8 Alice - The Lecture of Hate
衝撃音がした。やや鈍く、重みのある音だった。
眠りに落ちる直前まで手にしていた本がない。ベッドを探るが、どこにもない。目を開いて床を見ると、分厚い本が床に落ちていた。
衝撃音は本を落としたときの音だった。
時計の針は、七時過ぎを指している。
冬の透き通った陽光が飛び込んでくる。夜明け前に一度目が覚め、少しだけ読書をしたあと、結局二度寝をしてしまった。二度寝でありがちなことに、寝癖がついて髪はぼさぼさになっている。
八時には、警護担当者が迎えにくることになっていた。大学の授業があるのだ。
ベッドから抜け出した。アリスはいつも寝るときは裸だ。裸でベッドに入ると、不思議な解放感があって心地いい。無防備で無垢な、なんの枷もない自分になれる気がする。部屋の扉の前に部屋着がかけてあって、廊下に出る前にそれを着た。
家の中は静まり返っていた。父の気配がまるでしない。父はすでに仕事に出かけたようだ。
浴室で熱いシャワーを浴び、寝癖をかきけす。少し急いで外出の準備をする。髪を乾かし、化粧を整え、服を選ぶ。
八時きっかりに呼び出しのベルが鳴る。内務省の警護担当者二名が、玄関の前に立っていた。フクダという四十代前後の男性と、イワマという二十代の男性の二人が、アリスの警護についていた。
AGWとの内戦により、閣僚の家族にも内務省の警護がつくことになっている。特に内務大臣はAGWへの特殊作戦や諜報活動を指揮する立場にあるため、報復の危険を考慮すれば、娘のアリスにも警護がつくのは当然のことだった。どこへ出かけるにしろ、必ず警護はつく。
「よろしくお願いします」
アリスはフクダとイワマに礼儀正しく頭を下げた。それはもはや朝の日課のようなものだ。
フクダとイワマも礼を返した。
三人はエレベーターを使い、下の階へ降りていく。
遥かな高みから下降することによってアリスは膨大な量のコンクリートと鉄筋により形成された都市に没入していく。いつもエレベーターに乗るたびに、そんな没入感にアリスは呑み込まれる。
あまりにグロテスクな都市。バベルの塔の如く高く巨大な建物が地平線まで無数に犇めいている。下層には暗鬱で物理的にも汚れた空気が充満している。下層及び地上に近づかずとも生活ができるよう、立体道路制度を徹底的に整備し、発展させ、それぞれの建築物にはさまざま規模の空中連絡通路及び連絡道路が設けられている。
アリスは車に乗り込む。イワマの運転で、各建築物を繋ぐ大道路を走り、大学へ向かった。
車中、アリスはほぼ無言でいる。目的地に着くまでずっと窓の外を見ている。内務省の警護課には数年に渡り警護をしてもらっているが、彼ら警護担当者と打ち解けた感じはない。決して彼らを嫌っているわけではない。ただ、警護対象者と警護者の間には、ある種の隔たり、緊張関係のようなものがあるべきだとアリスは考えていた。親しげな会話、他愛のないやり取り、それらから生まれる気の緩みが危険を招くこともある。緩みを作ることは自分にも彼らにも得にならないのだ。
大学に到着する。警備員に身分証を提示した上で、学生用の駐車場に車を停め、アリスは講義室を目指した。一つの巨大な超高層建築に、大学がまるまる一つ入っている。歪な都市形成や内戦の影響で教育機関が激減する中、辛うじて運営が続けられている数少ない大学の一つだ。アリスは、父の意向もあり、法学部に在籍している。
法学部が入る階に辿り着く。エレベーターが開くと、すぐに二名の警備員によるセキュリティチェックが待ち構えている。大学ではこのような検査を各階の入り口に設けることで、学校関係者以外を学内に入れないようにしている。フクダたち警護担当者も、ここより先へは立ち入ることができない。
検査の手前で、アリスは立ち止る。
「昼まで授業です。昼食は学部の食堂でととります」
フクダたちに予定を伝える。
「そのあとはどうされますか?」
