84 Gotoh, Emma - You know I'm No Good
ゴトーは腕組みをして、顎に手を当てながら、思案した。AGWの思考を想像する。凶暴で、扇動的な暴力装置。非対称戦争の申し子。この十数年、政府と闘争を続け、いまだ崩壊の兆しさえ見せない組織。あの組織にとって陰謀や謀略はお手のもので、自らに有利な情報は積極的に収集し、利用するが、一方で情報への警戒心も強い。
「第三地区で情報を流そう。内容はそうだな、アリス、お前がリョクノの娘だと気づいた。俺の保護から離れて、独自に自分の経歴を調べようとしている。リョクノに関係があった人間と、接触を望んでいる。そんなところだな」
「まるっきり嘘ってわけではないわね」
「重要な嘘は、どうでもいい真実で囲い込むんだ。そうすれば嘘か真実かの判別ができなくなる。流した情報は、いってみれば撒き餌だ。誰かがその情報を掴み、お前に接触を図ってくるだろう」
「連中が大勢で襲い掛かってくるぞ」
ネイトが暗い声でいった。その表情には陰があった。
AGWに襲撃されたときのことを思い出しているのかもしれない。ゴトーは思った。
「かもしれない。だが、その可能性は低いだろう。この段階では、敵は情報がどこまで真実なのか疑っている。だからすぐ襲撃には出ない。人を派遣して、確認を取ろうとするはずだ。連中はアリスにそれとなく接触を試みるだろう」
「本当に彼らが接触してくるかどうか…」
アリスがいう。
「嫌でもそうなるさ。情報は政府にも流れ込む。AGWの連中はみすみす政府にお前をくれてやるだろうか? それでは困るから、連中は半信半疑でもお前に接触を図ってくる」
「仮に接触ができたとして、彼らになにを話す? ウガキに会いたいといえばいいかしら?」
ゴトーは首を横に振った。
「違う。こう伝えるんだ。自分の本当の父親について知りたいと。連中に伝えるのはそれだけでいい」
「その意図は?」
鋭い目で、アリスがゴトーを見つめた。
ゴトーはいった。
「リョクノのことをよく知る人間は、もうほとんど残っていないんだ。多くは内戦で死んでいったからな。まともに彼のことを語れるのは、ウガキくらいしかいない」
「だからウガキに接触する機会がやってくるかもしれないってことね」
アリスがいうと、ゴトーは頷いた。
「そういうことだ。余計な話はしなくていい。お前が本当の父親に気づいたときのことを、淡々と伝えればいい。俺がさっき話したことも含めて。嘘の中の真実だよ。たいていの奴は、とりあえずお前の話を信じる」
「俺の仲間を忘れるなよ。仲間をどうやって助け出す?」
ネイトが口を挟んできた。
「落ち着け。忘れたわけじゃない。連中がアリスの話を信じたときに、お前の仲間の件を切り出す。いままで逃走を手伝ってきた協力者からの要請ということでな。仲間を解放するかわりに、アリス、お前は、政府側へは戻らない、父の事跡を辿りたいと連中に伝えろ」
「もったいぶったいい回しね。AGWに参加するともいわない」
「その曖昧さが大事なんだ。敵は疑り、言外にある意図を読み取ろうとする」
「それで交渉がまとまるの?」
「まとめろ。普通の奴はそこで判断を迷い、持ち帰ろうとする。だから、交渉の機会はいまこの瞬間しかないと詰め寄れ。その場で決断させろ。取引の場所を指定し、そこへネイトの仲間を連れてこさせるんだ」
「…簡単にいってくれるわね」
アリスの口元が歪む。
「AGWを焦らせるために、事前に政府にも動いてもらう。政府には必死でお前を追いかけてもらう。政府がお前を確保するか、それともAGWがそれをやるのか。二つに一つ。連中にはそう思い込んでもらう」
