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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第3部 粛清
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73 Alice - The Man Comes Around

 光はアリスの視界を奪った。だが、なにも見えないわけではなかった。目が慣れてくれば、そして目を凝らせば、ある程度のものは見えた。

 冷たい目をした男だった。男の冷酷な性格がその目に表れているような気がした。顔つきもどこか陰険で、薄暗い場所で、常に他人を貶める策略を考えているような顔を男はしていた。男の顔には皺が刻まれていて、男がそれなりの年齢であることは推測できた。背は高く、痩せていた。新品同然の清潔な背広を着込んでいたが、背広のサイズが大きいのか、ややぶかぶかだった。

 男とは内務省にある父の部屋で、一度顔をあわせていた。一瞬の邂逅に過ぎなかったが、男の目の冷たさははっきりと覚えていた。

 そしていま、アリスは男と再び顔をあわせることになった。濁った空気に包まれた下層部の片隅、高架道路の下に広がる暗く澱がたまったような空間で、アリスと男は視線を交わした。男の部下と思しき武装した兵士たちが、アリスたちを取り囲んでいた。兵士たちは四方八方から照明を当て、そして彼らのうちの多くがアリスたちに自動小銃を向けていた。

 なぜ彼らがここに、しかも下層部のこんな荒れ果てた場所に。アリスは疑問に思った。そしてこの包囲。たまたまアリスを発見したわけではないだろう。政府は、内務省は、どういう手段によってか、アリスの居場所を掴んだということなのか。軽く混乱する。華龍盟との際どいやり取りを切り抜けた直後なのだ。一息つく暇もなく、内務省の人間とその指揮下にある重武装の部隊に取り囲まれ、そんな状況で冷静さを保つのは困難だった。

「内務省のクロキだ。セガワアリス。私たちはあなたを探していた」

 男は射抜くような目でアリスを見つめていた。一緒にいるネイトやグエンには目もくれなかった。

 不安が頭を過った。彼らはネイトやグエンをどうするつもりなのだろうか。

 男の冷酷な目を見る。人の生死になんら動じないどころか、自らの陰謀によって他人をどこまで翻弄したとしても一切の道徳的葛藤を感じないような目。彼らに助けを求め、彼らがアリスたちの要請をきき入れて行動してくれる。相対する男の目を見ていると、そんな安易な期待はとてもできないと思った。

 この状況で、自分だけが投降するわけにはいかないとアリスは思った。グエンはゴトーのもとに返す必要がある。ネイト。ネイトにはAGWに囚われたままの仲間がいる。もし自分がいま政府に投降すれば、ネイトは仲間を取り返す機会を失うことになる。いままでずっと協力しあってきた相手をどうして見捨てることができるのか。アリスはそう思った。

「安心しろ。我々は君たちに危害を加える気はない」

 アリスの不安を見抜いたのか、クロキはそうつけ加えた。

「武器を捨てろ。それからこっちへくるんだ、ゆっくりとな」

 クロキの隣にいた背広姿の醜男が呼びかける。髪が薄く、厳めしいがどこか疲れた顔をしている。なににせよいままで見た中でもっとも醜い顔をした男だとアリスは思った。

 ネイトとグエンがアリスに視線を向けていた。どうするべきなのか、と彼らは無言で語りかけている。

 アリスはすぐには動かなかった。武器である拳銃を捨てようともしなかった。弾が残りわずかとなった拳銃だけで、自分たちを取り囲む兵士たちに立ち向かえるわけはない。誰がどう考えても逃げ道はなかった。投降する以外にはなにもできないように思われた。

 時間だけが過ぎていく。沈黙が積み重なる。背広姿の二人はやがて違和感を覚えたのか、その表情に疑念の影が差した。

「早くしろ」

 醜男が叫ぶ。

 アリスは両手を上げた。右手はいまだ銃を掴んでいた。

「さっさと銃を捨てろ」

 醜男の怒気を含んだ声がする。クロキも、背広姿の醜男も、そして兵士たちも、警戒心を高めている。アリスの一挙手一投足を注視している。

 アリスが諦めて銃を投げ捨てようとしたそのとき、クロキの背後の暗闇からすっと何者かの手が伸びた。一瞬のうちにクロキの首が絞め上げられると同時に、クロキのこめかみには銃が突きつけられた。

