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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第1部 誘拐
7/87

6 Nate, Alice - Dream

 夢を見ていた。

 廃棄物が溢れ、淀んだ空気が漂う暗く薄汚れた最下層部の路地を仲間たちがネイトのそばをすり抜け、通り過ぎていく。セイジ、レオナ、タイト、リョウ、シュン。

 ネイトはその場を動くことができずにいて、ただ彼らが通り過ぎていくのを見ているだけだ。彼らはたびたび振り返り、ネイトを見る。そばをすり抜けていくときの彼らは傷一つない、彼らが生きていたころの姿だったのに、振り返ってネイトを見つめたときの彼らは、死んだときの姿をしている。破裂し、脳の一部が露出した、血まみれの頭。大きな穴が開き、とめどなく血が流れる喉。銃弾を浴びて千切れかかった片腕。みな一様に空虚な目で、ネイトを見るのだ。

 ネイトはかける言葉が見つからなかった。だが悲しみと怒りで、胸は張り裂けそうだった。せめて言葉はなくとも、彼らのそばに駆け寄ってやりたかった。だが、その場から足が動かない。

 足どころか、手も動かない。

 彼らが死んだとき、自分はそういう状態だったと思い出す。仲間が傷つき、殺されているのに、自分はなにもできなかった。

 どうしてこの手は動かないのか。どうしてこの手は銃を構えることができないのか。あのとき敵の兵士三人にすばやく銃弾を撃ち込んでいれば、仲間を助けることができたのではないか。あのとき銃声がきこえた瞬間にこの体が動き出していれば、状況を変えることができたのではないか。

 死人たちはネイトをじっと見つめている。死人はなにも語らない。彼らの虚ろな目は、ネイトへの非難を意味しているのか。

 ネイトは唇を噛み締めた。自分の無様さに打ちひしがれた。

 どうして自分は。その言葉を何回、何十回と呟く。

 やがて気がつくと、景色は変わっている。路地裏にいたはずの自分は、ひどく狭い部屋にいた。

違う夢にすり替わっている。

部屋は狭いながらも小奇麗で、下層部の住居だというのに清潔感のある匂いがしていた。母が好きな香水によるもので、それは洋梨の匂いに近い。

 自分は幼い姿で古びたベッドに横たわっていて、そして母は、自分の顔を覗き込んで、なにか語りかけている。

 また同じ夢。繰り返し見る夢。

 母は必ずこう語るのだ。

「お前はいい子。私のかけがえのない子」

 美しい母の目は、どこか狂気を孕んでいる。ネイトの頬を両の掌で包み、ずっと語りかける。子守歌を歌うわけでも、おとぎ話をきかせるわけでもない。

「…愛は私たちの悲惨のしるし。…太陽がものみな照らすように、愛さねばならない」

 まるで呪文を唱えるように、古の言葉を母は呟く。その瞬間だけは、枯れ枝のようにか細い母の体に、強烈な意思と力が宿る。

 次の瞬間、何者かが部屋に駆け込んでくる。扉をぶち破り、中へ入ってくる。

 母が悲鳴をあげ、ネイトを庇おうとする。

 部屋に入ってきた男が、母の黒く長い髪を掴み、ネイトから引き離す。そして母を乱暴に床に倒す。問答無用で、男は持っていた銃で母の頭を撃ち抜く。男は一度のみならず、二度も母を撃った。

 ネイトは大声をあげて泣く。たとえ幼くとも、母の死は理解できた。自分自身を囲うこの高層建築のすべての階と部屋に響き渡るように、母の命が惨たらしく吹き飛ばされた悲しみと怒りを込めて、絶叫する。

 男は無感情な顔で、まるでそんな絶叫など気にもしないように、なんの迷いもなく銃口をネイトに向けた。

 眼前に突きつけられた銃が、眼前に迫る死を否が応でも想起させる。銃口から放たれる弾丸は、どのように自分の頭蓋を抉り、自分の命を奪い去るのだろうか。自分はどのようにして意識が消え果て、どのような苦痛を味わって、死に至るのだろうか。それを想像するだけで、途方もない恐怖に包まれる。男の冷徹な銃の構え。人を殺すことに、それが女でも、子どもでも、なんの心理的抵抗も感じていないその姿は、この世のものではない存在、冥府から遣わされた怪物か、無慈悲で残忍な神の代理人のように見えた。

 絶叫する。涙はとめどなく溢れてくる。

 男が引き金を引く。

 その瞬間に、いつも夢は終わるのだ。

 鈍い痛みとともに、目を覚ます。眠気が遠ざかるにしたがって、痛みは激しさを増す。流れた血が目尻で凝固し、右目が思うように開かない。体を動かすにしても、あちこちが痛い。