情報を加工する、街へ流し込む。嘘をばら撒いて、敵の動揺を誘う。昔の仕事とまるで同じだ。複数の情報を発信する。嘘の情報の中に入り混じる真実が、敵を極端な解釈へと導き、敵に疑心と焦燥を植えつける。謀略の要諦は、嘘と真実の絶妙な配分にある。ゴトーはそれを熟知している。情報に接した敵がその真偽について戸惑う絵が、ゴトーの頭の中にはでき上がっている。
だが、そうした事前の情報操作はあくまで劇の脇役に過ぎない。より重要なのは、交渉の場での演技力だ。
「なんにせよ、アリス、お前の演技が重要になる」
ゴトーは微笑んだ。
「お前の性格の悪さが、活かされるときだ」
朝陽が差してきた。砲弾や銃弾、爆撃で舗装が粉砕された十三地区の通りに、光が差し込んでくる。風によって舞い立った塵芥は陽光を浴びて、空中で輝いている。
聳え立つ建築物の谷間に、エマは一人で立っていた。通りには誰もいない。つい最近、ここで政府による襲撃と殺戮が発生したせいで、住民たちはこの場所を避け、建物に閉じこもっていた。襲撃で死んだ者の運び出しはすでに終わっていたが、通り沿いのいくつかの壁面には、この場所で死んだ者たちの血がこびりついて、残されたままになっていた。道路にも、わずかに血の染みが残っているところがあった。
元の上司、元の所属先への襲撃。生き残ったのはその元上司と同僚の二名だけ。同僚には、襲撃を手引きした嫌疑がかかっている。
エマは煙草に火をつけた。憂鬱な思いが押し寄せる。職務とはいえ、仲間の裏切りの有無を調べるのは気が進まない。
上司のスギヤマと同僚たちが内務省から襲撃を受けたという話をチョウからきいたとき、エマは俄かには信じられなかった。スギヤマの麾下から転属してそれほど時間も経っていないというのに、仲間たちが襲撃によって死んでいった。さらには組織の裏切り者の手引きがあったという。チョウから話をきいても、すぐに現実感を持つことはできなかった。どこか遠くの、この国ではなく他国で起こった話をきかされたような感覚があった。
だからいま、エマは襲撃の現場を訪れている。自分の目で確かめる必要があった。現場のあちこちに染み込んだ血は、仲間たちの血だ。外套のポケットの中には、襲撃の詳細を記した紙の資料を突っ込んでいた。資料は仲間たちがどのように死んでいったのかを描いていた。現場の足跡を辿りながら、襲撃時の様子を想像する。仲間たちがいなくなってしまったという現実を、エマは直視したかった。現場に立つと、多くの仲間が一瞬で死んでいったことへの衝撃を感ずる。冷たい刃物を刺し込まれて、肺腑を抉られるようだ。
地区の中でも第七街区と呼ばれているこの場所は、ガラス張りが印象的な二つの巨大な環境建築と、その二つの建物に挟まれ、約九百メートルに渡って長く伸びた大通りで構成されている。この大通りをある程度まで進入したときに、通りの両端を塞がれてしまうと、逃げ道がなくなってしまう。通りの両脇にある建築物への入り口は複数あったが、どれも目立つものではない。車両の走行中では、とっさにそれらに気づくことができるかどうかは微妙なところだ。記録によれば、内務省の部隊は、ヘリを四機も駆り出して襲撃を行ったという。二機のヘリが走行する車列の前後を挟み、足止めのための攻撃を仕掛けた。残る二機のヘリからは兵士たちが地上に降下し、掃討にかかった。
ガラス張りの建築物で、ガラスが粉砕して大きく穴が開いている箇所がある。風と塵芥がいまもそこに吹き込んでいる。襲撃を受けた車両が、攻撃を避けるために猛スピードで突っ込んだのだ。
エマは跡を辿った。現場を見回して、奇襲にはうってつけの場所だと思った。ろくな逃げ場がない。仲間たちは圧倒的な暴力を前に、為す術がなく死んでいったようだ。最初のヘリからの攻撃で、最前列の車両が大破した。続いて地上からの攻撃が始まった。最後列の車両の兵士たちは抵抗したようだが、次々に銃弾に倒れていった。用意周到さ、計画性をエマは感じた。確かにチョウがいうように、何者かの手引きが存在しているようだ。でなければ、ここまで鮮やかな襲撃はできない。
