢が叫ぶと、大木も同調した。
「本当だ!この開放感が堪んねぇなぁ!」
そうして二人はひととき、恍惚とする幸福を味わっていた。小池はそんな二人を見て微笑んだ。
「だろ?これが山の醍醐味ってやつだよ。さぁ、それを飲んだらもう一仕事やって、火を熾すか。ぼちぼち、日没だからな。」
そう言って空を見上げる小池の言葉につられて二人が空を見上げると、もう陽は落ち始めようとしていた。
山奥の夕刻。それはこれまで燦々と降り注いでいた光が徐々に弱くなり、そして闇が少しずつ滲み出す、逢魔が刻の始まり・・。これまでの暖かな日射しの手が、木々や草の葉の名残を惜しむ手から、フッと離れる時刻だった・・。
そしてこれまで与えられていた暖かみを失った植物たちは、その瞬間から別の眼を持つ者へと変貌する。その隠された思いは、やがて辺りの空気を濃密にさせ、妖しげな冷気を漂わせるのだ・・。
暗闇がすっかり辺りを包んだ頃、小池らが組んだキャンプファイヤーが景気よく燃え上がった。そしてその火は辺りに立ち並ぶ木々らの影を、暗闇に妖しく踊らせていた。
賑やかに宴会が始まった。最初に小池が立ち上がって皆に挨拶をした。
「さて、今日は皆さんご苦労様でした。これからはその苦労を労う宴会ですが、ここでその前に少しお時間を頂きたい。と言うのも我々は此処で、一つの儀式を執り行いたく思うからです。
此処は山奥の中です。もし我々が居なければ、しんと静まり返った自然だけが憩う神聖な場所とも言えるでしょう。ですから自分たちが楽しむ前に、此処に棲んでいらっしゃるであろう山の神と川の神に、謹んでお許しを請おうと思っています。そのために御神酒を振る舞い、そしてお米を捧げます。そこで皆さんにはその間、この旅の安全と一夜の安息を、山と川の神々にお祈りして頂きたく思います。では、手を合わせて下さい。」
小池がそう言うと、皆正座して手を合わせた。小池はそれを見届けると、酒と米を手にして、「山の神、山の神・・。川の神、川の神・・。」と呟きながら、それを山と川それぞれに投げた。そして自分も目を閉じて合掌した。
透き通るような静寂の中に、パチパチと爆ぜる薪の音だけが辺りに響いていた。
「よし、もう良いでしょう。皆さん、寛いで下さい。さて、呑んで食って、語り合いますか!ではそれぞれのグラスに酒を注いで下さい。良いかな・・?
では、カンパーイッ!」
「カンパーイッ!」
朗らかなみんなの声が森に響いて、賑やかに宴が始まった。
夫達が組んだキャンプファイヤーの炎は勢いよく燃え上がり、楽しげなみんなの笑顔を、揺れ動く影と共に輝かせていた。
「いやあ小池。こんな体験は初めてだよ。開放感と言うより、開放そのものだもんな。いつもは直ぐ其処に壁があるけど、此処にはそんな壁は無い。不安な感じもするけど、この状態がきっと、古来からの生き物の原点なんだろうなぁ。」
初体験の真の闇に目を凝らしてから、小池を見て中沢が言った。その言葉を聞いて小池は微笑んだ。
「おや中沢、随分と詩的な言葉を吐くじゃないか。そんな感性がお前にあったとは、こりゃ意外だねぇ。」
その言葉に、中沢は肩を竦めた後、微笑んで答えた。
「おーお、言ってくれるねぇ。でもな、俺はこう見えても、十代の頃は本気で詩人になろうかななんて考えた事もあったんだぜ?詩も沢山書いて投稿もしてみた。けど、これがからっきしダメでね。そんで才能もねぇかと諦めてさ、だから今の俺があるんだよ。」
そのやり取りを聞いていた大木が返した。
「あ、ああ、俺、それ読ませてもらったことがある。良く出来てたよ。ある意味感動もしたし。でもちょっと、メソメソタイプだったよな?」
「大木ぃ!馬鹿な話しを今ばらしてんじゃねぇよ。あれは俺とお前の、二人っきりの秘密だって、あん時言ったろうが!」
わざとらしい中沢の言葉に、大木も肩を竦めた。
「だって今、自分からばらしてんじゃん?」そう言って大木はビールを片手に微笑んだ。
中沢もその答えが分かっていたように、大木に微笑み返した。
「うん?ああ、それもそうか。ハハッ、もう古い昔話の、今となっては笑い話だよな。
まぁ、そんなシャイな時代もあったってことだよ。お互いにな。」
「へーえ。中沢君にそんな趣味があったなんて意外。あの頃からずっと、ただの呑んべぇだと思ってた。」陽子が真顔で突っ込んだ。
それを聞いた中沢は、白けた顔で陽子を見た。
「へぇへぇ。陽子ちゃんに掛かっちゃ、どんな男も形無しだね。それでよく大木と一緒になったもんだ。なぁ、大木。」言葉を大木に振ると、大木は少し身を引いた。
「ああ?ああ・・。うん、でもあの頃は可愛くて、優しかったんだよな。輝いて見えてたってのかなぁ・・。そんでクラクラッとして、猛アタックしたんだよ。そう・・今思えば、ああ、あの眩暈よ、何処に・・ってな事か。現実は手厳しいわな。」大木は冗談に躱して笑った。
けれどもその言葉を聞いた陽子は、キッと大木を睨み付けた。
「何それ。私が変わってしまったとでも言いたいの?それを言うなら、あなたの方よ。昔はがっしりしてて男らしいなって思ったけど、それが今はどうしたものやら・・。ただぶよぶよ太ってるだけの体になっちゃってさ。こんな山道歩くんだって、ぜぇぜぇ息を切らしてさ。みっともないったりゃありゃしない。何でそうなっちゃったんだろね?」
大木はその剣幕に、呆れ顔で首を竦めた。
小池はその風景を目の当たりにして、慌てて中に入った。
「まぁまぁ。こんな山奥に来てまで喧嘩することは無いだろうに。お互いそんな日頃の鬱憤を晴らすために、此処まで苦労して歩いて来たんだからさ。まぁ、楽しく呑んでくれよ。」
企画した小池も、そんなそれぞれの夫婦の関係には、苦笑いを禁じ得なかった。
(十年一昔っていうけど、段々と人ってのは変わって行く生き物なんだな・・。まぁ自分も、変わったと言えば変わったのかもな・・。)そう感じて、小池はしみじみと彼等を見つめていた。
それからまた、昔話は延々と続いた。
(まぁ、何年か振りの同窓会みたいなもんだ。日々人も暮らしも、段々と変わっていく。それは今日登ってきた、山の景色と同じだ。)そう中沢は思った。
(そう、五年前・・。あの静恵と結婚式を挙げた自分は、そして静恵も、何処に行ってしまったんだろう。いつしか二人して頬杖をつき溜息をつき始めたのは、いつ頃からだったんだろうか・・。)
大木も同じように考えていた。
(今度此処に来るんだったら、男だけで来たい。山の神も川の神も、きっと俺を嗤っているにちがいない。でも本当の俺はこんなんじゃ無い・・。本当の自分はもっと大らかで・・そうだよ、無邪気な子供のように、明るくて気楽な奴なんだ・・。)
空を見上げれば、木々の梢も見えないほどの真の闇の中だった。
そして騒がしかった宴もそろそろ終わりに近づき、奥様方はあくびの回数が多くなり、ついに男三人だけの呑み会へと変わった。
パチパチと爆ぜる熾火を、三人は酒を呑みながらじっと見つめていた。
「俺達、もうおじさんだよな・・。」ふいに大木が二人を見つめて言った。
「もう・・三十になる。若い時分から年寄りになる、これは過渡期ってやつなのかなぁ・・。心はちっとも変わって無いけど、周りの景色が随分と変わっちまったようでさ・・。でもそれは俺が変えたのか、それとも勝手に変わったのか、それは分からないけど・・。」
大木は目を落として、枯れ枝を熾火に入れた。辺りはボゥっと明るくなった。
中沢はそんな大木の言葉に、ビールを持つ手を休めて語りかけた。
「大木、それはみんなおんなじだよ。あの輝いていた青春時代ってのは、何にも知らないからただ輝いていただけさ。この歳になっていろんな事を知っちまうと、やらなくたって分かっちまう事もいろいろ出てくるさ。
だから口数も減る、行動にも制御が掛かる。
そんでおんなじ相手と一緒にいるとな、それが顕著になる。触らぬ神に祟りなしってやつでさ。要はマンネリ化だよ。退屈で変わらない毎日をただ生きているっていう、流され感だな。
そんでそれじゃってんで、小池がこのイベントを思い付いたって訳だ。電話をもらった時は、面食らったけどさ。」
中沢は小池と目を合わせた。小池は頷いて答えた。
「ああ。中沢の言う通りだよ。俺達はお互いに日々の忙しさからあんまり情報交換なんてしていなかったけど、お互いの奥様方はツーツーのカーカーでね。お前達の暮らしぶりが、女房の話から手に取るように伝わってきてたよ。
その話を聞いて、お前達も苦労してんなぁと同情すると同時に、俺の中にもやっぱりそんなマンネリ化があるなって気付いたんだ。それで久々に会うのも、少しは刺激になるかなって思ったんだ。
でも良かったろ?普段はこぼせない愚痴もこぼして、少しは心が晴れたんじゃないかな?」小池はそう言って二人に微笑んだ。
中沢は「うん。」と深く頷き、小池に答えた。
「小池、そりゃそうだよ。連れてきてもらって良かったなって、本当に感謝してる。何と言っても、こんな自由な空気は久しぶりだからな。
俺の日々の暮らしってのは、いつもは何だかぎくしゃくしちゃってさ。家の中では自分の居場所が無いみたいに思うよ。そんな溜息ばっかりの日常なんて、面白くも何とも無いしな。
けどそれに比べれば、此処の大気は新鮮でとても居心地が良い。何て言うのかなぁ・・。時間が止まってて、まるでしがらみなんて感じない。そんな感じだな。
そう・・いつもこんな空間で寛いでいたい。それが俺の本音だし、理想かなぁ・・。こんなに静かで自由な空間なんて、日頃の日常には無いよなぁ・・。」そう言って中沢は闇を見つめた。それからまた二人に目を戻した。
「だからさ。俺は今思うんだけど、いっそのこと此処に住んじゃって仙人みたいになっちゃってさ。そうしてこのままうっすらとこの闇の中に姿を消して、それからあらゆる世界を自由気ままに彷徨することが出来たら、そしたらどんなにすっきりすることかなぁ・・。
毎日吐き気がするような狭い空間で休み無く動き回るだけの、そんなくそ忙しい生活なんか忘れてさ。解き放たれた獣のように、ときめく鼓動だけを感じてさ・・。
そうだ、そうなりゃ、きっと楽しいんじゃねぇかなぁ・・。」
中沢は煙草を吹かしながら、遠い目をしていた。
しかしそんな中沢の夢想めいた愚痴を黙って聞いていた小池は、突然スッと真顔で中沢を見つめ、重い口調で口を開いた。
「中沢、いくら毎日の暮らしがマンネリ化してるからって、此処でそんなことは絶対に言っては駄目だ。何故かと言うと、今俺達のこの会話は、山の神も川の神も聞いてるからだよ。だからこの場所に未練を残すような言葉を彼等に聞かしてはいけないんだ。さもないとお前の魂を、此処に残していく事になるからな。
そしていつか彼等に、その魂を乗っ取られてしまうんだ・・。」
小池はそう言った後、大きな薪を火にくべた。その火の粉は勢いよく闇へと立ちのぼり、そして消えていった。
小池は話しを続けた。
「馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないけど、そんな現実逃避するような愚痴話をこぼした為に行方知らずになった人達を、俺は何人か知っている。
現実に大なり小なり悩みを抱えていたとは言え、その周りの人達から話しを聞くと、彼等は突然、誰にも告げないで姿を消したらしい。そして親しい人達は必死になって彼等を捜索したけれども、未だに彼等は見つかっていない・・。
生きているのか、死んでいるのか・・。その姿は本当に蒸発してしまったかのように消え失せて、この世から無くなってしまったんだよ。
そしてそれは今も、仲間内では延々と語り継がれている・・。
迷信めいた話しだと簡単に片づける者もいるけど、これは山登り達だけが知ってる、本当の話だ。
山登り達は山や川に宿る精霊達をみんな神様として尊びそれを祀る。でもその正体は、誰も見たことが無い。それはもしかしたら、得体の知れない恐ろしい魔物達なんじゃないかと彼等は言ってるんだ。
そしてその魔物の魔性を目覚めさせ呼び寄せるのは、そんな人の心の弱さだと彼等は言う。魔物にとってその弱い心の香りは、芳しい血の香りに感じるんじゃ無いかとね。
何故なら彼等は赤い血を持たないし、そしてその味も知らないからだと・・。
だから決して、その魔物達に隙を見せてはいけないんだ。少しでも気を緩めて弱さを見せれば、その魔物達はその気を察して、直ぐに取り憑こうとするからだよ。」
そう語る小池の眼は真剣そのものであり、その語調は真面目で、そして重々しかった。
中沢もまたそう言う小池の話を、真顔で聞き入っていた。
そんな二人の会話を、大木は少し眉間に皺を寄せて、目を見開いた顔で聞いていた。そして小池の話が終わり焚き火に木を入れた大木は、それからふっと微笑むと、小池に軽く声を掛けた。
「おいおい小池。いきなり何怖いこと言い出すんだよ。何も真の闇だからって・・。
ははぁ・・。さては怖い話しをして、俺達をびびらせるつもりなんだな?お前が密かに企んでいた、想定外のイベントってやつだ。どうだ?
けどな、おれはその手にゃ乗らない。俺はこう見えても、びびりじゃねぇんだからな。」
しかしそう言ってニヤッと笑っている大木の禿げた額には、大粒の汗が浮き出していた。けれども小池はそれを見て笑うでも無く、大真面目な顔で大木を見つめていた。そしてその小池の横顔を、中沢も同じようにじっと見つめていた。
「よし!今夜は交代で寝ずの番だ。朝まで火を絶やす訳にはいかないからな。今十二時だから後六時間、一人二時間ずつだな。」
突然小池はその空気から離れるように、快活に二人に言った。
二人はその言葉で、夢から覚めたような顔をしていた。
そんな二人に、小池はわざと意地悪そうに、微笑みながら上目遣いで聞いた。
「誰からやる?」
小池のその言葉に、二人は思わず目を見合わせた。
「誰からやるったって・・なぁ・・。」中沢は大木の顔を不安げに見やった。
さっきの小池の話に、確かに二人は少しびびっていた。
暗い空から初体験の真の闇が、ザァッと冷たく降ってきたようだった。
(その中に、たった独りで居るなんて・・。 )二人の思いは同じだった。
その空気を察して、小池は提案した。
「分かった。じゃあ最初の二時間は俺がやるよ。そして次は中沢、最後は大木だ。それで良いな?」微笑んで言う小池の提案に、拒む理由も無かった。
「でも忘れないでくれ。決して朝まで火を絶やしてはいけない。これだけは守ってくれ。良いかな?」
そんな小池の言葉に二人は真面目に頷き、そしてそれぞれの寝袋へと向かった。
(山の神・・川の神・・。)何故だかそう唱えながら、中沢は寝袋に入った。そしてスッポリと寝袋にくるまってからも、その唱えは収まらなかった。
(山の神・・川の神・・。)そしてそのままいつしか、中沢は深い眠りに入った。
「おい、中沢、中沢。」
静かに揺り起こす小池の声に中沢は目覚めた。ただ、今自分がどう言う状況なのか、把握するまでに数秒かかった。
「うん?あ・・ああ、分かった・・。」もぞもぞと寝袋を出て上着を羽織った。
夏とはいえ、山奥の深夜とはこんなにも寒いものかと身震いした。
「じゃあ俺は寝るからな。後はよろしく頼む。」
「ああ分かった。任せとけ。お休み。」
小池がもぞもぞと寝袋に収まったのを確認して、中沢は火の近くに座った。そしてチョロチョロと燃える熾火に枯れ木を突っ込みながら、ただ何となくその火を見つめていた。
しんと静まり返った闇の世界。その中で自分だけが意識し、息づいている。それが不思議だった。
それから煙草に火を点け、独り気ままに夢想した。
(本当に自由な空気が此処にはある。
もし自分が自由と言うものを手に入れられたら、きっとこんなに清々しくて、でも冷たい大気の中に居るんだろうな。そして眼前にはこの闇と同じ、果てしなく見えない世界が無限に広がっているんだ・・。何のしがらみも無い、その世界が・・。
そう・・今なら何処にだって行ける。そして、何にでも成れる・・。この真っ暗な闇の向こうには、数知れない道が自分を待ち受けているけど、その中の一本を選ぶのは、ただ自分だけなんだ・・。)
そう夢想した中沢だったが、ふと我に返り、溜息とともに嗤って首を振った。
(そう、これは一時の開放感に過ぎない。それは分かっている。明日朝陽が昇る頃には、否が応でも、現実が自分の背中を押すだろう。だからこれはそれまでの、時の無い真空の時間に過ぎない・・。
でも・・来て良かった。こんな瞬間が続くなんて、初体験だ。
それに何だか・・何か懐かしい気もするなぁ・・。そうだ、昔っから孤独が好きだったからな。独りで釣りに行ったり、部屋で夢想していたこともあったなぁ・・。
そう言えば誰かが言ってたっけか。自由と孤独は双子だって・・。その通りだな。日常のしがらみの中で蠢く社会とは裏腹に、どうだ、この静止した世界は・・。
それに比べて・・。
俺はまた、孤独になるべきなんだろうか・・いや、そうしたいんだろうか・・。)
闇の中に答えを見出そうとしても、やはり心は何も答えてはくれない。ただ胸の辺りが、チクチクと痛いだけだ。
(迷う心か・・。)
そう思い、クーラーボックスから缶ビールを持って来て独りで煽った。
そして一本、また一本と呑むうち、中沢の足下には五本の空き缶が捨てられていた。そして六本目の缶ビールを掴んだまま、中沢は堪えようのない睡魔に襲われ、ガクッと項垂れた。
どれくらい・・いや、一瞬だったように中沢は思った。
けれども気が付くと、キャンプファイヤーの火は少しの熾火を残して、チョロチョロと消えかかろうとしていた。
「あ・・こりゃやばい。」目を覚ました中沢は、慌ててその中に幾束かの枯れ枝を突っ込んだ。そして枯れ枝に火が移り、少し辺りがボゥッと明るくなったのを見届けて、ほっと息を吐いた。
(危ない危ない。もっと気を張ってないと・・。何が襲ってくるか分からないんだから・・。)
しかし次の瞬間、次の薪をくべるために屈み込んでいた背に、ぐっとのし掛かる重い手を感じた。
そして、動けなくなった。
その刹那、強い恐怖と、そして何者の手なのかという疑問が渦を巻いた。何者かは分からないが今確実に、自分の背に手を掛けている何者かが居る。
冷たい汗が、首筋から胸を伝った。
中沢は火が点いた薪を強く握った。そして酔いも手伝って、熾火を睨む目に、恐怖の影から怒りの炎がチラチラと燃えだした。
(何処の誰だか知らないが、俺にこんな悪戯をする奴は許せない・・。)一瞬、熊と猪の顔が頭に浮かんだ。
(熊だろうと猪だろうと同じ事だ。逆に、ビックリさせてやる・・。)
薪の火が盛んになったのを見届けると中沢はいきなり立ち上がり、そして振り向き様、その何者かの顔であろう所に向かって勢いよく炎を突きつけた。
けれども炎の先には何者も居なくて、其処には何処までも暗い闇が広がっているだけだった。
「はぁ?なんなんだ?こりゃあ・・。」呆気にとられて溜息を吐くと、また元の所に腰を降ろした。そして更に薪を足して、火を盛大に熾した。その火を見届けてから空き缶を片付け新たにビールを持って来ると、その渇いた喉に流し込んだ。
「少し飲み過ぎたかな?こんな幻覚に襲われるなんて・・。こりゃあ明日が大変だ・・。」独り言を呟きながらも、尚もビールを飲み続けた。
それからどれくらい経ったろうか。
中沢は何を思うでも無く、ただじっと火の傍に座り続けていた。火を燃やし、そして闇を見つめて・・。
中沢は動くものの無い、真の闇に溶け込んでいた。
突然アラームの音が鳴った。けれども中沢はそれにも気付く事無く、大きく目を開けて暗闇を凝視していた。
大木はアラームの音に目覚めて、モゾモゾと寝袋から顔を出した。そして腕時計のアラームを止めた。
(ああ、もう四時かぁ・・外は寒そうだなぁ・・。でも、約束だから仕方ない。)寝袋から出て上着を手に取った。
その時何気なく火の方を見た。そして眉間に皺を寄せて、【それ】を見つめた。
(あれは何だ?)