「夕方過ぎまで学校の図書館で課題やレポート作成をこなします。それから帰宅します」
「承知しました」
フクダは頷く。
「よろしくお願いします」
アリスはフクダとイワマにお辞儀すると、彼らに背を向けて、検査を受けた。
フクダとイワマは、夕方過ぎまでここで待機することになる。アリスが大学で丸一日を過ごすときは、必ずこうなる。
警備員に学生証を提示し、検査を通り抜ける。歩きながら、誰にもきこえないようにため息をつく。仕方がないとはいえ、毎度予定をフクダたちに伝えるのは面倒だった。本音をいえば、学生らしい自由で気ままな行動をしてみたかった。
大講義室の前に立つ。これから受ける授業は、現代政治思想史。齢八十に近い老教授が担当する。
扉を開け、中へ入った。清潔な朝の光が、連続で連なる横に細長いガラスから室内に差し込んでいる。講義室の前方に座り、やや使い込まれた感のある木目調の机にノートと筆記用具を置く。姿勢を正し、息を吸い込む。朝、人気の少ない教室のひんやりとして清らかな空気と静謐さが、アリスは好きだ。その場に身を置くと、知性と学問への純粋な愛が湧き上がってくる。
すでに室内にいる何人かの学生が、ちらちらとアリスを見る。彼らの視線をアリスは感じる。だが、気にする素振りは見せない。
大学構内にいるときだけ、アリスは自由になる。多くの学生はアリスのことを知らない。だがそれでも、アリスに好奇の目を向ける者は必ずいる。視線だけは向けるくせに、なにか声をかけるわけではないのが、癪に障る。
そのとき、ふっと視界が遮られたのがわかった。誰かがアリスの席の前に立ち塞がる。アリスは見上げた。
「やあ」
品のいい顔立ちをした男子学生が、声をかけてくる。知らない人だった。
どう返事をすればいいか、アリスは躊躇った。
「ねえ、君の席の隣は、空いているかい?」
彼はいう。
アリスは、空いている、とだけ答える。
「隣に座っても?」
「ええ、どうぞ」
冷たい印象は持たれないように、なるべく愛想のよくいった。
男子学生が隣に座る。そして、実に自然にアリスに手を差し出す。
「僕はハナ。ニイナハナ」
「ハナ? 女みたいな名ね」
ハナは苦笑した。
「みんなそういうね。親は、外国でも通用する名にしたかったようだ」
ハナはいう。
混迷を極める時代だからこそ、国外へ移住する者も多い。移住を考え、子供に海外でも通用する名前をつけるというのは、この時代の流行りのようなものだ。アリス自身もそうだ。
「それでもハナは、女の名ね」
アリスはいった。アリスも手を差し出して握手をし、名乗ろうとした瞬間、ハナが先に口を開いていう。
「君の名前は知ってるよ。セガワアリス」
「有名人になったつもりはないわ」
「有名人に自らなる人もいれば、周囲が勝手に有名にしている場合もある。君は後者だね」
「いい迷惑だわ」
アリスは眉を顰めた。
「…それで、どういう理由で私に声をかけたの?」
「どういう理由も。ただ、こんな退屈な授業の、こんな最前列に近いところに、こんな美人が座っている。それが気になって、声をかけただけさ」
ハナは冗談めかしてそう答えた。
「後方に座っているあの何人かのグループ。あれはあなたの友達かしら?」
アリスは振り返り、講義室後方に座る男子学生のグループを一瞥する。
「彼らがどうかしたのかい?」
「講義室に入ったときから、私をずっと見てた。あなた、彼らの友達でしょう? 彼らに、声をかけてこいとけしかけられた?」
アリスはハナをじっと見つめた。
「どうして、またそんな…」
ハナは呟く。
「質問に答えて。あなたは彼らの友達?」
アリスは力強い視線をハナに向けた。ハナの瞳は揺れる。戸惑いを隠し切れない。戸惑いは動揺に変化し、目が泳ぎ出す。目が動くと、つられて口元も動き出す。そして言葉が零れ出る。
「…降参だ。奴らは僕の仲間だ。君に声をかけられるか、仲間たちと度胸試しをしてたんだ」
「よかったわね。成功じゃない」
「しかし、どうして君は…」
「どうして仲間やあなたのことを見抜いたのか、ってこと?」
