66 Emma - Interrogate
通話を終えると、トミイは天を仰いだ。深呼吸をして、心を落ち着けた。
目の前にはグエンが跪いている。トミイを見つめて、心底トミイに怯えている。グエンの顔は痣だらけになっていた。トミイとその仲間が容赦なく彼を殴りつけたためだ。トミイはグエンの頬骨に自分の拳が突き当たったときの生々しい音を覚えていた。骨と骨が打ちあうときのその音は、グロテスクでありながらも、人間の内部から背徳的快感を引き出す。その音をきいた瞬間に、快感が脳髄を走り抜けるのだ。それは音楽鑑賞をしている際に、メロディや演奏の素晴らしさに強烈な感動を覚えるのと似ている。ドヴォルザークやドビュッシーの音楽が頭から離れなくなるのと同じで、病みつきになってしまう。その音をききたいがために、人を激しく殴打したくなるときがある。
人間の内部で目覚めたある事物への欲求を抑制することは極めて難しい。それはたとえば暴力への欲求、麻薬への欲求などであるが、一度それらが人間の内部で目覚めてしまえば、もはやそれらを忘却して生きていくことはできず、普段はそれらを抑制して過ごしていたとしても、ふとしたことでその欲求が急激に高まり、爆発する瞬間がやってくる。多くの人間の理性はその欲求の爆発に耐えられない。自傷行為を繰り返す人間や薬物中毒者がそのわかりやすい例であろう。麻薬や暴力はそのようにして人の人生に影を落とし、一生涯に渡ってつきまとってくる。もはや欲求の忘却が叶わないのであれば、一生その欲求を知らずに生きていく方が幸福だ。悪をなさず、求めるところは少なく。だが、この世の中でそのような生き方をすることもまた極めて難しい。
トミイはグエンを見てにやりと笑う。懐から飛び出しナイフを取り出す。
つまるところ欲求とその快楽を一度覚えてしまい、それらを忘却することも、また抑制していくことも上手くできないようならば、欲求と快楽に従い、突き進んでいくこともまた生き方の一つだ。破滅的な生。世の中がおかしくなっているのであれば、そうした生き方もあっていいはずだ。
だからトミイは衝動を堪えようとしない。欲求と快楽に従って生きている。誰の意志にも囚われず、自分のしたいことをして生きていく。破滅的といわれようとも、それが自分に生き方なのだ。
手にしたナイフで、トミイはグエンを切り裂いた。
灰色の打ち放しコンクリートで床、壁、天井を統一した無機質なフロアに、無数の段ボールが、エマには見当もつかないなんらかの秩序に従って整然と積み上げられ、そしてフロアの奥まで並べられていた。天井が他のフロアに較べて高く、鈍色の梁が剥き出しになっているのが見える。フロアの規模や規則正しい段ボールの配列に、物流関係の施設に潜り込んだのではないかと勘違いをしそうになるほどだ。
フロアを奥へと歩いていくチョウの背中をエマは追いかけた。じろじろと周囲に目を向けて、興味深く観察をする。箱の中身については見当がついている。梱包された白い粉末。箱にぎっしりと詰められたモルヒネ、ヘロイン、コカイン、アンフェタミン、メタンフェタミン。AGWはここで大量の麻薬を保管している。ここはさながらこの地域における麻薬の保管庫と化していた。保管している麻薬の一部は、医療用に使う。だが、大部分は支配下にある地域で売り捌くか、もしくは政府の領域内に密輸するためのものだ。麻薬は金になる。さらに麻薬による汚染は敵を内部から弱体化させる有効な武器となる。AGWの上層部はその事実をよく知っていて、外国の政府や犯罪組織と密かに取引をして、麻薬をこの国に持ち込み、麻薬の使用所持を禁じている政府の領域内で流通させていた。AGWは薬物汚染を政府の支配領域内で蔓延させて、政府の弱体化を目論んでいたのだ。歴史は繰り返す。AGWの上層部は歴史をよく知っていた。歴史上、反政府組織と呼べる組織は数え上げるのが難しいほど無数に存在しているが、そのうちの少なくない数の組織が、敵対勢力に対抗するため、あるいは活動資金を獲得するために、麻薬の密輸入に関与していたという。