腰掛ける中沢の後ろはやはりまだ真っ暗だった。
しかし微かに火に照らされた中沢の背後に、何か人影のような、黒い塊が佇んでいるのが見えた。眼を凝らして暫くそれを見つめていたけれども、闇に紛れていて良く見えない。
大木は頭を振って、もう一度凝視した。しかしその時にはもう、その黒い影は見えなかった。
大木は首を傾げて、今見えたものは自分の気のせいだと思おうとした。けれどもその気持ちとは裏腹に、その黒い残像はしっかりと目に焼き付いていた。大木は頭の中からそれを消そうとして、もう一度頭を振った。
(あれは心に残してはいけないものだ・・。)恐怖からそう思い、再度自らに気のせいだと言い聞かせた。そして大木は目をこすり気を取り直してから、中沢に近づいて声を掛けた。
「おい中沢、大丈夫か?もう交代の時間だよ。」
そう呼ばれた中沢は、ふいに夢から覚めたように、キョトンとして振り向いた。
「あ・・ああ、大木かぁ。ボウッとしてたんで、気が付かなかったよ。ふぅ・・もうそんな時間なんだな。そうか、交代だな。じゃあ俺は寝るよ。」
大木は中沢の傍まで来ると、その足元を見て、目を見開いて驚いた。
「なぁ中沢、お前・・こんなにビールを呑んだのかよ・・。」
大木にそう言われた中沢の足下には、十缶以上の空き缶が転がっていた。
「え?あ・・ほんとだ。いつ呑んだんだろう・・。」散らばっている空き缶を見ながら、中沢も不思議だった。
まったく記憶が無かった。それにこれだけ呑めば、普段はグデングデンだ。でも今自分はしっかりしている。
「ああ、悪いな。今片付けるよ。」中沢は散乱している空き缶をビニール袋に納めた。その間、大木は首を傾げてそれを見ていた。
「さぁて、それじゃ俺は寝るよ。後はよろしくな。」そう言って中沢は寝袋に収まった。
そんな中沢を見送った後、大木は火に薪をくべてから、ビールを冷やしておいたクーラーボックスを開けてみた。そして驚いた。何故なら寝る前にはまだいっぱいあった缶ビールが後三缶だけ、氷水の中に浸っていたからだ。
その異常さにまた首を傾げながらも、大木はその一つを拾い上げて、それを飲みながら火の番を始めた。
(あいつほんとに大丈夫なのかなぁ・・。
それに、さっき見たあれは・・何だったんだろう・・。いや、きっとあれは目の錯覚だ。あんなものが、いるわけ無い。)そういくら自分に言い聞かせても、【あれ】が頭から離れなかった。
真の暗闇に居る心細さから、辺りをキョロキョロと常に見回した。そして火を強く熾して、残っていた缶ビールを全て飲み干した。
(中沢に煙草をもらっとくんだった・・。そうしとけば、少しは気が紛れたろうに・・。)心底そう悔やまれた。
そして長い長い暗闇と静寂との闘いを終えて空がうっすらと白みかけ、その夜明けの光が一条射し込んだ時、大木はこれまでの人生で一番ホッとした瞬間を味わった。
恐ろしげな闇から逃れ得たことに感激して、その一条の光を仰ぎ、安息と共に目を潤ませた。そして緊張していた胸を手で撫で下ろして息を吐いた。
朝六時。それぞれがセットしていたアラームが一斉に鳴り響いた。そしてそれぞれの寝袋から、まるで蓑虫のように皆が体を出し始めた。
小池は真っ先に寝袋から出て、先ず大木の元にやって来て苦労を労った。
「大木、ご苦労様。でも初体験の火の番は、いろいろと思う事があったろう?」そう気さくに話し掛けたが、大木は放心状態のように背を丸めて力無い様子だった。
「ああ・・。本当に・・全部初体験だったよ・・。」
「どうしたんだよ、大木。疲れちまったのかぁ?あ、そう言えば中沢は?」
小池の言葉に、大木は顔を上げて眉をひそめた。
「ああ・・あいつは今日はもう、駄目だろうな。ひょっとしたら、担いで降りなきゃかも・・。」
大木がそう言った時、大きなあくび声が聞こえた。二人して振り返ると、寝袋から起き上がって手を伸ばしている中沢の姿があった。
それからモゾモゾと寝袋から這い出てきた中沢は、元気一杯に二人の元へと歩いて来た。
「よう!お二人さん。お早うさん!」
中沢が手を挙げて陽気に笑う様子を、大木は目を見開いて驚いていた。
そんな中沢に小池は声を掛けた。
「おう、中沢。爽やかに目覚めたようじゃないか。ゆうべはご苦労さん。疲れは取れたか?」
「疲れもなにも。これからエベレストに行けって言われても、何の恐れも無いねぇ。それくらい爽快な朝だな。」
「そうか。そりゃ良かった。その調子で帰りもお願いしたいね。」
「おお、任せとけ。何なら全部俺が引き受けたって良いくらいだ。」
「ハハッ。まぁ元気に超したことは無い。さぁてと、俺は出すもん出して顔洗って、美味しい朝食作るかぁ!」小池は大きく伸びをしながら快活に叫んだ。
「おおよ!俺も手伝うよ!でもおっと、そう言われて催した。出すもん出すもん!。」
トイレットペーパーとスコップを引っ掴むと、中沢は大きな岩の向こうへと走っていった。
その中沢を見届けてから、大木は小池に向き直った。
「なぁ小池。あいつ、何だか変だよ。てのはな、あいつがゆうべどんだけ呑んだか知ってるか?宴会の分まで合わせると、あいつは一人で一ケースものビールを呑んじまったんだよ。だから俺はてっきり、あいつは今日とんでも無い二日酔いだと思ってた。ところがどうだい、あの様子は。いくら酒が強いったって、あれは異常だよ。何かが変だよ。そうは思わないか?」
大木は敢えて【あれ】の話しはしなかった。と言うよりも、【あれ】の存在を自分の中で全否定していた。考えていると、いつか自分の後ろにも【あれ】が立っているかも知れない。そんな予感がした。
「大木、それが山の不思議ってやつなんだよ。あいつも何やら訳ありのようだし、それで初体験の闇の孤独を味わったもんだから、あいつの体もビックリして覚醒したんじゃないのかなぁ。特に肝臓がね。スーパーレバー化したんじゃないのかな?
まぁよくある事だよ。おっと、出て来た。次は俺だ。」走って行く小池を、大木はまた首を傾げて見ていた。
帰って来た中沢に大木は聞いた。
「なぁ中沢。お前ほんとに大丈夫なのか?あんなにビールを呑んどいて・・。」
「ああ、そうなんだよな。俺も不思議だけど、何ともない。かえっていつもより絶好調だよ。こんな事もあるもんなんだな。きっと山の神と川の神のお陰かな?」そう言って微笑んだ。
だが大木は笑えなかった。山の神と川の神と言う言葉が、【あれ】を連想させた。
その場を離れた中沢は煙草を片手に持ちながら、奥様方に朝の挨拶に向かった。。
「お早う御座います皆さん。やぁ、お早う!静恵。」
快活に静恵に微笑む中沢を見て、静恵は(え?)という顔をしていた。
(この人のこんなに朗らかな顔を見たのは、もう何年振りだろう。ましてや、朝の挨拶をするなんて・・。)
「え・・ええ、お早う。」静恵は笑顔を作って微笑んだ。そんな静恵を見て、中沢は朗らかに声を掛けた。
「静恵、なんて顔してんだよ。起き抜けとはいえ、綺麗な顔が台無しだよ?だから君も早く出すもん出してきた方が良いよ。俺みたいにスッキリして、その顔も元通りにスッキリ綺麗になるからさ。」
「やだなぁ、中沢さんたら。朝からレディーに対して失礼でしょ?」すぐに陽子が口を尖らして注意した。
「ああ、ごめんごめん。俺としたことが。ごめんよ、静恵。」そう言って微笑む中沢に、静恵も微笑んだ。冗談の調子も、何だか昔の彼が戻ってきたみたいに思えた。
「ううん。じゃ、私も出すもん出してこようかな。じゃ、行って来るね。」そう言って嬉しそうに駆け出す静恵を、残された奥様方はポカンとして見ていた。
昨日このテン場に到着してすぐ、まめな小池が作っておいた女性用のトイレが活躍していた。男は何処でだって用は足せるが、女性はそうも行かない。少し離れた所に穴を掘って、それを枝とシートで綺麗に隠してあった。
静恵はトイレの中でズボンを下ろそうとして、何気なくその穴の中に目が行った。
「キャアアアアアッ!」
突然朝の静寂に、静恵の悲鳴が響き渡った。その悲鳴を聞いて、朝食の準備をしていたみんなは同様に頭を上げた。そして男達はすぐにトイレに向かって駆けだした。
静恵はそのトイレの前で、怯えた様子で佇んでいた。
「どうしたんだっ!静恵!」中沢は妻の肩に手を掛けた。
怯えていた静恵は中沢を見ると、訴えるようにトイレを指さした。
「あ・・あの中に、あの穴の中に・・蛇がいるの・・。」
「蛇?」中沢は問い直して、トイレを開けた。
見ると掘られた穴の中に大きな青大将がとぐろを巻いて、こちらに鎌首をもたげていた。
「ああ、成る程。こりゃ驚くわな。」
「何があったんだ!」ブルーシートを掻き分けて、中沢の後ろからそれを見た小池は眉をしかめた。
「こりゃあ・・。どうすっか・・。」小池もさすがに困った様子だった。そんな時、中沢は特に驚いた様子もなく、サラッと言ってのけた。
「小池、心配しなくても良いよ。こいつは俺が、遠い所に放してくるから。」
中沢はそう言うと、何の躊躇も無く青大将に手を伸ばした。そしてその鎌首を右手で優しく握り、左手で赤ん坊をだっこするように青大将を持ち上げた。
「きっと迷い込んだんだろうよ。そんで暖かい所が見つかったってんで、寛いでいただけじゃないのかな。まぁ、ちょっと迷惑な所にね。じゃ、後は安心して用を足してくれ。」そう言い残して青大将を抱いたまま離れて行く中沢を、みんなは固唾を呑んで見守っていた。
「ねぇ、静恵。中沢さんって、蛇がとんでも無く嫌いじゃ無かったの?そんな話し、してたわよねぇ・・?」佐代子が静恵に聞いた。
「ええ・・。そうだったんだけど・・。 あ!ごめん!もう漏れそう!」静恵はバタバタとトイレに入った。
朝食を食べながら、佐代子は中沢に聞いた。
「ねぇ、中沢さん。あなた元々蛇がとっても嫌いじゃ無かったの?それでよく、あんな風に蛇を手掴みに出来たわよねぇ・・?」
訝しげに聞く佐代子に中沢は振り向き、そして少し間を置きつつも微笑んで答えた。
「ああ・・。確かに嫌いだったんだけどさぁ・・。でもあの蛇見てると、なんか可哀想になっちゃってね。なんてのかな、あの蛇が、「助けてくれよ。お願いだから・・。」って言ってるような気がしてね。そんでそん時思ったんだよね・・。そうだな、お前も一生懸命生きてる、俺達の仲間だってね。だからその時は怖く無かった。だってみんなに見据えられて怖かったのは、きっとあの蛇の方じゃなかったのかな。何だか怯えてるようでさ。
その時俺は思ったんだよね。そうだな・・姿は違っても、此処で一夜を共にした仲間なんだよなって・・。だから、そう感じたから、あいつを恐がりもせずに助けられたんだろうなぁと思う。
その心境ってのは、昨夜独りで真の闇と対峙したことで得られた心かも知れない。光も音も無い真の孤独の中で、たった独りの刻をもって、静かに自分を見つめ直すことが出来たんだ。これまでの事や、これからの事をね・・。それは全部初体験だった。そんな時間なんてこれまで仕事に追われるばかりで、とても無かったし、それに考えつきもしなかったからな・・。
でも・・忙しい合間だったけど、誘われて此処に来て、本当に良かったと思う。今はしみじみとそう思ってる。そしてこれを企画してくれた小池には、とても感謝してるよ。」
佐代子にそう答える中沢の眼はとても澄んでいて、そして穏やかだった。
そんな夫を静恵はとても逞しく思い、また切なく見つめていた。
「ああ、食った食った。やっぱり山で食う飯は旨いね。綺麗な景色と開放された気分。なんか癖になりそうだよ。」大きな腹を摩りながら、大木は満足げだった。暫しの安息に、何はともあれ大木にとって、切羽詰まった嫁との喧噪ゲームから解放された一時だった。
「また来たいなぁ・・。でも今度は、男だけでな・・。」陽子の顔を伺いながら、大木は小池の耳元に囁くように言った。小池は小さく頷き微笑んだ。
朝食が済み帰り支度を整えて、男達はまた大きなリュックを背負った。けれども来るときとは大違いで、軽くなった荷物を背に、軽快に下り坂を下りていった。そして車止めでそれぞれの車に乗り込み、それぞれの思いを胸に、それぞれの家に帰っていった。
車中で中沢は助手席に座る静恵に振り向くと、静かに語りかけた。
「なぁ静恵。俺達は何だか忙しない毎日の中で、お互いすり減っていたようだな。そうは思わないか?
