80 Nate - Mystery Man
床に吐瀉物が撒かれた。床に手と膝をついて、ごぼごぼと胃の中のものを吐き出していくアリス。目がおかしかった。表情には病的な蒼さが現れていた。異臭が鼻につく。
ネイトは顔を顰め、嘔吐しているアリスから目を背けた。
ゴトーはアリスを見つめていた。四つん這いになって吐いているアリスを、冷たい目で見下ろしている。
「なんだってあんたは…」
ネイトはいう。
「なんだってこいつを追い詰めるんだ? あんたはこいつのことが憎いのか? それとも…」
半ば苦言を呈するように、ネイトはゴトーに問いかけた。
ゴトーはすぐには答えなかった。ゴトーはアリスに近寄って、彼女が手にしている銃を奪った。うんざりとした顔でゴトーはネイトを見る。
「俺は求めに応じただけだ。過去のことを語れとこいつはいった。だから俺は語った。それだけだ。過去の重さについてこいつがどれほどの衝撃を受けようと、俺の知ったことじゃない」
「だからといって、こんな…」
「吐かせておけばいい。その方がすぐに楽になる」
ゴトーは冷たくそういった。
ゴトーがいっている傍から、アリスは二度ほど大きく嘔吐した。胃の中のものを空っぽにする勢いであった。それでようやくアリスの嘔吐の勢いは落ち着こうとしていた。アリスは白目を剥きながら大きく口を開いて深く呼吸をする。呼吸の音は苦しそうだった。取り入れた空気は喉から食道にかけて滞留している吐き気とぶつかりあう。いまはまだ吐き気の方が優勢のようで、吐き気を抑え込むことができずに、またしてもアリスは嘔吐した。だが、嘔吐の勢いは確実に弱まっている。アリスの口元では、吐瀉物が混ざった涎が糸を引いていた。
「戦闘疲労だよ」
ゴトーはいう。
「ここのところずっと緊張状態が続いていて、ほとんど休息は取れていなかったはずだ。体力の限界がきていたんだ」
まるで他人事のように割り切った口調でものをいう。ゴトーは床に撒かれた吐瀉物や漂う悪臭に顔を顰めることもせず、なにかよくあることのように平然としていた。
吐瀉物が臭う。ネイトは鼻を手で覆った。
アリスはくぐもった声を上げる。どうやらそれは最後の一押しらしい。喉まで込み上げていたものをごぼりと吐き出した。それからアリスは床に倒れ込んだ。表情に生気はなく、目は開いているが虚ろになっている。
あまりにひどい姿だとネイトは思った。アリスを見ていることができず、ネイトはずっと目を逸らしている。
動揺し、混乱しているのはネイトも同じだった。ゴトーの語りを信じるならば、アリスはセガワ大臣の娘ではなく、かつて国家に反逆を企んだリョクノ教授の娘だという。常々アリスが口にしていた不安は的中したわけだ。アリスが語った、自己同一性への懐疑、自己同一性が喪失することへの恐怖。ゴトーの語りとそれによって動揺し嘔吐するアリスを見て、ネイトはそれまで曖昧にしか理解できていなかったそれら懐疑や恐怖が急に理解できた。自分の記憶が信じられなくなること、自分が何者であるのかがわからなくなること、それらはまるで足元の地面が急に崩れ落ちて、大きく口を開いて待ち構えている深淵たる闇に叩き落されるようなものだった。混乱と困惑、そして恐怖。自分がそれまで信じていたなにか、たとえば信念や記憶や価値観が崩壊する瞬間、人は限りなく脆弱になる。アリスはいまそのような状態にあるのだ。
「体が限界を超えてしまえば、こうなることもある。お前だってこうなるかもしれない」
ネイトとは対照的にゴトーはアリスから目を逸らさなかった。ゴトーはアリスの状態が体力的な原因によるものだという。しかしネイトはそうは思わない。極端な精神的負荷が原因だと思っている。
「大丈夫なのか?」
「水を与える。だが一度に大量に与えてはいけない。時間を置いて、ゆっくりと水を与えれば、それでなんとかなるだろう」
「ひどい臭いだ」
「ろくなものを食べてないな。吐いたものになんの色もついていない。少しは栄養を考えた食事をするといい」
それは決して忠告ではなかった。それは皮肉であり嫌味だった。
アリスは俯せの状態になっていた。ゴトーは足を使ってアリスを仰向けにさせた。自分の手を汚したくないからだろう。ゴトーはまるでものを扱っているかのようだった。
「おい」
ネイトはゴトーに文句をいおうとした。
ゴトーはネイトの呼びかけを無視し、素知らぬ顔で、その場を離れた。そしてすぐに戻ってくる。わずかコップ一杯の水を持ってきたのだ。アリスの前でゴトーはしゃがみ込む。コップをアリスの口に近づけた。
「飲め」
ゴトーはアリスに水を飲ませた。ゆっくりと時間をかけてそれを行った。途中、アリスが再びくぐもった声を出したため、嘔吐するのかと思われたが、今度は吐き気を抑えることができたようで、結局嘔吐することはなく、コップの水もすべて飲み干した。
ゴトーは空になったコップをネイトの前に突き出した。
「水を入れてこい」
「なんで俺が…」
「さっさといけ」
ネイトは気に入らない口調で、気に入らない命令をされる。ゴトーはネイトの言葉に耳を貸すつもりはまったくなかった。ネイトは舌打ちをして、ゴトーからコップをむしり取った。居住スペースにある水栓を捻り、コップに水を注いだ。セーフハウスにはうってつけといっていい、インダストリアルな雰囲気で固められた空間。打ち放しの鉄筋コンクリートの壁と天井には、雨漏れの形跡があった。置いてある机、椅子、寝台はどれも古びていて貧相だ。空間を見回しても、余計なものがないことがわかる。それどころかゴトーの生活や人柄をこの空間から読み取ることさえもできなかった。生活の気配も過去の存在も感じ取れない男。ネイトは何気なく机の周りを探ってみた。引き出しを開ける。そこには古い写真が一枚だけあった。ウガキの写真だった。ネイトは困惑した。家族の写真や大事な誰かの写真ではなく、ウガキの写真をゴトーは手元に置いている。ゴトーのウガキに対する執着、あるいは復讐心をネイトは感じた。ゴトーが隠す暗い情念に、正直ネイトはぞっとした。
ゴトーとアリスのもとへ戻った。ネイトはアリスに水を飲ませてやった。アリスの目はいまだ虚ろだった。アリスがまともな状態に戻るには、もう少し時間がかかるだろう。
「次は小娘が吐いたものを、掃除しろ」
ゴトーはネイトに命令をする。
「だから、なんで俺が…」
一応は口答えをする。
「さっさとやれ」
ゴトーの台詞はもう決まっていた。
ネイトは舌打ちをする。どうして女の吐瀉物まで掃除しないといけないのか。不満を押し殺す。
「ちっ、わかったよ。いわれた通りにするから、教えてくれ」
ネイトはいった。
「あんた、ウガキといったいなにがあったんだ?」
【注釈】
Mystery Man : ノルウェー出身のギタリストTerje Rypdalの楽曲より。




