71 Emma - Lies and Truth
死体が二つ転がっている。地面は死体から流れ出た血を吸い取っている。
頬になにか暖かいものがこびりついているのを感じ、エマは自分が返り血を浴びていたことに気がついた。濃厚な血の臭いが自分の周りに立ち込めていた。突然の銃撃に、そしてその銃撃に驚いて隙を作ってしまったこの状況に、エマはぶるりと寒気がして、鳥肌が立った。味方だったスースロフの配下二人を容赦なく撃ち抜いた銃口は、いまエマに向けられていた。
グロスマンがまるで虫けらを見るような目で、エマを見つめていた。
裏切り者。エマは約四十八時間に渡る華龍盟とスースロフ一派の抗争劇に思いを馳せる。いまからすればそれは果たして抗争と呼べるものだったろうか、とエマは疑問に思うくらいに、華龍盟はスースロフの勢力を圧倒した。組織力、物量差を活かした攻勢によって、スースロフの勢力は華龍盟に徹底的に追い詰められている。だが、その華龍盟の攻勢を下支えしたのは、スースロフ一派の内部にいた裏切り者が流した情報であろう。抗争が始まってから華龍盟が即座にスースロフの勢力の拠点を的確に攻撃し、一派の主要な幹部や構成員を殺傷することができていた。内部に裏切り者がいなければ、あのように迅速で鮮やかなまでの攻撃はできないだろうとエマは見ていた。そしていま、エマのその読みは見事に的中していたわけだ。ずっとエマと行動をともにしてきたグロスマンが、華龍盟に情報を流していたのだ。
この状況を傍で見ていたトミイは、口の端を持ち上げた。
「ようやく、いまになって協力か」
トミイはいう。
グロスマンはエマからトミイに視線を移した。グロスマンの虫けらを見るような目は変わっていなかった。
「裏切りの痕跡を消す必要があった」
グロスマンはいう。
「ああ、そうだろうよ。仲間に俺と繋がっているってことを知られたら、お前の立場がないものな。…さあ、その女も撃てよ。そいつも、お前と華龍盟の繋がりを知ってしまったからな」
トミイはエマを指差した。エマに憎しみの目線を投げかける。
「お前とは第八地区で会ったな。なんだって、俺の邪魔をする? 小娘をまだ狙っているというのか? ここまで追いかけてきやがって、なんて忌々しい女だ」
トミイが憎しみの言葉を吐く。
エマは顔を歪めた。不意にソンの死に様が脳裏を過ったのだ。拷問を受けてひどく傷つけられ、指の爪も剥がされていたソン。自分が手をかけることで、彼女を楽にしてやるしか方法がなかった。ソンの死を思うと、目の前の男に対する怒りが湧き上がる。この男が華龍盟とスースロフのあいだに抗争を引き起こさなければ、ソンは死なずに済んだ。トミイを殺してやりたい。どす黒い怒りと憎しみに顔が歪む。
トミイはそんなエマを見て、へらへらと笑う。
「…へっ、お互い獣のような顔をしてやがる。裏切られた気分はどうだ? 仲間だと思っていた相手は、俺の味方だったわけだ。ずっと最初から、それこそ第八地区でお前と遭遇したときから、グロスマンは俺たち華龍盟と通じていた。第八地区でお前の前に現れたのも、ただの偶然ではない」
公営住宅の一室で、トミイとの格闘に負け、殺されかけた瞬間をエマは思い出す。
「あのときお前は助けられたんじゃない。むしろ俺が助けられたのさ。公営住宅にスースロフの手下が殺到する中で、逃げ道を確保してくれたのはグロスマンだ。スースロフとの抗争が始まったとき、スースロフの部下や拠点の情報もこの男が流していたわけだ。こちらと通じていたから、この男は華龍盟の襲撃から生き延びたんだ。そのせいでお前も生き延びたようだがな」
次に思い出したのは、グロスマンの事務所で襲撃を受けた瞬間だった。グロスマンの部下が次々と撃ち殺されていく中で、グロスマンとエマは生き残った。
「最初からそういうことだったのか」
エマは呟いた。トミイはにやりと笑った。
