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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
71/87

69 Nate, Tommy , Gotoh - Stand off

 呼吸を整えた。自分たちのもとへ近づいてくるヴァンを注視して、目を離さない。深呼吸の合間に、目的を再確認する。まずはグエンの姿の確認、そしてその解放だ。

 ヴァンが停車し、男が降りてくる。長髪の男だった。その男一人しかいない。グエンの姿はどこに。ネイトは考えを巡らせた。ヴァンの後部に目を向けた。人の気配を感じる。それどころか殺気さえ感じる。

 中にいるのはグエンなのか、もしくはグエンだけなく、車から降りた男の仲間もいるのか。

 ヘッドライトの光は消えていない。ひどく眩しい。こちらの視界を遮ろうとしているのか。ヘッドライトの照射を避けるため、横に動く。

 すべての現象に、なんらかの意図があるように思えてならない。緊張で表情が凍る。それだというのに目は泳ぎそうになる。

 茫漠とした闇に覆われた跡地。周辺の高層建築から零れる光はどこか蒼ざめていて、その光は夜の闇の深さを取り払いつつも、ネイトたちが立っている場所を冷たく無機質な世界に仕立て上げていた。暗く、青く、凍てついた場所は、人に孤独を感じさせる。味方は遠くで狙いをつけているゴトーだけ。無策でもなければ孤立無援でもないが、至近距離での乱戦になった場合は、自分たちだけで対処しなければならない。相手との距離、間合に注意する。否が応でも緊張は高まっていく。

 車から降りた男を改めてよく見た。長髪に無精髭、ぼろぼろになった外套、浮浪者のようなみすぼらしい格好をしている。風貌と服装のせいで男は老けて見えたが、年齢ははっきりとわからない。男の目を見た。真空のような目だとネイトは思った。そこにはなにもない、なんの感情も存在しない。命を賭ける場だというのに、自分は緊張で顔を凍りつかせているというのに、男の目には感情の揺らぎがない。何事にも動じない、動じるはずもない神のような目。この目に見覚えがある。どこかで。

 目の前にいるアリスが身動きする。アリスは手を後ろに組んでいる。ネイトはアリスの後頭部に銃を突きつけている。そういう演技をしている。銃を握る手はいつものように震えている。銃をアリスの後頭部に押しつけて、震えを抑える。敵からは見えないようにする。

 どこかで。どこかで自分はこの男に会った気がする。記憶を手繰り寄せる。一体いつどこでこの男と会ったのか、はっきりと思い出せない。だが、男の目には見覚えがあった。異常な事態においても、なんら変化することのない、それどころか限りない虚無を漂わせる黒い目玉を持つ男。

「話が違うな」

 男は張りのある声でいった。きき覚えのある声。ゴトーとの通話に応じた男の声だった。この男がトミイなのか。

「ゴトーはどうした?」

 トミイは腕組みをする。トミイは警戒感を剥き出しにしている。そして状況を推察している。ゴトーのいない取引現場。現場に現れたのは大臣令嬢と、その令嬢に銃を突きつけている子ども。これはどういうことなのか。こちらを見据える男の視線に、疑問が焼きつけられている。

「ゴトーはここにはこない。俺が取引の代理人だ」

 ネイトはいった。トミイに尋ねたいことはあったが、まずはトミイの疑問に答える必要があった。

 トミイの目が光り、トミイが抱く疑念はより一層濃くなったようだ。

「代理人だって?」

「ゴトーが自ら取引に赴くことはない。それが彼の流儀なんでね」

 嘘ではなかった。それどころか限りなく真実に近いといってよかった。これまでネイトはゴトーとなんらかの取引をする際、ゴトーと直にやり取りをしたことはなかった。必ずゴトーは代理人を立てていた。いまにして思えば、直接やり取りをする程度の相手ではないとネイトはゴトーに見做されていたのかもしれない。だが、なんにせよ、これは真実に限りなく近い嘘だ。真実との判別が難しく、もっともらしさを備えた欺瞞は、ときに真実よりも説得力があり、相手は魔法にでもかかったかのように誘引される。

「小僧、俺はお前を知っているぞ」

 トミイはいった。

「令嬢と一緒に逃げていたお前が、どうしていまになって令嬢に銃を向け、こちらに引き渡そうとしているんだ? 意図がわからんね。なにを企んでいる?」

 トミイは疑っている。そんなトミイからネイトは目を逸らそうとしなかった。この状況で目を逸らせば、トミイの疑念はさらに深まるだけだ。目を逸らさず、逆に強く相手を見ろ。嘘の気配を隠さなければならない。

