70 Alice, Nate, Tommy, Emma - Sound and Fury
付近に聳える高層建築の窓から零れる蒼ざめた光は、際限なく高まっていく興奮を幾分か和らげた。夜の冷厳さがこれほどありがたいと思えたことはいまだかつてなかった。一陣の風がこの殺風景な土地に吹き抜けて、雑に染め上げたアリスの金髪を戦がせた。風の冷たさが、心の焦りと動揺を鎮める。
一歩踏み出す。もうネイトを振り返ることはしなかった。これ以上彼を振り返って見つめれば、彼と共謀していることを敵に悟られてしまうだろう。アリスは強張った顔で、前を見た。グエンとトミイが目に入る。苛立っているトミイと、アリスと同じような顔をして、足を引きずりながら前へ進もうとするグエン。
ゴトーはいつ口火を切るつもりなのか。数秒後なのか、それとも数分後なのか。アリスは内心では焦りながら、ゴトーの合図を待っていた。ゴトーはまだなにも言葉を発しない。
「すれ違うまで、手を出すな」
「そっちこそ」
ネイトが叫ぶと、トミイも叫び返す。仲良く互いに神経を尖らせている二人。火薬庫の蓋は開きかかっている。あとはなにをきっかけに爆発するかが問題なのだ。冷たく、熱い夜。胃が急に重たくなった。緊迫感が胃を締めつけ、さらには胸へとせり上がってくる。アリスは吐きそうになった。歯を食いしばって、冷静を装った。
グエンと歩調をあわせるように、アリスはゆっくりと前進した。すれ違うまではあと数歩の距離しかない。固唾を飲んで見守っているネイトとトミイ。
三歩進んだ。あとお互いに一歩進めば、肩が並ぶ。トミイがいまかいまかとアリスを待ち構えている。どうする。アリスは全神経を尖らせた。
「並んだ瞬間に、グエンごと一緒に地面に伏せろ」
足を踏み出す前、ゴトーの声がきこえた。ようやくの指示。
一歩進んだ。グエンと肩が並んだ。なにも知らないグエンと目があう。彼の服を掴み、彼を押し倒すようにして地面に伏せる。グエンは驚きながらも抵抗はしなかった。二人は素早く地面に伏せることができた。
「女を確保しろ」
異変に気づいたトミイが即座に背後を振り返り、大声で叫んだ。
だが、もう遅かった。ゴトーの銃弾は解き放たれている。
自分のすぐそばを銃弾が掠めた。異様な風圧と、直後にきこえた誰かの人体を抉る生々しい音でそれがわかった。ヴァンのバックドアから真っ先に飛び出した仲間の一人が、首筋を撃ち抜かれて倒れた。血が派手に飛び散った。
「女を確保しろ」
トミイが繰り返しそう叫んだとき、またも銃弾が体を掠めた。トミイは思わず地面に伏せた。
三人の仲間たちがヴァンから飛び出す。仲間たちは姿勢を低くしながら、地面に伏せている女に駆け寄ろうとする。女を捕まえてしまえば、こちらの目的は達せられる。
破られた約束。グエンとネイトの二人は、女を確保したあとで殺してやる。
アリスさえ捕まえてしまえば、自分たちの勝利だ。
トミイは体を起こして、先ほど自分で投げ捨てた銃を拾おうとした。
そのとき、視線の彼方で、銃火が飛び散るのが見えた。甲高い音を発しながらの、小刻みな連射。それはゴトーによる狙撃ではなかった。明らかに自動小銃のセミオート射撃と気づいた。女に駆け寄ろうとした仲間たちを、容赦なく銃弾は貫いた。足を撃たれた仲間の一人が、倒れ込む。仲間全員が背後を振り返った。
その瞬間、また闇から銃弾が撃ち込まれてくる。
一体どうなっている。
考える余地もなかった。仲間たちが闇に向かって銃を撃ち返す。激しい銃の撃ちあいになる。銃弾が乱れ飛ぶ。
アリスを確保しなければならない。
混乱の最中で、トミイは我を取り戻した。銃を拾おうとする。もはやグエンとネイトは邪魔者でしかなかった。二人を素早く撃ち殺して、アリスの身柄を押さえてやる。
腰を屈めて歩き、地面に落ちた銃に手を伸ばした。銃を掴むと、まずはネイトに狙いをつけようとした。
「アリス」
後方にいたネイトが叫んだ。
そのときのアリスには、投げ捨てた銃を拾おうと動き出すトミイの姿が見えていた。
ネイトはトミイよりも先に銃を拾っていた。そしてネイトはその銃をアリスに投げた。低い放物線を描いて銃が宙を飛ぶ。アリスは後手にその銃を掴み取った。すぐに銃を前に持っていき、もう片方の手をぴたりと添えて、銃を構えた。狙いを定める。