「ああ」
「質問に答えないからよ。質問に質問で返すのは、きかれたくないことを隠したいからそうするのよ。私の疑念が確信に切り替わったのは、そのときね」
アリスの言葉にハナは合点がいったようだ。彼は苦い顔をしていた。
「でも、声をかけてくれただけ、他の学生よりずっと度胸があって、感じがいいわ」
アリスは真顔でいった。
ちょうどそのとき定刻になった。多数の学生と老教授が講義室に入ってくる。よたよたと教壇に立った老教授が、マイクを通じて学生に授業の始まりを告げる。
授業が始まるとアリスはずっと前を向いて授業に集中し、隣のハナのことを忘れた。
授業に急ぐ学生たちの姿を横目で見ながら、イワマは喫煙衝動を我慢する。大学内はどこもかしこも禁煙だ。
フクダも喫煙者だが、煙草を我慢している様子はない。年長者らしく、喫煙への欲求に対しては、完璧なほど自己統制ができている。
夕方過ぎまで、大学の警備員と睨みっこをしながら待機をしなければならない。まだ二十代のイワマにとっては、待機時間が長過ぎる仕事はどうにも退屈だ。その合間になにか別の仕事をしたくなる。
隣にいるフクダは、上司に対して報告作業を行っている。先ほどアリスから伝えられた予定をそのまま上司に報告しているのだ。
他の先輩と較べるとフクダは仕事に対して厳格だった。待機時間中の雑談もあまり好まない。任務中の喫煙などもってのほかだった。自分にも他人にもフクダは厳しい。
警護課の若手連中は、フクダという鬼軍曹の下について気の毒だ、とイワマをからかう。確かにフクダと一緒の仕事は息苦しさを感じる。だが、同時に非常に勉強にもなっている。フクダが要人警護に関し、熟達した技能を有していることは警護課の誰もが認めるところだ。
あのお嬢様が、夕方過ぎまで勉強といわず、早く予定を切り上げてはくれないものか。イワマはそんなことを考える。そうすれば自分たちの仕事も早く終わり、残業もせずにすむ。もしそうなれば、内務省近くの安酒場へフクダと酒を飲みにいくのもいいだろう。
叶うことのない空想に耽るイワマの前を、学生たちが走り抜けていく。始業の鐘はすでに鳴っている。
内戦の時代であろうと、授業に遅刻する学生はいる。勉学に意義を見出せず、ただ漫然と大学に通うだけの学生もいることだろう。だが、自由に惰性的に過ごすのも学生らしさとはいえないだろうか。あのお嬢様も、たまには勉強を放り投げてもいいのではないか。
いくら政治家の娘とはいえ、あのお嬢様は堅物過ぎる。誰とも打ち解けようとしない、どこへいっても常に血の気のない顔をして、落ち着き払っている。せっかくの美人が台なしだ。あの気品ある青みがかった目に、もっと優しさや明るさが備わればいいのにとイワマは思う。あのセガワ大臣の娘らしく、二十歳そこそこの年齢にしては、威厳や品格を感じさせる容貌と教養を持っている。そこに親しみやすさが加われば、彼女は誰からも愛される存在になるだろう。
もはや遅刻する学生の姿も見かけられなくなったころ、フクダがふと呟く。
「遅刻だなんて、気楽な連中だな」
フクダが珍しくぼやきをいうので、フクダもそれに乗っかった。息抜きの雑談を始めるいい機会だ。
「いまじゃ大学にいけるのは上流階級の子どもたちだけですが、いつの時代だろうとどんな出自だろうと、学校に遅刻する奴は遅刻するんですね」
「我々の世界ではありえないことだ」
「警察学校時代のことですか。あそこで遅刻なんてしたら、教官だけでなく先輩からもきつい追及と叱責がありましたからね」
「…ときどき、憂鬱になることがある。こういうだらけた連中や連中の親を守るために、俺たち警護課や内務省が存在していると考えるとな」
「内務省は金持ちだけでなく、庶民も守ってますよ。それどころか国家国民の敵とも戦っている。少なくとも、私の家族はそう思っています」