「誰も動くな」

 ゴトーが声を張り上げた。クロキを引っ張りながら、ゴトーはゆっくりと後ろに下がっていく。

 アリスたちに銃を向けていた兵士たちの何人かが、ゴトーに銃を向ける。

 醜男が焦ったようにアリスとゴトーを交互に振り返って見やる。

 アリスは銃を投げ捨てるのを止めた。銃をしっかりと構えた。

「焦るな。落ち着け」

 ゴトーがいう。焦りを見せている醜男にいっているのか、それとも銃を向けている兵士たちにいっているのか。

「なにを馬鹿なことを…」

 銃を突きつけられているにもかかわらずどこか醒めたような表情でクロキがいう。

「久しぶりの再会だ。仲良くいこうじゃないか」

 ゴトーはそういうが、クロキは白けた顔をする。

「これで仲良くといえるのかね?」

「もう殺しあいは結構だ。ここで誰も死ぬ必要はない。いいか、誰も動くな。そうすれば誰も死なない。それから照明を落とせ、そして武器を捨てろ。そうしなければこの男の頭を吹き飛ばすぞ」

 ゴトーは兵士たちに向かって叫んだ。兵士たちのあいだで動揺と困惑の波が広がる。

 すると背広の醜男が叫んだ。

「狼狽えるな。こんなのはただの脅しに過ぎない。この男一人になにができるというのだ? いいか、惑わされるんじゃない」

 焦った態度ではあったが、醜男の声は落ち着いていた。そして醜男はよく状況を見抜いていた。兵士たちの動揺を抑え、彼らを愚かな行動に走らせまいとしていた。

 確かにゴトー一人であれば、彼がいった言葉はただの脅しに過ぎなかったであろう。だがこの場所にはゴトー以外にも人はいる。

 銃声が響き渡った。アリスが引き金を引いたのだ。アリスは狙いをしっかりとつけて銃を撃ったため、狙いを外すことはなかった。銃弾は醜男の右足を貫いた。

 醜男が悲鳴を上げる。そして地面に倒れ込む。

 取り囲む兵士たちが殺気立つ。反撃に出ようと、いまにも銃を撃とうとする兵士の姿が目に入る。

「誰も動くんじゃない」

 直後にゴトーが叫んだ。

「次は本当にお前らの上司の頭を吹き飛ばすぞ。俺も、そこの小娘も本気だ。照明を落とせ、武器を捨てろ」

 そういって兵士たちを脅し、牽制する。

 醜男は苦悶の声を上げ続けていた。

「畜生、本当に撃ちやがった」

 醜男が叫ぶ。彼が汚れた地面にのたうち回る姿を見て、クロキは顔を歪めた。クロキは呆れているようにも見えた。

「…まったく、なんてことだ」

「足を撃たれた程度では死なんよ」

 ゴトーはいった。

「こんなのでも私の部下だ。どうしてくれる?」

「自分が撃たれなくてよかったじゃないか」

「現場の人間は私よりそいつを好いている。すぐに手当てをしてやりたい」

「残念だがそうはいかん。しかしそれにしても人間性は変わっていないな。フクシマとも久しぶりの再会だ。少しばかり可愛がってやる」

 醜男の名はフクシマというらしい。フクシマを見て、ゴトーはにやりと笑う。

「なにをする気だ?」

「この男を人質として預かる。そうだな、数時間程度だ。数時間預かったあとで、この男を解放する。場所はあとで連絡してやる」

「あんたはなにを考えているんだ?」

「俺たちに手を出すな」

「まさかあんたは、私があんたたちを見逃せる立場だと思っているのかね?」

「こっちは内務省と敵対する気はない。ただ、あんたらに身柄を拘束されるのは勘弁だというだけの話だ」

「なにがしたいっていうんだ?」

 そうクロキが呟くのを、アリスはきき逃さなかった。

「AGWから彼の仲間を救い出す。その約束がまだ残っている。だからまだそっちに身柄を拘束されるわけにはいかないの」

 アリスはクロキに対してそういった。

 するとクロキはうんざりとした表情を浮かべた。

「約束だと? 馬鹿らしい。そんなもののために…」

 クロキがその先も発言を続けようとしたところで、ゴトーが割り込んでクロキを遮った。

「確かにこの小娘のいうことは馬鹿らしいが、だが確かに小僧の仲間の命がかかっている。どうせお前はこの小僧の願いなんてきき入れる気はないのだろう?」