そのときトミイはようやく銃を拾ったところだった。まだ銃を構えてもいなかった。トミイの視線はネイトに向いている。トミイはネイトを撃つつもりなのだ。
アリスは銃の引き金を引いた。素早く二発撃った。一発目は外した。だが二発目の銃弾が、トミイの腹に当たった。
銃弾を受けたトミイは前のめりになって地面に倒れ込む。
「敵と距離を取れ。しっかり狙いをつけるんだ。無闇に銃をぶっ放すんじゃない」
エマはロシア人たちにそう指示した。
なんとか取引に間にあった。エマたちが現場に乗り込んだときには、もう銃撃戦は始まっていた。何者かの狙撃によって、ヴァンから飛び出した男一人が死んだ。
いまエマたちは、ヴァンから降りてきた残りの男たちを相手にして銃を撃ちあっている。
ロシア人たちがようやくいまになって乱入してきた。
闇の中で飛び散る銃火を見つめながら、アリスもネイトもロシア人たちの到着を悟った。
トミイはアリスの銃撃を受けて、地面に倒れている。トミイの仲間は、ロシア人たちとの撃ちあいを余儀なくされている。
逃げ出すならいましかない。
ネイトはアリスとグエンのもとへ走った。グエンは弱っていた。ネイトはグエンの手を見てぞっとした。グエンの右手の、人差し指と中指がなくなっていた。右手の皮膚は血塗れで、その血も時間が経過して固まっているようだった。トミイたちによって拷問を受けたのだろう。動揺と恐怖を堪えながら、ネイトはアリスとともに、グエンの肩に手を回して、担ぐ。そして走り出した。
逃走経路はすでに決めてある。まずは四十メーター先のコンテナまで辿り着く。そこからコンテナの群れを潜り抜けながら、北へ向かってひた走る。敷地を囲うオレンジ色の柵を超えた先に、逃走用の車がある。
背後を気にする暇もなく、必死になって前へ進む。
乗りつけてきた車を遮蔽物にする。闇の向こうから敵の銃弾は飛んでくるが、どれも大きく外れていた。
銃声に耳を澄ませると、敵がどのような銃を使っているのか、エマはすぐに想像がついた。どすりという鈍い音とばらばらというやけに小刻みな音が交互にきこえた。おそらく敵が使っているのは散弾銃と短機関銃だろう。近距離での撃ちあいを想定して、敵はそのような銃を選んだようだ。
「しっかり狙って撃て」
エマはもう一度指示を出した。
完全に敵の虚を衝いている。エマにはその感覚があった。敵の銃撃を見れば察しはつく。制圧射撃ができていない。敵は単に交互に銃を撃っているだけのように見える。敵による短機関銃の乱射も、戦術的な意図をあまり感じることができなかった。敵は混乱し、無闇に銃を撃ち放っているだけのようだった。敵が乗りつけたヴァンは、まだヘッドライトがついたままになっていた。それがエマたちにとっての照明の役割を果たしていた。敵はそのヘッドライトによって自分たちの位置が特定されやすくなっているというのに、それをいまだに消そうとしない。おそらくはライトを消す余裕さえ失っているのだ。それほど敵は慌てふためている。
エマたちは敵と十分に距離を取った上で、銃を撃った。エマも、グロスマンも、そして華龍盟の包囲を突破して駆けつけたというグロスマンの仲間三人も、皆自動小銃を装備していた。敵の武器よりも、自分たちの武器の方が射程距離は長い。十分に距離を取れば、こちらが被弾する可能性は低くなる。
隣でグロスマンが銃を撃つ。セミオート三発の射撃。散弾銃を撃っていた大柄の男を撃ち抜く。大柄の男は倒れ、隣にいた男の仲間が動揺するのが見えた。エマは狙いをつけて、その仲間を撃った。エマが放った銃弾は、手前の地面に着弾した。もう一度撃とうとしたとき、敵が撃ち返してきた。短機関銃の乱射。エマもグロスマンも遮蔽物に隠れる。隠れるのに遅れたグロスマンの仲間の一人が、肩を撃ち抜かれて赤い花を咲かせた。被弾時の衝撃で仲間が地面に倒れ込む。グロスマンが駆け寄って傷を確かめる。
「運が悪い。だが、死ぬほどの傷じゃない」
グロスマンがいう。
敵の乱射が止んだ。即座にエマは遮蔽物にしている車の陰から身を乗り出した。弾倉を取り換えている敵の姿が見えた。エマは狙いをつけて銃を撃った。銃弾が敵の顔に直撃し、顔を吹き飛ばす。