俺はこの一夜で、何となくだけど、自分を取り戻せたような気がするんだ。だからこれからは何かあったら、この一夜を思い出そうと思う。これまでは何だか、訳も分からないまま苛々していてごめんな。これからは改めるよ。やっぱり静恵は俺の、一番大切な人なんだからさ。」
そんな中沢の言葉を聞いた静恵は、驚きと同時に目を潤ませた。
こんな優しい言葉を掛けてもらったのは、本当にもう、何年振りだろう。いつからかささくれだった冷めた暮らしや罵られた声も、今掛けられた言葉に、全てがただの思い出として、心の中で小さくしぼんでいくようだった。
「うん・・うん・・。ありがとう・・。」静恵は運転する中沢の横顔を見ながら、込み上げてくる嬉しさに、胸がときほぐされ熱くなった。
「さぁて、家に着いた。ひとっ風呂浴びてサッパリして、ビールでも呑むか。まだ午後になったばっかだもんな。」
「え?でも昼食は?」
「まだお腹一杯だよ。もう少しした頃に、軽くそうめんでも食べようよ。先ずは風呂だ。静恵もサッパリしたいだろ?いっぱい汗かいちゃったし。俺が風呂の準備をするから、静恵はこの荷物の整理をやっといてくれないかな?」
「え?ええ・・それは・・。」静恵が車のトランクから荷物を運び出そうとすると、中沢は優しく静恵を手で制した。
「良いよ、そんな重い物持たなくたって。俺が全部運ぶから。」そう言うと中沢は、せっせと荷物を家の中に運び入れた。
静恵はと言うと車の横に突っ立ち、甲斐甲斐しく働く夫をキョトンとした目で見つめて、そして首を傾げた。夫がこんなにしてくれるなんて初めてだ。
(あの人は変わった・・。良い方向にだけど・・。でも・・こんなに変わるってあるのかな?でも・・良いや。例え一時でも、ホッと出来るから・・。)
家に入り荷物の仕分けをしていると、中沢が風呂の用意をして出て来た。
「静恵、風呂の用意が出来たよ。さぁ、風呂に入ろう。」
「え?」
「たまには一緒に入ろうよ。俺が背中を流してやるからさ。うん?なにキョトンとしてんだよ。さぁさぁ、そんな仕分けは後で良いから。」強引に脱衣所に連れて行かれた静恵はおどおどしていた。
「え・・でも・・。」
「何恥ずかしがってんだよ。俺達は夫婦だろ?じゃ、俺が先に入ってるから、後から入って来なよ。な?」中沢は優しく微笑んで、静恵に軽くキスをした。そしてさっさと服を脱ぐと、中沢は浴室の中に入って行った。
脱衣所に立つ静恵は、自分の鼓動が早いのに気付いた。
(どうしちゃったんだろ・・?でも私たちって、夫婦だったんだよね・・?
でも、一緒にお風呂入るなんて、初夜だけだったし・・夜もここ何ヶ月も無かったのに・・。でも・・やっぱり私たちは、結婚した夫婦なのよ。)そう心に言い聞かせて、静恵は浴室のドアを開いた。
暖かそうな湯船の中では、寛ぐ中沢が微笑んでいた。静恵は丁寧に体を流して、おどおどと湯船に入った。
「久々だな・・。静恵の裸を見るのって・・。とても綺麗だよ。さぁ、こっちにおいで・・。」中沢は静恵を引き寄せると、口づけをした。そしてそのまま静恵を愛した。静恵は何か夢心地のまま、中沢に体を委ねていた。
「静恵、これまでは寂しい思いをさせちゃったな。でもこれからは、そんな思いはさせないよ。ずっと、死ぬまでね。」静恵の体を撫でながら、中沢は優しく囁いた。
「さて、と。そろそろ体を洗って出るか。このままだと、君と風呂でのぼせそうだよ。」二人で背中を流し合い、中沢は先に風呂を出た。
静恵はまだ夢心地のまま、長い黒髪を丁寧に洗っていた。
静恵が風呂から出ると、中沢がキッチンの前に立ちネギを刻んでいた。そして食卓にはグラスと素麺が置かれていた。
「やあ、丁度良かった。今素麺が茹で上がって氷水で締めたばかりだから。この薬味を添えれば出来上がりだ。」
「これを・・あなたが?」
中沢の手料理など、食べたことが無かった。
「そんなに驚くことじゃ無い。俺だって素麺くらいは作れるさ。さぁ出来た。さて、乾杯しようよ。これから始まる、第二の新婚生活にさ。」中沢はニコニコとして、二人のグラスにビールを注いだ。
静恵は狐につままれたようだとは思いながらも、やはり嬉しかった。初めて幸福という意味が、うっすらとだけれど分かったような気がした。
それから十日後の夕暮れ、静恵はスーパーで呼び止められた。
「静恵ぇー!」
大きな声に振り返ると、それは陽子だった。ベビーカーを片手で引いて、満面の笑みで手を大きく振っていた。
「陽子。」静恵はカートを持って、ニコニコとして陽子が来るのを待っていた。
すると途中から陽子は不思議そうな顔をして、首を捻りつつゆっくりと近づいてきた。静恵もそんな陽子に首を傾げた。
「静恵、あの時以来ね。でも、あれから何か変わったの?」
「え?どうして?」
「どうしてってぇ・・。だってスラッとしちゃってさぁ。見違えるほど綺麗になってんだもの。それに静恵、痩せた?」
「うん、ちょっとだけ。それにそんなに変わって無いよ。」静恵は少しはにかみつつ答えた。
「またまた謙遜しちゃって。痩せたって、何キロ痩せたの?」矢継ぎ早な陽子の問い掛けに、静恵は少し戸惑った。
「うん・・五キロくらいかなぁ・・。」
「五キロっ?たった十日間で?どうやって痩せたの?私にも教えてよ。」そう聞く陽子の目は真剣だった。
だが静恵は返答に困った。まさか毎晩気を失いそうになるほど愛されているなんて、とても言えない。
「ちょっと食事を変えてみたの。ほら、炭水化物を摂らなければ痩せるって、テレビでやってたでしょ?」
「ふーん、それだけで?」陽子はチラと静恵のカゴに目をやった。
「それにしちゃあ、すごい買い物よねぇ?お肉とかお魚がどっさりでさ。後はお酒とお米も。」二段のカゴはびっしりと詰まっていた。
「ああこれ?これは主人が食べるの。あれからとっても食欲が旺盛なの。呑んで食って憂さを晴らすんだって。
あっ、もう帰らないと。食事の支度があるから。それじゃ、またね。」他にも何か聞きたそうな陽子から、そそくさと静恵は離れた。
(そう、これは二人だけの秘密。そして他人には知る由も無い、幸せの秘訣・・。)静恵はそう思いながらスーパーを後にした。
中沢はあれから、自分でも驚くほどの変化を感じていた。体力充実、頭脳明晰、そして何より精力旺盛。自分でもこれまで体験した事が無いような性欲とやる気が、中沢を支配していた。
(つまり、全盛期が来たってことだよ。)そう思い、この変化を疑うよりも気持ちの良さの方が遥かに勝っていた。
(仕事も家庭も上手く行ってる。今思えば、簡単な事だったのかもな。いや、簡単でも無いか・・。人の成長なんて目じゃ見えないし、それは自分も同じ事だ。そしてやっと自分はワンステップ上に成長した。そう言うことなんだろうな。これもあの体験のお陰だ。あれはきっと、神様が自分の背中を押してくれたに違いない。そしてそれは、自分だけが体験した事なんだ。)そんな得体の知れない優越感に浸って、中沢はご機嫌で帰りを急いでいた。
午後八時。外はもう真っ暗だ。前方の信号の赤いライトが、やけに鮮明に見える。前の車に続いて中沢はゆっくりとブレーキを掛けた。前に止まったワゴン車のテールランプが赤信号と同じように、とても赤く輝いていた。
中沢は眩しそうに目を伏せて、煙草に火を点けた。そして信号を確かめようと前を見たとき、ふいになぜか視線を感じた。それは何処からと言うわけでも無い、直感に似たような感覚だった。
(何だろう・・今、自分は見つめられているような気がする・・。)咄嗟にそう思った中沢は少し首を傾げて、その視線の出所を探ろうとした。けれどもそれは何処にも感じられなかった。
(ふむ・・やっぱりこれも気のせいだ。全盛期の研ぎ澄まされた精神力が、そう思わせるんだろう。)そう思って、気長に信号が変わるのを待った。
しかしその時、直ぐ横のドアウインドウに映る自分の顔が反射した赤い光を帯びて、真っ直ぐにじっと中沢を見つめていたのに中沢は気が付かなかった。
その赤く染まった中沢は、じっと眼を座らせて中沢を睨んでいた。そしてその口元は曖昧に笑っているように少し歪んでいた。
ふとその光を目尻に感じた中沢は、何気なく振り向いた。そしてそれに焦点を合わせた。
(うおっ!)と内心驚いた。だが直ぐにほっと溜息を吐いた。
(なんだ・・俺かぁ・・。でも、こんな風に映るんだな。何だか不気味だわ・・。)
信号が青になった。その途端、真っ赤に映っていた自分も姿を消した。前のワゴン車に続いて、中沢も車を発進させた。
しかし何思う事無く運転している中沢には気が付かなかったけれども、ドアウインドウに微かに映る中沢の顔はその後ゆっくりと眼を動かし、青白く光る眼でじっと中沢を見つめていた。
瞬きをする事も無く、ただじっと・・。
「ただいま!」中沢は快活にそう言ってリビングに来ると、先ず最初にキッチンに立つ静恵を抱き締め、そして口づけをした。
「君に早く会いたくてすっ飛ばして来ちゃったよ。おお、今夜もご馳走みたいだな。ありがとな、静恵。」そう言って微笑む中沢に、静恵も嬉しそうに微笑んだ。
「うん。あなたはお仕事頑張ってるんだもの。たっぷり栄養つけなくちゃだからね。あ、もうお風呂沸いてるよ。先に入るでしょ?その間にお料理作って置くから。」
「ああ、それじゃ風呂入って来るよ。いつもありがとう、静恵。」中沢は静恵に軽くキスをすると風呂場に向かった。
これまでとは違う関係。そして経験した事の無い暮らし。時に不思議に思う事もあるけれども、静恵は幸せだった。幼い頃に憧れていたお嫁さんの姿に、今の自分はそっくりだ。逞しい夫がいて、自分は常に愛され守られていて・・。
その夜、いつものように二人は愛し合った。
だがその夜は、静恵がそのまま寝付くことは無かった。話したいことがあったからだ。
ベッドで静恵は、潤んだ瞳で中沢に話し掛けた。
「ねぇあなた・・。私・・話したいことがあるの・・。」静恵は遠慮がちに中沢に話し掛けた。
「何だい?」中沢は優しく問い掛けた。
「うん・・それはね・・。私・・子供が欲しいの・・。でも・・私には子は授からないのかなって、ずっと思ってて・・。それが叶えば、私が幼い頃に思っていた夢が叶うんだけど・・。」
「ああ、そうだな。その事は俺も考えていたよ。そうだな・・。想像すると、とても良い風景だな。そうだ、そうなりたいよな。」
中沢の優しい言葉に、静恵は中沢に寄り添った。心が満たされて、涙が出そうだった。
「でも・・こんなに愛されても、私には何の兆候も無いの・・。もしかしたら私って、子供が産めない体なのかも・・。」そんな気持ちから、静恵は肩を震わせて泣いていた。
「静恵・・。」中沢はその震える肩を抱き締めた。
「静恵・・そんな事は無いよ。そう、それは、ちょっとしたお祈りをすれば直ぐ叶うことなんだ。静恵、これは誰にも話してはいないんだけど、それを聞いてくれるかな。」
週末、中沢夫妻はリュックを背負い二人だけで山道を歩いていた。目指していたのはあの場所だった。だがこの前とは大違いで、静恵はワクワクしながら優しい夫と共に歩を進めていた。中沢も重いリュックを背負いながらも、決してへたる事は無かった。
「さぁ着いた。」中沢はリュックを降ろし、ブルーシートを取り出した。
「トイレは必要かな?」
「ううん。だって、二人だけだから。」
「そうだよな。じゃあ、二人で薪を集めるか。」二人で薪を集めて、それを組み上げた。
その夜、この前のように澄み渡る静寂の中で中沢はこの前小池が行ったように、山の神と川の神にそれぞれ酒と米を献上した。その間静恵はこの前とは比べものにならないほど、真剣に両手を合わせていた。
それから二人はグラスを合わせた。
パチパチと爆ぜる炎に照らされた静恵は、その胸一杯に幸せを吸い込んでいた。
「さぁ、これから二人で徹夜だ。怖くは無いかい?」
「ううん。だって、あなたが傍に居てくれるもの。」静恵は中沢に寄り添い、その体温を感じていた。
夜更けに何処からかの風が、ザザザッと鳴る葉擦れの音を響かせた。静恵は不安そうに闇の中の梢を見上げた。
中沢は大きな薪を熾火に入れた。そしてそれが燃え盛るのを確認してから、静恵を見つめた。
「静恵、さぁ、こっちにおいで。」
中沢に手を引かれて、二人はブルーシートの上に座った。そしてどちらからともなく抱き合い口づけした。炎に照らされた裸の二人は、それから長い間愛し合った。そして夜の静寂に、静恵の喘ぐ声が響いていた。
儀式のように愛を終えた二人は、服を着てまた焚き火の横に座った。静恵にとっては何もかもが夢のようだった。
焚き火に枝をさす中沢の体を、静恵はしっかりと両手で抱き締めていた。そしてとろけるような暖かい幸せの中に、静恵は浸っていた。
(もし子供が出来なくても良い・・。この人がずっと傍に居てくれるなら・・。)燃える火を見つめて、静恵は愛というものがどう言うものだかを初めて分かった気がした。
「静恵、寒くは無いかい?」中沢は静恵の肩を抱いて優しく聞きながら、焚き火に枯れ枝を入れた。
「ううん・・ちっとも・・。」
燃え盛る炎に照らされながら抱き合う二人の影は物言わぬ木々に映し出されて、艶めかしく蠢いていた。
一ヶ月後、静恵の体に変化があった。
いつものように夕食を作っていると、ふいに吐き気に襲われた。慌てて洗面所に走り、そして吐いた。顔を上げて鏡に映る自分に、心の中で問い掛けた。
(これって・・そうなの?)
