68 Tommy, Emma, Gotoh - Into That Good Night
四人の仲間たちが、銃器の確認をしている。銃器はそれぞれ異なっている。ただ、短距離での銃撃戦を想定して、仲間たちは小回りの利く短機関銃や銃身を切り落とした散弾銃を選んでいた。
トミイは防弾着を着込んだ。拳銃を脇腹のホルスターにしまった。上着の袖のたまりを利用して、右の袖口には飛び出しナイフを隠した。ゴトーが紳士的に取引に応ずるとは、まったく考えていない。あの男は陰謀家だ。陥穽や罠があってもおかしくはない。トミイはそう思っていた。トミイ一人で取引の場所にこい、というゴトーが伝えてきた条件を、トミイはさらさら守る気がなかった。いざとなれば、仲間たちとともに力ずくで大臣令嬢を攫うつもりだ。ゴトーは頭が切れるだけで、腕っ節はないに等しい。あの男にこちらの力技をねじ伏せるだけの実力はない。トミイはそう読んでいた。
過ぎ去りし時間。あの日の夕暮れ。記憶からは消え去った二人の会話。脳裏に懐かしい風景が浮かび上がる。茫漠とした記憶の中で、どういうわけか自分の青臭い姿だけがはっきりと思い出すことができる。あのころは自分も若かった。
かつてあの男に採用されなかったから、あの男に執着しているわけではない。あの男を恨んでいるわけでもない。あの男と対峙することになったのは、偶然が積み重なっただけのことだ。神か、精霊か、もしくは運命が、一片の悪意もなく、自分たちを敵対関係に落とし込んだだけのことなのだ。ただそうとはいえ、奇妙な巡りあわせであると思わずにはいられなかった。運命は常に皮肉に彩られている。トミイがあの男のことを記憶している一方で、あの男はトミイのことを完全に忘れ去っている。
外は暗くなりつつあった。トミイたちが現場に着くころには、日はとうに暮れてしまい、周囲は完全に暗くなっているはずだ。強硬手段に出るとするなら、悪くはない状況といえる。
部屋の中を歩き回る。部屋の中は男臭かった。部屋には男たちの体臭と煙草の臭いが充満している。トミイ以外は黙々と武器装備の確認をしていた。トミイは思案を巡らせていた。
そんなときに、リャンから連絡が入る。
「俺だ」
「スースロフが兵隊を動かした。奴を取り囲んでいたこちらの手の者と激しく衝突している」
リャンの声はあくまで事務的な口調だった。だが起きてしまった事態は、そう事務的に済ませられる程度のものではない。犯罪組織同士の正面切っての衝突である。
「なんだ? 奴は玉砕覚悟で突撃をかけてきたのか?」
ついにスースロフは理性を完全に失くしてしまったのだろうか。トミイは呆れた声を出した。
「どうもそのようだ。勝ち目がないというのに馬鹿な奴だ」
組織力の差は明白だった。仮にスースロフの手下たちが玉砕覚悟で善戦をしたとしても、それも長続きはしないだろう。長期戦になれば、必ず華龍盟が物量差でスースロフたちを圧倒する。その青写真はスースロフを含めて誰もが見えているはずだ。そうだというのに、スースロフは戦争を止めようとしない。それはあまりにも愚かしい。
「それで、いまどんな状況だ?」
トミイは尋ねた。
「ずいぶんと派手な銃の撃ちあいを演じている。組織間抗争で、ここまで正面から衝突するのは久しぶりだな。部下も気合が入っている」
「被害はどの程度だ?」
トミイはきいた。
「いまのところこちらは数名が死んだ。向こうはその倍は死んだかもな」
リャンは冷ややかにいう。あくまでも事務的、かつ冷笑的な口調。
「完全にスースロフは理性を失ってやがる」
「あんな馬鹿野郎はさっさとくたばってしまえばいいんだ。交渉の余地もなかった」
珍しくリャンが不快感を隠そうともせずにいう。交渉を撥ねのけたスースロフに相当苛立っているようだ。
「息子の死が堪えたらしい。ある意味当然といえば当然だがな」
「お前が殺したせいだ。だが、いま思えば、愚か者の一家を皆殺しにできるいい機会なのかもしれない」