「そう、最初からそういうことだったのさ。だが、こんな場所にまでお前がやってきて、俺の邪魔をするとは想定外だった。計画では、スースロフの部下がここへこないようにグロスマンが手を打つはずだった。お前が想定外の行動をしてグロスマンを振り回したのか、もしくはさっき死んだ仲間二人の目を欺くのが難しかったのか。…事情はどうあれ、おかげで俺たちの最大の目的である小娘は逃げちまった」
トミイは彼方にあるオレンジ色の柵を見やった。エマもそちらを見たが、そこにはもう誰もいなかった。
「さあ、お喋りはもう終わりだ。お前は十分にやったよ。まだ小娘たちは遠くへはいっていないだろう。十分追いつける。そして、お前はここで終わりだ」
トミイは勝ち誇ったような顔でいう。トミイはもう勝ちを収めたと思っているつもりなのか。
「そういえばあのとき、お前の名前をききそびれていた。女、お前の名前はなんだ?」
トミイが名前を尋ねる。無邪気に、なんの疑いもなく、自分の勝利を信じている。
エマは笑いが堪え切れなくなった。腹を抱える。体を二つに折ったようになる。女らしさをかなぐり捨てて、トミイを哄笑してやる。
その哄笑の異様さに、トミイの顔から微笑みが消える。そして次に勝ち誇った表情が消える。すぐに異変を感じ取れる辺り、この男の嗅覚はそれなりに優れているのだろう。
「私が終わりだって? 終わりなのは、お前の方さ。そして、私にとっては、小娘などもうどうでもいい。私の目的は、お前だ」
「なに?」
「リャンとの取引が成立した。リャンはお前を裏切ったよ。私はAGWの人間だ。華龍盟がAGWとの麻薬取引でやらかした重大な約定違反につき、私はリャンとある取り決めをした。華龍盟による約定違反についてAGWは目を瞑る。両組織は今後も取引を継続し、AGWがなにか賠償を華龍盟に請求することもない。責任も追及しない。ただ一点、お前の命を除いては」
「なにをいっている?」
トミイが叫んだ。
「リャンはお前を売り飛ばしたってことだ。リャンはAGWの取引担当者を抱き込んで、麻薬取引における約定違反を隠蔽しようと目論んだ。私がそれを見破り、リャンを脅した。リャンは部下の命と我々との取引を天秤にかけて、我々との取引を選択した」
「馬鹿な…」
「リャンがそういう男だって、お前もよく知っているはずだろう?」
エマはいった。
グロスマンが銃口の向きを変えた。銃の引き金を引いて、発砲した。鮮やかで、どこか乾いた音を立てた三連射。トミイは銃弾を浴びて後ろ向きに倒れた。
トミイが動かなくなったのを確認して、グロスマンは銃を下ろした。
「片づいたな」
グロスマンはいった。
エマは大きく息をついた。
「…お前が私を撃つのではないかと思って、ひやひやした」
いいながら、エマは額の汗を拭った。額だけではなく、背中や脇の下にも多量の汗をかいていた。
チョウとともに見つけ出した不正の証拠をリャンのもとへ持ち込み、エマはリャンを脅した。リャンは華龍盟に内通していたグロスマンにトミイの殺害を許可した。同時にグロスマンは裏切りの痕跡をかき消す必要があった。トミイの配下を仲間とともに殺害した上で、トミイを追い詰め、トミイがグロスマンの内通について口を開く前に、トミイも仲間も始末する。不都合な人間をすべて消し去ってしまえば、組織への説明はどうとでもなる。冷酷で保身に長けた仕事人。エマはグロスマンにも自分と同じくどす黒くて闇の深い血が流れていて、他人の生死や仲間への裏切り、巧みに自己保身を図ることについて一切の躊躇を見せない自分と同種の人間なのだと思った。
エマがグロスマンの素性を知ったのは、リャンとの交渉がまとまったときだった。リャンがそれを明かしたのだ。そのときもエマはひどく汗をかいた。背筋は凍った。ある意味でエマは泳がされていたことになる。内通者としてグロスマンに与えられた任務は二つ。スースロフ一派についての情報提供、華龍盟関係者の活動の支援。エマと行動をともにしたのは、トミイがいったように、組織の抗争から距離を置いて身の安全を図るとともに、自身が自由に行動するためだった。状況次第ではエマも始末されていたかもしれない。グロスマンがエマに手を出さなかったのは、エマが華龍盟の取引先であるAGWの人間だからだ。