72:神たちの回想1
強大な力を持ち、それゆえに一つの場所で動かず、眠るようにただただ世界が回っていくのを感じ取るだけの神がいた。
力がありすぎるゆえに、動かず、そこにいることが世界のバランスを支えることとなり、それは同時にそれ以外のことをするのが許されないのと同義だった。
あるとき、神は自分は寂しいのだと気付いた。
寂しい気持ちは膨れ上がり、ある日とうとう限界がきた。
世界の平穏を見守り続けるべき大きな存在が、狂って世界の破滅を願い始めてしまう。
完全に狂ってしまう前にと、その神は一つの提案をした。
人間を一人、自分の元に捧げてはくれないかと。
自分が秩序の一端を担っている世界で、楽しそうに過ごす人間たちが羨ましい。
一人だけでいいから、自分の傍でその存在を感じたい。そうすればきっと寂しさは消えるのではないかと。
他の神たちはこれを聞き、承諾し、四人の神がその人間を選ぶことになった。善神と呼ばれる神のうち四人が代理人を選び、代理人は一人の心優しい女性を選んだ。
裕福な家に育ち、優しく、信心深く、しかしどこか平凡なただの人間を。それはきっと、狂いかけた神の望むものだった。
「そうだ。だって、俺が目にしている人間たちのほとんどは、英雄と呼ばれるような特別な人間じゃない」
真っ暗ななか、声の主が近くに立っているのがわかる。
床に座り込んでしまった私のドレスが、綺麗な円を描いて広がっている……。その裾の先にイラの足が見えた。暗闇の中にいるはずのに、なぜか見える。見ていると感じているだけで、実際には存在を感じているだけかもしれない。
座ったままで頭だけ上に向けると、イラが私を見下ろしている。
「選びに選び抜かれた、何の問題もない完ぺきな人間では意味がない。ただちょっとした巡り合わせで選ばれただけの、それなりに善良だが、矮小な部分も持つただの人間がいい」
「贅沢ね……」
ただの人間がその重責に耐えられるのか、始めから力を持った存在たちはよくわかってなかったのだ。
代理人になった人間たちだって、選びに選び抜かれた特別な存在じゃない。たまたまちょっと善良で、巡り合わせがよかっただけの――いや、よかったのかどうかは本人次第か。
「代理人たちは、俺の望んでいた通りの人間を選んでくれた」
目の前のイラは私の思考に対して物を言っているように思える。気付いていないだけで、すべて口に出しているのだろうか。曖昧だ。
「ここはあなたが封印されている場所だから、伝わるんだ」
浮かんだ疑問に、イラが答える。
「あなたが封印され、あの抜けてしまった剣で俺とあなたを繋いでいた場所でもある」
そうだ。ここは……。
私の中で、過去のことがまた湧き出でてくる。
私と三人の神が、最初にこの国に来た。
そして善神と呼ばれる神がやってきて――最終的に、選ばれた女性を、人の形をとった神が四人と神の代理人である人間四人が守る形になった。
あとは神に仕える少数の者たちだけが女性の存在を知っていた。
気付けば、清く正しい心を持った女性が一人、皆を救うためにこの国にやってきたという噂が広まっていった。
私たちがなすべきなのは狂った神を止めること。それも早急に。周りの噂はどうでもいい。
聖女という生贄をささげることも躊躇はしない。
選ばれた人間も、自分が世界のために役立てることを喜び納得している。
そのはずだった。
だけど彼女は、一人の人間と恋に落ちて、心に迷いを生じさせてしまった。
嵐は酷くなり、海は荒れ、地面は揺れる。
人々は、これは魔女のせいだと言い出した。
様子がおかしくなったときから、この国に潜伏して悪さをしていたんだと。
何かのせいだとするほうが、何のせいかわからないよりは安心で、そしてその魔女を倒してくれるのが聖女だと信じることで心を保てる。
黒い馬のような馬ではない獣に乗って、海を渡ってこの国に来た。それを見ていた人間がいて騎士だと思われた。やがて、黒い格好だった私たちと女性は、黒い騎士と黒い魔女になった。
責めるべき相手を求めていた民衆は、私たちさえ倒されれば平穏が戻ると信じた。
生贄の女性は弱っていた。
役目に迷いを抱いた上に、周りからは異変の元凶だと憎まれる。そして同時に、すべてを解決してくれる救世主だと期待される。
可哀そうだったけど……彼女には自分の運命を受け入れてもらうしかない。崩壊のときは近づいている。迷っている場合ではない。
だけど女性の迷いが大きすぎるうちは、その身を捧げることができない。
慰め、覚悟を決めてもらうつもりで様子を見ていた。最初はそのつもりだった。
でも、私はそのただの平凡なはずの人間を気に入ってしまった。
誰かを恋い焦がれる感覚を私も知ったばかりだったから。
自分の運命をなんとか受け入れ、恋を諦めようとしている姿がなぜかとても印象的だったから。
自分のための小さな幸せと、名も知らないたくさんの人々の幸せ。その狭間で悩む気持ちが、わかりそうでわからない。わかってしまったら、与えられた仕事を果たせなくなってしまうかもしれない。でもわかってみたい。
世界の崩壊を前にして、それでも自分の大切な人のほうを思ってしまう。
そういう姿に、どこか憧れめいたものを持ってしまったから……?
