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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第3部 粛清
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81 Nate, Gotoh - Memory, History, Forgetting 2

 女が撒き散らした吐瀉物を紙で拭き取る。バケツに汲んだ水を床に撒いて、ブラシで丹念に磨く。悪臭を追い出すためにガレージの扉を開けて、喚起をする。時間にして約十五分の雑用を、ネイトは無言で淡々とこなした。内心では大人に扱き使われる自分の姿が惨めで情けないと思っていた。それでも黙って吐瀉物を掃除するのは、ネイトの目の前にいて、ネイトがしている作業を無感動に見つめている大人に、どうしても尋ねてみたいことがあったからだ。

 綺麗にした床を、ネイトはゴトーに見せつけた。ゴトーはなにもいわなかった。無言でいるということは、作業が一通り終わったことを承認したということだ。ネイトはそのように理解した。

 女は、ぐったりと横になっていた。アリスの表情はいかにも苦しそうだ。吐き気、疲労、そして忌まわしい過去との戦いを、アリスは脳内で繰り広げているようだった。だが呼吸はできている。死にはしないだろう。それがゴトーもネイトもわかっていたから、二人とも残酷なくらいに冷淡に彼女を見つめていることができた。

「あんたはまだ語っていないことがある」

 アリスを横目に、ネイトはいった。

「あんたとウガキの関係だ」

 ゴトーは小さく笑った。また同じことを語るのか、と呆れるように。

「いっただろう。奴は、かつての同僚だ」

「それは知ってる。だが、語っていないことが多過ぎる」

「なにがききたいんだ? 奴のどうしようもなくとち狂った話なら、下層部で生きてきたお前ならよく知ってるはずだろう。もしかすると誰でも知ってる話かもしれん」

「俺にはこの女のような学はない。奴のことなど、ほとんど知らない。だがそれでも、あんたの話をきいていると、あんたと奴との関係性がどこかおかしいってのは、なんとなくわかるぜ」

「…なにがききたい? なにが知りたい? それがなければ、答えることもできないな」

「あんた、どうしてウガキを恨んでいるんだい?」

 ネイトはいった。

 ゴトーは椅子に座り直した。長身痩躯の体つきのため、足を組むとひどく様になっている。荒涼とした人生を途中で切り上げることもできず、とうとう生き永らえてしまった深い哀しみが、男の物憂げな表情に、まるで化粧のように塗り重ねられている。

 ゴトーは遠い目をした。きっとその眼前には過去と記憶の大海原が広がっているのだろう。膨大で、茫漠たる時間。風化の運命を免れ得ない記憶。ネイトはゴトーが再び記憶の奥底、時間の彼方へ踏み入れていく姿を黙って見守った。


 おとぎ話。いまとなってはそんな風に思える過去がある。それが現実にあったとは思いたくないような話。まったくの空想、もしくは夢であってほしかった過去がある。

 内務省はAGWの指導者であったリョクノを殺害した。リョクノの死を伝える報道は街を駆け巡り、各方面に衝撃が走った。ある者は悲嘆し、ある者は憤激した。内務省の関係者たちは、長年の作業がついに一つの到達点に達したという感慨、それと同時に心の中で広がる無常な思い、相反する二つの思いに感情をかき乱されながら、リョクノの死を伝える報道に接することとなった。ところが、内務省の人間が身構えて接したその報道は、当初予想していたよりもはるかに地味で、抑制的なものだった。著名な学者の死、反政府武装蜂起の計画が露見、治安部隊との衝突で死亡、そんな言葉の羅列で、リョクノの死は表現されていた。内務省の長年の内偵作業、関係者が抱えていた焦燥感と葛藤、殺害以外の選択を考えない強硬的な襲撃とそれによって発生した標的以外の人間の死、事件に内在する仄暗い部分を報道は見事に削ぎ落していた。内務省の関係者が呆気ないといってがっかりしたくらいに、報道の内容は端的かつ淡白だった。このような報道では、世間は衝撃を受けても、憤激をするには至らなかった。煮え切らない状況の中で、やがて世間ではリョクノに関する出処不明の醜聞が流れ始める。近年のリョクノの不審な行動、反政府活動への異様なのめり込み、科学倫理に抵触する可能性があった最近の研究活動、門下生との不適切な関係。それは虚実が巧妙に入り混じった醜聞で、これによってリョクノの名声は低下することとなる。世間におけるリョクノの死の衝撃は、出典不明の醜聞によって鈍化していった。このあたりはおそらくセガワさんが手を回したのだろう。政治力を駆使して報道を操作し、しかるべき時機になったら別の情報を流して、世間の関心を別の方向に逸らせる。世論誘導と情報操作は、政治家のお家芸だ。しかし、リョクノの暗殺とその後処理によってAGWが主導する反政府運動は弱体化したのか。政府に対するAGWの武装蜂起の企みは頓挫させることができたのか。答えはイエスでもありノーでもあった。確かに組織そのものは一時的に弱体化させることができた。組織は指導者を失ったことで、実行直前だった武装蜂起の計画をいったんは取り止めた。内務省が実力行使に出てきたことに恐れをなして、組織そのものも地下へ潜った。リョクノの死から数か月は、AGWの活動は完全に停止したように思われた。内務省は俄然、勢いづいた。これを機に政府に反抗しようというすべての計画、すべての組織を追及して、根絶やしにしてやろうと息巻く職員さえいた。いまにして思えば、それは束の間の勝利の瞬間だった。