イワマは嘯く。イワマには五十代の両親と年の離れた十代の妹がいる。下層部に近い階に住居を持つ労働者階級ではあるが、彼らは国内の治安、警察行政を担う内務省について悪い見方をしていない。それはもちろん息子の立場があるから。しかし大多数の国民は、治安維持のために強権的行動も辞さない内務省をよく思ってはいないだろう。イワマたちの任務である要人警護も、庶民をテロや戦闘による危険に晒しておきながら、金持ちや権力者は手厚く警護するのかという批判を浴びている。
しかし、国民からの評判が悪くとも、内務省がこの国の崩壊をなんとか食い止めているのは紛れもない事実だ。軍がAGWを壊滅に追いやれず、それどころかAGWの勢力拡大を許し、軍に造反してAGWに合流する者が少なからず出ている状況で、内務省は治安維持を行いつつ、AGWへの特殊作戦や特殊工作を一手に担っている。軍による直接的な戦闘行動が成果をあげられないかわりに、内務省がAGW幹部に対する暗殺、施設の破壊、内通者の獲得といったいわば汚れ仕事を行うことで、AGWの弱体化と壊滅を狙っているのだ。
「お前の家族は幸せ者だな。政府の都合のいい幻想を信じ込むことができるんだから」
「私がそう教え込んだせいですね。私も幻想ではなく事実だと思っていますが」
イワマはいいながら、不意に年の離れた妹の姿を思い浮かべた。妹は兄であるイワマの仕事を誇りに思っていた。誇りに思ってもらえるよう、熱心にイワマが警護官の職務や内務省そのものについて妹に語ったことを思い出した。
「なおさら幸せ者だよ、お前も含めて」
「フクダさんはそうは思ってないんですか?」
「物事を斜に構えて見る性格なんでな。政府は話を自分たちに都合よく加工し、不都合な部分は隠蔽する。いつでもそうさ。だから俺は政府の話をすべて真実だとは思わないし、どこか薄汚れた部分が必ずあると思っている」
「そうかもしれませんね。フクダさんからこういう話がきけるなんて、初めてでした」
いままでフクダと話をするときは、そのとき担当する任務についてか、もしくは仕事に関する心得について、イワマがあれこれと質問をすることが多かった。
「俺たちの前を走り抜けていったガキどものせいだな。特権階級のだらけた姿を見ていたら、愚痴を零したくなった」
「私は学生らしい姿でいいと思いますがね。それより、昼はどうされます?」
「持ち場を離れるわけにはいかない。別々に食べにいこう。学外の者も利用できる飲食店があったはずだ」
「そしたら、フクダさんが先にいってください」
「お前は気が早いな。まだ昼まで二時間以上あるぞ」
「待機時間が長いときは、飯のことを考えるのが一番なんですよ」
イワマがそういうと、フクダはどこか呆れたように笑う。
「憎しみは、すべてを凌駕する」
教壇に立つ老教授はいった。彼の表情には、悟りの境地に達したか、あるいは長年の研究課題を一つの謎も残すことなく解決したときに人が見せるあの感慨があった。
老教授は語る。いままで世界が辿ってきた歴史を。そして、その世界の歩みから人々が考えてきたこと、そして人々の考えを吸収し、独自に解釈した老教授自身の考えを、学生に対して語る。
前の世紀からいま現在に至る歴史は、おおよそ憎悪の歴史だったといえる。二十世紀後半から続くグローバリゼーション、西欧資本主義が構築した搾取的社会構造、広がり続けるばかりの経済格差、脱出困難な貧困状態に人々は憎悪を募らせた。前世紀初頭、米国の中心地に旅客機ごと突っ込んだイスラム教徒を突き動かしていたのはなにか。それは憎悪だった。以降、憎悪は世界に拡散する。正確には、それまで水面下で鬱々と蓄積されてきた人々の憎悪が、あの事件を契機にとうとう表面化し、拡散したのだ。イスラム世界はより欧米を憎悪し、欧米社会は欧米社会で格差や貧困、上流階級、知識人、政治的正しさが形作るそれまでの社会規範、社会秩序を憎悪し、その憎悪が国の政治を動かすようになった。ヘイトという語が広く膾炙するようになったのは、この時代だといわれている。
