64 Emma, Grossman - The Enemy Inside
「裏切り者の情報を教えろ」
チョウは、獲物を執拗に追い続ける狩人のようなぎらぎらと燃え立った目でエマを睨んだ。一方、エマは、にたにたと底意地の悪い笑みを浮かべて、まるで罠にかかった獲物を見るような目でチョウを見ていた。
「やっぱりあんたは戦いよりもこそこそとした陰謀の方が好きみたいだね」
エマが軽蔑の言葉を吐く。チョウの顔が一層険しくなった。だが、チョウは顔に青筋を立てながらも、声を荒らげることはなかった。
「御託はいい。俺が欲しいのは情報だ」
チョウの両手は、いまにもエマに掴みかかろうと、怒りで軽く震えているのがわかる。諜報活動に従事する人間にしては、あまりにもわかりやすい人格の持ち主ともいえる。苛烈な拷問で名を上げなければ、この男はただの一士官か、もしくは精神異常者として一生を過ごしていたかもしれない。だが、組織は、あるいは時代は、この男を必要としたわけだ。軟弱で腐敗した政府の役人や軍人、犯罪社会の卑しき人間たちは皆この男の拷問に音を上げて、重要な情報を漏洩させた。それによって組織は大きな利益を得ることになった。そうした功績によって、ウガキやハタといった組織の上層部の人間たちは、この男の価値を認めているのだ。
「令嬢の誘拐が失敗に終わったあとのことだ。私が現場となった大学構内から脱出する際、治安関係者、おそらくは内務省の職員同士の会話を盗み聞きした」
エマは記憶を手繰り寄せながら、ゆっくりと話し出した。
「もう少し状況を詳しく教えろ」
間髪を置かずしてチョウがいう。エマは記憶を正確に思い出そうと努めた。
「令嬢が緊急避難用の簡易パラシュートで下層部へ落ちていったあと、現場は大混乱になった。私が連れていったガキどものうちの二人が、恐慌状態に陥って、会場内で銃を乱射したせいだ。すぐに会場に警備していた治安関係者たちとの撃ちあいになった。私はガキどもを見捨て、混乱に乗じて会場を脱出しようとした」
チョウは目を細めた。情報の真偽を頭の中で検討している。
「続けろ。それで?」
「だが、会場内の人間が一斉に逃げ惑い、出口という出口に殺到したこともあって、なかなか大学構内から脱出ができなかった。そうこうしているうちに治安部隊や内務省関係者が現場に到着し、事態の収拾を図ろうと動き始めた。まあ、といっても、もうそのころには、銃を乱射したガキどもは、銃撃戦の果てに、治安関係者に射殺されていたようだが」
「内務省の者たちは急いで現場を押さえて、情報を塞ごうとしたのだろう。内務省のお得意の手口だ。それはともかく、どうやって内務省関係者の会話をきくことができた?」
「たまたまだ。なるべく当局の人間に顔を見られないよう、連中をやり過ごそうと私は身を隠していた」
「どこに隠れていたのだ?」
チョウに尋ねられたので、エマは冷笑で応じた。
「世の中には女にしか入れない場所があるのさ。身を潜めてしばらく時間がたったので、そこを出ようとしたとき、連中の会話をきいた。大丈夫だ。敵に怪しまれてはいない。結局、逃げ惑っていたパーティ参加者の一人として、最終的に疑われることなく大学の外へ出された」
「それで、その会話というのは?」
「死体の一つを消した。現場に細工を施した。その死体を内通者に仕立て上げる。あんた、その意味がわかるか?」
エマはいった。
チョウは顔色を変えた。
「…思い当たる節はある」
「というと?」
「スギヤマさんが政府の襲撃を受けたことは知っているか?」
エマは首を振った。詳細はまるで知らない、とエマは答えた。
「政府に奇襲をかけられたんだ。スギヤマさんは奇跡的に助かったが、護衛でついていた兵士は、一名を除いて皆戦死した」
「私の仲間が皆やられたというのか?」
エマが問いかけると、チョウは頷いた。
「そういえば、お前が所属していた部隊だったな」
「令嬢の件に関与するまでは、私もその部隊の一員だった。俄かには信じられない」