中沢が帰ってきて抱き締められた時、静恵は中沢をじっと見つめて呟いた。
「あなた・・もしかしたら、このお腹に命が宿ったかも・・。」
「ええ!本当か?良かったなぁ!静恵!」
「うん・・。でもまだ本当かどうか分からないから、明日お医者様に聞いてくるね。」
「うんうん。でもきっとそうだよ。あのお祈りが効いたんだよ。」中沢は満面の笑顔で静恵を抱き締めた。
翌日、静恵が妊娠したことがはっきりした
中沢は大いに喜んだ。これで自分たちはもっと強い絆で結ばれるんだと、大はしゃぎだった。でもしかし、一抹の不安があった。自分のこの異常とも言える性欲はどうなるんだろうという不安だった。しかしそんな不安を予め察していた静恵は、中沢に耳打ちした。
「そっちの方は大丈夫よ。ちゃんとお医者様に聞いてきたから。」
「そうか!それなら万々歳だ!よーし!バリバリ頑張るぜ!何せ、お父ちゃんだからな!」その言葉の通り、中沢は意欲的に仕事に精を出した。
その翌日、スーパーで静恵は陽子を見掛けた。今度は静恵から声を掛けた。
「陽子、お久しぶりね。」驚かせようとお腹を擦りながら、笑顔で挨拶した。けれども陽子は最初気付かず、少しやつれた目で冷凍食品を品定めしていた。
「陽子ったら!」静恵は陽子の肩をポンと叩いた。それで初めて陽子は驚いたように静恵に気付いた。
「あ・・ああ、静恵。ビックリした。」
「さっきから声を掛けてたのよ?でも、何だか気付いてくれなかったから。」
「え?ああ・・ごめんね。何だかボゥッとしてたから。元気そうね。ご主人も元気?」
「ええ、とっても。それにね。」静恵はお腹を指さしてニッコリと微笑んだ。
「え?ええ!何、ひょっとしたら!」
「そうなの。でもまだ、分かったばかりなんだけどね。でも順調に行けば、これでやっとママ友になれそうね。」
「そうなんだ!良かったわよねぇ、静恵。でも、全然連絡くれなかったじゃない。」
「ごめんね。驚かせちゃおうかなと思って。それにまだまだ安定期じゃ無いしね。嬉しいけど不安がいっぱいなの。」静恵がそう言うと、陽子は何度も頷いた。
「だからそれこそ経験者に相談しなくちゃじゃない。佐代子にも早速連絡しとくわ。こんなにおめでたい事は、みんなで分かち合うべきよ。」
「ありがとう。逞しい先輩達がいてくれて、私もとっても心強いわ。
でも陽子、少し疲れてる?こんな事言って申し訳無いんだけど、何だか以前の私みたいに見えたんだけど・・。でも、気のせいだよね?」微笑んで問い掛けると、陽子は弱く微笑んで目を伏せた。
「うん・・。ちょっとね・・。亭主が元気なくてさ・・。でも、検査しても何処にも異常は無いって事だから、安心はしてるんだけどね。ちょっとしたうつなのかな・・。それで、少しね・・。」
「そうなんだ・・。でも大丈夫だよ。大木さんはそんなにくよくよするタイプじゃ無いしね。それこそ、ちょっとした事だよ。」静恵はそう言って励まし、その場を離れた。
気掛かりと言えば気掛かりだけれども、人生そんな時もある。自分だってそうだった。でもちょっとしたきっかけでこんなにも人生は変わる。そんな事だろうと思った。それよりも今は、自分の家庭を育むことに集中しなければ。
夕食時、静恵は中沢に今日陽子に会った事を話した。そして大木がうつになっているようだとの話しも交えた。
「ええ、大木がか?うーむ・・そんな事になる奴じゃ無いと思うんだけどなぁ・・。」中沢は箸を止めて驚いていた。
「うん、それじゃあ俺も連絡取ってみるよ。なんか気掛かりだしな。
でも静恵、そんな事より自分の体に気をつけなよ?大事な体なんだからさ。」
翌日は金曜日だった。中沢は三時休みに大木に連絡を取った。明日は休日だから、何処かでちょっとやらないかと。
午後六時。駅前の居酒屋で中沢が待っていると大木はやって来た。
「よう。」肩を叩かれ振り向いた中沢は目を見開いたまま、暫し言葉が出なかった。何故ならテーブルの対面に座った人物は、そう思い出さなければ、大木とはまるきり別人だったからだ。
「あ、俺も生ビール。そして焼き鳥だ。」そう言って注文する大木を、中沢はまだ信じられないという面持ちで見つめていた。
「大木・・。どうしたんだよ、いったい。そんなに痩せちゃって・・。」その問いかけに、大木は力無く微笑んだ。
「別にダイエットをしたんじゃ無いぜ?何だか分かんないけど、体が萎んでいくんだよな・・。まるでどっかから吸い取られるようにさ。体重はもう、この前の半分だよ。」
「でも原因は?静恵が陽子ちゃんから聞いたって言ってたけど、聞けばどっこも悪くは無いんだろ?」心底心配して中沢は尋ねた。
「うん、医者の見立てじゃそうらしい。でもこれは、何処かが異常だよ。そうじゃ無きゃ、こんな事起こるわけが無い。そう思うだろ?ところでそういうお前はどうなんだ。見たところ、とても元気そうだな。」
「あ・・ああ。俺は元気なんだけどな・・。」それ以上言葉が出なかった。
運ばれてきた生ビールで、二人は乾杯した。そして焼き鳥を、大木は旨そうに何本も頬張っていた。
「な?どんだけ食ったって痩せてくんだ。このカロリーって、一体何処に消えちまうんだろうな・・。」
そう言われても、中沢は首を捻るよりほか無かった。大木は二杯目の生ビールを注文して、それもまた旨そうに飲み干した。
そして三杯目の生ビールを飲みながら、大木は中沢に言った。
「なぁ中沢、煙草をくれないか。それから少し、話したいことがあるんだ。」
「あ・・ああ。」中沢は大木に煙草を差し出した。
(もう少し経つ頃には、ひょっとしたらこいつはもっと痩せて、骸骨になっちまうのか・・?)と思いつつ・・。
「ああ、久々の煙草だ・・。やっぱ旨いよなぁ・・。こんな我慢がいけないのかも知れないけどさ・・。
なぁ中沢。七月のあの暑い日に、俺達は山に登ったよな。ひいこら登って、俺達は楽しく宴会をした。そしてその後、小池と交代で俺達は火の番をした。覚えてるよな?」
「ああ、もちろん覚えてるさ。初体験の真の闇、そして初体験の寝ずの番だったな。少し怖かったけど、それはそれなりに貴重な体験とはなったよ。」
「そうだったなぁ・・。俺にとっても貴重な体験だった・・。でもな、あれからなんだ。この体が萎み始めたのは・・。」大木はそう言って真っ直ぐに中沢を見つめた。
死相とも見えるその顔に、中沢はなにか冷たいものを感じて背筋を伸ばした。
大木は語り続けた。
「あの晩・・俺は見ちゃいけないものを見てしまったのかも知れない・・。何となくだけど、そんな気がするんだ・・。だから今、俺は祟られてるのかなって・・。」そう話す大木は本当に消え入りそうに思えた。
「おいおい、大木。何言ってんだよ。確かにあの番は怖かったけど、そんなものが居るわけ無いだろうに。気のせいだよ。そんなところに、お前が痩せていく原因があるってのか?いったい何処でそんなものを見たのかは分からないけど、きっとそれが何であれ、目の錯覚だよ。よくあることだよ。心細い時は特にな。」中沢は大木を励まそうと、快活に話した。
けれど大木はニコリともせず、テーブルに両肘を付けると、中沢を睨むように見つめた。
「中沢・・。その、そんなものってのはな・・。火の番をしていた、お前の直ぐ後ろに立っていたんだよ・・。
それは真の闇より尚黒くてな・・。そしてそのヒョロッとした影はお前に覆い被さって、そして消えたんだよ・・。
気をつけろよ、中沢・・。次はお前の番かも知れない・・。俺が今日此処に来たのは、それを伝えたかったからなんだ・・。じゃあな、中沢。もう、会うことも無いだろう・・。」
「え・・?」意外な言葉に中沢は驚いた。なにか言おうとしたが、突然大木はフラッと立ち上がると、中沢を一瞥して店を出て行った。
「え・・!ちょっと待て・・。」そして中沢が慌てて勘定を済ませてから大木を追った時には、もう大木は闇の中へと消えていた。
その翌日も翌々日も、中沢は大木ともう一度会おうとして本人や陽子にも連絡を取り続けたが、それは叶わなかった。何故なら会った翌日に大木が入院したと聞いた病院では、すでに面会謝絶と言う事態になってしまっていたからだ。
その一週間後、大木は死んだ。
棺桶の中に収まった大木の姿は、まるでミイラのようだった。中沢は力無く大木の亡骸を見つめた。
(この前会った時よりも、遥かに痩せたんだな・・。なぁ大木・・お前がこの前俺に言った言葉は、本当の事なのか?もしそうだとしたら、それは何のためなんだ・・。お前がこんなに苦しんで死ななきゃならない、その理由って・・。)
「中沢。」呼ばれて振り返ると、小池が立っていた。
「中沢、こんな事になって、俺も言葉が無いよ・・。また男だけで山に行こうって言う約束も、叶えてあげられなかったしな。さっき陽子ちゃんにもお悔やみ言ったけど、どうやら最後まで原因は解らなかったそうだ。不思議な話しだけど、そんな事って本当にあるんだな・・。
陽子ちゃんに聞いたけど、そんな事でお前には何か、大木から相談でもあったのか?」小池にそう聞かれても、中沢にはそれは言えなかった。
何故ならあの話しが本当なら、今度こうなるのは自分か、それとも小池がそうなるかも知れない。それにそんな話しは、あまりにも馬鹿げている。
「いや・・。一週間前に、二人でちょっと酒を呑んだだけだよ。でもあの時も痩せてはいたけど、元気そうだった。生ビール三杯と十本もの焼き鳥を、ペロッと平らげてたんだからな。」
「そうか。不思議な事もあるもんなんだな。いくら飯を食っても太れずに、そして急死するなんてな・・。
ああ、そう言えば静恵さん、おめでたなんだって?こんな時だけど、おめでとう。まぁ・・人生いろいろだな。また今度、酒でも呑もうや。それじゃな。」
「ああ、またな。」離れて行く小池の背中を中沢は見つめていた。
(あいつは元気そうだ。大木には悪いけど、そんな事があるわけ無い。)そう思った。だがあの時の大木の眼が、心の何処かで燻っていた。
夕食を食べながら、中沢は静恵に聞いた。
「なぁ静恵。陽子ちゃんは大丈夫なのか?子供もまだ小さいし、それに家のローンがたんまり残ってんだろ?気の毒だよなぁ。俺からは何もしてあげられないけど、女同士、心のケアだけはしてやってくれ。きっと心細い思いをしているだろうからさ。」
「うん、もちろんそうする。でもね、お金の方は大丈夫なんだって。何でも生命保険を掛けていたから、そのお金で何とかなるそうよ。家のローンもそれで払い終わるって、陽子が言ってたから。」
「へーえ。そりゃ驚いた。生命保険でねぇ・・。やっぱりあいつも考えてたんだなぁ・・。そうかぁ、じゃあ良かった。不幸中の幸いってやつだなぁ。そっかぁ・・。
なぁ、静恵・・。こう言っちゃあなんだけど、俺もその生命保険ってやつに、入っといた方が良いのかもな。人生一寸先は闇だって言うし、大木の事でしみじみと俺もそう感じたよ。」
「そうね。でもあなたは大丈夫。元気が有り余ってんだもの。」静恵はそう言って意味ありげに微笑んだ。
「うん?ハハッ、まぁな。今俺は全盛期だからな。そうだな、痩せ始めたら考えるとするか。」
「そうよ。子供も一人じゃ可愛そうだしね。」
「そうだな。大木の事は気の毒だけど、俺達は俺達で、元気一杯に幸せに暮らそう。先の不安ばっかり考えてたって、どうにもならないもんな。」
それから暫くした頃には陽子も落ち着き始め、久しぶりに三人でランチを食べないかとお誘いがあった。静恵と佐代子は喜んで承諾した。
その席で陽子は、不幸はあったけど、やっぱり先立つものがあるって言うのは有り難い事よねと二人に語った。
「何と言ってもお金よ。これでもしお金が無かったら、私たちはどうなっていたか分からないもの。旦那のことはとても悲しくて残念だけど、今はホッとしてるの。と言うか、大木と結婚したことを私は随分と悔やんだ事もあったけど、今は感謝してる。だってそうでしょ?こんなに落ち着いた暮らしを私達に残してくれたんだもの。
だから二人には言って置きたいの。何があるか分からないんだから、保険だけはちゃんと入って置くべきよ。ここが人生の分かれ目。二人はちゃんと考えてるのかなって、そう思ったから今日誘ったのよ。」ランチを食べながら、陽子は吹っ切れたように話していた。
「私の知り合いに、良い保険屋さんがいるの。良ければ紹介するから、是非前向きに考えてくれないかな。転ばぬ先の杖って言葉もあるじゃない。」
そんな陽子の話を聞いて、静恵と佐代子は目を見合わせた。
静恵はそんな陽子を逞しいなと思うと同時に、こんなにも早く快活に変わった陽子に少し驚きもした。
(ひょっとしたら大木さんが亡くなる前よりも生き生きとしてるかも・・。)
そんな陽子の話に、意外にも佐代子は乗り気を見せた。静恵は佐代子を振り返りながら、佐代子もまた変わったなと感じた。
(以前はそんな話には鼻も掛けないで、まるで身内の不幸を待っているようだからと言って嫌いな話しだった筈なのに、やっぱり身近で不幸があると他人事では済まされない気分になったのかも・・。でも、私たちには必要の無い話しだ。)そう思った。
「ねぇ陽子。その保険屋さん?ちょっと紹介してもらおうかな。もっと詳しい話しが聞きたいの。うちもほら、そんなに裕福なわけじゃないしね。でも・・やっぱり必要なのかなって・・。」すっかり佐代子は乗り気だった。
「分かった。じゃあ連絡しとくわ。その方が絶対良いって。静恵は?この際だから、一緒に連絡しとこうか?」陽子の誘いに、静恵は首を横に振った。
「ううん、うちは大丈夫。確信があるから。」きっぱりと断った。
その態度に、二人は首を傾げた。
「確信?ねぇそれって、どういう確信なの?」陽子の問い掛けに、今度は静恵が首を傾げた。
「どういうって・・。」静恵自身、自分の言葉に驚いていた。
(こんなにきっぱりと言う事なんて滅多に無いのに。でも答えないと・・。)
「うん、それはね、主人と話し合ったの。これからの事もね。それで私は安心してるの。確信じゃなくて、信頼、かな?」そう言って二人を見つめて微笑んだ。
「ふーん・・。静恵、あなた達夫婦って、本当に変わったわよねぇ・・。あんなに深刻に悩んでたのに・・。それが今ではとっても幸せそう。何だかガラッと変わったみたい。ねぇ静恵、何かあったの?」度重なる陽子の問い掛けに静恵は困ったが、正直に答えた。
「それはね、あの山登りから主人は変わったみたいなの。聞けばあの山奥で自分を初めから見つめ直したんだって、そう言ってた。もう一度仕切り直すかってね。私には分からないけど、何か吹っ切れたみたい。だから私もそれに同調したの。それだけよ。今はすっかり主人を信じてる。ただこの人に付いて行くんだって、心からそう思えるの。」
静恵の言葉に、陽子は静恵をチラと睨んで言葉を返した。
「へーえ、そんな事ってあるんだ。私はてっきり、あなた達はもう離婚するのかななんて思ってた。こんなこと言って、ごめんなさいね。でも冷え切ってるのが傍目にも見えたからさ。
でも・・良かったじゃないの。そんなに信頼し合える仲に戻るなんてね。普通じゃ考えられないよ。うちの事と言い、何だか不思議な事ばっかりね。けど静恵のとこは、良い不思議だよね?」そんな陽子の言葉には少し険を感じながらも、静恵は微笑んでいた。
(そう、不思議な事。それは私だけに舞い降りた、天使の祝福なの。あなたのところに来たような、地獄からの囁きじゃ無くてね。)
ランチから帰って、自宅でお茶を飲みながら静恵は思った。
(もう・・彼女たちに会う必要は無いわ。それよりも、今はこの子のために栄養が必要なの。そして、次の子のためにも・・。)静恵はお腹を擦りながら、ずっとあらぬ虚空を見つめていた。
(そう、もっと栄養が必要なの・・。)
陽子も家に帰りテーブルに座ると、亡くなる前の夫の話を思い出していた。そう、大木が中沢に話したあの話だ。
陽子は取り敢えず金銭面では安心していた。だが他人の夫婦の幸福を見ると、どうしても妬まずにはいられなかった。そして今は義理の母親に託している子供だけれども、これからはそんな事も言ってはいられない。これからは二人だ。否が応でも、子供の面倒を見るのは陽子だけだった。そしてぐずった子供の相手をするのは陽子にとって、苛々する気持ち以外のなにものでも無かった。自分がお腹を痛めて産んだ子供なのに、陽子には育児の本能が欠落していた。いや今は、その他の本能的な感情も・・。
(夫が居たときは良かった。全部あの人がやってくれたもの。それが今は、居ない・・。役目を放棄して、とっとと死んでしまった・・)
これからの暮らしを考えるとお金以外の苦労に、陽子には溜息しか出なかった。
(どうして私だけがこんな思いをするの?私が何をしたって言うの?どうして静恵達だけが、良い思いをしているの?)陽子はそんな苛ついた気持ちを抑えられなかった。
最近いつもそうだ。でもいつも最後に考え及ぶのは、亡くなった夫が話したあの話しだった。
(そう・・そうやって今は、幸せに暮らしているが良いわ・・。でも・・もうすぐやって来る。だってそれが取り憑いたのは、あなたのご主人だからよ。うちのは弱ってたから早めに逝っちゃっただけ。
そうよ、もうすぐ彼女はとんでも無い事態に陥る。早くなれ・・早くなれ!あの中沢や静恵が枯れて行く様を、早くこの眼で見たい・・。)そう目を細めて妄想している陽子もまた、得体の知れない呪縛に取り憑かれていた。
中沢は残暑がまだ残る中、日々大きくなっていく静恵のお腹を擦りつつ仕事に家庭にバリバリと精力的に事をこなしていた。だが最近どうしても気になる、悩みにも似た事が生じていた。不安や苛立ちが募ってきた中沢は、ある日静恵に相談した。
「なぁ静恵、今こんな話しをして不安がらせるのは本当はいけないんだろうけど、ちょっと話しを聞いてくれないかな。こんな事を相談できるのは、静恵しかいないからさ。」夕食時、ビールを呑みながらそう話し掛けた。
「何?話しって?」少し心配そうに静恵は聞いた。
「うん・・。でも何て言ったら良いのか、ちょっと変な話しなんだけどね・・。
それってのは、何処かに映った自分がじっと自分を見つめているように思えてさ・・。それとその映った自分の動きが、どうも自分とは微妙にズレている様に感じるんだよね。最初は気のせいだろうと思ったんだけど、それが頻繁だとやっぱり気になる。見ないようにするったって、鏡やガラスなんて至る所にあるからね。だから益々気になる。これって何だと思う?俺は心を病んでるのかなぁ・・。」そう不安そうに話す夫に、静恵は間を置いてから微笑んで答えた。
「ああなんだ、その事ね・・。それなら私も感じてるよ?」
「え・・?」
(何だって?静恵も感じてるって?じゃあこれは錯覚じゃ無いって事か?でもだとしたら、何でそんなに平気で居られるんだ・・?)中沢は不思議そうに静恵を見つめた。
そんな中沢の心を覚ったように、静恵は微笑んだ。
「意外でしょ?私もそれを感じてるなんて。でも私は平気なの。だって、私たちは守られてるんだもの。」
「守られてる?」(誰にだ?)
「そう、守られてるの。だってあなたが言ったんじゃない。その神様にお祈りをすれば願いが叶うんだって。そして私の夢は叶っていった。あなたが優しくなって、そしてこの子を身籠もって・・。
私は今とっても幸せなの。だから平気。きっとその神様は、ずっと私たちを見守っていて下さる。そう思えばそんな事は怖いよりも幸せに感じる。私たちは守られてる。だから私たちだけは大丈夫なの。そうは思わない?」
朗らかに話す静恵を、中沢はじっと見つめていた。
(確かにそう捕らえれば、何も不安は無いだろう。静恵が言うように家庭も仕事も益々順調で幸せいっぱいだ。
そうか・・守られているか・・。でも神様って、こんなにも露骨に姿を現すもんなんだろうか・・。でも良いや。これが錯覚じゃ無いって分かっただけでも・・。いや・・でも・・。)
「そうだな。そう考えれば、逆に有り難いって事だ。ありがとう静恵。何か吹っ切れたよ。」そう明るく答えた中沢だったが、その心は少しも吹っ切れてはいなかった。
(そうだ・・静恵も妊娠中で心が不安定になっているんだろう。これ以上不安なことを話すのはもう止そう。)そう思った。
それから間もない日の午後。佐代子から静恵に電話があった。
「もしもし?」寛いでいた静恵は明るく答えた。けれど暫く待っても、佐代子の声は聞こえない。
「もしもし?佐代子でしょ?もしもし?」大きな声で呼び掛けると、やっと返事があった。しかしその返事は、ともすれば消え入りそうにか細い声だった。
「静恵・・。ああ・・何て言ったら良いんだろう・・。こんな悲しい事って・・。」電話の向こうで、佐代子は泣いているようだった。
「佐代子?佐代子?どうしたの?なにがあったの?」ただならぬ事が起きたんだと静恵は思った。ただすすり泣きが聞こえるだけの電話に、静恵は大きな声で呼び掛けた。
「佐代子!今何処に居るの?家なの?」すると小さく、「うん・・。」と返事があった。
「分かった!これから直ぐに行くからね!何があったか知らないけど、気をしっかりね!」静恵はそう言って電話を切ると、大急ぎで佐代子の家に車で向かった。身重で容易ではなかったけれども、今そんな事を言ってはいられない。親友の身に何か悲しいことが起きている。それを救えるのは、親友の自分だけだ。
小池の家に着き玄関のチャイムを押すと、小池の母親が出迎えてくれた。
「ああ・・静恵さん・・。」そう言う小池の母親も、また悲しそうだった。
「何があったんです?お母さん、佐代子は何処にいるんですか?」母親の案内で、居間に通された。其処にはソファーにもたれ掛かり項垂れている、佐代子の姿があった。
「佐代子!どうしたの?何があったの?」静恵は佐代子の肩を抱いて、心配そうに覗き込んだ。
静恵が来てくれたことで佐代子も少し落ち着いたらしく、深呼吸をしてから、小さな声で切れ切れに事情の説明を始めた。
「陽子の事なの・・。うん・・落ち着いて、順を追って話すね・・。
私ね・・今日ちょっとした用事があって、陽子の家に行ったの。そしたら陽子は居なくて・・お母さんが出て来たの。陽子は外出中ですか?って聞いたら、お母さんは崩れるように私を抱いて、泣き始めたのよ。私は驚いてお母さんに聞いた。そう、今の静恵みたいに・・。そしたらお母さんは泣きながら、陽子は入院したって言うのよ。
それで、え?と思って、私はその病院に向かったの。変だと思った。だってそんな事があれば、真っ先に私たちに連絡するはずでしょ?