AGWもその歴史に倣っている。また、麻薬の有用性を認識していて、政府のようになにがなんでも麻薬を取り締まろうという考えも持っていない。AGWは支配下にある地域の中でも、さらに限定された特定領域内では、麻薬の流通や使用を認めていた。そうすることで薬物常用者や犯罪者、犯罪組織をその特定領域内に押し込め、総体としての犯罪件数を抑制するためだ。道義的な問題を脇に置くならば、政府の支配領域に麻薬を流通させることも含めて、AGWの施策はある意味で理に適っているといえた。荒廃し、治安維持がままならない都市において、凶悪犯罪の撲滅こそできないが、その抑制は可能になる。また、強大な敵の弱体化をさしたる負担をかけずに行うこともできる。多くの人の人生を破滅させる麻薬の使用や流通を認めてしまうという道義性、倫理性が問題にはなるが、そもそも背徳や荒廃を極めたこの都市において、いまさらそれを気にかける者がどれほどいるというのか。さらに凶悪犯罪の抑制という利点とを天秤にかけたとき、その道義性や倫理性にどれほどの説得力があるというのか。AGW、そしてウガキという指導者は、大衆の心理をよく見抜いている。犯罪や悪徳が栄え、ただ高く聳え立つことしかできない都市に対する人々の敵愾心、反発心を巧みに操ることで、人々を支配し、扇動している。目の前に並ぶ麻薬も、AGWにとってみれば金を生み、大衆を操り、政府を乱すためのとっておきの道具なのだ。
フロアの中に設けられた部屋に、チョウが入っていく。エマはその背中を追いかける。部屋の中に、椅子に腰かけた中年の男がいた。このフロアの管理責任者で、名前はアイザワ。アイザワの鼻には白い粉がついていた。見たところ、どうやら昼間に薬で一休みを決め込んでいたらしい。
「鼻の粉は見なかったことにする」
チョウがいう。
アイザワが鼻を手で擦った。三度ほど顔を顰める。それでおそらく空中に飛んでいた意識が脳に戻ってくる。
「諜報関係の人間が、ここになんの用かね?」
諜報関係の人間の予期せぬ訪問だったせいか、アイザワは警戒心を剥き出しにしていった。机の上にもかすかに粉末が散らばっていた。雑なスニッフィング。なんと不用心なことか。これでこの地域の麻薬の管理責任者だというのだから呆れるしかない、とエマは思った。
「なにもお前を追及するためにきたわけじゃない」
チョウはにこやかにいう。
「では、なんのためかね?」
「華龍盟との取引について教えてほしい。ここには華龍盟からも購入した薬物もあるときいている」
「確かに華龍盟は取引先だ。ここにある薬物の四割程度は、華龍盟から購入している」
アイザワは部屋に設けられた鏡越しに広がる段ボールの群れを指し示した。
「つまり、華龍盟にしてみれば、こちらは一大顧客というわけだ」
チョウも鏡越しに段ボールの群れを見やった。
アイザワは鼻をかみながらいう。
「そういうことかもしれん。だが、彼らとは持ちつ持たれつの関係だ」
「我々の任務の関係でね、華龍盟との取引でトラブルがないか調べている。教えてくれるだろうか?」
あくまで紳士的な口調でチョウはいう。
アイザワは肩をすくめる。
「…なにを調べたいのかはわからんが、まあいいだろう。ちょうど四十時間ほど前に、華龍盟とちょっとしたトラブルがあったからね」
アイザワがそういうと、チョウもエマも顔つきを変えて、アイザワに視線を注いだ。アイザワは二人の視線に気圧されて、どこか怯えたような態度になる。
「そのトラブルとやらを教えてもらおうか」
チョウが迫った。
アイザワは体を震わせた。
「華龍盟が納期に遅れたんだ。我々はすでに連中に金を振り込んでいて、あとは連中が納期通りに薬をここへ届ければそれで話が済むはずだった。だが、連中の内部でなにかトラブルがあったのかどうかはわからないが、納期に遅れると連絡があった。その時点で約七十二時間の納期遅れが発生したことになる」