「その気持ちは察する。組織の動揺も大きかった。これは用意周到に準備された計画だった。内通者がいなければ、このような襲撃は実行できなかっただろう」
チョウはいった。エマは拳を握り締め、険しい表情を浮かべた。つい最近まで一緒にいた部隊の仲間たちが殺されたときいて、冷静ではいられなかった。
「政府の襲撃で戦死した兵士たちの遺体は、すべて回収ができている。それで、ここからが本題なのだが、その遺体の中で、一名だけ即座に回収がすることができず、回収までに時間がかかった遺体がある」
「回収に時間がかかった遺体?」
「護衛の部隊長を務めていたアマノの遺体だ。部隊は、襲撃側と相当激しい戦闘を繰り広げ、最期まで抵抗を続けたようだ。だから我々も戦闘の激しさのために、遺体を即座に見つけ出せなかったことになんの違和感も持っていなかった。だが、いまのお前の話をきいて、認識が変わった」
「部隊長の遺体からは、なにか見つかったのか?」
「ああ、不審なものとして紙切れが一枚。秘匿回線のコードらしきものが書かれてあった」
「それはもう調べてあるんだろう?」
「まだ調査途中だ。だが、期待はあまりしていない。我々の解析技術は政府に遅れを取っている。交信内容の詳細や交信相手について窺い知ることはできない。だが、それは重要な点ではない」
チョウはいった。
「お前の情報が正しければ、政府は、我々にアマノが内通者だと思わせるように策を巡らせている。不審な紙切れ、秘匿回線、それらは我々に疑いを持たせるための欺瞞なのかもしれん」
「…一体、なにが真実だっていうんだ?」
エマは呟いた。
チョウは腕組みをする。
「もしくは誰かにかかるはずの疑いを、別の誰かに向けさせようとしているのかもしれん」
「どういうことだ?」
「部隊の中で、一名だけ生き残った者がいる。私はその男を疑っていた」
「一体誰だという?」
「ナキリ」
チョウがエマに告げた。
それをきいたエマは、あり得ないといった顔をした。あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いが出る。
「ナキリは親しくしていた仲間だった。奴に限って、それはあり得ない」
「その思考は危険だな。誰であっても疑ってかかるべきだ。それに彼の行動にも、不審なところがないわけではない。特に襲撃直前の行動はそうだ。護衛任務に赴くのを、避けようとした節があったらしい」
「それだけで奴を疑うというのか?」
エマがいうと、チョウは鼻で笑った。
「疑うのが私の仕事だからな。政府は、ナキリにかかる疑いを逸らそうと、アマノを利用したのかもしれん。現に上の人間たちは、ナキリよりもアマノに疑いを向けている」
「ナキリを疑うにしても、確たる証拠がないと話にならない。奴が裏切り者だとは…」
エマがうるさくいう。チョウは露骨に煩わしそうな顔をして、エマの言葉を遮った。
「わかっている。だから私はナキリの動きを調査している。奴の経歴、過去、行動や性格まで。なにも決めつけで動いているわけではない。奴に関する証拠を集め、積み上げる。それで最終的に判断する」
「いい加減な判断で、奴に拷問をかけてくれるな」
エマがそう求めると、チョウは歯を見せて笑った。まるでそれまでの立場が逆転したかのようでもあった。
「お前以上に私は加虐が好きでね。欲求を堪え切れずに、そうなるかもしれない」
チョウは顔を綻ばせる。対してエマは顔を歪ませた。
「奴は仲間だ。仲間に拷問を加えるのは、許せない」
「奴が裏切り者なら話は別だ。そうならないよう、祈っているがいい」
チョウはそういうと、部屋を出ようとした。部屋の扉に向かって歩いていく。
「どこへいく?」
エマはチョウに声をかけた。チョウはエマを振り返ることもしないで、こう答えた。
「情報の礼だ。華龍盟との取引について、関連する部署とかけあってやる。ついてくるといい」
チョウは部屋の扉を開けた。