 息巻いていた職員というのは、あんたのことではないか。

 確かにリョクノの殺害に、感慨を覚えたのは事実だ。だが、息巻くほどに楽観的ではなかった。襲撃で何人もの人間が死に、リョクノの夫人も巻き添えになった。組織同士の血を血で洗う報復合戦が始まるのではないかと危惧していた。息巻いていた職員というのは、クロキとフクシマのことだ。あのころの二人はとにかく若く、血気盛んだった。もちろん彼らは若手の中で飛び抜けて有能ではあったが。

 束の間の勝利。その表現を使うからには、なにかそのあとすぐに問題が起きたらしいな。

 察しのいいガキは嫌いだが、いい読みだ。まさしくその通りで、リョクノの殺害から数か月、反政府運動が完全に沈黙をした状態で、大問題が発生した。

 なにがあった。

 リョクノ殺害に関与した内務省関係者、軍関係者、つまりセガワ政務官が編成したチームのメンバーが、次々と殺害される事件が起きた。最初の犠牲者は、イマムラという兵士で、彼はリョクノの襲撃に直接参加をしていた。彼の遺体は自宅で発見された。次がウメザワ、カキザキ。彼らは内務省の人間で、二人で会食をしていたところを、衆人環視の中、小銃の連射を浴びて倒れた。

 あんたが危惧していた、AGWによる報復が始まったのか。

 誰もが最初はそう思った。危惧していたAGWの報復がついに始まった、そう思い込みたかった。だが、AGWの動きは先にいったように、リョクノの死によって停止していた。我々も馬鹿ではない。AGWの動向は徹底的に監視していた。AGWが監視の目を潜り抜けて報復に出るのは、客観的にいって容易ではなかった。にもかかわらず、立て続けに仲間が殺された。AGWは組織の外部に仕事を依頼したのかもしれない。そのような意見も出た。しかし、それにしても、関係者の特定が速過ぎた。作戦に関与した人物を特定し、その行動と居所を把握し、殺害を実行する。しかも二件立て続けに。外部の人間を雇うにしても、AGWの行動は迅速過ぎる。二十四時間三百六十五日の監視下に置かれている組織がそこまでの行動を起こせるのか、疑問だった。

 雇った殺し屋が非常に優秀だった。もしくは、内務省の中に裏切り者がいて、そいつが情報を垂れ流した。

 ほぼ正解に近いといっていいだろう。省内に裏切り者がいる。その裏切り者が作戦関係者の情報を流出させ、その情報を基にしてAGWが雇った殺し屋が作戦関係者を次々に殺害している。その説が有力に思われた。裏切り者に、殺し屋。この二人を特定して、次の行動を阻止しなければならない。ところが現実には、二人ではなく、一人だった。一人の男が、裏切り者であり、殺し屋を兼ねていた。

 ウガキ。

 そうだ。我々は気づくのが遅過ぎたのだ。リョクノ襲撃時の戦闘で負傷し、療養のためしばらく任務から離れていたあの男に、我々はすぐ疑いの目を向けるべきだった。療養中、あの男にはあり余る時間があった。思想的転向、報復の準備をするのには十分過ぎるほどの時間が。我々が気づいたときにはもう、ウガキは次の計画を実行に移していた。作戦に関与した政府の人間は暗殺の危険から逃れるために徹底的な保護下に置かれ、迂闊に手が出せなくなっていた。そのためウガキは計画を変えた。標的を作戦関係者から、関係者の家族や知人へ変えたのだ。作戦関係者の妻、子ども、両親、恋人。彼ら彼女らが暗殺の対象となった。情報は筒抜けだった。ウガキは情報のすべてを握っていた。ウガキは政府側の動向をすべて読み切った上で、躊躇いもなく行動した。なんの変哲もない一日、窓際に立って景色を眺める、玄関の扉を開ける、外部に姿を晒した一瞬の隙に銃弾が飛来する、宅配物を装った爆発物が起動する。わずか数時間のうちに五人が死んだ。四人が爆死、一人が射殺。

 内務省は大混乱に陥った。暗殺作戦の関係者が反政府組織側に転向し、しかも殺し屋として暴れ回るなど、考えもしなかった。しかも転向の理由はまったく不明ときている。しかし、ウガキは、平然と躊躇う気配もなく、仲間や仲間の親しい人物を殺害して回った。