受付で病室を聞いて、私はもやもやしたままその病室に向かったの。そして個室の病室のドアをノックしたの。そして、
「陽子?私よ、佐代子よ?入って良い?」ってドアを薄く開けて呼び掛けたの。そしたらいきなり、「来ないでっ!」って陽子が叫んだの。私が「どうして?」って聞いても、
「とにかく来ないで!この病気が治るまで、そっとしといて!」ってまた叫ぶの。だから私は仕方なく帰ろうとしたんだけど、丁度その時お医者様がやって来て、診察の為にそのドアを開いたのよ。そして私と陽子は目が合った。
そしたら・・其処にはね、静恵・・。亡くなった大木さんと同じように、ガリガリに痩せ細った陽子の顔があったの・・。私と目が合うと、陽子は突っ伏して大声で泣き始めた。私は矢も楯もたまらず中に入ろうとしたけど看護師達に押し返されて、ドアは閉められてしまったの。中からは陽子の泣き声が聞こえてたけど、私にはどうする事も出来なかった・・。
でもね・・今でもあの時の陽子の顔が思い出されて、そしてあの泣きじゃくる声が聞こえてくるのよ・・。静恵・・。陽子は死んじゃうかも知れない・・。あの大木さんと同じように・・。」そう話し終えて、佐代子はまた泣いた。
静恵も気の毒に思い同情はしたが、不思議に涙は出ては来なかった。
(そう、とても悲しい事だけど、なんとなくだけど、分かっていた事だもの・・。)ふとそう思ったけれども、でもそんな事は言えない。静恵は極力佐代子を慰め、そして家に戻った。
それから一週間後、陽子は死んだ。
相次いで亡くなった夫婦の不審な死に方に、病院や警察、それに中沢達も首を傾げるしか無かった。新種のウィルスかバクテリアの仕業かと、身近な人達は皆検査を受けさせられた。けれどもそんな物は一つも見つからなかった。そして葬儀は遺体の無いまま執り行われ、その遺体は今でも厳重に保管され研究されているようだった。
それから二週間ほど経った日曜日。小春日和の暖かな午後の道を、中沢夫妻は小池の家に向かっていた。
昨日小池から連絡があった。
『大木夫妻は気の毒な事だったけど、どうだろう、お膳立てはこちらでするから、彼等を偲んで供養のために一緒に会食しないか?』との電話の誘いがあった。その日は大木の月命日で、中沢は快く承諾した。
『ああ分かった。それは大木の供養にもなるな。喜んで参列するよ。』そう言って中沢は電話を切った。静恵に伝えると、静恵もまた深く頷いた。
「そうよね。物事には区切りは必要だもの。それは、私たちにもね。」そう言って、静恵も快く賛同した。
「小池も疲れていたんだろう。心機一転の為に一応節目を付けたくて、こんな会食を思い付いたって言ってたから。けど俺も、大木夫婦の事は何とも・・言葉も出ないな。こんなに次々と不幸に見舞われるなんて、本当に想像も出来なかったよ。驚きと共に悲しいことばっかりで疲れたけど、静恵も疲れたろう?こんな大事な時期にな。」
日曜日の午後。車を走らせながら、中沢は静恵の体を気遣いながら運転していた。
「うん・・。でも大丈夫。お腹の子はすくすく順調に育っているようだしね。」静恵は愛しむように大きくなったお腹を擦っていた。
二人は手土産を手に小池家の玄関の前に立ち、そしてチャイムを押した。
だがいくら待っても、中からの返事は無い。二人は顔を見合わせた。中沢は玄関の戸を少し開いて、大きな声で小池を呼んだ。
「こんにちはぁー!小池ぇー!中沢だよー!」そう叫んでから聞き耳を立てると、小さな声だが何か話し声が聞こえた。そして少し焦げ臭い臭いが漂っていた。
不審に思った中沢は、そろそろと玄関から中に入った。そして土間の向こうの声のする方に、ゆっくりと近づいて行った。土間の上がり口から一部屋置いた向こうから、その声は聞こえているようだった。
(あそこは確か、掘り炬燵のある部屋だ・・。)土間から板間へと入る開き戸を開けて、もう一度呼んでみた。だがボソボソと言う話し声だけで返事は無い。板間から覗き込むと、掘り炬燵の部屋には明かりが点いている。
静恵は土間で不審そうに辺りを見回していた。
中沢は静恵を振り返り、靴を脱いで板間へと上がった。そして明かりの点いた部屋を見つめて、ゆっくりとその戸を開けた。
そしてその光景を目の当たりにした中沢は、愕然と立ち竦んだ。何故ならなんとその部屋の中で、小池や佐代子そしてその幼い息子と両親が、各々苦悶の表情と体型で倒れていたからだ。
(一酸化炭素中毒!)咄嗟に頭に浮かんだのはそれだった。この家の掘り炬燵は、未だに練炭を使っている。それを知っていた。
「静恵!外に出ていろ!それから、救急車を呼ぶんだ!五人が倒れている!そう連絡しろっ!早くっ!」そう怒鳴る中沢の叫びに静恵は驚き、外に出て直ぐに携帯電話から救急に連絡した。
中沢はハンカチを口に当て、大急ぎで部屋の窓を開けた。そして戸も全て開け放ち、先ず小池を抱き起こした。
「小池ぇ!小池ぇ!」耳元で叫んだが意識は戻らない。しかも胸に耳を当てると、すでに心肺停止状態だった。
中沢は急いで他の四人にも呼び掛けた。しかし同様に、彼等も意識が無く、心臓も肺も停止していた。。
(まさか・・死んでるのか?)認めたくない言葉が、頭の隅に浮かんだ。
部屋に据えられたテレビが、意味の無い言葉をずっとしゃべり続けていた。そして食卓の真ん中には、焦げ付いた鍋が置かれていた。
中沢は呆然とし、その有様を目を見開いて見つめていた。その手足からは力が抜け、細かく震えていた。
間もなく数台の救急車と、そしてパトカーが到着した。
中沢は駆けつけた救急隊員から外に出るよう指示され、力無くそれに従った。
暫くすると今度は刑事からパトカーに乗るよう指示され、車中で事情を聴取された。中沢はそんな悠長なことをと、刑事に強く訴えた。
「一刻も早く彼等を病院に運ばなければ、助かる命も助からなくなる!」そう叫ぶ中沢に、刑事は気の毒そうにポツリと言った。
「救急隊員によればあの方達はみんな、すでに亡くなられているとのことです。」
その言葉に、中沢の肩は力無く落ちた。
(そんな・・そんなことって・・。)中沢にはその現実が直ぐには受け入れられず、混乱した頭を抱えた。しかしふと我に返り辺りを見回すと、窓の外に静恵の顔が見えた。その顔は青ざめ、疲れ切っていた。中沢はそんな妻の様子に狼狽して、その刑事に妻の事情を説明した。
「分かりました。では明日、署まで来て頂けるでしょうか?その時にはご友人方の亡くなられた原因も、判明していると思いますので。」そう言う刑事の丁寧な言葉に、中沢は素直に頷いた。
そしてパトカーを降り静恵の肩を抱くと、静かに車に乗せた。辺りには大勢の人々が集まって来ていた。中沢は車を発進させて、ゆっくりと家に向かった。気が付けば、もう夕暮れだった。
その前々日の金曜日の夜、小池夫妻はこんな会話を交わしていた。
「ねぇあなた。あの山に登ってから、あの人達は随分と変わったわよねぇ。そうは思わない?陽子は原因不明の病で大木さんを失って、そして同じ病で亡くなってしまったし、そして静恵はあの落ち込んでいた状態から妊娠して、今は幸せいっぱいに暮らしてる。それって何だか不思議と言うよりも、私は怖くなっちゃって・・。だって二人とも、ご主人が急に変わってしまったんだもの。ねぇ、あなたは大丈夫だよね?何にも変わって無いよね?」佐代子は夕食の支度をしながら、テーブルに座って晩酌している小池に話し掛けた。
小池はそんな佐代子の言葉に、小さく溜息を吐いて微笑んだ。
「そんな事があるわけ無いじゃないか。山に行ったからって急に人が変わるなんて。まぁ、それがきっかけにはなったかも知れないけどさ。でも要はタイミングの問題だと俺は思う。大木夫妻はすでにあの時何かの病を患っていて、それが悪化した。そして中沢は自分を見つめ直して気分転換した。それだけの事さ。だから俺は何にも変わらない。これまでだって何回も山歩きをしたろ?それでも何にも変わらなかったろうに。心配し過ぎだよ。」
「うん・・そうなんだけどね・・。」そう答えながらも、佐代子は小池の向かいに腰を降ろして、じっと小池を見つめた。
「でも・・あの山に行くのはもう止しましょうよ。何だか、気味が悪くて・・。」
小池はそう言う佐代子の言葉に今度は目を見開いて驚き、そして佐代子に言い聞かせるように口を開いた。
「あぁ?何言ってんだよ。まったく心配性なんだから・・。
ああ、でも分かった。そんなにお前が心配するんなら、後一回だけ行って、その後は行かないよ。だって考えてもみろよ。今のこの時期、キノコが最盛期だよ?そしてそれが一番採れるのはあの山なんだからさ。そしてずっとそれを楽しみにしてきたんだから。だから後一回だけ、明るいうちにさっと採ってきて、そのキノコ汁を最後にあの山には行かない事にしよう。それなら良いだろ?」
「うーん・・。じゃあ、それっきりね。」小池の強い提案に、佐代子も渋々とだけれどもそう言って頷いた。何故ならそれは佐代子にとっても、年に一回の楽しみの一つだったから。
そして亡くなる前日の土曜日、小池達はあの山道を歩いていた。
その朝佐代子は何故だか余り気が乗らなかった。けれども夫から気分転換にもなるし、それに今行かないと、あそこの美味しいキノコはもう食べられなくなるからと強く主張されて、今回のキノコ狩りとはなった。
けれどもその朝出掛ける際にはまだ腰の重かった佐代子も、山道を歩いてその新鮮な朝の空気を吸ううちに、渋っていた心が段々と解れていくのを感じた。
(そうよね・・陽子達は気の毒だったけど、それをいつまでも考えていたって仕方が無いもの。そう、もう終わってしまった事・・。そう考えよう。それよりもやっぱり、この掛け替えのない家族のことを考えなくちゃ。あの子も、あんなにはしゃいでることだしね。やっぱり来て良かったのかな。)
前を行く小学二年生の息子は小池に纏わり付いて、久しぶりの山歩きに大はしゃぎだった。そして晩秋の空は天気も良く、絶好のキノコ狩り日和だった。
小池達は目指していたポイントに分け入ると瞬く間に篭を一杯にして、お昼前にはもう下山の用意を始めていた。
「な?俺が言った通りだろ?お昼前に全部完了だ。帰りに旨い物食って、そして今夜は美味しいキノコ汁だ。でもなぁ・・こんなに大収穫じゃ、うちだけじゃ食い切れないなぁ・・。
そうだ、明日は中沢達も呼んで、その時はこれの天ぷらも作って、二人にご馳走しよう。そりゃきっと驚くから。」小池はその思いつきにニッコリと笑った。佐代子もその提案には大きく頷いた。
「そうね。それが良いわ。私も大満足だし、静恵にも良い栄養になるもの。」そう言い合って二人で笑った。
(心地良い汗をかいて、あの子も思いっきり遊べたし、やっぱり来て良かったな。)佐代子は身も心もすっかり快活なのを喜んだ。
そしてその夜は一家団欒で天然キノコの抜群に旨い汁を、楽しくみんなで大いに食べたのだった。
小池一家が亡くなった翌日。中沢は昨日言われたとおりに、朝一番で署に出向いた。そして第一発見者としての事情を聴取された後、刑事は書類を中沢の前に示して小池一家の死因を説明した。
「小池さん一家の亡くなられた原因は、此処に示されているように、毒キノコを食した事による毒死でした。そして各々の体内からはその毒成分と、毒キノコ本体が検出されました。恐らく亡くなられた前日にキノコ狩りに行かれ、間違って毒キノコを採取してしまったのだろうと思います。ただ鑑識医が言うには、汁を飲むだけならまだ生きておられた可能性があったそうなのですが、全員その本体を食してしまっていて、それが致命傷とはなったそうです・・。
ですがこれには何とも・・説明が付きませんが・・。」
その説明を聞くうち、中沢の顔色は青ざめていった。そして刑事の説明が終わると同時に、刑事を見つめて叫んだ。
「そんな馬鹿な!小池は、奴は何度もキノコ狩りに行ってて、その知識も豊富だったんですよ!そんな小池が、間違って毒キノコを採って来る訳が無い!ましてや汁にして、その物を食べるなんて・・。」そう主張する中沢の脳裏に、いつかの大木の言葉が蘇っていた。
(気をつけろよ、中沢・・。次はお前の番かも知れない・・。俺が今日此処に来たのは、それを伝えたかったからなんだ・・。)遠いような記憶から、それは現実味を帯びて聞こえてきた。
(大木・・お前が言ってたその次っていうのは、小池になったと言うのか?