 四角い小窓が一つあるだけの殺風景な部屋に、自分は倒れているのがわかった。自分の他に、生き残った仲間がいる。レナ、ケイジ、ショウ。みなネイトと同じように痛めつけられ、痣だらけになっている。

 レナはネイトより先に起きていた。灰色の壁にもたれかかっている。

「ネイト…」

「レナ…」

 互いの名を呼び、二人は見つめあった。どちらとも無残な姿だった。ネイトの片目は潰れたようになっていたし、レナは左目から頬にかけて大きな痣を作っていた。レナの右目に涙の跡があり、服は汚れている上にあちこちが破れている。

 レナがどういう目に遭ったのか、きかなくてもわかった。

「…私たち以外、みんな死んだわ。レオナも、あいつらに…」

 レナは震える声でいった。

喉を撃ち抜かれて死んだレオナの姿が過る。

ネイトは力を振り絞り、上体を起こして壁にもたれかかり、レナの隣に座った。

「ここは? 俺たちはどこにいるんだ?」

「AGWの支配地域。ここは奴らが拠点としてる建物の一室。捕えられて、ここへ連行されたわ」

 レナは暗鬱としていた。無理もなかった。

「…すまない。俺のいったことは間違いだった。俺たちが敵を殺さなければ、敵も俺たちを容赦するだろうなんて」

 銃を使わない、人殺しもしない。綺麗な盗みを働くだけ。それだけなら殺されはしない。そういって、ネイトは仲間を集めた。その言葉を信じて自分についてきた仲間もいた。

 死んだ仲間を思うと、瞼が熱くなった。

 レナはなにもいわないかわりに、ネイトの服の袖を強く掴んで揺さぶった。そして、無機質な固いタイルの床に、涙を落した。

 AGWは、どうして自分たちの居場所をあれだけ早く突き止めたのだろう。その迅速さはネイトの想像を遥かに超えていた。情報を売った者がいるのではないか。闇市場の人間で、ネイトたちに恨みを持つ者の仕業だろうか。

 思考を巡らせた。このご時世、金のために情報を売る人間は、腐るほどいた。その誰かを探し出すのは容易ではない。

 部屋の扉が開いた。銃を構えた二名の歩哨が入ってくる。そのあとから、あの女兵士が姿を見せた。

「やあ、気分はどうだい?」

 気安い調子で女は語りかけてきた。

 激しい憎しみを覚えたネイトは、なにも答えずただ女を睨みつけた。

「犬っころの目だね。でもお前は、負け犬でさえない」

 女はネイトの前に立ち、その髪を掴んだ。

「銃を撃つことも、照準をあわせることさえもできない、ただの臆病者だ」

 男勝りの力で髪を引っ張られ、蔑みの目で見られる。これを屈辱といわずしてなんといおう。

「…くたばれ」

 掠れた声でネイトはいった。

 女はにやりと笑った。次の瞬間、ネイトの頭を床に叩きつけた。女は怒鳴る。

「くたばるのはお前さ。我々の物資を盗んだだけで十分死に値する」

 痛みで意識が飛びそうになる。だが怒りと憎しみが意識と力を取り戻させた。

「だったらさっさと殺せ、この屑どもが」

 ネイトは叫んだ。

「なんだと貴様」

 歩哨二人が一歩前に出て、狙いをつけた。

 女は再びネイトの頭を床に叩きつけた。

「どのみちお前も、お前の仲間も死ぬさ。だがその前に、我々のリーダーがお前たちをお呼びだ。そのあとで、お望み通り殺してやるさ」

 女らしさを微塵も感じない凶暴な笑みを女は浮かべた。

「おい、このガキどもを引き立てるぞ」

「はっ」

 ネイトたちは、部屋から出された。銃を突きつけられ、反政府組織が占拠する建物内を移動した。そして、ウガキや他の幹部たちの前に突き出された。


 アリスもまた夢を見る。巨大な都市の中の、最も天に近い場所で。その下では、何百万の灯が輝いている。

 異様なほど整理整頓がいき届いた、あるいはものがほとんど置かれていない部屋のベッドで、清潔なシートにくるまり、眠りに落ちている。

 また同じ夢。繰り返し見る夢。

 母の温もり、銃声、悲鳴。そして、父の泣き濡らした顔。

 それは悪夢か精神の病に近いのかもしれない。成長してからずっと、この夢ばかりを見るのだ。

 ただ一度だけ、両親に相談をしたことがあった。母が病に伏せる以前のことだ。父はこういった。下層部にある政府が管理する孤児院に家族で視察にいった。そのとき付近で反政府勢力の攻撃があり、アリスは爆音や銃声に怯えて大泣きをしたのだという。その記憶が夢として繰り返し現れるのだと。