これで敵を二人撃ち殺したことになる。何者かの狙撃で死んだ者も含めると、敵は三人死んだ。
「これで敵は片づいたか?」
グロスマンの仲間の一人が、軽い調子でいった。そいつがへらへらと笑っているのを見て、エマは苛立った。
「様子を確かめよう」
仲間が軽率にも立ち上がったその瞬間、銃声がきこえたかと思うと、立ち上がった仲間が胸や腹に銃弾を撃ち込まれて、エマに倒れかかってきた。血の飛沫がエマの顔にかかる。畜生と喚きながら、エマは倒れかかってきた仲間の死体を脇にどかした。エマは顔にかかった血を拭った。
「気を抜くからそうなるんだ、間抜けが」
エマは仲間の死体に唾を吐きかけた。
グロスマンと目をあわせた。視線による会話。先にエマが陰から飛び出した。銃を乱射する。乱射の最中に敵の位置を見定める。射撃を止めたとき、すぐに片手でグロスマンに合図を送り、敵の位置を伝えた。エマの射撃が止んだのを契機にして、敵がヴァンの陰から身を乗り出して銃を撃とうとしていた。だが、グロスマンが先に銃を撃っていた。胸の上、首のちょうど下あたりを撃ち抜かれて、敵は崩れ落ちた。
これにより、敵は完全に沈黙した。
警戒しながらエマたちは前進する。敵が乗ってきたと思われるヴァンの付近を探る。死体が四つ転がっている。血や肉片が地面に飛び散って、凄惨な地上絵ができあがっている。
子どもたちの姿はない。トミイの姿もない。
「追いかけるぞ」
エマはいった。
コンテナの群れに紛れ込んだとき、完全に子どもたちの姿を見失った。
みっともなく息を乱しながら、激しく喘ぎながら、トミイは周囲を見渡した。だが、ネイトたちの姿はなかった。錆びついたコンテナの配列が見えるだけだ。連中はどこへ身を潜めたのか。
先ほどから銃声がきこえなくなった。敵味方、どちらかがやられたのだ。
トミイは錆びたコンテナに寄りかかり、傷に手を当てた。腹、正確には脇腹をアリスに撃たれた。銃弾は防弾着で防いだが、着弾による強い衝撃は以前に負った脇腹の傷を開かせた。第八地区で赤髪の女に負わされた傷だ。傷は激しく痛んだ。思いのほか出血がひどい。
まんまとゴトーの策略に引っかかった。アリスも共犯者だった。あの男は、あの小僧は、あの小娘は、最初からトミイたちを出し抜くつもりだったのだ。まったくの欺瞞、でたらめでしかなかった取引。しかしわからない。一体どうしてゴトーはあの小娘に手を貸すことにしたのか。小僧に手を貸すというのならまだわかる。だが、なぜあの三人は結託することになったのか。まさかあの小娘に、ゴトーもネイトも誑かされたということなのか。まともな、もっともらしい解答を見つけることができず、トミイは困惑する。
それからあの闖入者たちだ。闖入者たちのかけ声をきいた。ロシア語だった。それで連中が誰なのかがわかった。おそらく華龍盟の包囲を突破したスースロフの配下。取引現場の情報を彼らに流したのはゴトーだろう。ロシア人たちの執拗さにうんざりする。同時に、彼らの行動を抑え込むことができなかった内通者に対する怒りが湧いてくる。奴は一体なにをやっているのか。
なににせよ、計画は大きく狂ってしまっている。いますぐここから逃げ出すべきか。それも考える。
だが、小僧と小娘はまだ近くにいる。トミイはそれを感じる。小僧と小娘の気配が、まだ自分のいる場所付近に漂っていた。奴らは足が不自由なグエンと一緒だ。そう遠くへはいけない。
逃げ出すにはまだ早い。トミイは決断した。脇腹の傷に手を当てながら、歩き、周囲を探る。弾薬はまだ残っている。ロシア人たちが追ってこようが、ゴトーが現れようが、連中との銃の撃ちあいは望むところだった。連中に対する怒りと憎悪でトミイの体は興奮していた。薬を使ってもなかなか得ることができなくなった興奮だ。興奮は痛みを遠くに押しやる。痛みは感じるものの、しかしそれはどこか遠くで、しかもかすかに痛んでいるようにしか感じなくなる。それはもしかすると多量の出血と興奮によって、脳が錯覚を引き起こしているだけのかもしれない。トミイは力を奮い起こした。ショスタコーヴィチの勇壮なメロディを口ずさむ。コンテナの群れの中を彷徨い歩く。逃げていった子どもたちを追い求めて。