そしてその次は自分だと・・?)そう思う中、中沢は言葉を失い、その目は何かを探すように動いていた。
「何か、お心当たりでも?」その挙動を不審に感じた刑事が尋ねた。その言葉に、中沢は我に返った。
「あ・・いや、そんなものは無いです。ただ・・ただこれだけは本当に言えるんですよっ。小池は絶対に、毒キノコなんか採らないって。」中沢は訴えるように刑事に言った。
刑事はその中沢の様子を見て、溜息を吐いてから中沢に向き直った。
「そうですねぇ・・。我々としても、その説明の付かない部分を不思議に感じています。そして我々もそこを考えて、三つの可能性をあなたに伺いたく思っていました。」刑事のその言葉に、中沢は首を傾げた。
「三つの可能性・・ですか?」
「はい、そうです。一つずつご説明すると、一つは先程お話ししたようにただ間違いが重なっただけの事故死です。もう一つは、何らかの悩みがもたらした一家心中。そしてもう一つは、外部の何者かが企んだ殺人です。そこであなたに伺いたいのは、小池さん一家が何かを悩んでおられたり、もしくは誰かに怨みをかっていたという事実はありませんか?どうでしょう?」そう言う刑事の冷たい眼差しを、中沢もじっと見据えた。
「小池は・・いや・・あの家の人達は誰かに怨まれたりする事など、一切無いと思います。絶えず自分たちよりも他人の事を思うような、とても優しい人達でしたから・・。それからあの人達が何らかの悩みを持っていたというのも、私は、それも無いと思います。金銭的にもそして病にも、あの人達が悩んでいたとは私には全く思えません。
でなけりゃ、あんな陽気に・・。あの日もきっと俺たちを美味しいキノコでもてなそうと、そう思ってあいつは・・。」感極まった中沢の目から、大粒の涙が溢れ出した。そして涙で滲んだ世界に、大木や小池の笑顔が映った。
けれども彼等はもう居ない・・。そのどうしようも無い現実を、中沢は今になって実感していた。後から後から湧き起こって来る思い出と、その友を失った悔しさと悲しさが胸の中で渦を巻いて、いつしか中沢はその身を震わせて泣き続けていた。
その様子に見かねた刑事は椅子から立ち上がると、優しく中沢の背に手を置いて、宥めるように声を掛けた。
「中沢さん、もう良いです。お話は良く分かりましたから。」そして刑事に付き添われて警察署を出た中沢は、呆然としたまま家に帰った。
悲しい小池一家の葬儀が終わり、中沢はまた職場へと戻った。
中沢の仕事は、プラスチック金型の設計業務だった。それは機械加工や成形技術などの知識を駆使して金型を設計する仕事で、非常に緻密であり、また集中力を要する仕事だった。けれどもその時の中沢の心は、決して穏やかでは無かった。
パソコンのモニターを睨む合間にも二人の友を失った虚しさやその彼等の死んだ原因への疑問、そして大木が言い残した或る者に対する疑惑などが常に頭の何処かで燻っていて、どこか上の空になる時間があり、仕事にも集中出来なかった。だから度々重大なミスを犯して、その度に上司からもきつい叱責を受けた。そしてその責任は自分で取り戻すしかない。
落ち込んだ中沢は残業をして、必死に何とかそのミスを凌ごうとした。けれども、やはりそれにも無理があった。そしてとうとう、どうしても最初からやり直さなければならない事態になった。
追い詰められた中沢は、その日からほぼ徹夜の毎日を送った。この仕事を何とか成し遂げなければ、中沢はその仕事場での立場を失ってしまいかねない状況だったからだ。納期は間近に迫っている。けれど誰にも手伝ってはもらえず、そんな情け無い自分を妻に慰めてもらう訳にも行かない。切迫した日々が続いた。
しかし必死に挽回した甲斐あって、ついに完成の手応えを強く感じることが出来る日が来た。
中沢はその日の夕方、いつものように静恵に電話を入れた。
「ああ俺だ。静恵、申し訳無いけど、今夜も遅くなりそうなんだよ。でもな、それも今日で片が付きそうなんだ。明日はゆっくり出来るだろう。ずっと独りで心細かったろうけど、もう一晩だけ我慢してくれ。この仕事が終わり次第、真っ直ぐ帰るからさ。」
「うん分かった。お仕事じゃ仕方ないよ。でも寒いから、体に気をつけてね。それとこっちは大丈夫。独りじゃ無いから。」
「うん?ああ、そうだな。頼もしい味方が居たか。それじゃ安心だ。それじゃな、お休み。」電話を切ると中沢はまたデスクに戻り、パソコンに向かった。
少し経つと、少し残業していた者も一人また二人と帰宅した。そして午後八時には中沢を残して誰も居なくなった。独りになった誰も居ない設計室はガランとして、とても寒々しかった。けれども今の中沢には、そんな寒さなど気にしてはいられない。自分の存在価値が問われているのだ。中沢は設計室を見回して、自分に気合いを入れた。
「ふん、毎度の事だ。仕方が無い。それに寒い方が頭の回転も良くなるって言うしな。静かだし、集中するには打って付けってなもんだ。でも、こんな苦労も今夜限りだ。もうすぐこの仕事も完成だからな。よーし!気合いを入れて最後の仕上げだ。」独り言を呟き心を切り替えて、中沢は仕事に没頭した。
そしてようやく先が見えだした午前零時。中沢はパソコンから目を離し、夜食のカップラーメンを作って食べた。そして煙草を取り出して一息ついた。
(ふぅ・・大体これでもう大丈夫だ。どうにか間に合いそうだな。よし!後は最後のチェックを念入りにするだけだ。そして図面に起こして部長の机に置いとけば、明日の午前中はゆっくりと休めるだろう。なんの問題も無いはずだし・・。よし、もう一頑張りだ・・。
おっとその前に、出すもん出して、食堂の自販機であったかい缶コーヒーでも買ってくるか。そしてそれからは集中して、ぶっ通しでやるんだ。)中沢は独りで頷き、気合いを入れた。
用を足したあと、手を洗いながら鏡に映る自分を見た。けれど少しほっとしたせいか、気が緩んだ隙間に大木の言葉が蘇った。そしていろいろなことがあり過ぎた一連の日々の中で、すっかり忘れていたあの感覚も・・。そんな心細さからか、何だか今鏡を見ているのが薄気味悪くもなった。しかし鏡に映る自分はちょっと疲れてはいるが、いつもの自分の顔だった。
(またあの事を・・。気にし過ぎだ・・。)そう思い直して手と顔を洗って、ハンカチで顔を拭いた。けれどもそこで中沢は、何か草を切ったような臭いが微かにしているのに気が付いた。
(うん?なんだこの臭いは・・。さっきまでは臭わなかったのに・・。)トイレを振り返っても、何処にも植物は見当たらない。
(はぁ・・これも気のせいだ。普段強いと思ってる自分より、本当の俺は、正直ビビリだってことだ。)そう思い直して自分でも可笑しく思いつつ出口に向かった。しかしドアノブを握ろうとした中沢はふと目の隅に違和感を感じ、何気なくゆっくりと其処に眼を向けた。
そしてそれを見た途端、全身に鳥肌が立ち、その場に凍り付いた。何故なら並んでいる次の洗面器の鏡に、自分の姿が映っていなかったからだ。
中沢は暫し目を見開いて、その鏡を凝視した。そして矢庭に鏡が今映している場所に振り向いて目をやった。
間違いは無かった。けれどもまた振り向いてその鏡を見ても、其処には自分だけが映されていない情景が映っている。
違和感と言うよりも、恐怖を感じた。
するとまた目の隅に、今度は何かが動いている気配を感じた。その瞬間ハッとして、さっきまで自分が使っていた洗面器の鏡を振り返った。するとその鏡には、まるで残像の様に、自分の顔が映ったままだった。そしてその顔はゆっくりとこちらに向き直り、じっと中沢を見据えた。
「あわっ・・あわわわわっ!」中沢は恐怖に総毛立ち、入り口のドアに思い切り背中を打ち付けた。そして震える手でドアノブを探し当てると、ドアを開いて一目散に逃げ出した。
(早く・・早く!此処から逃げるんだ!)息を切らして設計室に駆け込むと、暫くは俯いて息を整えた。
「ハァ・・ハァ・・、ふぅー・・。なんなんだ、今のは・・。でも落ち着け、落ち着くんだ。そんな馬鹿なことが在るわけ無い。今のは・・、そうだ、今のはきっと、目の錯覚だ。そうだ、疲れてて怖がっているから、あんなものを見るんだ!おい、しっかりしろよ!今はそれどころじゃ無いだろうに・・。」しかしいくら自分にそう言い聞かせてもあの光景が頭から離れず、恐怖に心臓の鼓動は高鳴った。
けれどもどうしてもこの仕事は終わらせなければならない。だから此処からは逃げ出せない。こんな言い訳が、通用する訳が無い。
中沢は気を取り直そうと深呼吸した。そしてまたパソコンの前に座った。けれどもその恐怖心から、モニターに後ろが映らないように、バックライトを最大限に明るくもした。
喉がカラカラに渇いていた。しかし自販機の缶コーヒーを買いに行くことなど、到底無理だ。椅子に深く腰掛けて、辺りを気にしながらも仕事を続けるしかなかった。
そして午前二時頃、ようやく仕事も片付け終えた。
「やっと終わった・・。これで家に帰れる・・。」中沢は肩の力を抜いてそう呟くと、部長の机に図面を置き、自分のデスクを整理してから設計室を出ると、急ぎ足で後ろを振り返りつつ会社を出た。しかし駐車場に置いてある車に向かう途中、慌てていたためか何かに足を取られて、駐車場の脇にある生い茂った草むらに派手に転んでしまった。
そしてその湿った土と草の臭いを嗅いだ途端、あれが後ろから追いかけてくるような恐怖に取り憑かれた中沢は、慌てふためいて車に乗り込み、急いで車を発進させた。とにかく一刻も早く、この奇妙な緊張から解放されたかった。
運転しながら煙草を取り出し、一息ついて思った。
(そうだ、気のせいだ・・。あれはやっぱり目の錯覚だ。そうに決まってる・・。とにかく早く帰りたい。疲れた・・。)中沢はぐったりしている中にもほっとした気持ちで、殆ど車が走っていない深夜の道を、家へと順調に車を走らせていた。
だが途中まで来て信号を待つ間にふと中沢は、自分の体に妙な違和感を覚えた。
何だか体が力を失いフワフワとして、それでいて体の芯から暖かみが広がり、それはまるで眠りに入る直前のような感覚だった。そしてその感覚は徐々に、体全体を包み込んでいった。
中沢はその感覚に抗うことも出来ないまま身を委ねて、目を半開きにして、何を考える事無くボゥッとしていた。そして自分が持っているハンドルが段々と遠くなり、その後自分の後頭部が見えるのを、ただ夢の中のように呆然と眺めていた。
信号が青に変わり、車はゆっくりと走り出した。
不思議な感覚だった。運転している自意識も無く、誰かが運転している車の後部座席で微睡んでいる、そんな気持ちだった。とても静かで、何の音も聞こえない。ただ加速していく感覚だけが背中に感じられた。まるでタクシーの運転手に、行き先を任せたような乗り心地だった。けれどもやはり最初に感じた違和感だけはずっと心の何処かで燻り続けていて、中沢を少しずつ現実へと導いた。
そしてやっと中沢は目を開いて、その異常に気付き始めた。
(なんだ・・これは・・?)運転している感覚がまるで無い事に、先ず最初に気付いた。
(疲れで幻覚でも見ているんだろうか・・。まるで後部座席に座っているような・・。)そう思った瞬間、はっきりと周りが見えて、驚きと共に意識が目覚めた。
(このままじゃ危ない!)そう目覚めて咄嗟にブレーキに足を伸ばしたが、全くその感触が無い。緊張が走り、中沢は大きく目を見開いた。流れゆく街灯の光が目に映る。そして自分の体はと言うと・・体はと言うと・・。
真っ黒な影となった自分の両手を、中沢は震えながらじっと見つめた。そして今は感覚の無い両足を俯いて見下ろした。だがそこに見えたものは・・影だ。真っ黒な影しか映らない・・。
中沢はゆっくりと目を前方に移した。
そこには運転する自分の後ろ姿と、後ろへと吹き抜けていく暗い景色だけがあった。
(これは夢か・・?)中沢はもう一度自分の体を見直した。すると細い血管のような糸が見えて、その糸を手繰ると自分の頭から出ているのが分かった。そして更にその糸が、前で運転している自分の頭に繋がっているのが見えた。
(これがもし切れたら・・。)中沢は直感した。
(俺はお終いだ・・。)
中沢は視線を感じて、ルームミラーに目を移した。そこには細い眼でほくそ笑みこちらを見ている、自分の眼が映っていた。その眼をじっと睨みながらふとその後頭部を見ると、その髪の中で何か蠢いているものが見えた。
(何だあれは・・?虫か?いや、違う・・。草だ・・。ああ!そうだあれは!あの、蔓草だ!)頭の中に、枯れ木に深く絡みつく、あの蔓草の記憶が蘇った。その細い枝葉が蠢きながら、徐々に運転している自分の頭に幾重にも巻き付いて、それから食い込んでいくようだった。ルームミラーに映る自分の顔にもそれは這い始めて、少しずつ顔を歪ませていた。その蔓草と情景を見て、中沢にはこの事態が呑み込めた。
(そうだ、これは決して夢なんかじゃ無い。そして今自分の顔に巻き付いているのは、あの時ズタズタに切って捨てた、あの蔓草だ・・。そしてそれは今、俺の体から俺を追い出したんだ。俺が弱っている隙を狙って・・。そして確かに奴は今、本気で俺を殺そうとしている・・。)驚きの最中で必死に考えていると、突然何処からか大木の声が聞こえた。
(真の闇よりも尚黒く、ヒョロッと背に立つ者、それが今のお前だ・・。)
そして小池の声も聞こえた。
(お前は今・・乗っ取られようとしている・・。)
(そう・・そのとおりだ・・。だが、俺はこのまま死にたくは無い!こんな草の為に!でも俺は、俺は・・どうすればいいんだっ!)そう心の中で叫んだ時、あの山奥のキャンプファイヤーの炎が思い出された。そして自分が火の番をしたときの事を。
(そうだ・・逆になっただけだ。あの時のお前は、今の俺なんだ・・。)
中沢はその蔓草を睨んだまま、後部座席でゆっくりと体を起こした。そして影となった両手を伸ばして、その背中に押しつけた。
その途端、車がローリングを始め、右に左に、深夜の道を車はまるで酔っ払ったかのように猛スピードでジグザグに進み出した。けれどもその事態に気を留めること無く、中沢はその体にズブズブとめり込んでいった。
完全に体が入った瞬間、体中が燃えるように熱くなった。その凄まじいほどの熱さしか、中沢には感じられなかった。
何が何だか分からないまま、幻影に翻弄された。それはあの時山道を汗だくで上った自分たちの姿とその風景や、暗闇に踊る炎、それに照らされたみんなの顔、そして寝ずの番で過ごした闇の深さや、それからの生活の風景だった。そしてそれが、まるで速く回る走馬燈の様に脳裏を駆け巡った。
その最中でも不思議に感じたのは、それらが全て自分の目線では無かった事だ。
宙を浮遊する目線、その目線は、決して自分のものでは無かった。そう自覚した次の瞬間ハッと気が付くと、中沢は激走する車のハンドルを握っていた。そしてそのすぐ目の前には、広い川を跨ぐ大きな橋の門柱が間近に迫って来ていた。道の左側は深い崖だ。前方左の遥か下に、外灯に照らされた川の煌めきが一瞬見えた。中沢は咄嗟にブレーキを強く踏んだ。タイヤが激しく音を立て、車は横滑りを起こした。そしてそのまま車は、橋の門柱に激突した。
どれほど気を失っていたのか・・。気が付くと中沢は運転席に背を預けて項垂れていた。うっすらと目を開けると、右手に血が付いている。そしてコンクリートの門柱が、ドアの直ぐ脇に見えた。
「あっ、痛ぅ・・。」突然の痛みに右のこめかみを押さえた。それからその部分をルームミラーで確認すると、そこを少し切ったようだった。運転席のガラスが割れていて、血が頬を二筋伝っていた。
(でも・・助かった・・。)肩の力を抜いて生唾を飲み込んだ。そして落ち着いて、今自分が何処に居るのかと辺りを見回した。それでもまだ分からないので懐中電灯を取り出し助手席から外に出て、橋の門柱に刻まれた橋名を確認した。其処には「瀬波橋」と刻まれていた。
中沢は(え?)と驚き、来た道を振り返った。
真っ直ぐな道の二百メートル程先に、赤信号の光が灯っているのが見えた。従来なら、あの信号を左に曲がる筈だった。そしてその信号で一旦停止したことまでを、中沢は覚えていた。
(なんであの信号を真っ直ぐに来たんだろう・・。それにあんなに長く感じた時間が、たったこれだけの距離だなんて・・。)中沢は暫く呆然として、遠くに見える信号を見つめていた。しかしハッと我に返り、急いで車に乗り込んだ。
(とにかく家に帰るんだ・・。それに静恵が・・。)
中沢は袖で血を拭うと、震える指でハンドルを握り、車を反転させて家に向かった
家では静恵がまだ眠らずに起きていた。そして生まれてくるであろう我が子の事を夢想しつつお腹を撫でて、愛する人の帰りを今か今かと待っていた。
「パパは遅いね。でも私たちのために、一生懸命お仕事してるんだよ?だから帰って来たら、温かいおじやでも食べさせてあげたいの。でもあなたは寝てて良いのよ・・。私のお腹の中で、ぐっすりとね・・。」
すると外で車のエンジン音が聞こえて、そして止まった。静恵はその音に気付いて、夫を迎えようと玄関に向かった。
しかしドアノブが回り、そしてドアを開けて入って来た夫の姿に、静恵は言葉を失った。
倒れ込むように入って来た中沢は静恵の顔を見ると、玄関の上がり口に腰を降ろして、長い溜息とともに項垂れた。
「ど・・どうしたの、あなた!な・・なにがあったの!」中沢の変わり果てた状態に、中沢の傍に屈み込んだ静恵の眼は見開いたまま泳いでいた。
「ああ・・静恵・・。無事で良かった・・。俺もなんとか、帰って来たよ・・。」
「きゅ、救急車を呼ばないと!」そう叫んで立ち上がろうとする静恵を、中沢は制した。