「我々に実害はなかったのか? ここの薬物を卸している組織へ、なにか迷惑はかけなかったか?」
チョウは尋ねた。ここは薬物の一時保管場所に過ぎない。世の中のありとあらゆる商品と同じく、麻薬や違法薬物もまた流通の網に乗っかっている。政府の支配領域内で麻薬を密売する組織から金が振り込まれ、要請があれば、ここに保管してある薬物は出荷しなければならない。なぜならそれが事業であり、商売だからだ。
「幸い実害は発生していない。華龍盟には文句をいうにはいったが、実害がなかったこともあり、必要以上には追及はしなかったよ」
「なぜだ? 連中は約束違反じゃないか」
エマは口を挟んだ。
アイザワがエマを見つめる。その次にチョウを見やる。この娘はなんなのだ、という苦情をチョウに対して表情で訴えている。
「いっただろう? 我々と華龍盟は持ちつ持たれつの関係なんだ。実害がない以上、細かい追及は無意味だ」
アイザワはいう。その表情はまるで余計な詮索はしてくれるな、といっているように見える。
「華龍盟になにが起こったのだろうな?」
チョウは疑問を口にした。
アイザワは首を振った。
「知らないね。なにかあったには違いないが、あえてきかなかったよ」
我関せず。それを決め込むアイザワの態度は、少しばかりエマを苛立たせ、同時にある疑念をも抱かせた。
「過去に連中が約定違反や納期遅れをしたことはあったか?」
エマはいった。
アイザワは苦い顔をする。
「長い期間に渡って、連中とは取引をしている。数を数えれば、そりゃあ何回かそういう約定違反はあったろうさ」
「だがお前はそのたびに目を瞑ってきた。そういうわけか」
エマは鋭い口調で追及した。アイザワが顔を顰め、助けを求めるかのようにチョウを見る。だが、チョウはまるで無表情に話をきいているだけだ。アイザワを助ける気はないらしい。
推測を組み立て、推論を構築する。頭を猛烈な速度で働かせ、論理的で説得性のある推論を導き出す。あとは容赦のない口調で、相手を追求する。ある意味でお決まりの尋問方法。
エマはいう。
「お前の鼻についていた粉。それはここからくすねていたものに違いない。華龍盟もお前の手癖が悪いことに気がついていたんじゃないか? だから度々約定違反があったとしても、お前は必要以上の追及をしなかった。今回もそうだったのだろう。だが、過去の記録を引きずり出してみれば、お前がどの程度ここの薬をくすねていたのかがわかるし、連中の約定違反もわかることだ」
悪魔のような笑みをエマは浮かべた。アイザワがたじろく。その目が泳ぐ。
エマはアイザワに近づいた。
「どうだ? 私の推測は当たっていたか? それとも、図星で、なんの反論も浮かばないか?」
アイザワは肩をすくめる。アイザワは困惑し切った顔で、チョウを見つめた。
「なんなんだあんたらは? ここへ俺を追及しにきたっていうのか?」
上ずった口調で喋る。それから鼻を擦る。アイザワの額には冷汗が浮かんでいるのがわかる。
「お前の怠慢もそれなりに問題だが、我々の関心はそこじゃない」
チョウはいった。
「じゃあなんだっていうんだ?」
アイザワが声を荒らげる。
エマはアイザワにより近づいた。服の襟を掴んで、こういう。
「お前の怠慢も落ち度もどうだっていい。我々は華龍盟の落ち度について知りたいんだ。連中はなぜ納期遅れをやらかした? これまでの約定違反の原因はなんだ? それが知りたい」
エマは拳に力を込めた。アイザワが逃げられないようにした。アイザワはエマの手を振り払おうとしたが、想像以上のエマの握力のために、手を振り払うことができず、襟を掴まれたままだった。
「お前の追及が目的ではない。華龍盟への追及が目的だ」
チョウが冷酷な目をして、そういう。エマと一緒になってアイザワを追い詰めようとしている。
「なんだってお前らはそんなことを?」
怯えた口調でアイザワがいう。