憎悪。憎悪という感情がもたらす深刻な影響を、誰もが甘く見過ぎていた。憎悪に染まった人々を、過激主義者というレッテル貼りで抑え込むことは不可能だった。憎悪はあまりにも多くの人々に広まっていたからだ。広まり過ぎて、人々は自分が憎悪に身を委ねていると気づきもしなかった。
憎悪の拡散は世界になにをもたらしたか。相互的に進行したのが、テロリズムの激化と理性なき感情優先の政治だ。テロリストたちは憎悪の迸るままに、見境も分別もないテロを起こし、各国の憎悪を煽り立てた。憎悪は屈折し、捻くれる性質を持つ。各国の国民はテロを憎むだけでなく、テロの発生を許し、国民の不満解消に手をこまねいている既存政治そのもの、既存政治が齎す格差や貧困、そして既存政治が唱えていたある種の綺麗事ともいえる社会の寛容、国民間の団結、少数者への敬意を憎み、否定した。その帰結が、憎しみや嫌悪の感情に突き動かされた政治指導者の台頭であり、そうした感情に突き動かされた独善的ともいえる政治の実現だった。国家の行動は合理性や打算により決定されるのでなく、国民に渦巻く感情がそれを決定することになった。国際協調や国際秩序なるものは、妥協や打算を悉く跳ね除け、自国優先の外交にひた走る各国の独善さゆえに大いに乱れた。中国とロシアが、自身の権益を拡大するために、あえて協調や秩序の形成を妨げるような狡猾な立ち回りをしたせいでもある。多くの国家では、対内的に憎悪の横溢による少数者や異分子への敵対視が公然と行われ、のちの時代に起こる自国産テロ、不法移民や難民との武力衝突の素地を生み出した。対外的には、各国が自国優先的な外交政策を展開することにより、国家の過激行動を慎む精神、つまりは国際協調を重んじる精神が失われていった。
テロの激化と理性の箍が外れていく世界各国。国際情勢の混沌が臨界点に達した二十一世紀の中ごろ、ついに事件が起こる。
テロリストたちが、CBRNを利用したテロを引き起こしたのだ。テロの標的は欧州各国の原子力関連施設と大都市部。原子力施設では、施設を制圧したテロリストが原子炉に炉心溶融を引き起こし、爆発させた。都市部では、人が密集する地下鉄に猛毒がばら撒かれた。この国ではどちらのテロも見慣れたものだったが、世界はそうではなかった。無数の犠牲者、汚された空気と大地、収拾のつかない事態。人為的な放射能汚染と凶暴な生物兵器の脅威に衝撃が走り、欧州は怒り狂った。怒りの矛先は、テロリストのみならず、彼らに資金や武器、生物兵器と原子力の知識を提供した第三世界のならず者国家にも向けられた。テロ組織が単独で原子力施設への攻撃を行うことも、生物兵器を作ることもできるはずがなかった。事件の捜査が進展し、欧米への憎悪を募らせていたならず者国家がテロに関与していたことが明らかになると、被害を受けた欧州各国は即座に報復の軍事行動に出た。
戦争の抑止力ともなる国際秩序はすでになく、国家そのものも過激行動を抑える術を知らない。報復はさらなる報復を呼ぶ。二十一世紀初頭のそれとは比較にならぬほどの泥沼の非対称戦争の時代がやってきたわけだ。怒り狂う欧州も、体制崩壊を覚悟した第三世界の国家も、テロリストたちも、互いに憎悪を燃え上がらせて、ありとあらゆる手段で報復を行った。次第に米国も、そして我が国も、この報復の連鎖に呑み込まれ、世界中が戦争と戦争がもたらす放射能汚染により荒廃した。
欧米への対抗意識から国際協調をあえて乱し、第三世界には恩を売りつけ、自らの権益拡大を狙っていたロシアと中国は、この泥沼の事態に直面して大いに動揺した。彼らは欧米もテロリストも第三世界もすべて一線を越えることはないだろうと高を括っていたのだ。彼らは売りつけた恩を盾にして第三世界やテロリストを手懐けること、彼ら自身が乱した国際秩序を再建することは可能だと思っていたし、そうすれば事態を最終的には統制できると考えていたが、その読みは甘過ぎたのだ。誰もがとうに一線を踏み越えていた。事態の統制はもはや不可能だった。結局、ロシアも中国も、八方美人的な態度がかえってテロリストの反感を呼び、戦争の渦に巻き込まれていった。