「いや待て、救急車は必要無い。落ち着くんだ・・。ちょっと頭を切っただけだから・・。それより静恵、もっと大事な話しがあるんだ・・。」そう言って、疲れ切って虚ろな眼差しで静恵を見つめた。
「大事な話し?それって・・。でも・・。あなたがそんなに血を流していて、そして体中草だらけで・・。あなた・・本当に大丈夫なの?」
「うん?俺が草だらけだって?」静恵のその言葉に中沢は覚醒して、また総毛立った。そして改めて自分の体を見た。
すると足といい腕といい、其処には蔓草が幾重にも巻き付いているのが中沢には見えた。
「う・・わっ!」中沢はそれを目にした途端、必死でその草を掻きむしった。しかし玄関には蔓草では無い、幾本かの細い草の葉が飛び散っただけだった。
「あなた!どうしたの!」中沢が狼狽えている様子を見て、静恵は叫んだ。中沢は泳ぐ眼で静恵を見やると、いきなり立ち上がって静恵の肩を両手で掴んだ。その息は大きく乱れていた。
「ハァハァ・・。静恵、良く聞くんだ・・。俺達は今、この蔓草に取り憑かれてる。俺達が今まで神様だと思っていたものは、この蔓草だったんだよ!そして俺はさっき、この蔓草の悪霊に殺されそうになったんだ!」険しい眼で話す中沢を、静恵はただ驚いてじっと見つめていた。
「静恵、このままじゃ俺達はこいつに取り殺される・・。大木や小池と同じようにな・・。だから何とかしなきゃ・・。でも、どうやって・・。」静恵の肩に置いた中沢の手は力無く垂れて、そしてそのまま膝を付いて項垂れてしまった。
そんな狼狽え怯える中沢を、暫く静恵も落ち着かない眼で見つめていたけれども、気を取り直して夫の肩をしっかりと抱いた。
「あなた!しっかりして!そんな事はただの幻覚よ。こんな時間まで毎日続く忙しい仕事のせいで、あなたはきっと疲れてるんだわ。だから休めば大丈夫よ。でもその前に先ず、その怪我の手当をしないと・・。」静恵は夫の傷を見るために優しくその髪を掻き上げた。しかし中沢は、その手を強く払い除けた。
「静恵、これは決して幻覚なんかじゃ無いんだ!」中沢は静恵を血走った眼でじっと見つめた。
「これは決して幻覚なんかじゃ無い。信じてくれ。このままじゃ俺達は殺されてしまう・・。でも・・どうしたら良いのか、俺には分からないんだ・・。」再び項垂れる夫を目の前にして、静恵は小さく頷き溜息を吐いた。
「分かった・・。あなたを信じる・・。だからいったい何があったのか、詳しく話して欲しい。それから二人でどうするか考えましょう。でもその前に、傷の手当てだけはしないと・・。」
静恵がほんの少しでも理解を示してくれたことで、中沢は肩の力が抜けるようにほっとして、素直に傷の手当てを静恵に任せた。そして傷口を消毒して絆創膏を貼り終えた頃には、興奮していた中沢の眼も穏やかになっていた。
「ふぅ・・少しは落ち着いた・・。」そんな中沢に静恵は優しく声を掛けた。
「お腹も減ってるでしょ?温かいおじやでも作りましょうか?」
「ああ、ありがとう。いや、でも今はビールだけで良いよ。喉がカラカラだし、君に話しをしなきゃだからさ。」
深夜の食卓で、中沢は静恵に事の顛末を詳しく話した。山で蔓草に取り憑かれた木のことや、その木と蔓草を細切れに伐採したことも話した。
「だからその為に、俺達は呪われたんだと思うんだ。帰りの車の中で見た取り憑かれた俺の眼は、怨みか、それとも何かの欲望を孕んでいるようにも俺には見えたんだよ。」そう真剣な眼差しで話す中沢の話しを、静恵も真剣に聞いて頷いていた。それはにわかには信じられないような話しだったけれども、とにかく今は夫をなだめて落ち着かせなければならない。そう思った。
「そうね・・。そんなことをしたら、木も怒るかもね・・。いきなり何の理由も無く、その命を絶たれたんだから・・。」
「そうだよな・・。でもそんな事でこんな事になるなんて・・思いもしなかった・・。ああでも・・どうすれば良いんだろう・・。」そう呟き項垂れる夫を前にして、静恵は慰めるしか無かった。そしてこの夫の窮地を救うために、静恵は一つの提案をした。
「あなた・・。私は謝るしかないと思う。だって他にどうしようもないもの。相手は魔物で、私たちには適いっこない・・。その怒りを鎮めることしか、私たちに出来ることは無いと私は思う。あの山にもう一度行って・・。
そうだ、出来ればあの山の主のようなものに許しを請えば、この蔓草の呪いも解いてくれるかも知れない。でも・・山の主と言っても、見当も付かないけど・・。」慰めるように言った思いつきの一言だったけれども、その静恵の一言を聞いて、中沢は大きく目を見開いた。
「静恵!それなら!その大樹なら俺は知っているよ!そうだよ、大木と二人で休んだあの大樹だ。そうだ、あの樹が、きっと山の主なんだよ!蔓草に巻かれながらも、その蔓草を身に纏って自分を守って居るようだった。そうか・・あの樹だ・・。」一瞬、暗黒の迷い道に一筋の光明が射したように中沢は感じた。けれども直ぐにその眼は、暗く伏せられた。
「でもな静恵、それはなんだか屈辱的にも感じる・・。だってそうだろ?俺達がいったいあそこで、何をしたって言うんだ?俺達はただあそこで楽しくキャンプをしただけで、山を汚してもいないし、それにちゃんとお祈りも捧げた。それなのに奴等は自分勝手に大木や小池を殺して、そして今度は俺を殺そうとしているんだ。そんな理不尽な事が許されるのか?奴等にどんな力があるのか分からないけど、そんな魔物に頭を下げるなんて、俺には到底出来ないね。それは余りにも理不尽だし、そんな卑屈な自分を想像しても吐き気がする。だから俺には奴等に謝ろうなんて、全然考えられない。」そう言って中沢はそのまま暫く頭を抱えて考えていたが、意を決するように頭を上げると、静恵をじっと見つめて口を開いた。
「静恵・・俺は今、やっと確信したよ。これは俺と奴等との闘いなんだとね。奴等は俺達には目に見えないのを良い事に、自分勝手に殺戮をしている。そんな事が、許されて良いのか?俺は、俺はそんな事は絶対に許さない!そしてそんな理不尽な呪いで死んで行った大木や小池の仇を、絶対に取ってやるんだ!」そう話す中沢の眼は憎悪に燃えていた。
「よし、今すぐにでも、俺はあの山に行って来るよ。そしてこの理不尽な呪いをかけている奴等を見つけて、全て根絶やしにしてやる!」そう意気込み凄まじく吠える中沢の眼は、獲物を捕らえるような獣の眼だった。
そんな中沢に、静恵は眉を曇らせた。
「でも・・危険が・・。相手はこの世の者では無いのに・・。」猛り狂っているような夫を見て、静恵は心配そうに声を掛けた。
「静恵・・。身の危険は承知の上だよ。でもやらなきゃならないんだ。ついさっきだって、俺は殺されかけたんだからな。だから今が一番危険な状態なんだ。気弱に俺が少しでも躊躇すれば、奴はその隙につけ込んで、きっと容赦なく俺達を襲ってくるだろう。だから、今決着を付けるしかない。生きるか死ぬかの、これは闘いなんだ。そう、この俺の命と家族を守るための、誰にも頼る術の無い、俺だけの命懸けの闘いなんだよ。
静恵・・俺は必ずお前達を守ってみせる。だから俺を信じて待っていてくれ。なに、俺も無手無策でこんな事を言ってる訳じゃ無い。俺にも考えがある。よし、そうと決まれば、身支度を調えないと。」
「でもあなた・・一睡もしてないのに・・。」早速テーブルから立ち上がり身支度を調えようとする夫に、静恵は思い止まらせようとまた声を掛けた。
「どうせ取り憑かれた身だよ。だから静恵、俺には一刻の猶予も無いんだ。今こうしている間にも、奴は何かを企んでいるかも知れないんだから。」
中沢は血走った眼で静恵にそう言うと、リュックと装備を持って来て身支度を調え始めた。静恵はただそんな中沢を、不安そうに見つめていた。
「あなた、本当に大丈夫なの?」そう言う静恵の心配そうな言葉に、中沢は忙しそうに準備を整えつつ答えた。
「さぁ・・どうなるかは分からない・・。そんなに簡単な事じゃ無い事は分かっている。なにせ魔物と闘いに行くんだからさ。生やさしいことじゃ無い。
でもこのままじゃ、俺達はいずれ奴等に殺されてしまう。だからおとなしく殺されるよりも、俺は闘いを挑む。それだけだよ。」そう言い切る中沢に対して、静恵はそれ以上何も言わないでおいた。
如何に変に見えようとも、中沢の思いは真剣に見えたし、また止めようも無いように思われた。だから今は好きなようにやらせるのが良いのだと、そう静恵は思った。
「分かった。でも今から直ぐにおむすびを作るから、それだけは持って行って。お願い。」
「ああ分かった。『腹が減っては・・。』って言うからな。俺はその間に、入念に準備をするよ。」
身支度を調え終えた終えた中沢は、そのリュックを背負った。
「じゃあ行って来る。」そう言い残して中沢は外に出た。
その様子を心配顔で見送った静恵は、一つ溜息を吐いてリビングに戻った。そしてお腹を擦りながら、窓から暗い空を見上げた。
「こうなりゃ本当に命懸けだ。」割れた窓から冷風が吹き込む中、中沢は眼を座らせて車を運転していた。
空が白みかけてきた午前五時。まだ行き交う車も無かった。
(大木、小池・・。お願いだから力を貸してくれ・・。)そう念じつつ、静恵が作ってくれたおにぎりを頬張りながら山を目指した。
車止めに着いた。
「さぁ行くぞ!」気合いを入れて車を降りた中沢だったが、空を仰ぐと生憎曇り空からぽつぽつと雨が降ってきた。
(こんな時に雨か・・。けど仕方が無い・・。)用意してきた合羽を着込んで、向かうべき山を睨み、そして山道を歩き始めた。
(あの場所は何処だったろうか・・。先ずはあのテン場に行かないと分からないか・・。)段々と勢いを増す雨に打たれて、益々山の景色は不気味に暗くなっていった。雨で重くなった木々からは水滴が垂れ、細い山道を柔らかく濡らした。そんな山道から滑り落ちないように、用心深く中沢は歩を進めた。
それに怖いのはそれだけでは無かった。今にも藪の中からおどろおどろしい魔物が姿を現すような気がして、中沢は心の中で身構え気を張り詰めていた。
ようやくテン場に着いた。これまで二度此の場所に来ているけれども、あんな高揚感などまるで無く、其処は冷たい雨が降りしきる暗い空き地にしか見えなかった。
「さぁ、此処からだ。」何時ぞやのキャンプファイヤーの名残をチラと見て、中沢は山に分け入っていった。
(何処だったっけ・・。あの時は迷ったからなぁ・・。)その時の大木の顔が頭に浮かんだ。
(暑かったよなぁ、大木・・。そうだよ、二人でひいこら、此処を通ったよなぁ・・。)合羽を伝う滴であまり前も見えないまま、中沢は奥へ奥へと進んでいた。そんな道無き道を行く中沢の足に草が纏わり付いた。
(そうだ・・こんな場所だった・・。流木を探してた俺達は確かこの近くで、あの蔓草に殺されそうな木を見つけたんだ・・。)
山もそろそろ冬支度で、この夏に静恵と来た時とは全く様子が変わり、木々や落ち葉も緑を失なってすっかり茶色の景色に変わっていた。
(山はもうすぐ眠ろうとしている・・。でもその前に俺にはこの山で、やる事があるんだ・・。)そうやって必死であの大木を探す中沢の眼に朧気ながらもそれらしき樹が映ったのは、疲れきって眼も霞んだ頃だった。
遠くに一際太くて高い樹を見た中沢は、急ぎ足で歩を進めた。そしてその根元までやっと到達した。
(これだ!この樹だ!)眼を見開いてその樹を仰いだ。合羽に溜まっていた雨の滴が中沢の顔を濡らした。
(きっとこの樹が、この山の黒幕に違いない。巻き付く蔓草を怖れもせずに身に纏って、天へと高く伸びている・・。
此処で気弱そうに待っていれば、あいつはきっと何かの行動を起こすだろう。それを待つんだ・・。)中沢は担いでいたリュックを降ろし、その中から四合瓶の清酒と、一升枡を取り出した。それから清酒の瓶の蓋を開け、枡には持って来た米を山盛りにして、その樹の根元に丁寧に置いた。そして樹の前に跪き、目を閉じて手を合わせた。しかしその耳は、微かな気配も感じ取ろうと研ぎ澄まされていた。
(さぁ・・来いよ・・。お前達が欲しくて欲しくて堪らないこの命が、此処にあるんだ・・。遠慮は要らない・・。その代わり、こっちだって遠慮なんかしない。俺という人間の力を、思う存分味あわせてやる・・。どっちがくたばるか・・やるかやられるかだ・・。)
頭を垂れ眼を閉じたまま、中沢は黙考を続けた。その間、辺りにはパラパラと鳴る雨音だけが聞こえていた。
暫くした時、ふと正座をしている太股の辺りに、がさがさと虫が蠢くような音と肌触りを感じた。最初はただ秋の虫が這っているのだろうと思った。
(晩秋の山奥だ。いろんな虫が居るんだろう・・。)合羽を着込んでいるので、そんな虫にも少しは安心していた。
(命が掛かっている今、自分は集中しなければならない。こんな雑念は追い払うんだ。)そう思い、更に集中して五感を澄ませた。
それからどれくらい時が経ったのだろうか・・。
ザザザッと葉擦れの音と共に強く吹く風に、中沢は目を開けた。そしてその途端、右の太股にぐっと食い込んでくるような痛みを感じた。その感覚に、中沢は太股を見た。
「わっ!・・」そう呻いた後、体が強ばった。太股に何匹もの蛇が巻き付いている。
驚きのあまり大きく目を見張り、そして思わず身を引いた。けれどもよく見るとそれは蛇では無く、幾重にも絡みついた細い蔓草だった。しかもその蔓草はもぞもぞと蠢きながら腿を強い力で締め上げ、自分を何処かに引っ張って行こうとしている。
中沢は慌てて、傍に置いてあったリュックサックに手を伸ばした。そしてその中から鎌を取り出し、藪からピンと伸びている蔓草に鎌を一閃させた。その途端、中沢ももんどり打ってその場に転んだ。
(やっぱり来たか!)足に巻き付いた蔓草を解きつつ、前にそびえ立つ大樹を仰ぎ見ながら立ち上がった。そしてその命を絶とうとして根を睨んだ。けれどもその根をよく見ると、その根元には枯れた穴がいくつも穿かれていて、蔓草がその中へと入り込んでいた。
それを見た中沢は覚った。
(そうか・・お前も蔓草にやられている、ただの樹なんだな・・。だからお前は、決して山の主なんかじゃ無い。もしそんな者が居るとしたら、この山中にはびこっている蔓草が、きっと山の主なんだ!そしてこの樹もあの枯れ果てていた木と同じで、もうすでに蔓草に冒されて死んでいるんだ・・。でもそれは、何処に居るんだ・・。)込み上げてくる怒りと焦燥感に、断ち切った蔓草を睨んだ。そしてふと思い付いた。
(そうだ!この蔓草を辿れば、その親株が見つかる。もうこんな死に体の樹になんか構ってはいられない。何処かに隠れているその親株を俺は見つけて、退治しなきゃならないんだ!)そう心に決めた中沢は、断ち切った蔓草のもう一方を見やった。するとその蔓草は、ゆっくりと草陰に引っ込もうとしているようだった。途端奮い立つような怒りが込み上げてきて、中沢はその蔓草を掴んだ。
「逃がすか!お前を辿って、その邪悪な正体を暴いてやる!そしてお前を、殺すっ!」叫びながら渾身の力を込めて、中沢はその蔓草を引っ張り、そして地面から少しずつ剥がしていった。
その蔓草は森の奥深くから伸びてきているようだった。
その場所を離れびしょびしょに濡れながらも、蔓草を手に目を据えてその元を辿った。細いロープの様な蔓草を切れないように執拗に手繰りながら、中沢はこうなった経緯を思い起こしながら真剣に考えていた。
(何故だ・・いったい何がしたいんだ?お前は・・。そして彼等の命を、何故奪ったんだ?今は俺の命までも狙って・・。それはいったい何のためなんだ・・。)そんな疑問ばかりが渦を巻いた。けれどもいくら考えたところで、その答えは見出せなかった。そんな事を考えながら、どれくらいそれを辿って歩いたろう。さすがに中沢も疲れてきた。
(森中に蔓を張り巡らせているのか?でも今更、諦める訳には行かない・・。それに・・こんな疑問には意味が無い。だからとにかく今はこいつの、その根を殺すんだ・・。)中沢はそれこそ執念の塊となって、それを手繰り続けた。
その蔓草は大きな葉が山のように盛り上がった、先も見えないほどの巨大な藪の中に続いていた。辺りの木々が葉を落として枯れている中、其処だけはまだ青々とした葉で覆われていた。その中を突き進み、そしてついに辿り着いた先は、それほど太くもない親株の幹だった。
「こんな奴が・・こんなお粗末な木が・・大木や小池を殺して、俺の家族も呪い殺そうとしていたのか・・。」中沢はその株を睨み付け、鎌を取り出してその蔓草の株を、その幹の根元から断ち切った。
「何のために・・何のためにお前は・・あいつらを殺したんだっ!」叫びと共に激しい怒りが込み上げてきた。中沢はリュックからブルーシートを止めるために持って来た鈎釘とハンマーを取り出すと、その株に所構わず何十本も鈎釘を打ち込んだ。そして更に持って来た農薬を、その根元にこれでもかと注ぎ込んだ。
雨と汗でぐしょぐしょになった中沢は、拳を固く握りしめたまま、その親株を見つめた。
「ハァ・・ハァ・・。大木、小池、仇は討ってやったからな・・。」張り詰めていた気持ちがふっと緩んで、これまで無理をしてきた疲れが体にどっと重くのし掛かった。
「帰ろう・・。もう事は済んだ・・。」しかしそう言ってゆらっと歩き出そうとした時、いきなりゴゥッと鳴る突風が辺りの葉を大きく揺らし、葉擦れの音を辺りに響かせた。そして風とその水滴が、土砂降りとなって中沢に叩き付けられた。そのあまりの激しさによろめいた中沢は、何とか踏ん張ろうとしたけれども、足の自由が利かずに前のめりに倒れてしまった。
「く・・何なんだ、いったい・・。」泥だらけになって起き上がろうとした。しかし何か足に違和感を感じて足首を見た。そこにはまた、蔓草が足首に幾重にも巻き付いていた。