子どもたちへの捻くれた憎悪。犯罪に関わろうとする子どもは皆死んでしまえばいい、それどころか皆殺してしまいたいという思い。若いころに仕事で子どもを殺すことができなかったことへの反省と後悔が反転し、屈折し、捻じ曲がった結果としての憎悪。子どもはこんな血に塗れた世界に身を置くべきではない、足を踏み入れるべきではない。だからそんな世界に足を踏み入れる子どもは、特に自ら進んで足を踏み入れようとする子どもは、皆殺しにしてやりたい。反省と後悔。かつて殺すことができなかった子どもの幻影が見える。なぜ、いまになってその幻影が現れるのだ。殺すことができなかった子どもと、いま自分が追いかけている子どもたちが被って見える。あのとき殺すことができなかった子どもが成長をすれば、いまのネイトのようになっていたのだろうか。記憶は必ず風化するものだ。実のところ、あのとき殺せなかった子どもの顔は、もはや朧になっていた。あの子どもがその後も無事に生きているとはとても思えない。親を失い、悲惨な世の中に一人で取り残された。子どもの絶望的な境遇を思えば、やはりあのとき親と一緒に殺してやるべきだったのだ。
こんな切迫した時間であっても過去について考えてしまうのは、どうやらいよいよ身体が深刻な状態に陥った証拠だと思った。興奮は痛みを遠ざけたが、視界は霞んできており、頭はとりとめのない思考を始めていた。それでもまだ体は動く。子ども二人を捕らえることくらい、たいしたことではない。
気配を辿る。足跡を辿る。激しい銃の撃ちあいはついに終息し、辺りは雪の日の早朝のような静けさと冷たく澄んだ空気に包まれていた。血と硝煙、土埃の臭いは不思議としなかった。この近くにある運河の水気が、それらを追いやっているのだろうか。
錆びついたコンテナの配列がようやく途切れ、数十メーター先にオレンジの仮囲いの柵とその柵に向かって懸命に歩いていく人影が見えた。
トミイは銃を構えた。狙いをつけ、引き金に指をかける。
コンテナの陰からエマが飛び出してくる。
トミイはそれに気づいていなかった。
引き金を引いた。撃ち放った銃弾が、銃を構えていたトミイの手に当たった。トミイの拳銃が手から零れ落ちる。トミイがこちらを向いた。まるで幽鬼のような怒りと怨念に満ちた顔で、エマを見ていた。
エマは銃をトミイに突きつける。エマの背後には、グロスマンとその仲間二名が控えている。グロスマンたちが放つ異様な殺気と憎しみはエマの背中にもじりじりと当たっていた。
トミイもまた怒りと憎しみを放出している。絶体絶命の状況だというのに。いや、絶体絶命の状況だからこそか。憎しみは、すべてを凌駕する。しかし、なにに対する、誰に対する怒りと憎しみなのだろうか。エマは疑問に思った。トミイはこの状況に対して怒っているのだろうか。
「一体どういうつもりだ?」
トミイはいう。
自分に対しての発言ではないとエマは感じた。誰に向かっていっているのか。
「仲間とその女を引き連れて、俺の邪魔をしやがって。計画と違う。てめえはなにを考えている」
トミイは怒鳴った。
エマはトミイの視線を辿った。さっと振り返る。トミイが睨んでいる相手は、グロスマンだった。
「役立たずのもぐらが」
トミイがグロスマンを罵る。
次の瞬間、グロスマンがまったく唐突に発砲した。二発の銃声が轟き、闇の中で血が舞った。二人の男が崩れ落ちる。グロスマンは仲間二人の頭を吹き飛ばしたのだ。
味方に対しての突然の発砲に、エマは凍りついた。
次にグロスマンはエマに銃を向けた。
そのときのグロスマンの顔や表情を形容するならこうだ。これまで見せたことのない冷酷な表情。味方を欺いて死に追いやり、その行為になんら倫理的葛藤を覚えることもなく、自らは巧みに保身を図る裏切り者の顔。
もぐら。すなわち、華龍盟に情報を流した内通者。
【注釈】
Sound and Fury : シェイクスピアの四大悲劇「マクベス」の一節。米国の文豪ウィリアム・フォークナーの代表作「響きと怒り(The Sound and The Fury)」も、この一節に由来して題名がつけられた。
ショスタコーヴィチ:ロシア、旧ソビエト時代に活躍した作曲家。20世紀のクラシック音楽における世界的巨匠の一人。