 ウガキになにが起こった。どうして仲間を裏切ったのか。

 それがわかれば苦労はない。ただ、いまになっていえることは、確かに作戦直後から、あいつはどこかおかしかった。それまでのあいつなら、負傷も気にせず仕事に戻ってくるような、使命感に溢れた男だった。口数が多くはなかったが、周囲とは常に連絡や交流を図る男でもあった。ところが、あの作戦以降、あいつは、それまでの性格とは少し変わったように見えた。療養期間中は周囲と連絡を取らず、一人でいる時間を多く作っていた。あえて任務から遠ざかり、孤独と隔絶を自ら作り上げているようだった。いまにして思えば、その時間で彼はAGWの人間と接触をしていたのかもしれない。政府に憎しみを抱く老練な説得人が、わずかな時間で接触を試みて、誠忠の軍人に政府の悪行と反政府の大義を教え込み、反政府の陣営に転向するように工作を行ったのかもしれない。だが、あの男がどうして転向を決断したのか、ただの内通者になるどころか、報復の実行人まで買って出たのか、その理由がさっぱりわからない。我々がよく知っていたウガキは、あの作戦を境にいなくなったかのようだった。それ以降のウガキは、まるで別人のようだ。

 そしてウガキ、AGWとの抗争が本格的に始まった。

 ここからの歴史は、お前のような小僧でも知っているはずだ。内務省に大打撃を与えたウガキは、その功績によってAGWの領袖として迎えられ、内務省との血腥い暗闘を繰り返しつつ、政府の軍人を切り崩した。政府に不満を抱えていた軍人たちを組織に引き入れ、リョクノ以上に組織を軍隊化した。ならず者国家の連中と取引し、彼らの後ろ盾も得た。まさに驚異的な仕事量をこの時期のウガキはこなしていた。内務省はウガキの暗殺を含む数々の謀略を実行したが、そのほとんどが不首尾に終わった。おそらくこの時点から、内務省内に裏切り者が潜んでいて、そうした謀略の情報をAGWに流していたのだろうな。そうこうしているうちに、AGWはとうとう蹶起した。軍との正面衝突も辞さない覚悟で、都市東部地域を実効支配した。政府は軍を出動させ、内戦の火蓋が切って落とされた。当初猛烈な勢いで軍はAGWに攻撃を加えたが、軍隊としての体を整えていたAGWはその攻撃を撥ね退けることに成功した。それからは一進一退の状況が果てしなく続いている。ここまでくればお前にも身近な物語だろう。

 本当にききたい物語は、そういう大きな枠組みの話ではないが。

 なら、なにがききたいのだ。

 あんた自身の話だ。歴史講義ではなく、あんたとウガキになにが起こったのかが知りたい。

 

 椅子にふんぞり返っていたゴトーは、天窓を仰ぎ見た。

 朝の柔らかな光が、天窓から降り注いでいる。

 その光を見ていると、いつになく目がちかちかとするのをネイトは感じた。戦闘疲労というゴトーの言葉を思い出す。まともな休息を取っていないのは確かだ。アリスと下層部へ落ちたときから、いや、もしかすると、AGWにアジトを襲撃されたときから、肉体も精神もまともに休むことができていない。

 延々と続く語り。言葉の洪水。交錯する時間軸。奇妙かつ不可解な事件の積み重ね。ネイトの頭がじんと熱いのは、脳内に入り込もうとする情報があまりに多くて、処理が追いついていないからなのかもしれない。

 だが、この物語を追いかけなければならない、という気持ちが、ネイトの中では芽生えていた。血腥く、愚かしい歴史、歴史の一部となった物語。ある人物、ある集団の過ち、罪悪。それが連綿といまというこの瞬間、この時間に繋がっている。この物語を追いかけることは、自分が生きるいまという時間を、再解釈することだ。どのような時代、瞬間、時間に自分が生きているのかを見つめ直す。

 歴史、歴史の中に組み込まれた物語を学ぶ意義というのは、そういうものなのかもしれない。

「組織の話はわかった。戦争の話はわかった。今度はあんた個人の話がききたい」

 ネイトはいった。

「それになんの意味があるという」

 ゴトーは冷ややかに笑う。

「写真を見たんだ。机の中、ウガキの写真があった。家族や恋人の写真ではなく、あの男の写真が一枚だけ」

 目に疲れを感じているのか、ゴトーは目を瞑ってはすぐに開ける動作を繰り返していた。ネイトの言葉をちゃんときいているのかどうかは怪しかった。

「あいつの写真だけがあるだなんて、よっぽどの因縁があるに違いない。だから、俺はあんたの話がききたいんだ」

「…好奇心は猫を殺す。そういう言葉があるのをお前は知っているか?」

「それでも俺はアリスほどじゃない」

 床に横たわるアリスを指しながら、ネイトはいった。

 ゴトーは笑った。

「確かにな。この小娘は自分のアイデンティティを追い求めるのに必死なんだ。いままでの自分を形作っていた価値観や信念、記憶が揺らいでいる。必死なのも当然だ。だが、小僧、お前はそうではないだろう?」

「いまさらになって、歴史を知るってことが大事だと思えるようになってきたんだ。…なんだか、俺にも関わりがあるような話に思えて」

 ネイトがそういうと、ゴトーは少し難しい顔をした。


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