「状況が変わった。人質のせいでな。俺はゴトーと手を組むことにした。俺は俺自身の安全が掴み取れればそれでいい」

「それでいままで一緒に逃げていた令嬢を裏切るわけか」

「一緒に逃げていたのは、なりゆきでそうなっただけだ。俺はAGWに強要されて、この女を攫った。だが、計画は途中で大きく狂ったんだ。この女と一緒に予期せずして下層部に投げ出されたせいで、AGWの監視も外れることになった。俺はこの女をあんたに引き渡して、自由になる。ゴトーとそう取引をした。この街の厄介ごとから、AGWの追跡から逃れるために、ゴトーの手を借りて姿を消す」

 ネイトはいった。またしても真実に近い嘘をつく。

「この国の中だろうと外だろうと、お前が死の脅威から逃れることはできないと思うがね」

 トミイは皮肉をいって、薄笑いを浮かべた。

「ずいぶん説教じみた言葉だな。余計なお世話だ」

 ネイトは不快感を隠さなかった。だが、冷静さは保っていた。

「あんたは俺を知っているといった。どこかで会ったことが?」

 ネイトは男に尋ねた。

 トミイは薄笑いを浮かべたまま、こう答えた。

「あんたに会うのはこれが初めてだ。だが、噂はよくきいていたよ。下層部のコソ泥集団のリーダーだってね。あんたの子分の一人くらいは俺も知っている。そういえば子分はどうした? いつもは子分を引き連れているのに、どうして一人なんだ?」

 まるでネイトを挑発するようなわざとらしい口調だった。少なくともトミイはネイトのことをよく知っているのがわかる。これまでネイトの身になにが起こったのかも、ある程度把握しているのかもしれない。だからこその、このわざとらしい口調なのだ。ネイトはそう思った。

「いまはそんな話はどうだっていい。グエンはどこだ?」

「つれないガキだな。お前が質問したことを答えてやったのに」

 トミイは肩をすくめる。下衆な作り笑いをする。冷静さを失うな、とネイトは心の中で自分にいいきかせる。

「…グエンはどこだ?」

「冷静さを失うまいとしているな。ガキのくせに」

 怒りが湧き上がる。ネイトはトミイを睨んだ。冷静さを失うな。ネイトは再度自分にいいきかせる。

「俺たちは取引をしにきたんだ。女はここにいる。グエンをここに連れてこい」

 男は目を瞑った。そして肩を揺らす。おどけたつもりなのか、道化ぶった態度を取る。明らかにネイトを挑発しようとしている。

「そう息巻くなよ、小僧。お前が自由になる前の最後の試練なんだからな」

 トミイがふざけた言葉を吐く。ネイトは怒りを抑える。比較的まだ冷静であった。浮かび上がる疑問。なぜこの男は自分を挑発するのか、ネイトは考えを巡らせた。男の目を見る。男の目線を追う。トミイはこちらを見たあとで必ず周囲にも目を向ける。右、左。それだけではない。背後にも神経を尖らせているのがわかる。時間にすればわずか一秒か二秒の仕草だろう。ネイトはトミイの仕草の意味を推測する。論理的な答えは一体なんなのか。ネイトはこう考える。トミイはゴトーがどこに潜んでいるのか、探ろうとしているのではないか。トミイはネイトを挑発して我を失わせることで、ゴトーがやむを得ずこの場に姿を現すのを狙っているのではないか。ネイトは唇を舐めた。ある程度は納得ができる推測。それが正解だとすれば、なおさら落ち着く必要がある。

 それにしても男の目が気になる。やはりどこかで、ずっと遠い昔に、自分はこの目を見たような気がする。それだけではない。この男の表情も自分はどこかで。

「落ち着け。まずはグエンを連れてこさせろ」

 耳に埋め込んだイヤフォン越しにゴトーの声がきこえる。ようやくの指示だった。

「…わかっている」

 トミイにはきかれないよう、小さな声でネイトは応答した。

「あんたの御託はどうでもいいんだ。グエンを連れてこい。そうでなきゃ、俺は女と一緒にこの場を立ち去る」

 ネイトはトミイに対してそういった。

 トミイは表情を変えない。トミイが動揺した様子はまるでない。ただ、やはり視線をわずかな瞬間にあちこちに向けている。ネイトたちではなく、近くに潜んでいるゴトーを警戒しているのか。だがトミイはすぐにネイトたちに視線を戻す。警戒しているのを悟られぬようにするためなのか。トミイは薄ら笑いをまた浮かべる。