環境建築の内部に入る。建物に突っ込んだ真ん中の車両。この車両にはスギヤマとナキリが乗車していた。二人は建物に突っ込んだ車両から抜け出し、逃走を図った。建物の地下へ二人は逃げた。敵に追い詰められたが、味方の部隊が近くまで接近し、敵が撤退したことで、なんとか生還できた。
チョウはナキリを疑っている。だが、ナキリ自身も襲撃によってかなり危険な目に遭っている。ナキリを裏切り者と決めつけるには、証拠が足りない。いろいろと材料が足りていないとエマは感じた。誰かがこの襲撃を手引きしたにせよ、その誰かを決めつける素材がまだまだ不足している。部隊長だったアマノの遺体からは、不審なメモが見つかったという。それもどこまで信じていいものなのか。
エマはため息をついた。地下の暗闇の中で、また煙草に火をつける。まずは関係者の足取りを正確に再現することだ。特に襲撃の直前。関係者の中で不審な行動が見られた者は誰なのか。そのあたりを正確に把握しないことには、前に進むことはできないだろう。
地上へ戻る。階段を上りながら、エマは考える。誰かを裏切り者だと断定することができないのがもどかしい。チョウの動向も気にかかる。あの男は、すぐに拷問に走ろうとする。それで求める情報すべてが手に入ると思っている。だがチョウは拷問がいき過ぎてしまい、ときに情報を吐かせる前に人を死なせてしまう。ナキリをそのような状況に追い込みたくはない。そうなると、自分の仕事を急がなければならないとエマは思った。
時間がない。
エマは現場をもう一度目に焼きつけた。荒れ果ててしまった風景に、裏切り者の気配を確かに感じ取る。ナキリ、アマノ、もしくは他の誰か。とにもかくにも裏切り者を探し出さなければならない。曖昧な証拠や証言で仲間を糾弾したくはなかった。
煙草を投げ捨てた。エマは自分の車に戻った。自分の車といっても、もとはエヴゲニー・グロスマンの車だ。所有者は自分を庇って死んだ。誰も使わないなら、自分が使うしかない。古くて、所有者のぶっきらぼうさが乗り移ったかのように少し使い勝手の悪い、外国製の車だ。
車を走らせながら、エマは考える。いままで何人が死んだ。何人を殺した。自分の前に続く道も、うしろに続く道も、他人の血で舗装されているようだ。自分を庇って死んだ人間は、誰がいる。哀れなソンと勇敢なエヴゲニー。今度はそこに誰が加わるというのだ。運命は移ろいやすい。人の死に構っている暇などない。誰かの死に動揺するような心などエマは持っていない。だが、自分の人生が荒んでいるのは感じ取れる。こんな血塗れの、荒廃した人生に、光を投げかけてくれる人はいるのだろうか。ふとエマはそんなことを思った。誰かが美しい言葉を耳元で囁き、瑞々しい熱情を投げかける。それによって凍ったエマの心が溶けていく。そんな日がいつかくるのだろうか。馬鹿らしい。エマは自分の夢想を鼻で笑った。こんな自分を愛する人間など、この世のどこにもいるわけがない。自分はすでに生き地獄に足を踏み入れていて、そこから抜け出すことなどできるはずがないのだ。地獄にいるのなら、突き進むしかない。他人を貶め、他人を殺す。裏切り、謀略、殺人。反吐が出る行為を延々と繰り返す地獄。それがエマの背負った宿命なのだ。
次は仲間の処刑をすることになるのか。
エマは暗い気持ちになった。チョウは明らかにそれを期待している。内通者狩りを拡大させたい組織内の一部の人々の思惑が、エマの頭にちらつく。チョウ、そしてその上にいるハタ、彼らの取り巻き。自分の振る舞い方次第で、彼らの行動も変わってくる。下手すれば、組織内で大規模な粛清が起きかねない。