長く過酷な非対称戦争がようやく終息したときには、地球全体が放射能汚染と環境破壊の被害を受けていた。戦争の舞台になった第三世界の国々はほとんどが体制崩壊し、かつての未開時代に戻ったかのような混沌が広がることになった。先進国はあらゆる面で崩壊寸前という状態に陥ったが、辛うじて国家としての最低限の機能、型枠を残すことはできていた。
膨大な人命と資源を失い、国土の大半を放射能汚染に汚された先進国は、非汚染地域に巨大な超高層都市を形成し、さまざまなインフラを再整備し、国民をそこに移住させて国家再建を図るという政策を推進することになった。
学生の諸君、前世紀の歴史とは、このような経過を辿ったのだ。いまの時代を生きる我々が、ほぼすべての国土を失い、窮屈な都市に閉じ込められたのも、こうした歴史の歩みのためだ。
このかくも凄惨な歴史を動かしたのは、あるいは歴史の歩みに決定的な影響を与えたのは誰だったのか。欧米諸国の指導者か、第三世界の独裁者か、テロ組織の首魁なのか。実のところ、それは誰でもないのだ。強いていうなれば、彼ら指導者さえも突き動かした人々の強烈な憎悪が、前世紀の歴史の重要な因子だった。憎悪が社会を変容させ、過激主義を招き、国家間秩序と平和を崩壊させ、ついには地球の大半を汚したわけだ。
「憎しみは、すべてを凌駕する」
老教授はまたしても同じ言葉を口にした。
恐ろしいことだが、憎しみ、憎悪が世の中のあらゆるものを凌駕してしまう事実を歴史は教えている。人の自制心や良心さえ凌駕するのだ。二十世紀の全体主義や共産主義は、人々を恐怖や無力化によって、自制心や良心を喪失した怪物的機械に仕立て上げ、尋常ならざる惨禍を生み出した。それとは違う新たな方式。だが、人々は再び怪物的機械となって、惨禍を生んだ。
憎悪の連鎖、報復の連鎖はいまもまだ続いている。この国の内戦でさえ、この憎悪のメカニズムがいまだ死に絶えてないことを証明するようなものだ。醜悪かつ劣悪な都市の構造と環境、格差の固定化への憎悪が、この国の内戦を生んだといっていい。
歴史を回転させたこの憎悪のメカニズムには、心理学者はもとより私のような政治学者も大変な興味関心を持っている。憎悪がどのように生まれ、どのように大衆へ作用していくのか、どのようにすれば憎悪を抑制し、憎悪の連鎖を防ぎうるのかと政治学の見地から長い時間をかけて考えたものだ。後半の部分については、いまも明快で的確な答えは出せないでいる。私は年老い、先は長くない。答えはもしかすると、諸君らの世代に託すことになるかもしれん。
老教授はしばし黙り込んだ。その沈黙の間、老いた彼はなにを思ったのか。残り少なくなった自分の人生を思ったのか、それとも暗い未来を背負う学生たちを思ったのか。
朝の静けさと老教授の重い沈黙が溶けあい、厳粛な空気が講堂に流れて、学生たちは自分たちも物音ひとつ立ててはならないような気分になった。
ノートに講義の内容を書き込みながら、アリスは歴史に思いを馳せた。愚かしくも切ない歴史。
憎悪。アリスは呟いてみる。いまだ人生で誰かを、なにかを憎んだことはなかった。教授がいう憎しみのメカニズムを現実味のあるものとしてアリスは捉え切れていない。
憎しみ。いつか自分もそれを抱くときがくるのだろうか。
【注釈】
バベルの塔:旧約聖書の創世記に登場する建築物。天に届くほどの巨大な塔だが、完成を前にして神が人々の言語を乱すことで、人々は各地に散り散りとなった。塔の建設もそれで中座したと思われる。
CBRN:Chemical(化学)、Bilogical(生物)、Radiological(放射性物質)、Nuclear(核)の頭字語。Explosive(爆発)を加えて、CBRNEとする場合もある。テロリズムの脅威が拡大した1990年代以降から頻出するようになった用語で、主にテロリズム研究や安全保障分野で用いられる。