リャンの深謀遠慮を感じる。大臣令嬢を追跡するAGWの人間を泳がせて、AGWの思惑を探る。そしてAGWよりも先行して令嬢を捕まえる。リャンが描いた青写真はそんなところだろう。だが、今回はその策謀も空回りしたようだ。策士策に溺れる。リャンはエマを泳がせ過ぎた。泳がせていたはずのエマから脅迫を受けて、令嬢を諦め、部下の命を売り飛ばすことになった。もっとも、部下一人の命と引き換えにして、過去の約定違反とその隠蔽行為は水に流して、今後も両組織は取引を継続するという確約を得た点で、リャンもそれなりの利益は確保している。どいつもこいつも裏切りと騙しあいを繰り返している。自分の利益と身の安全が保証されれば、簡単に立場や方針を変えてしまい、そのために誰かを犠牲にすることを厭わない。
「だが、どこかであんたは気づいていたのだろう?」
裏切りの兆候を事前に掴み取っていたのではないか、とグロスマンはいう。
エマは確信があったわけではないと断りながらも、こう返した。
「ウクライナの人間、それもユダヤの出のあんたが、スースロフのような生粋のロシア人で、国粋主義的な性格の人間に大人しく従っているなんてのは、正直あまりしっくりはこなかった」
それに、とエマは続ける。
「私のような人間と行動をともにする時点で、まともではないと思っていた」
エマがそういうと、グロスマンは笑った。その笑いは、エマの指摘が図星であると暗に語っているようだった。
「確かにな。どう考えてもまともじゃない」
「どうして私と一緒に行動を?」
「正直なところ、お前が気に入ったからだ。お前とともに行動するのは、悪くないと思った。それだけさ」
どこか嘘くさくグロスマンはいう。真実だとは思えず、エマは鼻で笑った。
「もう少しまともな嘘があるはずだ、エヴゲニー」
「信じる信じないは、お前の自由だ」
にべもなくグロスマンはいう。エマは苦笑した。
「小娘はどうする?」
グロスマンは遠くにある仮囲いを眺めた。
「すぐに追いつけるさ。そっちはどうするんだ? スースロフにはどう報告をする?」
「あいつはもう終わりさ。華龍盟はもはや手を緩める気もない。最終的解決だよ。リャンは自分を無下に扱ったスースロフを許しはしない。だからわざわざスースロフのところへ戻る必要がない。俺はもといた場所に戻るさ」
「華龍盟へ?」
グロスマンは頷いた。
「俺はトミイとは違う。俺は昔から華龍盟の構成員だ。スースロフのところにいたのは、組織の命令で潜り込んでいただけに過ぎない。実をいえば、華龍盟は以前からスースロフを危険視していたんだ。凶暴で抑えが効かず、理性や知性で話がまとまらない。敵になっても困るし、ましてや商売相手になっても困ると組織は思っていた。だから、監視役として俺が潜伏することになった」
「ならモスクワでスースロフに拾われたって話は嘘か?」
「いいや、それは本当さ。奴が取引のために極秘でモスクワに帰った際、偶然を装って俺は奴に接触した。そして奴に拾われた、ということだ」
「欺瞞の中の真実。説得力のある真実を作ってしまえば、他のすべても真実に見えてくる。そういうわけだな」
「俺もあんたも、そういうのは得意だろう?」
「それはどういう意味だい?」
にやりと笑いながら、エマはグロスマンに尋ねた。
グロスマンも笑みを湛えながら、返事をしようとした。
その瞬間、グロスマンの背後に人が立った。音もなく、すっと現れたようだった。そしてグロスマンの背中に激しくぶつかる。次の瞬間にはグロスマンが地面に崩れ落ちた。血に濡れた銀の刃が闇の中で鈍く光っている。ナイフを手にしたトミイが、荒い息を吐きながら、エマを睨みつけている。トミイの腹と胸には被弾した痕跡があったが、血が流れていない。トミイは防弾着を着込んでいるととっさにエマは悟った。
トミイがナイフを構えてエマとの距離を詰める。エマの胸を突き刺そうと迫ってくる。
エマは自動小銃を手にしていたが、銃を構えるには遅過ぎた。銃を撃ったとしても、敵のナイフの刺突がこちらにも届く。トミイはエマと刺し違える覚悟でいる。
