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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第3部 粛清
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82 Nate, Gotoh - Memory, History, Forgetting 3

「あんたはAGWを嫌っている。下層部ではよく知られた話だった。俺でさえも知っていた話だ。だがどうしてあんたは奴らを嫌っているのか、それはわからなかった。いままであんたの話をきいてみても、どうして奴らを嫌うのか、そして、どうしてウガキに執着するのか、それは見えてこない。たとえウガキがかつての同僚、仲間であり、リョクノ殺害を契機に敵対する立場になったという過去があるにせよ、奴に執着する因縁というには、少し弱く感じる」

 ネイトはいった。

「…リョクノ殺害後、ウガキとなにがあったんだ?」

 ゴトーは暗い顔でしばらく口を閉ざしていた。どう語るべきなのか、慎重に思案しているらしかった。核心に近づきつつある。ネイトはそう感じた。人が言葉を選ぶときというのは、よほど重要な事柄を口にするときか、もしくは自分に不都合な、できれば触れられたくない話を口にするときと相場が決まっているものだ。

 長い沈黙のあとで、ゴトーはいう。

「…工作員を運用する立場にあった人間として、ウガキがAGWに転向した事実は衝撃でしかなかった。任務中、確かに諍いや齟齬が俺とウガキとの間にあったのは事実だ。しかし職務上の対立はあったにせよ、俺はあの男の使命感や性格を評価していた。まさかあのような事件を起こすとは想像もしていなかった。もちろんそれからあの男が反政府組織の領袖(りょうしゅう)になるという事態も。その意味で、奴の思想的転向に気づくことができなかったこと、そしてそれからの惨事を未然に防ぐことができなかったことに対して、大きな責任を感じている」

「職業上の責任をいまも引きずっているのか? だからいまもウガキを憎むと?」

「小僧のお前にはまだわからない感覚かもしれないな」

 ゴトーはいった。

「あんたはもう官僚じゃないはずだ。…本当にそれだけの理由で?」

 ネイトがそのように問いかけると、ゴトーは苦笑いを浮かべた。子どもゆえの問いかけの直截さに、苦笑せざるを得なかったのかもしれない。

「それをいうなら、小僧、お前だってどうして仲間に拘る? 仲間のために危険を承知でAGWを騙そうとしている。だが、その仲間というのも、下層部の子どもたちがその日その日を生きるためだけに寄せ集まった集団に過ぎなかったわけだろう? 仲間を見捨てることもできるだろうに、どうして命の危険を冒してまで、その仲間を救おうとする?」

「それは…」

「それは無意識的に責任感や倫理観が働いているからだ。仲間を見捨てるわけにはいかない、苦境にある仲間を助けないといけない。お前に備わっている感覚が、俺にはないとどうしていえるんだ?」

「俺がいいたいのはそうじゃない。俺がいいたいのは、他にも理由はあったのではないか、ということだ」

「他の理由?」

「そうだ。たとえば、あのチグサという女はどうなった?」 


 語られていないことが多過ぎる。たとえば女だ。クロキやフクシマが散々言及していたチグサという女。一体、チグサとあんたはどういう関係にあったのか。ウガキとの諍いや齟齬(そご)には、もしかするとチグサが関係していたのではないか。

 歴史の厭らしい部分は、まったく嘘やでたらめが平然と歴史の中に紛れ込むことだ。歴史を流し読みする立場の人間には、そんな嘘やでたらめも本当らしく見えてしまう。さらに厄介なのは、もっともらしい嘘やでたらめ、悪意なく作られてしまった推測や推論、誤りのある考えや見方、そういったものが歴史には入り込んでいるということだ。注意深く読み解かなければ、歴史を理解したことにはならない。たとえそうしたとしても、歴史を正しく理解できるとは限らない。

 あんたとチグサの関係は、正しく理解されるわけがないとでもいいたいのか。

 誤解や悪意のある解釈をされることはあった。

 あんたが知る限りの歴史を教えてくれ。


 チグサ。作戦の哀れな犠牲者の一人。高い教育を受けた才媛であり、同時に学問の師と関係を持ってしまい、道を誤った愚か者。矛盾を抱え込んだその人格ゆえに、内務省からは目をつけられた。秘密や矛盾を抱えた人間ほど、それらを梃子にしてこちらの意のままに利用できるからだ。チグサは倫理や道徳を備えながら、それらよりも恋愛を優先させてしまう性格なのだと我々は分析した。だから我々はウガキをあてがった。彼女はきっと師への忠誠心よりも恋愛を優先させてしまうだろう。そして我々に貴重な情報を流すだろうと見込んだのだ。

 なんとも下衆(げす)な話だ。

 なんとでもいえ。それが諜報の仕事だ。しかし、チグサは我々が想像した以上に複雑な人物だった。この世に単純な人間など本当はいない。彼女は人を惹きつける魅力に溢れていた。澄んだ美しい目をしていた。知性と教養は本物だった。BMIを専門にする研究者だったが、西洋の詩や哲学を愛して、それを他人に熱っぽく語る女だった。