「…小僧、どうもお前は知らないらしい」

 トミイは大仰な態度でいう。まるで演技だ。

「なにをだ? 御託はもう勘弁だ」

 ネイトは苛立ちを隠さなかった。

「…お前たちはAGWにいとも簡単に捕まった。俺の記憶では、あれはお前たちがAGWから盗みを働いて、一日もしていなかっただろうな。小僧、お前の仲間がそこで何人死んだのか俺は知らないが」

「一体なんの話だ? そんな話はどうでもいい」

「まあ、きいてくれ。お前の仲間が何人かはそこで死んだのだろう。それで、こうは思わなかっただろうか? 誰かが情報を漏らさなかっただろうか? 誰かがAGWに自分たちの情報を流さなかったろうか、と」

 思い出したくもない記憶だ。仲間のジュンがAGWに捕まり、情報を漏らした。仲間のアジトの場所をAGWに教えてしまったのだ。ジュンが口を割ったことでアジトを急襲したAGWとの銃撃戦で、それが銃撃戦と呼べるほどのものだったのかという問題は脇に置いておくにしても、仲間数人が命を落とした。情報を漏らしてしまったジュンも、ウガキに処刑された。苦い裏切りと容赦のない殺戮。最悪の事態であり最悪の失態、それを思い出したい人間がいるだろうか。

「仲間の一人が口を割った。情報を漏らした。だが、それがどうした? なんにせよ俺は生き延びている。いまさら過去の失敗を思い返してもしょうがない」

 トミイの問いかけは、いまこの瞬間に必要なものだとは到底思えない。トミイはゴトーをこの場に引きずり出したいのだろうが、一体どうしてそれが必要なのか。

 トミイは相変わらずにたついている。ぶっきらぼうなネイトの返事をどうとも思っていないようだ。

「それでお前は仲間をむざむざと死なせ、さらにAGWから危険な仕事を強要されたわけだ。お仲間はほとんど死んでしまったようだな。そういうのをなんていうか知っているか? ざまはねえな、そういうんだ」

 血管が広がり、血流が急激に速まった。この上ない侮辱だと感じた。怒りで自分の心の箍が外れそうになる。

 そんなネイトを見て、トミイは笑った。トミイの口からは気味の悪い笑い声が零れ出ていた。

 アリスが顔だけ振り返ってちらりとネイトを見た。心配そうな彼女の表情はネイトに冷静であれと無言で語りかけている。

 ネイトは身動きをしたアリスに銃を強く押しつけた。アリスとの共謀を気づかれぬようにするための、トミイに対する芝居だった。

 落ち着け。冷静さを失うな。そういいきかせる。だが、怒りは沸点を超越しようとしている。自分でもそれがわかる。

「小僧、少し考えてみてくれ。もしもお前のその大失態が、お前の仲間の裏切りが、誰かによって仕組まれたものだとすれば、お前はどう思うかね?」

「なにがいいたい?」

「口を割ったお前の仲間。そいつをAGWに売り渡したのは、俺だ」

 あっさりと、悪びれもせずに、爪をいじる仕草をしながら、トミイは告白する。

「なんだって?」

 ネイトは思わずきき返した。トミイはまるで悪魔のように笑う。

「俺がAGWにお前の仲間の情報を売ってやった。ヤマを踏んだあとで通りを偉そうな顔でぶらついているガキがいると、AGWにタレ込んでやった」

 AGWから物資を盗んだあと、闇市場に向かった仲間はジュンだ。トミイは市場をうろついていたジュンをAGWに売ったのだ。

「いまさらの話だが、あのガキは、お前が盗んだブツの一部をくすねようとしていたな。でなきゃあちこちの連中に声をかけない。あんなお粗末な野郎が仲間では、俺が売りつけなくとも、そのうちAGWに尻尾を掴まれていただろうよ」

