79 Alice - Mother
母の温もりが、実のところ気持ち悪かった。生温い水に浸されているような、息をさせてもらえない苦しさ、べたべたと肌に触れてくるあの生々しい感覚に対する生理的な反発を、小さなころからずっと感じていた。母の優しさはまるで人工構造物のようだった。母がアリスに向ける感情は、生の感情ではないような気がしていた。アリスを見守る母の眼差しには、なぜかいつも憐れみや同情というヴェールがかかっているような気がしていた。どうして自分の娘だというのに、母はヴェールをかけてしまうのだろう。生の感情のまま、ときに怒りや苛立ち、暗く重たい感情を露わにしてでも、自分と向きあってほしかったというのに、母は決してそれをしようとしなかった。怒りもしない、苛立ちもしない、もちろん暗い感情を一片たりとも見せたことがない。ただあのヴェール越しの眼差しが注がれるだけ、アリスにとっては生温い優しさが注がれるだけ。幼いころのアリスはそれを受け入れることにした。母にはなにか考えがあるのだろうと慮った。母の優しさを受け入れる演技をした。だが、本心では、あの忌々しいヴェールを取り払いたかった。あのヴェールを取り払うどころか勢いよく引きちぎって、生の感情のままで、母と触れあいたかった、語りあいたかった、理解しあいたかった。アリスは密かにそれをずっと、長いこと、願っていた。だがいまとなってはそれも無理な話だ。心臓に病を患った母は、人間味を欠片も感じることができない白く無機質な病室に閉じ込められてしまったからだ。月に一度、アリスは見舞にいく。しかしそれでなにができるという。それで母と触れあえること、理解しあえることなどなかった。表層的な会話に逃げ込んで、父のことや自分のことをまるで機械作業のように語り、話が尽きればそれで去る。それでも母はあのヴェールをかけた眼差しを止めようとしない。人工の優しさを見せるのを止めようとしない。そうしてアリスの成長を見守っている。アリスはそういう行為を内心気持ち悪く思った。反発と不信をどうしても抱いてしまう。そして勇気をもって自分から母と向きあうことができない自分自身に苛立ち、自己嫌悪する。
無限の温もりと優しさがアリスに与えられ、注がれた。だが、アリスは安らぎを感じることはなかったかもしれない。いつも喉に小骨が引っかかったような違和感があった。それを演技で隠してきた。安らぎを感じるとすれば、いつもあの遠く、原初的な記憶の中。混乱と悲鳴の中で自分を抱いていた女の人を思い出すとき、なぜか自分の心は安らぐ。それはいわば理性や論理を飛び越えた不可解な安らぎだ。廃墟の中で自分を必死にあやしていたあの女の人の方に、アリスはなぜか母性を感じる。
母。母性。なんとありふれた、なんとシンプルで、なんと謎めいて神秘的な概念。母とはなにかを突き詰めて考えるとき、アリスは迷宮に迷い込んだ気分になる。国語辞典はありきたりな回答を提示するわけではない。辞書にはこのように定義されている。母、親である女、なにかの根源となるものの比喩。生物学的な定義はそこに含まれていない。親となる女。つまり血の繋がり、記憶の繋がりもそこには含まれていない。それは必要条件ではない。驚嘆すべき暗喩ではないか。母であるために、生物学的な繋がり、血の繋がり、記憶の繋がりは必要ではないのだ。女である親、という漠たる定義があればそれで母という存在は成立する。母。それはアリスにとって大いなる神秘であり、大いなる謎なのだ。
ゴトーはその大いなる謎を解く鍵をアリスの前に放り投げた。いままで父、母と信じてきた存在は、血の繋がった実の父や母ではないという。義理の父や母なのだとゴトーはいう。
反発を覚えていた、反発を抑えることができなかった母親の温もり、暖かさ。ある意味でその反発や反感は正当なものだった。それは仮初、偽り、虚偽に対する反感や反発であったのだから。
母の顔が浮かぶ。それは実の母ではない。いまや血の繋がらない義理の母であることがわかった人の顔だ。彼女は優しかった。温もりを感じた。レース越しに降り注ぐ光のような愛を与えられた。だが、アリスはそれをどこか本物ではないと感じた。それだけでなく、気味悪く思った。かすかな吐き気も覚えた。
いま、ゴトーが語る歴史、言葉の洪水、提示した真実の断片に、アリスは血の気が引いた。髪を掴まれてぐいと引っ張られるように、意識が遠のいていく。ゴトーの冷たい目線と語りにぞっとする。自分にはろくでもない血が流れているとゴトーはいう。反逆者の娘、大学教授でありながら反乱者、そして教え子と関係を持った男の娘であるという。父であるという男とその男の妻は、とっくの昔に政府との銃撃戦で殺害されたという。
一体私は何者なのだ。どうしていまも生きているのだ。どうして政治家の娘という立場と待遇を与えられ、放し飼いにされて、生かされているのだ。血の気が引き、意識が遠のき、悪寒すら感じている中で、アリスは激しく戸惑った。父は、いやセガワシズルは、どうして自分を生かしたのだ。どうして自分を娘として扱ったのだ。
いや、そもそもゴトーが語る歴史は正しいものなのか。ゴトーはいう。彼が語る歴史や記憶は、あくまで彼の解釈で過ぎないと。真実がそこにあるとは限らないと。
ここまで語られた歴史は正しいものなのか。嘘、錯誤、間違い。それらが入り込んではいないか。一体どこまでゴトーが語る歴史とやらを信じればいい。
一体私は。その呟きを壊れた機械のようにアリスは繰り返す。得体の知れぬ迷宮に迷い込んだようだ。混乱のあまり息が詰まりそうになる。
ゴトーが冷たくアリスを見ている。冷静に観察しているのか。いや、どうもそうではなさそうだ。ゴトーの目線からは氷のように冷たい軽蔑と憎悪を感じる。アリスの生い立ちを心から軽蔑し、憎悪している。それを視線の冷たさで表現している。忌むべき存在であるかのようにゴトーはアリスを見ている。
視線の冷たさに息が詰まり、動悸がする。狼狽えて、壁に手をつきたくなる。意識は遠のくどころか、回転し始める。世界がぐるぐると回り始める。忌まわしい言葉、歴史、記憶が悪意をもってアリスを取り囲む。当然にそれらもぐるぐると回転している。
アリスは耐え切れないと思った。一線を越えてしまったことがはっきりとわかった。
そう思った瞬間に、アリスはとうとう吐き気を我慢することができなくなり、もはや他人の目を気にすることもできずに、喉までせり上がっていたものを盛大に吐瀉した。