エマはトミイに向かって自動小銃を強く突き出した。それでトミイの突進を食い止める。だがそれでもトミイがナイフで突いてくる。その一撃を躱す。腰に差し込んだ拳銃を片手で抜いて、トミイの太腿を撃ち抜いた。トミイが姿勢を崩した。その隙にエマはトミイの腹を全力で蹴った。太腿を撃ち抜かれた痛みもあってか、トミイが倒れる。エマはトミイに銃を突きつけた。
「私の名前をいってやろうか? 私の名はエマだ」
トミイの反応を待つこともなく、エマは銃を撃った。至近距離からの銃撃で、躱しようもなかった。トミイの頭が砕けた。トミイの顔が判別できなくなるまで、エマはトミイに銃弾を撃ち込んだ。
肩で呼吸をする。心臓は激しく鼓動し、なにか異様な興奮に包まれていた。エマは刺されたグロスマンのことを思い出し、彼に駆け寄り、介抱する。
「エヴゲニー」
彼の名前を呼ぶ。グロスマンはエマを見つめた。
「…ドジを踏んだよ」
グロスマンは笑った。エマはグロスマンの背中の傷を確かめた。夥しい出血だった。地面にはすでに血だまりができていた。ナイフの扱いに慣れた、的確な一撃をグロスマンは喰らっていた。見る見るうちにグロスマンの顔色は悪くなっていく。絵の具が切れかかったところの線のように、グロスマンの意識が薄くなっていく。エマは服を丸めて傷に当てることで止血を試みた。それで出血を押しとどめようとしたが、それでもその処置が遅過ぎたことを痛感していた。
すでに手の施しようのないところまできている。ここには衛生兵もいない。救急車がくることもない。誰がどうやって彼を助けられるというのか。
エマは唇を噛んだ。険しい顔で、グロスマンを見つめることしかできなかった。
グロスマンも自分の状態がわかっているようだった。だから、その顔には諦めの笑みが浮かんでいた。
「嘘と真実。それを混ぜあわせたのが人生だ。あんたも、俺も、そういう風にして生きてきた。俺にはあんたのことがわかるよ」
「だから私と一緒にいたのかい?」
「そうさ」
「でも私と一緒にいたのは、打算があったからだろう? そうでなきゃ…」
「真実の中の嘘のように、嘘の中にも真実がある。あんたを欺いてはいたが、あんたと一緒にいて、楽しかったよ。…あんたはどうだい?」
「私もさ、エヴゲニー」
「それはよかった」
満足そうに笑うグロスマン。声は弱々しくなっていた。
エマはなんとか微笑みを作った。グロスマンの体を抱えながら、じっと彼を見つめていた。
グロスマンはいう。
「…だが、あんたと一緒じゃ、やっぱり命がいくつあっても足りないな」
穏やかな微笑みとともに、彼は呟いた。そして彼の目から光が消えた。彼の大きな目は薄く開いていたが、それでもどこか目を閉じているようにも、あるいは眠っているようにも見えた。
「エヴゲニー…」
エマは彼の名を呟き、彼の目を優しく閉じてやった。そして彼を地面に横たえると、しばらくエマは項垂れた。
【注釈】
グロスマン:「大きな男」を意味し、ドイツ語圏及び東欧のユダヤ人家系に多く見られるファミリーネーム。東欧の一部であるウクライナ(特に南西部のガリツィア地方)にもユダヤ人が多く定住していた。ロシアは帝政時代、ソビエト時代を通じてウクライナをその支配下に置いた歴史があるだけでなく、ポグロムに代表されるユダヤ人迫害、反ユダヤ主義を展開した歴史もある。エマの指摘を詳述すれば、反ロシアの気質が強いとされるウクライナ中部に生まれ、しかもロシアから反ユダヤ主義に基づく迫害を受けてきたユダヤ人家系にもかかわらず、ロシア人に大人しく従っているのはどこか違和感があったということである。
最終的解決:ナチスドイツが用いた隠語「ユダヤ人問題の最終的解決(The Final Solution to the Jewish Question)」に由来する。最終的解決とは、組織的な大量虐殺を意味する。組織的虐殺を婉曲に表現するため、この最終的解決という言葉が用いられた。