 仲間を嘲笑う声に、怒りが滾る。

「あんたはなんだってそんなことを…」

 目の前の男の行動原理がネイトにはわからなかった。怒りに震えながらも、困惑する。男の異様なまでのネイトに対する敵視。なにか深い理由でもあるのだろうか。

 トミイはネイトの困惑を察したかのような顔をする。

「なんだってそんなことをするかだって? 理由は簡単だ。俺はガキが嫌いだ。力もないくせに、いや、仮にそいつに力があったとしても、犯罪に関わろうとするガキが、俺は大嫌いなんだ。自分の決断が、自分のしでかした行為が、どのような代償をもたらすのか、お前たちガキはこれっぽっちもわかっていない。そのくせ追い詰められれば、我を忘れて慈悲を乞い、泣いて縋る。なんて浅ましい人間なんだ。なんて愚かな人間なんだ。そうは思わないか? そうなるのなら最初から犯罪に関わらなければいいというのにな。だから俺は、お前たちのようなガキが大嫌いなのさ。機会があるのならお前たちのような連中を片っ端から殺してやりたいと思っているのさ」

 まるで演説を打つような大仰さで、いかれた理由を述べるトミイ。自説を披露することが楽しくて仕方がないらしく、その表情には幸福感が溢れている。狂っているとしか思えない。

 自分に銃が撃てるのなら、いますぐあの男に銃弾を撃ち込んでやりたい。ネイトは強くそう思った。銃を握る自分の手は、相変わらず震えていた。だが、惨めにも引き金を引くこともできやしない。母が殺されたあの日、ネイトにとって銃は恐怖の象徴となった。銃を握って手が震える現象は、心の傷の顕現だ。引き金を引く。わずか9ミリの弾丸が人体を貫き、もしそれが頭部や内臓、血管を激しく損傷させるだけで、人は簡単に死んでしまう。ネイトに激しい愛と狂気を注いでいた母親は、暴漢が撃ち放った銃弾であっさりと死んでしまった。母の血と脳髄の一部が激しく部屋の壁に飛び散る。大きく見開かれた母の目は、殺されてもなお、ネイトを見つめていた。どこまでも黒く、もはやなにを語ることもせず、もはやなんの感情も表すことのない目玉が、ネイトに向いていた。暴漢は無慈悲にもネイトにも銃を突きつけた。凄惨な場面に対してなんの感情も示さないその冷酷さ。男はあえて銃を撃たなかった。銃を突きつけられたまま時間は流れていったが、その間ネイトは恐怖に戦いた。自分の死の瞬間を嫌でも想像させられた。弾丸が頭蓋を抉る様子、飛び散る血、一瞬で衝撃と痛みが襲いかかり、意識は消え去って自分は死の淵へと追いやられていく。そんな想像がさらにネイトの恐怖を大きくした。そこからどうして自分は助かったのか、生き延びることになったのか、その記憶はもはや曖昧になっていた。暴漢は自分だけ見逃したというのであろうか。記憶は砂上の楼閣だ。構築し、増改築を繰り返していくことはできるが、絶えず忘却の風に晒されていて、どれほど精微繊細に刻み込まれた記憶があったとしても、いずれは崩れ去る。いつまでも消えぬ恐怖と傷をネイトに植えつけた暴漢についての記憶も、こと目や表情、動作といったいくつかの特徴は覚えていたとしても、それ以外の暴漢の顔や体格、髪形などはほとんど曖昧になってしまっていた。

 トミイによって煽られた怒りは、ネイトに惨めな過去を思い出させ、心の傷を疼かせた。トミイが憎い。殺してやりたい。母を殺した暴漢とトミイが重なって見える。憎悪と殺意が狂おしいほどに募る。銃を使わずとも、あの男に殴りかかり、首を絞めてやれば、殺すことができるのではないか。そんな馬鹿な考えさえ浮かぶ。トミイとの距離を見測る。

「挑発に乗るな。まずはグエンだ」

 ゴトーの声がした。ゴトーはスコープ越しに自分たちを見ている。

「お前を暴走させるのが奴の狙いだ。先にグエンを確保しろ。そのあとでなら、奴を殺す機会はいくらでもある」

 ゴトーの低く、落ち着いた声がきこえる。ゴトーは状況を冷静に観察している。

 視線の先にいるトミイ。不敵な笑みの裏側で、こちらの出方を窺っている。トミイの目がそれを証明している。トミイの目は笑っていない。

 ネイトはトミイに向かって叫んだ。

「お前の演説はもういい。さっさとグエンを連れてこい」

 叫びは、蒼ざめた闇の中へ吸い込まれていくようだった。

 トミイが笑う。

「なかなか俺の思うようには動いてくれないらしいな」

「グエンを連れてこい」

 ネイトは繰り返しそう叫んだ。トミイが片方の眉を吊り上げるのが見えた。

「ゴトーにそう指示を受けたか?」

 笑いと同時に滲む、推測の表情。おそらくトミイは見通している。ネイトはそれを直感した。ゴトーとネイトが通信でやり取りをしていること、ゴトーが付近から狙いをつけていること。果たしてアリスさえも囮であることをトミイは見通しているのだろうか。そこまでは判断がつかない。演技を続ける必要がある。