「当たり前だ。その小僧がどういう人間なのか私は知らんが、こいつとこいつの仲間のために、我々が骨を折る道理はない」

 クロキは冷酷な視線をネイトに向けた。クロキの残酷な発言に対して、ネイトも怒りを剥き出しにしてクロキを睨んだ。

「そんな対応だから、いまあんたらに拘束されたくないのさ。ここから逃げ出すためなら、こっちはお前の頭だってぶち抜いてやる」

「やれるものならやってみろ」

 かっとなったクロキがそういった。

 即座にゴトーはクロキの首を絞め上げた。クロキがもがく。クロキの顔が真っ赤に紅潮する。ゴトーは兵士たちに銃を向けることも忘れていなかった。彼らが手出しをしないよう牽制をかけていた。クロキが窒息する寸前でゴトーは腕を緩めた。クロキは激しく喘いだ。クロキが減らず口を叩かぬように、ゴトーはすぐにまたその首を絞めつける。

「ネイト、手伝え」

 ゴトーはネイトに呼びかけた。ゴトーは視線を地面に倒れているフクシマに向けた。

 ネイトはゴトーの意図を察したのか、無言で動き始めた。

「いいか、お前たちは誰も動くな」

 ゴトーは兵士たちにいった。兵士たちが銃を構えながらも静止する中で、ネイトがフクシマに駆け寄り、アリスたちのもとへ引きずろうとする。フクシマが初め抵抗しようとしたが、ネイトがフクシマの顔に拳を叩き込んで大人しくさせた。ネイトはフクシマを引きずってくる。アリスはフクシマの頭をいつでも吹き飛ばせるように狙いをつけている。

 次にゴトーがクロキに銃を突きつけたままで、アリスの方まで近寄った。

「車に乗り込め」

 ゴトーはアリスたちに指示する。ネイトがグエンとフクシマを車の後部座席に押し込む。アリスは後部座席に乗り込み、フクシマの頭に銃を突きつけた。ネイトは助手席に回った。

「あんたもどうかしてる。こんなガキどものために」

 クロキが軽蔑するような口調でいう。

「それはお互い様だ。お前だって、そのガキのためにわざわざ下層部までやってきたわけだからな」

「セガワ大臣の娘だぞ。テロに巻き込まれてその姿を消してからというもの、我々は血眼で探していた」

「それはご苦労なことだ。だがあの娘は、しばらく上へは戻らんよ。小僧との約束もあるが、どうやら本当の自分探しに躍起になっているからな」

 ゴトーがいうと、クロキは眉を顰めた。憎しみ、あるいは怒りのこもった目で、クロキは車のガラス越しにアリスを睨んだ。

「本当の自分? 悪い冗談だろう。そんなものを知ってどうなるという? ろくでもない親とろくでもない生活。やがては悪に染まるしかない環境。それがあの娘の本当の過去だ。どれだけ過去を探ったところで、見つかるのはそんなものでしかない。なにも知らずにもとの生活へ戻った方がずっといい。そうすれば命の危険もない。後悔もない」

 ゴトーに対して語りながらも、クロキの目はアリスに向いていた。怒りや憎しみが向けられているのを感じる。だが奇妙なことに、いまクロキが放射しているそれらは、打算や利害、陰謀の気配といったものが立ち込めていない、純然たる怒りや憎しみであるようにアリスは感じた。陰謀家気質のクロキにしては珍しく、本気でアリスの行動に対して怒りや憎しみを露わにしている。

 クロキの様子を冷静に分析しながらも、アリスはクロキが語った内容について戸惑いを覚えていた。ろくでもない親と生活。それが自分の本当の過去だという。やはり自分の知らない過去が存在している。父が隠蔽し、改竄した自分についての過去が存在するのだ。

「ある人にとっては、過去や記憶は自分が存在するための必要条件だ。あの娘はなんとしてもそれを探りたいんだよ。改竄や隠蔽されたものでない、嘘や偽りが取り払われた過去や記憶とやらを」

「馬鹿げている。そんなのは狂気の沙汰だ。そのために命を危険に晒していいというのか? それに手を貸すあんたもどうかしている。そんなに本当の過去が知りたいのなら、俺が洗いざらいすべてを伝えてやる」