冷酷なリャン。スースロフとの抗争で、リャンの部下も何名かは死んでいる。それにもかかわらず、リャンはスースロフとの抗争を肯定的に捉えている。部下の死程度では、この男の心は動じないのだろう。もしかすると、自分の部下が数名死んだとしても、自分との交渉を拒絶し、自分を虚仮にした愚かなスースロフを抹殺できればそれでいいと思っているようだ。
「あんた、家族は?」
唐突にトミイはきいてみた。
リャンは鼻で笑った。
「この国の昔の人間はいいことをいった。家庭を持てば、この世に未練を残す。我々のような人間に家庭は不要だ。親兄弟も含めて、すべて私は縁を切った」
それは堂々とした宣言にきこえた。トミイは感心した。
「あんたは本物だよ。本物の極道だ。いや、むしろ血の絆を大事にする中国人らしくないというべきかな」
「郷に入れば郷に従え。私はこの国の裏社会に生きる人間の在り方を好いている。つまりはそういうことだ」
「実に素晴らしいね」
トミイは口笛を鳴らした。
「スースロフはこちらで抑え込んでおく。令嬢の確保は任せた」
「スースロフが衝突に乗じて、俺へ刺客を放っている可能性は?」
「ないとはいえん。もし刺客を放っていれば、内部に潜んだ協力者を通じて対処する」
「それは任せた。もぐらに頑張ってもらおう。せいぜい闖入者が出ないようにしてくれ」
「わかっている」
リャンはいった。それで通話は終わった。
トミイは時計を確認した。出発の時間が近づいていた。
トミイは仲間たちを見渡した。
「時間だ。準備はいいか?」
トミイはいった。仲間たちが頷く。
トミイが先頭になって、建物の外へ出た。黒塗りのヴァンに乗り込む。仲間たちが乗り込むのを待つあいだに、何気なくミラーを覗き込んだ。興奮のせいか、ひどく落ち着かない顔をしていることに気づく。自分らしくないと思い、トミイは顔を少し俯かせて、にやりと笑った。
チョウに礼を告げてから、エマはAGWの施設を出た。結局、日暮れ近くになるまでチョウにはつきあってもらったことになる。アイザワの尋問と華龍盟との取引の精査。エマはアイザワから押収した資料や帳簿の細部まで分析することができなかった。財務諸表を読み解く能力をエマは持ちあわせていなかった。チョウに手助けをしてもらうことで、華龍盟が過去にAGWとの取引でしでかした不手際や、アイザワがそれを見逃してきた実態を把握することができた。予想以上に時間がかかってしまった。不本意ではあるが、チョウにも借りを作ってしまった。
施設を出ると、夕暮れが目に飛び込んできた。赤く燃え盛る空。一日の終わりが近づいている。いや、もしかすると一日の始まりが近づいている。
エマはしばし夕暮れの空に目を凝らした。燃え盛る空の色に魅せられて、その場に立ち尽くした。その空の色はなぜかエマに死を連想させた。日没によってその空の色は一時間もしないうちに消えてしまう。自然現象の至極当然といえる過程に、どこか運命の儚さを感じたからなのだろうか。前向きとはとてもいえない印象しか抱けないというのに、どうして自分はこの空に魅せられているのだろう。夕陽を眺める。薄汚れて、血塗られた、汚泥の中で闘争を続けるしか能のない女である自分は、そんな感傷的な行為に耽溺でもしたいのだろうか。詩的で文化的な女を気取りたくなったのだろうか。
自動車のライトの点滅。エマに気づかせるように。
グロスマンがガラス越しにエマを見ていた。
エマは夕陽の鑑賞を取りやめた。エマは自動車に近づいた。助手席に乗り込んだ。
グロスマンはもの憂げな顔で前を見つめていた。彼は長く待たされたことに対して不満に思っているのだろうか。
「長く俺を待たせておいたお前に、親切心でいってやる」
グロスマンは低い声でそういった。口調はどこか強張っている。
エマはグロスマンを見た。
「ついさっきの話だが、スースロフのもとに、ある取引のタレ込みがあった。その取引で、トミイは大臣令嬢の身柄を押さえようとしている。いまから約二時間後、第八地区南端のロジスティクスセンター跡地でその取引が行われる」
「トミイと誰との取引なんだ? 誰がタレ込んだ?」
「なにもわからないらしい。俺がさっきいったことだけを伝えてきた」