「なかなかしぶといガキだな。お前の踏ん張りは認めてやるよ。お望み通り、グエンを連れてきてやるよ」

 トミイが振り返って歩き出す。トミイはヴァンのバックドアを開ける。荒々しく、乱暴に、人を引きずり出そうとする動作が見える。

「さっさと立つといい」

 トミイがいう。

 グエンらしき人の姿が見える。だが、様子がおかしい。グエンはきちんとその場に立つことができないでいる。ネイトは目を凝らす。嫌な予感がする。

 トミイがグエンの背後に立ち、服を掴んでグエンを立たせた。ゆっくりと一歩ずつ、前へ進む。グエンは片足で前へ。右足が浮いている。

「…畜生。右足をやられている」

 アリスが呟く。

 衰弱したグエン。明らかに拷問を受けたあとのようだ。傷を負わされたのか、右足が不自由になっている。

 まずいことになった。これでは彼と一緒に逃走ができなくなる。

 ネイトは唇を噛んだ。


 ゴトーが姿を現さず、ネイトという小僧が見えた瞬間から、なにか陰謀が仕組まれているとトミイにはわかっていた。だから、ネイトを執拗に挑発した。子どもは未熟だ。想定外の事態に弱く、感情の制御が上手くできない。そこを突いてやった。ネイトを挑発して暴走させることでゴトーの企みをご破算にしてやろうと考えたが、それには失敗した。だが、わかったこともある。ゴトーとネイトは通信を行って、互いにどう行動するべきか打ちあわせをしている。唇の動き。こちらにはきこえない程度の声量で、やり取りをしているのがわかる。ゴトーはどこかに潜んでいる。そして自分に狙いをつけている。

 グエンを引きずり出す。ゴトーの企み通りにはいかせない。だから、前もって準備をしておいた。

 トミイはグエンを拷問にかけた。死なない程度に痛めつけてやった。刃物を使ってグエンの右足を切り裂いた。これでグエンは片足でしか動けない。連中のお荷物となる。

 ヴァンのバックドアは軽く開けたままにしておいた。ヴァンには仲間たちが潜んでいる。まだそのときではない。仲間たちには目で語りかけた。トミイの合図で、仲間たちはヴァンから即座に飛び出してくるだろう。

 グエンの服を背後から掴みながら、一歩ずつゆっくりと前進する。

 アリスに銃を突きつけ、こちらを睨んでいるネイトにトミイは語りかけた。

「悪く思うな。グエンを少しばかり痛めつけてしまってね。こいつはいま右足が使えない。だが、命は助けてやった。衰弱はしているが、すぐに医者のところに連れ込んでやれば大丈夫だろう」

 ゆっくりと前へ進む。先ほど立っていた位置に、グエンとともに戻る。

 ネイトの唇の動きを注視する。ゴトーと打ちあわせをしている。

 考える暇を与えてやるものか。

「さあ、人質交換といこうじゃないか。さっさと令嬢をこっちに渡せ。こっちもグエンを解放してやる」

 まずはアリスの確保だ。それが第一目標だ。ゴトーはどこかで狙いをつけているにせよ、こちらもグエンの命をいつでも奪える立場にある。互いに無茶はできないはずだ。仮に敵がなにかを仕かけてきたとしても、仲間を雪崩れ込ませて、力技で対処する。

 

「どうする? グエンと一緒には逃げられないぞ」

 緊迫感を滲ませたネイトの声。その息遣いさえ緊迫している。

「このままアリスを渡すわけにもいかない」

 ネイトはいった。どのように動くべきかの答えを見失っているから、そんなわかり切ったことをいまさらいうのだろう。ネイトはゴトーの指示を求めていた。

 トミイにしてやられた。グエンが負傷している状況で、逃走などできるはずがない。すぐに敵に追いつかれてしまうだろう。ゴトーは舌打ちをしたくなった。決断の瞬間は間近に迫っている。