 そんな奴でも、まだ若かったのさ。どれほど頭がよかったにせよ、子どもだったんだ。だから間違ったことをしてしまう。

 お前がそう断言できるのも、若いからだ。

 あんたはチグサに惹かれていたのか。

 馬鹿をいうな。作戦の重要な関係者だ。心を許すことはない。それにこちらは妻帯者だった。

 クロキやフクシマたちは、あんたがチグサに心を奪われたようなことをいっていたが。

 わかってもらえるとは思えない。奴らにしても、他の連中にしても。

 なにがあったんだ。

 工作員の運用責任者は、工作員の動向をすべて確認する。そのころの俺は、自分の仕事に自信があった。自分の仕事には大義がある、そう思い込んでいた。徹底的な監視と確認作業。ウガキを通じて、チグサの動向も監視した。彼女はリョクノに近づく鍵だった。大学院の研究室、煤けた景色が眺めることのできるカフェ、環境建築内部に拵えられた庭園、上流階級の出身らしい小綺麗なフラット。数々の場所で交わされた会話を俺は盗聴した。ありふれた仕事だった。適宜ウガキに指示を出して、チグサとの関係を深めさせた。チグサは、自分に接近してきた男を疑うことはなかったようだ。我々がでっち上げた共通項と人格、経歴を持つ男を信じ込んだ。彼女は純粋な女だった。純粋な性格のせいで、心に傷を抱えていた。リョクノとの関係。学問の師への敬愛と異性への愛情を分別することができなかったと彼女はいっていた。リョクノの求めに応じ、関係を持ってしまったことを彼女は後悔していた。一連の経緯を振り返ってわかることだが、チグサには愛を区別することができないという欠点があった。リョクノも、内務省も、そんな彼女の欠点を上手く利用して、彼女を弄んだ。チグサは男たちのいいように翻弄された哀れな女だった。俺は彼女に同情したわけではない。哀れんだわけでもない。ただ責任を取ろうとしただけだ。彼女は内務省側に必要な情報を流した。もっとも彼女は最後の最後まで内務省に自分が利用されていると気づいていなかったが。だが、なににせよ、彼女は十分な貢献をした。我々は彼女を保護する必要があった。それは工作に関与し、工作員を運営した者の最低限の責任だと俺は思っていた。情報の流出元はそのうち特定され、そうすればAGWは必ず彼女を処分するはずだった。ウガキは療養に入っていたため、俺が彼女に接触した。彼女を安全な場所に匿おうとした。だが彼女はそれを拒否した。真相を知って、激しく取り乱した。彼女を騙し、弄び、利用し続けた内務省を彼女は散々に罵り、内務省に匿われるくらいなら、死んだほうがましだとさえいい切った。場を収めることができなかった俺は、上に指示を仰いだ。上は一度引き下がれといった。拒絶する相手を、無理して匿わなくてもいいとさえいった。内務省からすれば、チグサは用済みの存在だった。彼女が処分されたところで、内務省にとってはなにも困ることがなかった。むしろAGWが彼女に危害を加えれば、連中を根こそぎ拘束できる根拠にもなると考えていた。俺は上司たちの意図が読めていた。俺は焦り、必死に彼女を説得したが、それでも彼女は首を縦に振らなかった。とうとう彼女を説得することができず、上の指示に従ってその場は引き下がった。彼女は頑なだった。以降、ウガキの凶行が始まったときも、ウガキがチームの人間からその親族や知人に標的を変えたときも、彼女は政府の保護の手を振り払った。俺は彼女と直接会って説得に当たらない限り、埒が明かないと思った。

 あんたまさか。

 時間がなかった。俺は彼女の説得に向かった。他に誰が説得できたという。ウガキはいかれてしまった。内務省は先にいったような態度であてにならない。彼女と直接関係があり、説得をすることができる人間は自分しかいなかった。仲間の引き止める声を無視して、俺は彼女のもとへ向かった。だが、そこには罠があった。彼女のフラットに到着し、ドアノブに手をかけた瞬間、なにかが弾ける音がきこえた。次の瞬間、俺は爆風を身に受けて吹き飛ばされていた。一瞬で視界が暗くなり、意識は消え去った。暗闇。知覚できたのはそれだけだった。病院のベッドの上で目を覚ましたとき、医者にはこういわれた。あなたは爆発のときから五年間、ずっと昏睡状態にあった。これは奇跡的な回復であると。俺を置き去りにして勝手に興奮しているその医者を、俺は殴り飛ばしたくて仕方がなかった。だが、体を動かすことはできなかった。五年に渡る昏睡で、身体は弱り切っていた。自分の軽率な行動の代償だった。

 罠。裏切り。チグサは、ウガキ、もしくはAGWと一緒になって、あんたを嵌めたというのか。

 状況からして、そうとしか思えない。まんまと俺は誘き出されたわけだ。なんとも無様なものだった。あとできいた話だが、セガワさんはどうも俺の暴走を予想していたらしい。爆弾で吹き飛ばされはしたが、俺のあとを追っていた内務省の人間がすぐに助け出してくれた。それで命拾いした。

 しかし、五年も昏睡状態に陥った。あんたが地位を投げ打って下層部にやってきたのは、自分を嵌めたウガキやチグサへの報復のためか。

 俺自身のことはどうだっていい。妻のためだ。

 妻だって。

 ウガキは俺の妻を殺した。ウガキが手にかけた、政府側の作戦関係者の親族や知人。そこには俺の妻も含まれていた。

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