 だが、心配する必要はない。こうも父はいった。その視察以降、アリスを危険な目に遭わせたことはないし、今後もそのつもりはないと。

 自分の夢と詳細が少し異なることに違和感があったが、アリスは父の言葉に嘘や欺瞞を見出すことができなかった。むしろ父親としての強い決意や無限の愛情を感じた。だが、そのときアリスは見てしまったのだ。異様に強張った顔を少し俯かせ、黙り込んでいる母の姿を。その瞬間から、疑念と違和感を抑え込むことができなかった。アリスはその場では父の言葉を素直に受け入れたふりをしたが、その後、それが真実なのかどうか調べてみた。図書館で古い新聞記事を引っ張り出して、記憶と符合するような事件が本当にあったのかどうか探ったのだ。事件は確かに存在した。十五年前、第三地区の下層部にある孤児院で、AGWの手の者が爆弾を投げつけたあとで銃を乱射し、子ども一名を含む七人が死亡したと記事にはあった。事件当時、数名の政府高官による孤児院の視察が行われていたが、彼らへの被害はなかったともある。

 少なくとも、父の言葉には裏付けがあるわけだ。だが、あの母の顔はいったいどういうことなのか。夢と父の話との詳細部分に食い違いがあるのはどういうことなのか。自分の記憶は誤りで、父のいうことが正しいのか。

 疑念や疑問が完全に解消されることはなかった。かといって、父や母にしつこく問いただすこともできなかった。そうこうしているうちに、母が重い心臓病を患い、入院を余儀なくされた。なおさらこの夢について質問することが難しくなった。

 悪意があって過去を探りたいわけではない。ただ、自分という存在の確かさに揺らぎを感じる中、自分が何者なのか、自分という存在を構築する記憶はなんだったのかを知りたいだけなのだ。

 幼いころの幸福な記憶が、いつかその人を支える。思春期に知ったドストエフスキーの言葉をアリスは固く信じていた。だが、その記憶が偽りだとしたら、自分はどうなってしまうのだろう。

 夢から覚める。このところ、快適に起床することはほとんどなかった。悩み、不安、不快感がついて回る。

 夜明け前だった。空は紺碧色に染まり、吹き渡る風の鳴き声は、やがてくる朝を待ちわびる声のようだ。下層部に目をやると、眠ることを知らない輝きがそこにはある。

 幼いころに見た風景は、あの輝きの中にある。目で見える場所にあるのに、内戦のおかげで、下層部へ近づくことは叶わない。

 壁かけのテレビをつけた。いきなりAGWの指導者、ウガキの顔が映った。緊急放送とのテロップがついている。ウガキは、昨日の政府の攻撃により民間人に犠牲が出たことを非難していた。無辜の市民を死に至らしめた政府に正義はなく、民衆は立ちあがるべきだと独特の野太い声で叫ぶ。声や身振りには、三流の政治家が持つ軽薄さや欺瞞の影はなく、本気で政府に対抗する激しい闘争心と自負心が溢れ出ていた。一流の演説家、もしくは煽動家だとアリスは思った。

「我らが時代のゴールドスタインね」

 アリスは呟く。かつて政府に身を置きながら、いまは政府を打倒せんとする男。政府のありとあらゆる人間が血眼になって追い続けている男。小説のゴールドスタインとは違って、彼は確かに実在する脅威なのだ。

 隣の部屋で、父もこの映像を見ているのだろうか。いや、見ているに違いない。隣の父の部屋からかすかな物音がきこえる。父の気配を感じる。父もまた十七年に渡りあの男を血眼になって追っている。

あの男を殺すことが、父の使命なのだ。


【注釈】


「愛は私たちの悲惨のしるし…」:哲学者シモーヌ・ヴェイユの断想集「重力と恩寵」の一節。


ドストエフスキー:19世紀ロシアの文豪。代表作「カラマーゾフの兄弟」において、しばしば子どものころの幸福な記憶について言及がなされている。


ゴールドスタイン:ジョージ・オーウェルの小説「1984」の登場人物、エマニュエル・ゴールドスタインのこと。ビッグブラザーが統治する政府・国家・党に対して、兄弟同盟なる組織を率いて反逆を企てる人物で、国家や国民からは激しい憎悪を向けられている。だが、その実在性は極めて不確かで、作中ではビッグブラザー同様に国家や党がプロパガンダのために作り出した虚像の可能性が強く示唆されている。


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