理由はいろいろあるけど、どれも正解で、しかし正確ではない気もする。
ただ、私が彼女を救った一番の理由は、はっきりしている。
彼女が人間としての生を全うする方法はあると知ってしまったから。
知ってしまえばもう、何食わぬ顔で彼女を犠牲にすることができなかっただけだ。
「あなたである必要はなかったんだ。ただ偶然知ってしまって、それを実行できる場所に、ちょうどよく立っていただけ」
あのときどうして、私は確認してしまったんだろう。生贄を捧げなくていい方法がないかと、私や仲間を統べるさらに大きな力を持つ神に、私は訊ねてしまった。
ただの確認だった。
だって、人間にはない力を得た者として、人を密かに助ける使命を与えられていたのに、人を悲しませる方法をとるのは正解ではないのではないか――?
そんなことをふと思ってしまったから。
「そんなものは、誰にも言わずに気付かなかったことにしていればよかったのに。あの人間は、最後には自分を諦めると決めていた」
「そうよ、諦めていたのよ。けして喜んで役目を受け入れてはいなかったの。私はそれを知っていた」
「誰が諦めるかの違いだ。あなたである必要はない」
「それでも、また同じような状況になっても、私は同じ行動をとると思うわ……」
イラが初めて少しだけ微笑んだ。
「あのときも、同じことをあなたは言った。あなたが約束を豪快に反故にしてくれた一瞬、一言だけ交わせた言葉だ」
「あなたが『それでいいのか』と問いかけてきたから」
「あの方法では、あなたは永遠に眠りにつくことになる。世界を自由に回れていた身で、よくそんなことをする気になったと思った」
なにか方法はないかと力ある神に訊ねて、私は一本の剣を与えられた。
守護神を狂った神様にしないためには、本来ならば選ばれた聖女を捧げればならない。
だけどその約束を違えて、無理やり力を抑えこみ眠らせる。特別な剣で私と狂いかけた神を繋ぎ、私が眠り続けることを選べば可能性があるという。
剣を与えてくれた神は、どうするかを私が選んでいいと言った。
最初の予定通り、人間を捧げるのでも構わないと。むしろ、それがよいと。
大きな危機の前に、たった一人の人間に構うのは正解なのか。私に剣を与えた神は、きっとそれは不正解だと考えていた。
「俺はあなたが憎らしい。俺の欲したものを邪魔して、手に入らなくした」
結局私はあのとき、寂しさで無茶をいった神ではなく、近くで思い悩んでいた人間をとったのだ。すぐ目の前にいたほうを、それらしい理由で優先しただけだったともいえる。
最適な解だったのかはわからない。ただ、あのときは時間がなく、目の前で悩んで弱っていた彼女を救う方法を他に知らなかった。
「あなたは、自分の存在を賭けて俺を止めたんだ」
この場所で、あの剣で、誰かが私を刺さなければならない。
強引なやり方は、一人で完結できるものではなかった。だから私は自分の友人に手助けを頼んだ。特別な相手に頼みたかった。
「そのときのこと、俺も見ていた。あなたはラクサたちを騙してここへ連れてきたね。なぜ?」
「事前に説明すれば、反対される気がしていたの」
「それだけ?」
「反対されたとき、なんと言えばいいかわからなかった」
そう、わからなかった。
言わなきゃいけないのに、でも自分の一番近くにいたとも言えるあの三人に、言うのがなんだか怖かった。
怖かったのに、頼めるとしたらあの三人しかいないと思った。
「そこまで頼りたい三人のこと、怖かったのか」
「……違う」
本当に怖かったのは……反対されて揺らいでしまう自分だ。
この広間で、後戻りのできないようにしてから剣を渡した。友人でもあり、恋い焦がれていた相手でもあるラクサに。
『騙したこと、怒ってる?』
そうだ、あれは彼との最後の会話……。
剣を構えた彼があまりに読めない顔をしていたから、動揺した私はまるで悪者のように笑っていた。
『わからない……でも君の願いは叶えよう』
違う……。
彼にそんな顔をさせてまで叶えたいほど、心から欲しいと願っている結末じゃない。
『本当にいいんだな』
『ええ、なんの未練もない』
一人の人間の恋心を守ってあげたいと感じたのは、自分にも恋しい相手がいたからだ。焦がれるような想いが「恋」だと知ったからだ。
私は何かを間違えたのかもしれない。
せめて彼に、私の気持ちを伝えておけばよかった。