エマはアイザワを睨みつける。俗物を見るような目でいう。
「お前にはどうだっていいことだ。さっさと記録をここへ持ってこい。それから、お前が知っていることをすべて私たちに喋るんだ」
アイザワの耳元でいってやる。アイザワが泡を食う。手を離してやる。
アイザワが机の中から過去の資料を取り出す。アイザワの顔には恐怖が浮かび上がり、その手は惨めなほどに震えている。
エマとチョウはそんなアイザワを見て、残酷に笑った。
「さっさと喋れ、このくそ野郎」
突如としてエマは机を蹴った。そして大声で怒鳴りつけ、アイザワを脅した。チョウはまるで知らん顔をしている。アイザワが激しく狼狽する。唇を無様に震わせている。
「ウォンとかいう、華龍盟の馬鹿野郎が、俺たちに卸す薬物を大量に横流ししていたんだ」
アイザワが叫ぶようにいった。
エマは机に身を乗り出し、再びアイザワの襟を掴んだ。怒鳴りつける。
「どういうことなのかいってみろ」
「華龍盟の構成員でありながら、そいつはどこか別の組織に薬物を横流ししていたんだよ。それも比較的長期に渡ってだ。すでに華龍盟の側で責任は取った。ウォンとその家族は皆殺しにされた。四十時間前に、ウォンとその家族は高層の公営住宅から叩き落されて死んでいるのが発見されている」
「それで奴らは落とし前をつけたつもりか。ふざけた話だ」
エマは吐き捨てるようにいう。
「持ちつ持たれつの関係だ。ウォンがそれまで横流ししていた分も含めて、華龍盟は薬物を届けてきた。そしてお互いに過去に目を瞑ることにした」
「はっきりいえよ。奴らの不手際とお前の怠慢をごまかしたってことだろうが。いい加減にしろよ、このくそ野郎が」
エマは叫んだ。苛立ちのあまり銃を抜きそうになった。エマの飛ばした唾がアイザワの顔にかかる。
アイザワが震え上がった。
「そもそもはウォンの野郎が暴走しなければ問題にもならなかった。あの野郎、新興宗教に嵌まり込んで、手を出すべきでないものに手を出しやがった」
「お前だってここの薬をくすねていたんだろうが。偉そうにコカインを決めやがって。ウォンって馬鹿野郎と同罪に等しいな」
アイザワの弁明に対して、エマは容赦なくそういった。アイザワは返事に窮した。エマの指摘は図星でしかなかったからだろう。
「お前の手癖の悪さなんざ、華龍盟にとっくに見抜かれてるよ。リャンって男がお前に交渉を仕かけてきただろう? 臭いものには蓋をしましょうとかそんな都合のいいことを奴はいって、お前は隠蔽を決め込んだんだ。そうだろう?」
エマがそのように捲し立てると、アイザワは茫然とした。
「なんだってあんたはそんなことまで知ってるんだ…」
「私も華龍盟のことはよく知ってるのさ。奴らの交渉のやり口もな。お前がリャンに丸め込まれた様子も、簡単に想像できるさ」
エマはいった。お前の手の内も心の内もすべてわかっているぞという目で見据えてやる。その強靭な視線を受けて、アイザワは死んだ魚のような目をする。その目を見てエマは哄笑する。
チョウが咳払いをする。
「もうそれくらいにしておけ」
チョウはいう。
エマはアイザワの襟を掴んでいた手を離した。アイザワのズボンには染みができていた。恐怖で小便を漏らしたらしい。
チョウは冷ややかな、心底アイザワを軽蔑するような目で彼を見つめた。それからエマに語りかける。
「これで華龍盟の不手際は見つかったわけだ」
「あんた、この馬鹿野郎を拷問にかけた方がいいんじゃないか?」
チョウに対し、エマは真剣に提案をする。昼間からコカインを決めて飛んでいるような人間など処刑してしまえばいいとエマは思う。だが、チョウは首を縦に振らなかった。
「何度もいわせるな。味方への追及が目的ではない。お前はこれで満足したか?」
チョウに尋ねられると、エマは頷いた。アイザワが取り出した過去の資料を手に取り、それを掲げる。
「ああ、資料が手に入った。華龍盟に揺さぶりをかけるにはこれで十分だよ」