地区内の病院へ向かった。早朝ゆえに静まり返った病院。廊下を歩くと靴音がやけに響く。ガラスの向こうではくたびれた様子の医師や看護師たちがコーヒーを啜っている。目的の病室の前までくると、そこに黒い軍服を着た男が立っている。
最初エマはこの男がどこの誰なのかわかっていなかった。エマは歩く速度を落とした。黒軍服の男を窺いながら、ゆっくりと近づく。
男もエマに気づいている。男はじろりとエマを見た。エマは軍服姿ではなかった。だが、男はエマが放つ雰囲気で、エマがどういう人間なのか察したようだ。男は警戒を緩めなかったが、相手を承認する視線を送った。
エマはいった。
「この部屋にいる男から話をききたい」
「あんたのことはきいている」
男はいった。
「そういうあんたは?」
「同志チョウから、怪我人の監視を任されている」
「軍であんたを見かけたことはないね」
「私はずっとチョウの下で働いている。こちらの認識では、あんたがむしろ見かけない顔なんだ」
なるほど、とエマは思った。チョウの子飼いの部下ということか。
「こっちも一時的な転属だと思っている。あれこれ雑用を命じられているが、いまの仕事は裏切り者探しだ。奴の話がききたい」
「どうして上の人間は、あんたを使いたがるのかわからんね。尋問など、我々でできる話なのに」
男はいう。嫌味のつもりらしい。
「私の知ったことか」
エマは吐き捨てるようにいった。実際はチョウの意図はわかっている。ナキリが頑なに口を割らないため、彼の親しい人間に尋問を担わせて、情報を引き出そうとしているのだ。ナキリは負傷しているため、まだ拷問をかけることもできない。チョウは時間を持て余している。だからエマにこの仕事を命じた。
いいように自分を使いやがって。エマは内心でチョウを罵った。
「それで、彼は口を割ったか?」
「なにも。奴は無実を訴え続けている」
役立たずめ。エマは口には出さなかったが、男をそのように決めつけた。
エマは病室に入った。扉を閉める。黒軍服の男を隔絶する。室内を確認する。見回した限りではありふれた病室だった。清潔であり無臭、そして静寂に包まれた空間。
病床に歩み寄る。
ナキリは起きていた。強張った顔で、場合によっては怯えているようにも見える顔で、彼はエマを迎えた。
ナキリの表情を見て、エマは少し不安を覚えた。本当に彼が内通者ではないか、その考えがちらつく。
「久しぶりじゃないか」
ナキリはいう。声は硬かった。
「ああ、久しぶりだ。お互いなんとか生き残ったようだ」
エマは答えた。
「いろいろとお前の話をききたいが、お前はそれを求めてはいないようだ」
エマの顔を見て、ナキリはそういった。エマは、自分の顔もナキリと同じように強張っていることに気づいた。不安が顔の筋肉に纏わりついて、その動きを妨げている。
「お前の話がききたい」
「俺は無実だ」
ナキリは即座にいった。その目には強い光が宿った。頑なさがその体から発散している。
「私もそれを信じたい」
エマはいう。
「そのために、お前の話がききたいんだ」
「信じてくれ、俺は…」
ナキリは哀願する。そして呪文を唱え続けようとする。エマはそれを察した。
「お前の足取りを教えろ」
エマはナキリに近寄って、強い口調でそういった。ナキリの一つ覚えの呪文を妨げた。ナキリが壊れた機械を演じようとするのを阻止した。仲間を手にかけたくはない。だが、だからといって証言や証拠集めることについて手加減をする気もない。調査が進み、彼が本当に内通者だったらどうするか。
エマはもう考えがまとまっていた。
そのときは自分が手をかけるしかない。それが、そのときにエマがナキリにかけてやれる唯一の情けだろう。
【注釈】
You Know I'm No Good : 英国のR&Bシンガー、エイミー・ワインハウスの楽曲より。