ううん、それだけじゃない。本当は……もっといろんな時間を友人たちとも過ごしたかった。あったかもしれない時間への思いが、恋しい相手の言葉をきっかけに、一瞬私の中を駆け巡ってしまった。
ほんの少し、少しだけ最期に迷ったこと。それがきっと、狂神を抑え込む力をわずかに緩めてしまったのだと思う。
緩みを埋めるため、さらには保険の意味を込めて、残った三人の友人たちも、四人の善神も、その身を自ら眠らせることになった。
ラクサたちに自由になる力が少なかったのは、強い力で封じられていたからじゃない。
想定以上に守護神オトジの封印が解けかけていて、それを保つために力を使っていたせいだ。
「私……私のせいで……みんなは……」
イラに見られていることが苦しくなって、私は下を向いた。
自分を使って強大な力を持った存在の約束を反故にする。私は、その役目を果たすべき存在ではなかったのだ。
最後にあんな迷い方をしてしまうような私には、で過ぎた真似だった。
ただの人間に神への生贄の役は重すぎたなんて思ったけど、私だって、代わりを完ぺきにやり通せるような特別な存在ではなかった。
私一人の勝手な振る舞いで、みんなまであんなふうに巻き込むつもりじゃなかった。
「ごめん、ごめんなさい……」
取り返しのつかないことをしてしまった恐怖で、手が震える。それをそっと誰かの手が包んだ。
「謝らなくていい。君に殉じる行動をとったのは、俺たちが自分でそう望んだからだ」
右を見れば、いつの間にかすぐ隣にラクサがしゃがみこんでいて、私を片手で抱きしめるようにして引き寄せた。
「ラクサ……」
「あの人間を守護神に捧げることが正解か、迷っていたのは俺たちもだった」
「だから結果的には共犯なのよ」
「ナケイアまで……」
左後ろにいるナケイアが、俯いたまま私の服をしっかりと握りしめている。
「俺は少し恨んだよ」
前には、ラージェが片膝を立てて座り込んでいた。
「だってお前、俺に頼んでただろ。これからラクサにある頼みごとをするけど、もしこいつが迷っていたら代わりに果たしてくれって。お前を殺すような真似を、しかもいざというときの保険で頼むとはやってくれるぜ」
「ラージェ……」
「おかげであのとき、お前とラクサを止められずにいた。お前に甘いラクサとナケイアはともかく、俺なら無理矢理にでも、お前のやろうとしてることを止めてやれたかもしれないのに」
ラクサの腕に力がこもり、私の頭が彼の胸に埋まるように抱きしめられる。
「マツリが守ったものを俺たちも守ると決めた。それだけだ」
「記憶がない人の形になっても、世界を守れという思いだけは忘れなかった。それだけ強い思いだったからよ」
「お前があれだけやったのに、壊すわけにはいかないしな」
ありがとうと言いたいのに、出てくるのは涙ばかりで言葉にならない。
さっきイラには「きっと同じ行動をとる」なんて言ったけど、訂正する。次に同じようなことがあったら、一人でやろうとはしないと思う。
長く語り継がれるような出来事の裏側で、私が学べたのは、大事な相手との接し方を少しだけ。
きっと小さいことだろう。でも、私にはとても大きい。
「他の存在との関係は、とても難しくて複雑だ……」
見下ろすイラからは、表情がなくなっていた。
「俺はあなたをすごく恨んでいるし憎らしいと思っている」
当然のことだ。
私のせいで、彼は望んだ人間を得られず、封印されて眠りにつくことになってしまった。
「でも、すごく話をしてみたかったよ。まどろみの中でずっと傍に気配を感じるあなたと、一言だけ交わした会話の続きをしてみたいとも思ったんだ」
「話がしたい、か。白の領域で言葉の違う国のやつらと会話ができるのは、お前のその望みのせいだな」
――大きな力を持つ者は、ときにふとした心の動きが驚くような結果をもたらしてしまうことがある。
そう、イラが言っていたのを思い出す。
「俺はあなたと話したい。あなたのことを知りたかった。あなたはどうして、まどろみながらも必死でまた何かしようとするのか……」
眠っていても、世界の流れは感じ取れる。
オトジと一番近いところにいる私は、自分を使った封印が、どうしてもいつか綻び始めることに気付いた。
ラクサたちの支えがあっても、やはり無理矢理に施した方法では、完全にはオトジを止められなかったのだ。あるいは、私とオトジとの力の差が想定よりありすぎた。
だから、最後の迷いで生じていたわずかな緩みを逆に利用する。
力をほんの少しだけ逃して、人として転生させたのだ。