 クロキが激昂する。

「お前でさえ、あのときのすべてを知っているわけではない。もちろん俺でさえ。セガワさんもきっとすべてを知ってるわけではないだろう」

 ゴトーは冷たくそういった。

「なら誰が知っているというんだ? もう十七年も前のことだ。痕跡も消えている。あの事件に関与した人間もくだらない戦争のために次々といなくなった」

 十七年前。事件。男たちは一体なにについて語っているのか。

「すべてを知り得た人間は一人だけだ。ウガキだ。奴はまだ生きている」

 ウガキの名前を口に出すゴトー。クロキは苦々しい表情でいる。AGWの首魁であるウガキと、彼らはどのように繋がっているというのか。十七年前。自分の身になにが起こったというのか。

「奴から真相をきくというのか? それこそ無理な話だ。馬鹿馬鹿しい」

「真相を知っているのは奴だけだ。過去を探るというのは、結局奴から話をきき出すということだ」

 クロキは忌々しそうに唾を吐いた。やがて、なにかゴトーの魂胆に気づいたのか、クロキは薄笑いを浮かべた。

「あんたの目的はわかってる。あんたの行動原理も。あんたはあの娘に手を貸して過去のことを調べさせて、その裏で利用しようとしているんだ。ウガキに近づくため、ウガキに復讐をするために」

「推測は自由だが、それが正解だとは限らない」

 ゴトーは鼻で笑う。

「いいや、きっとそうだ。俺にはわかる。あんたは結局あんな女のために…」

 クロキがそう口にした瞬間、ゴトーはクロキの首を絞め上げた。言葉を塞いだ。

「…お前だって人のことはいえないはずだ。いまだに独身か? いまだに失った人間を忘れられず、汚い仕事に関与し続けている」

「俺は女のために落ちぶれはしない」

「落ちぶれたつもりはない。あの事件後の襲撃から目覚めたときにはもう、俺はすべてを失っていた」

「俺はあんたのような愚かな道を選ばない。愚かな選択をしない」

「ならずっと内務省の部屋に籠って、汚い陰謀を考えているがいい。お前はそうやって部下も友人もいいように操って、そして最後にはすべてを犠牲にするんだ」

「復讐を遂げるためなら、なんだってする。その覚悟はできている」

 ゴトーの罵倒に対して、決然とした表情でクロキは答えた。

「…同じ言葉をそっくり返してやるよ」

 ゴトーはいう。男二人は激しく憎みあっている。アリスは大きな不安と戸惑いを抱えながら、周囲に目を向けた。自分たちを取り囲み、銃を構える兵士たち。静止し、沈黙こそしているが、隙を見せれば、なにかしらの行動に出てもおかしくなかった。ゴトーとクロキが口論をしている間にも、兵士たちが独自の行動を起こしてしまう恐れがあった。

「ゴトー」

 ネイトがゴトーに呼びかける。その一声でゴトーは状況を察したのか、クロキを睨みつけることを中断した。

「フクシマはあとで解放する。しばらく俺たちを自由にしろ」

「あんたらを信用できるとでも?」

 疑いの目でクロキはいう。

「大丈夫さ。俺たちはあんたらと敵対する気はない。利用はするがな」

「我々を利用するだと」

「それもお互い様だ。俺たちも、あんたらも、お互いに利用しあう。上手くいけば、ウガキを誘き出せるかもな」

「あんたは夢を見ている。復讐にとり憑かれて、おかしくなっているんだ」

「だとしたらなにが悪い? 俺もお前も、あいつを殺したくて仕方がないというのに」

 そういってゴトーは笑う。クロキを突き放し、自分は車の運転席に乗り込む。

「しばらくは追ってくるなよ。追っ手を見かけた瞬間に、フクシマを殺してやる」

 クロキと兵士たちにゴトーは警告する。アクセルを踏んで走り出す。暗闇を突っ切るおんぼろ車。アリスはフクシマの頭に銃を突きつけながら、ミラーを睨む。疑念と疑惑。戸惑いと混乱。千々に乱れた思考。男たちが交わした会話。尋ねたいことは無数にあった。

 ゴトーはアリスの視線に気がついた。

「質問はあとだ。まずはここから離れるのが先だ」

【注釈】


The Man Comes Around : 米国のカントリー歌手ジョニー・キャッシュ(1932-2003)が晩年に発表した楽曲より。

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