「な、何でだっ!」驚きと同時に、自分を取り囲む殺気と鋭い視線を感じた。見回せば、さっき釘を打ち込んだ木と同じ木が、辺り一面に生い茂っている。
「これは・・。此処は・・蔓草の巣か?」咄嗟に身の危険と恐怖を感じた中沢は、再び鎌を手にして、巻き付いている蔓草を断ち切った。
「とにかく早くっ、此処を出るんだっ!」自らに言い聞かせて、半ば這うように其処から逃げようとした。けれども後から後から蔓草は中沢の手足に絡みついてきて、なかなか前には進めない。それでも中沢は負けずに、必死で鎌を振るって闘った。
「お前らなんかに・・!負ける俺かぁっ!」そう吠える中沢の咆哮が、山にこだました。しかしそんな山奥の藪で独り藻掻き闘う中沢の姿も声も、鬱蒼とした山の木々と共に、益々激しくなる雨の中で白くかき消されていった。
「ただいま・・。」その日の深夜に、中沢はずぶ濡れで帰って来た。その顔や合羽には泥と草の葉が、まるで塗り込まれたように付着し、顔の所々からは血が滲んでいた。
車の音に気付き、ほっとして玄関で夫を迎えた静恵だったけれども、そんな夫の変わり果てた姿に目を見開いて驚いた。
中沢は疲れた目で静恵を見ると玄関の上がり口に崩れるように腰を降ろし、荒い息づかいのまま体を小刻みに震わせていた。
「あなた!大丈夫なの?あなた!」静恵は夫に駆け寄り、背中を強く擦りながら夫に呼び掛けた。中沢は弱く頷き、振り向いた。
「ああ・・。大丈夫だよ、静恵・・。何とかね・・。でもやっと辿り着いて、ほっとしたよ・・。」そう言って少し微笑んだ。しかしその唇は真っ青で、寒そうに震えていた。
静恵はどうしたら良いのかと気が動転した。
「あなた、どうしたら良いの?ああそうだ、やっぱり救急車を呼ばないと!」慌てる静恵の手を、中沢は握って止めた。
「静恵、落ち着いてくれ。俺は本当に大丈夫だから・・。」
「でもあなたはそんなに血が出てて、震えていて・・。」静恵はもう泣き出しそうだった。
「ああ、これか。でも心配は要らないよ。こんな掠り傷はどうってこと無いから・・。それよりも、とても寒くてどうにもならないんだ。温かい風呂に入りたいけど、風呂は沸いているのかな?」中沢の問い掛けに、静恵は心配顔で頷いた。
「え・・ええ、お風呂は温かく入れてあるけど・・。でもその傷じゃ・・。」
「そうか・・じゃあ風呂に入る。それにこんな傷は、どうってこと無いから。」そう言うと中沢はチラと静恵を見て、弱く微笑んだ。
中沢は玄関で合羽と衣服を脱ぐと、そのまま浴室へと向かい、湯船に体を沈めた。
「ふぅー・・」長い溜息を吐いて、中沢は自分の体を見た。それから体を伸ばして、ゆったりと体を温めた。
「全ては夢のようだったけど・・その全ては現実のことだ・・。」湯船の中で、中沢は無意識に独り言を呟いていた。
「そう・・これからの事は、これから考えれば良い。この思いを・・伝えていくためにも・・。」湯から出た中沢の目は、すっかり活力を取り戻していた。そして待っていた静恵を強く抱き締めて口づけした。
「心配掛けたな、静恵。でももう、心配は要らない。」そう言って見つめる夫の眼に、静恵は何かしらの違和感を覚えた。しかし今自分の目の前にいる夫は、確かに自分の夫だった。
「喉がカラカラで、それから腹も減った。先ずはビールだ。その後で何か食わしてくれ。そうだな、肉が良いかな。」
静恵は従順に、中沢の言った通りビールを用意して、それから唐揚げを食卓に置いた。
「おお、旨そうだな。いつもの事ながら、静恵の作る唐揚げは格別だからなぁ。」旨そうにビールを飲んで唐揚げを囓る中沢の向かいに座った静恵は、少し怪訝そうに、けれど微笑んで聞いた。
「ねぇあなた。今日何があったのか知らないけど、何だか今のあなたはとっても幸せそう。それに丸一日寝てないのに、すごく元気そうだし。向こうで何か良いことでもあったの?」静恵の問い掛けに、中沢は箸を止め、背を伸ばして真っ直ぐに静恵を見つめた。
「ああ・・。いろいろあった。いろいろあり過ぎて、自分でも正直分からない部分もある。でもな、一つだけはっきりしてる事がある。それは、俺があいつに勝ったって事だよ。」
「勝った?」静恵は不思議そうな表情で中沢を見つめた。
「そう、勝ったんだ。そこまでに至る過程はそれは大変な事だったけど、順を追って話すから、話しを聞いてくれないかな。」
それから中沢は山に入ってからの出来事を、静恵に詳しく話して聞かせた。
「そこで俺はもう駄目かと思った。でもな、俺はそこでまだたっぷり残っていた農薬を、辺り一面に撒き散らしてやったんだ。そうして必死に藻掻いてる最中に、急に背中が熱くなって意識が遠のいて、体が動かなくなった。その時は、ああ、俺は此処で死ぬんだと覚悟した。そしてそのまま倒れて、意識が無くなった。
それからどれくらい経った頃だろうか・・。其処に倒れていた俺は、激しい雨とひどい寒さに眼が覚めた。暫くは動けなかった。自分が今何処に居てどんな状況なのかさえ、真っ暗で直ぐには分からなかった。暫くしてからやっと全てを思い出した俺は、とにかく体を起こして、リュックサックから懐中電灯を取り出して周りを見渡した。けど雨越しの景色は最初は良く分からなかった。
でもな、静恵・・。驚く事に周りの蔓草は全部、赤茶けて枯れていたんだよ。足に絡んでいた蔓草も、全てが死に絶えていた。俺は立ち上がって、もう一度その景色を確認した。そして真の闇の中で、俺は大声で天に向かって叫んだ。ああ!俺は勝ったんだ!そして助かったんだ!と。大袈裟かも知れないけど、俺はその時泣いてたよ。あんな高揚感に包まれた事は、これまで一度も無かったからな。
静恵、だからもう大丈夫だ。恐ろしい呪縛から、俺達は解放されたんだよ。そして俺達は、安息の暮らしを取り戻したんだ。」そう話し終えた中沢は、目を輝かせて静恵を見つめた。静恵もそんな中沢の話しを真剣に聞きいっていた。
けれども中沢の話が終わった途端、静恵はビクッとして辺りを見回した。
(何か居る・・?)そう感じた次の瞬間、背中が燃えるように熱くなった。その余りの熱さに静恵は声も出せず、ただ堪えた。その俯いた額には汗が滲んでいだ。そんな静恵の様子に中沢は気付いた。
「うん?静恵、どうかしたのか?」
俯いている静恵の眼は、さっきまでの気弱そうな眼から、燃えるような眼に豹変していた。しかしそれは瞬間の眼差しであり、中沢の言葉に顔を上げた静恵の眼差しは、またおとなしい表情に戻っていた。静恵は、穏やかに中沢に答えた。
「ううん・・何でも無い。それよりもあなたがそんな恐ろしい目に遭っていたなんて、私は思いもしなかった。私が神様だと思っていた者が、本当は恐ろしい魔物だったなんて・・。
今思えば、私たちは今にもそんな魔物に殺されてかけていたのね・・。でもそんな私達を、あなたは命懸けで救ってくれたんだよね・・。ありがとう、あなた。あなたのお陰で、これからはもうなんの心配もしないで、私は出産に臨むことが出来る・・。そう・・何の心配もしないで・・。
でもね・・本当の事を言うと、あの夏からあまりにもいろいろとあり過ぎて、私は不安で押し潰されそうだったの。今回のあなたのことも、わたしはもう・・心配で心配で・・。でももう・・大丈夫なんだよね?もう何処にも行ったりしないよね?」中沢の手を取り握りしめてそう言う静恵の目からは、涙がこぼれた。そんな静恵を見て、中沢もまた静恵の手を固く握りしめた。
「静恵・・。ごめんな・・。そうだな・・お前には苦労を掛けっぱなしで、本当にいろいろあり過ぎた・・。でも、もう大丈夫だ。もう危ないこともやらないし、何時だって俺は、静恵の傍に居るよ。」
中沢は立ち上がって静恵をソファーに誘うと、優しく抱き締めて口づけをした。
「もうすぐ家族が増えるんだ。いつまでも不安の中で浮ついているわけにはいかない。今日を区切りに、もう過去の不安な事は忘れよう。明日からは新たに、幸せな毎日が始まるんだからな。」
「うん。」静恵は、幸せそうにお腹を撫でながら頷いた。
「そうね・・でも・・。血を流して帰って来たあなたの姿を思い出すと、やっぱり怖い・・。あなたにもしもの事があったら、私はどうしたら良いの・・?そんな不安は忘れられないと思う・・。」静恵は不安な面持ちで中沢を見つめた。
「そうか・・。そうだな・・。こんな事があれば、そう感じるのも良く分かるよ。人生一寸先は闇だって言うからな・・。」中沢もまた、あの時のことを思い出していた。そしてふと思い付いた。
「あ、そうだ。それなら俺が生命保険に入っとけば、それで良いじゃないか。それならもしもって時に、静恵やその子が取り敢えず困ることは無いだろ?陽子もそう言ってたろうに。先ずはお金だよ。心の理想とは裏腹みたいだけど、それこそが生活の現実だからな。無い袖は振れぬって諺もあるし。そうだ、そうしようよ。」
「え・・でも・・。」
「良いんだよ、そんな気を使わなくたって。要は転ばぬ先の杖ってやつだよ。それで静恵の不安が少しでも無くなれば安いもんだよ。そうだろ?それに俺だって、そう簡単には死んだりしないから。今回のことで、それは証明済みだ。でもとにかく不安は取り除こう。今静恵は、とても大事な時なんだからさ。」中沢は優しくそう言うと、静恵の肩を引き寄せた。
「うん・・。ありがとう、あなた・・。」静恵もまた、夫の体を優しく抱き締めた。
それから冬の間、中沢家には平穏な日々が続いた。中沢はあれからはずっと絶好調で、仕事も家庭も至極順調だった。
(やっぱりこれは神頼みなんかじゃない。俺の全盛期が続いてるってことだ。)そう思いその眼にも自信を漲らせて、中沢は日々奮闘していた。
静恵もまた、大きくなっていくお腹を慈しみながら、何事もない平穏な毎日を送っていた。
本格的な春も間近な三月の末に、中沢に大きな仕事が舞い込んできた。
「静恵、やっと俺にも運が向いてきたよ。」浮き浮きとして帰って来た中沢は、開口一番そう言って静恵を抱き締めた。
「どうしたの?あなた。なにか良い事でも?」静恵は驚きながらも微笑んで中沢に聞いた。
「良い事もなにも!ビッグニュースだよ!と言うのはな、今度の大きな仕事のリーダーに、俺が選ばれたんだよ。でもなんにも聞かされて無かったから、俺はただ驚くばかりだった。でも部長から、この仕事は君にしか出来ないと言われてね。俺はまるで夢の中にいるようだった。周りのみんなからも祝福されたしね。
なぁ静恵。やっぱり努力ってのはしとくもんだな。これが成功すれば、俺もまた一歩前進だ。」満面の笑みでそう語る中沢は、幸せそのものだった。
「そうなの!良かったわね、あなた。それじゃ今夜はお祝いしなくちゃ。」
そうして静恵が用意した料理を前にして二人は乾杯した。
「おめでとう、あなた。」
「ああ、ありがとう。でもこれもやっぱり静恵のお陰だよ。いつも美味しい物を作ってくれるから、俺も頑張れるんだ。」
「ううん。私なんてなんにもしてない。この成功はあなたの力なのよ。私が愛してる、ご主人様のね。」
「ハハッ。そうかな。でも今夜は嬉しさで一杯だ。結果が出るってのは、やっぱり嬉しいもんだな。」
「そうね。一段ずつ上って行く実感って、それは生きている証なのよね。私は妊娠してから、本当にそう思う。」
「そうだな。その為にも俺は頑張りゃなきゃだな。ちゃんと健康にも気を使ってさ。そう言えば静恵。ここんとこずっと肉続きだな。文句は無いけど、静恵ってこんなに肉好きだったっけ?」
「うん・・そうなの。と言うか・・妊娠してからお肉がうんと食べたくなっちゃって。それはこのお腹の子が、きっとすごい肉好きだからかもね。」
「そうか。じゃあきっと男の子だな。俺に似て、ガツガツ肉を食う子が生まれてくるんだよ。」
「そうね。そんな元気な子だと良いね。私はきっと、大変そうだけどね。」そう言って静恵は微笑んだ。
「でもな静恵。プロジェクトリーダーともなれば、今よりももっと仕事を頑張らないとならなくなる。当然残業も増えるだろうし、もしかしたら徹夜になる日もあるかも知れない。もう少しで出産って時に、こんな事が起ころうとはな。嬉しいけど、それを考えると不安もあるんだ。」
「それなら大丈夫。突然の事なら救急車を呼べるし、それに少しでも兆候があったら私は入院しようと思ってるの。行き付けのお医者様もそう薦めてくれてるしね。」
「そうか。その方が安心だな。でも何かあったら、直ぐに連絡してくれよ。とにかくすっ飛んででも帰って来るから。」
「うん、ありがとう。でもあなたにはお仕事に集中して欲しい。それがこの子にとっても、良い事だと思うの。子供が出来れば、やっぱりお金も掛かるしね。」
「そうだな。じゃあお父ちゃんは、ジャンジャンバリバリ頑張るとするか。来年の今頃には、もっと幸せな家族でいるためにな。」そう二人は話し合い、和やかに見つめ合った。
それから間もなく、プロジェクトが本格的に動き出した。
中沢の仕事は予想通り多岐に渡り、深夜に帰宅することも稀では無かった。
「悪いな・・。やっぱりこんな事になっちゃって。」いつも深夜まで寝ずに待っている静恵に、中沢はすまなそうに声を掛けた。そんな中沢に、静恵は朗らかに答えた。
「良いの。私のことは気にしないで。だって私はあなたのお仕事中にお昼寝させてもらっているんだもの。だからお家にいる時くらいは、あなたがゆっくり寛げるようにしたいの。何か食べる?簡単な物なら直ぐに作れるけど。」
「ああ、ありがとう。でも今日は良いや。会社で食事してきたからさ。疲れたから風呂に入ってすぐに寝るよ。また明日も朝が早いから。」
中沢の忙しさは日々加速していった。時には二、三日も会社に寝泊まりする事もあった。
そんな或る春雨がしとしとと降る昼下がり。静恵はソファーに凭れて、もうすぐ生まれてくる我が子に話し掛けていた。
「パパは今日もまた会社にお泊まりだって・・。頑張ってくれてるのは嬉しいけど、体は大丈夫なのかしらね?でもね、もしもパパに何かあっても、私たちだけは大丈夫なんだよ?何故って・・。だって私たちだけは神様に守られているんだもの。
そしてそう・・お金の心配も要らない。あの事故や怪我の事もあって、パパにはうんと高い生命保険に入ってもらってあるから。パパはもう、そんな事は忘れてしまっているんだろうけどね。
「俺は、絶対死なない無敵の体を手に入れたんだ。」なんて、この前自慢してたもの。だからもしパパに何かあっても、なんの心配も要らないの。私たちにはこの平和が、ずっと続くんだから。」そう言って静恵は、ソファーでお腹を擦って微笑んだ。
「なに?もうお腹が空いちゃったの?さっき食べたばっかりじゃない。しょうがない子ねぇ。じゃあ直ぐに用意するから、ちょっと待っててね。」
静恵は身重の体でゆっくりと冷蔵庫に行き扉を開くと、チルドルームからステーキ用の牛肉を取り出し、それを皿に乗せて食卓に置いた。
「こんなもんで良いでしょ?また夕食にはたくさん出すから。」独り言を呟きながら食卓に着くと、それを生肉のまま切り刻んで口に入れた。
「そう・・。この血の味がたまらないのよね・・。でももっともっと・・私には栄養が必要なの・・。」口から垂れる血を拭おうともせずに、静恵は肉を貪り食っていた。
「そうだ・・もっと栄養が必要なのだ・・。」そう野太い声で呟く静恵の声と顔は、もう静恵の姿では無かった。
その深夜。静恵はソファーに座ったまま身じろぎもせずに、じっと虚空を見つめていた。
相変わらず外では暗い空から雨が降り続いていて、その雨音だけが聞こえていた。
ふいに電話の音が鳴り響いた。
静恵はゆっくりと電話に振り向くと、口元を歪ませ嗤った。そして電話を取るために立ち上がった。しかしその足が、何故か動かせなかった。
その足首には、蠢く黒い影が纏わり付いていた。
静恵はその影に強く足首を引っ張られた拍子に、膝を付いて四つん這いになった。
そしてその背中には、細い漆黒の影が覆い被さっていた。
「私の体を返しなさい・・。そしてその子から、手を離しなさい・・。」
静恵の耳元に、静恵の怖い声が囁いた。
「私は・・負けない・・。この命が絶たれようとも・・私はこの子を守る・・。」静恵の中で、何かが弾けた。それはこれまで感じたことの無い、強い怒りの情念だった。そしてそれは、静恵のこれまで抑圧されていた思いが、一気に爆発したとでもいうような、真っ直ぐで力強い思いだった。
静恵がその者にその思念を送った瞬間、静恵の体が異常に熱くなった。そしてそのまま静恵はその者の中にズブズブと入っていった。すると、苦しそうな喘ぎ声が体の中で響いた。
(私は負けない・・。この子を守るためだったら、私は、なんだってやる・・。出て行きなさい・・。そして私は、お前を殺す・・。)
そう静恵が強く怒り念ずると、体の中でシューと何かが萎むような音がした。そしてその怒りの思念はずっと衰えず、山の情景を睨んでいた。そして静恵の怒りに満ちた眼は、上空からその山を見据えていた。
山は震えていた。そして山中から夜の闇に白い蒸気が漂い始め、暫くすると激しく立ち上っていった。それは降る雨と、山中にはびこる蔓草らから発散している蒸気だった。彼らは静恵から送られる強い思念の為に、干涸らび朽ちていった。そしてやがて蔓草は全て枯れて、地に落ちた。そんな蔓草の最期を見届けてから、静恵は更に念を押した。
(お前たちが私たちに何をしたかったのかは、私にはわからない・・。けれどもこれ以上私たちには関わるな。もし再びお前が私の前に現れたら、私はこの山ごと燃やしてしまうだろう。それを覚えておけ・・。)
そう思念を送ると、静恵の眼は怒りの形相からいつもの穏やかな表情に変わり、リビングに戻った。
電話の音がずっと鳴り響いていた。静恵は電話を取ると、優しい声で応答した。
「はい。ああ、あなた。うん、わかった。気をつけて帰ってきてね。温かいおじやを用意して待ってるからね。」
了