「そいつはどういう意図でそれを伝えてきたと思う?」
エマはグロスマンに問いかけた。グロスマンは憮然とした顔で首を振る。
「知らないね。どういう意図か、見当もつかんよ」
実にぶっきらぼうな口調だった。
エマは引き続き問いかけた。
「それで、あんたはどうするつもりなんだい?」
「スースロフは即座に動いたよ。自分たちを包囲している華龍盟と激しく衝突した。陽動作戦さ。衝突のどさくさに紛れて、華龍盟の包囲を突破した仲間がいる。彼らが、取引の現場に向かっている」
「グロスマン、あんたはどうするつもりなのかときいている」
「トミイに近づく千載一遇の機会だ。仲間たちと合流しないわけがない」
グロスマンはいった。
「そのタレ込みを信じるわけだな。誰からのものともわからないというのに」
「それがいまトミイに近づく唯一の手がかりだ」
「罠だと思わないのか? あんたらとトミイを殺しあわせるための」
「そうだとしても、奴を殺せる機会だ。これをみすみす逃す馬鹿がどこにいる」
強固な意志というよりはどこか頑なな意志をグロスマンから感じた。この男も復讐にとり憑かれているというのか。
グロスマンはエマを見た。
「あんたにもきてもらう。手勢は多い方がいいからな。いまさら嫌だとはいわせないぞ」
グロスマンの大きな丸い目が、エマを見据える。
エマはグロスマンにどう言葉を切り出すか、少し考え込んだ。
「…エヴゲニー、あんたには悪いが、少し寄るところがあるんだ」
エマはいった。グロスマンは黙っていた。
エマは続きをいった。
「華龍盟のリャンって男に話をつける必要がある。いますぐにだ。第十一地区の中華街、奴はそこにいる。仲間に合流して、その取引現場に向かうのは、そのあとにしてほしいんだ」
グロスマンがつけていた腕時計に視線を落とした。ここから第十一地区、そして第八地区までの移動距離と時間を考えている。
「時間がない」
冷たい声でグロスマンはいう。
「頼む、それが必要だ」
「あんたらしくない台詞だな。あんたはいったじゃないか、トミイを殺すためならなんだってするって。いますべきことは、奴が取引を行う現場に、一刻も早く向かうことだ。そうすれば奴を殺せる」
「その前にリャンだ。奴に話をつける」
エマは食い下がった。グロスマンがあからさまに不機嫌な顔つきになった。
「なんだってその男と話をつける必要があるんだ?」
「あんたのためでもある」
「俺のためだと?」
怪訝そうな表情を浮かべるグロスマン。
エマは説明する。
「奴と交渉をして、スースロフから手を引かせる。トミイを殺しても、あんたらの身の安全が保障されるわけじゃない。戦争は続く。仮に戦争が終わるにしても、このままじゃスースロフに屈辱的な形でしか戦争は終わらない。だが、いまは好機なんだ。私がさっきまで調べたことを奴との交渉で上手く利用すれば、トミイの首を奪うだけでなく、スースロフにも有利な形で戦争を終えることができる。だから、リャンとの交渉には大きな意義があるんだ」
なるべく丁寧な説明をすることで、エマはグロスマンを宥めようとした。
グロスマンの眉が動く。半信半疑の表情。
「あんたらの身の安全を守るためでもあるんだ。信じてくれ」
エマはいった。自分らしくない台詞、自分らしくない言動。自分でもそれをわかっているからか、より真剣な顔でグロスマンを見つめた。結局のところは真顔で本当のことを彼に伝えることでしか、この切実さを伝えることができないでいる。
グロスマンはまだ不信感を捨て切れていない。表情の暗さがそれを伝えている。
「あんたらしくない台詞だ」
グロスマンはいう。
「…エヴゲニー」
エマはグロスマンの肩に手を触れた。まるで自分らしくない行動を取ろうとしている。
グロスマンはエマの手を払いのけた。
「…くそっ、本当に交渉が上手くいくんだろうな?」
不安に駆られたグロスマンが、そんな声を漏らす。
「私がリャンと話をつける。奴の交渉の方法はよく知っている」
グロスマンは黙り込んで、考えを巡らせる。再び時計に目を落とす。時間がないのは二人ともよくわかっていた。