「ロシア人たちはどうなってる? あいつらが乱入するはずじゃなかったのか?」

 焦るネイトの声が煩わしい。ゴトーはネイトとの通信を切りたくなる気持ちを抑える。

 ロシア人たちはまだ動きがない。まさかなにも動かないということなのか。それとも華龍盟に行動を封じ込められたのか。嫌な想像が脳裏を駆け巡る。

 先制して、トミイを撃ち抜くか。それも考える。だが、そのときにはヴァンや付近に潜むトミイの仲間が一気に動き出すに違いない。足が不自由なグエンの命が危なくなる。

「時間を稼げ」

 ゴトーはいった。

「なに?」

 ネイトがきき返す。

「いいから、時間を稼ぐんだ。敵にアリスを渡すな」

 ゴトーはトミイに狙いをつける。トミイとグエンはまだ密着している。いまの状態でトミイだけ撃ち抜くのは困難だ。

 時間稼ぎ。それが必要だった。


「交換する前に一つ条件がある」

 ネイトはいった。

「なんだ? いまさら条件だって? そのまま交換すればいいだけの話だろう」

 トミイはいう。グエンの服を掴んでいた手を離し、前へ進むようグエンに顎で促す。グエンが一歩ずつこちらへ近づこうとする。

「止まるんだ」

 ネイトはグエンにいった。拷問で弱り切ったグエンが歩みを止めて、力ない表情でネイトを見る。いまさらなんの条件があるというのか。グエンもそう思っているに違いない。

「グエンを拷問にかけて、負傷させたなんてきいていないぞ。それであんたらが信用できるとでも?」

 ネイトは非難の声を上げた。

 トミイは鼻で笑った。

「条件ってのはなんだい、小僧? それをきこうじゃないか。信用がどうのこうのはどうでもいい」

「どうでもいいわけがない。アリスを渡した瞬間に、あんたらに銃で撃たれるんじゃないかと思うと、たまったもんじゃない」

「それはお互い様ではないのかね?」

 鋭い視線をトミイが向けてくる。ネイトはトミイの言葉にぞくりとした。緊張を隠すように、薄笑いを浮かべた。

「どうだかな。条件というのはこうだ。お互い持っている銃を捨てようじゃないか。あんたも、俺も。それからあんたの仲間も。女は手を縛ってあるから、逃げようがない。グエンもその足では逃げようがない。どうだ?」

「仲間? 俺の仲間はここにはいないよ。あんたらが一人でこいといったからな」

「信用がないのをわかっていないな。ヴァンの中に隠れているんじゃないか?」

 疑り深くそういうと、トミイは苛立った。

「疑うのはそっちの勝手だ。だがな、いいか、小僧。そっちだって、遠くからゴトーが俺に狙いをつけているんじゃないのか?」

「多数に襲われれば、狙撃も対処し切れない。まあ、あんたは最初に死ぬだろうがね」

「やはりどこかで狙いをつけているな」

 トミイは周囲を見渡した。目に飛び込んでくるのは闇、砕石の山々、廃棄されたコンテナの群れ。聳え立つ高層建築以外の遠景は、闇が塗り潰してしまった。ゴトーの位置を特定できるはずもない。

 これで膠着状態に陥った。ネイトは思った。

 トミイは苛立っている。薄ら笑いが消えて、不機嫌な顔になっている。

「小僧、ここはお互いに男らしくいこう。互いに疑りあっていても時間の無駄だ」

「だったら銃を捨てろ。仲間がいるなら、仲間にもそういえ」

「仲間はいないといっただろう」

「信用できない」

「くそっ、埒が明かない」

 トミイは吐き捨てるようにいった。脇に隠してあった銃を地面に投げ捨てる。

「これでいいか。仲間はいない。次はそっちだ」

 トミイが叫ぶ。

 ネイトも銃を投げ捨てた。掌が汗でひどく湿っていた。緊張の証左だ。

「さっさと交換だ。早くしろ」

 トミイは荒々しい口調でいう。前にいたグエンを乱暴に小突く。

 アリスの顔が振り返り、ネイトを見た。

 ネイトは一度頷き、アリスに前へ進むよう顎で促す。

 ネイトの視界には、こちらへ近づいてくる光芒が見えている。


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