どうするべきか。グロスマンの葛藤がはっきりと伝わってくる。
わずかな沈黙のあとで、グロスマンがアクセルを踏んだ。車が動き始める。その運転は実に忙しない。不安と困惑が気持ちをかき乱し、むやみやたらと加速する。歩哨の誰何をも撥ねのける運転。
「リャンのところへ案内をしろ」
グロスマンは険しい顔で、そういった。
夜が迫っている。風が近くを流れる運河の冷気を巻きあげて、吹きつけてくる。少し動かないでいるだけで、指先の感覚がなくなっていく。都市の底は凍てついている。
ゴトーは暗視スコープを覗き込んだ。スコープ越しに、アリスとネイトの姿を確認する。二人は所定の立ち位置についている。
右耳につけたイヤフォンから、二人の会話がきこえる。まだ若い二人が、とりとめのない話をしている。励ましにならない励まし。どうでもいい昔話。歳をとると、要点を衝かない、とりとめのない話が嫌いになる。そんなことで貴重な時間を潰すのは愚かだと思うようになる。
愚かしい子どもたち。アリスはもう二十歳を過ぎているが、ゴトーにしてみればまだまだ子どもだった。頭が切れるものの、非合理的な行動に走る。感情を表に出すことが少なく、冷静なように見えるが、精神的には不安定なところがあり、危なっかしい。ネイト。あの小僧はどうしようもなく幼い。悲惨な環境を生き抜いてきたこともあって、運のよさと自分の実力を見誤り、妙な自信を持ってしまった、手癖の悪い子ども。アリスに較べればまだ落ち着いた判断ができるようだが、自身の幼さと切迫した事態のせいで、危険な方向にひた走ろうとしている。
運命の皮肉を感じる。あの子どもたちは二人して危険な、とち狂った道のりを歩もうとしている。理解に苦しむ狂気の道程。あの二人からはそれぞれの親譲りの狂気を感じる。出会うべきではない二人。だが、出会うべくして出会った二人。そんな二人に、ゴトーは手を貸している。ゴトー自身も狂気にとり憑かれている。過去、過ぎ去った時間の亡霊がゴトーに纏わりついて、犯した罪の贖いを果たすよう求めている。自分のせいで死んだ女、自分のせいで道を誤った女。幻影が自分の首を絞めつける。
過去を思い出すと、動悸が激しくなる。脇に嫌な汗をかく。罪悪感が体中を這い回る。過去を消すことはできない。自分の罪、自分の道義的責任が消えることはない。正当化できない過去ゆえに、あの子どもたちを売り飛ばすことがゴトーにはできなかった。アリスはともかくとして、特にネイトは。しかしだからといって、グエンの命を救わないわけにもいかなかった。華龍盟を騙して出し抜こうとするのは、実のところ窮余の策、もしくは狂気の沙汰であることに違いはなかった。
ゴトーはスコープを覗き込むことに集中した。子どもたちをいつでも援護できるよう、神経を尖らせる。
夜が迫り、闇が周囲を包み込む。子どもたちが立っている場所には街灯はなく、近くに聳え立つ高層建築からの青みがかった光がぼんやりと当たるだけで、視界は悪かった。敵味方の判別が難しくなり、暗視スコープがあるにせよ狙撃も容易ではない。だが、視界の悪さゆえに敵から狙撃位置を特定されにくいという利点がある。どこから銃弾が飛んでくるかわからないという恐怖は、大きな混乱を生み、敵の行動を制約する。総合的に検討すれば、こちら側に有利な状況と環境が揃っている。
スコープから目を離した。時刻を確認する。約束の時間が近づいている。
より遠くの景色を見た。なにか変化はないかを探った。
ヘッドライトの光が目につく。猛スピードでこちらへ疾走してくるヴァンがある。センター跡地に近づくと、ヴァンは速度を落とした。ゆっくりと、敷地内へ進入する。まるで周囲を窺うように。ヘッドライトの光が、アリスとネイトを捉える。ヴァンは二人へ近づいていく。二人から少し距離を置いたところで停車する。
運転席から男が降りる。
グエンの姿は確認できない。
【注釈】
Into That Good Night:英国ウェールズ出身の詩人ディラン・トマスの有名な詩 "Do not go gentle into that good night" から。