AGWの兵士たちの輪に混ざることは、さすがにできなかった。
グロスマンは一人所在なく建物の前で立っていることしかすることがなかった。昼間の白い光が降り注ぐ中、兵士たちは数人で固まって、気ままに煙草を吹かしたり、雑談に興じたりしている。グロスマンには奇妙に思えるほどの平穏さだった。政府との戦闘行動がいったんは落ち着いたためだろう。兵士たちの表情にも強い緊張は見かけられない。
対政府の前線。グロスマンの目の前にある建物に、AGWは前線部隊の司令部を置いていた。何重にも配置された歩哨の誰何を通過し、エマは堂々と司令部のある建物内へと入っていった。浮浪者と見間違うほどの薄汚れた格好だというのに、エマはわずかな言葉を歩哨と交わしただけで、通行を許された。おそらく暗号や合言葉を利用しているのだろう。
先ほどから何人かの兵士たちがグロスマンをちらちらと見ていた。グロスマンは視線に気づかない振りをした。異国の顔立ちはよく目立つ。奇異の視線を向けられるのは仕方がなかった。兵士たちはグロスマンに声をかけようとはしなかった。
エマが建物内に入ってから一時間以上は経過している。手元にはなにもなかった。ただ黙ったまま、寒空の下で時間が経過するのを待つしかない。
あの孤児院を離れたあとで、どこへいくかと思えば、AGWの前線司令部とは思ってもみなかった。一体なにをするつもりなのか、エマは明かそうとはしない。エマは危なっかしい女であり、謎も多かった。社会のどん底で生まれ育ち、生き抜いてきたせいもあってか、いろいろな組織や勢力と繋がっている。まともな状況であれば、グロスマンもさすがにエマと手を組むことはしなかっただろう。
だが、いまのグロスマンを取り巻く状況は、一言でいって、異常でしかない。仕えているスースロフは狂気に陥り、敵対関係となった華龍盟は容赦なく自分や仲間を追い詰めてくる。果たして華龍盟の襲撃で生き残った仲間はどれほどいるのだろうか。窮地に追い込まれているというのに、それでもスースロフは怒りと憎しみを捨てず、正気に戻っていない。命が幾つあっても足りないような非常事態において、仲間や同志たちとともにいても、それは座して死を待つだけに過ぎない。組織の勢力差はわかり切っている。華龍盟が手打ちを図る保証もない。むしろ組織の威信のためにも、華龍盟はこちらが最後の一人になるまで殺戮を続けてもおかしくはなかった。グロスマンは座して死を待つよりも行動していたかった。スースロフの傍で死の恐怖に怯えているよりも、謎が多く危険な匂いがするとしても、エマとともに行動して、事態を打開したかった。トミイの命。それを奪うことができれば、スースロフは正気に戻るだろう。スースロフが正気に戻りさえすれば、組織間の抗争も、やがては和解に向かうだろう。グロスマンはそのような見立てをしていた。
グロスマンは建物を見上げた。エマがいまなにをしているのか、それはわからない。考えがあるとエマはいっていた。いまはその言葉を信じるしかない。
建物から兵士たちが出てくる。兵士たちは誰かを連れ立っている。グロスマンは横目で眺めていた。兵士たちに脇を固められた一人の少女。顔はやつれている。服装は汚らしい。おそらく少女はまだ十代であろう。グロスマンはかつて内戦が起こった祖国で、ああいう少女を見たことがある。戦時下の暴力によって、肉体的にも精神的にも徹底的に毀損された少女。人間性を破壊された人間に特有の、一つの草木もない荒野のように荒廃と虚無しか現れることのない目を少女もしていた。少女がなにをして、なにをされたのか、はっきりとはわからない。だがグロスマンは外的にも内的にも毀損された人間の末路をよく知っていた。彼らは簡単には死ねない。死なせてくれないのだ。彼らを徹底的に毀損した存在や勢力に、彼らは死ぬまで利用され続ける。それどころか、彼らの死さえも利用されてしまう。まさに彼らは骨までしゃぶられてしまうのだ。
少女を連れ出す兵士たちとグロスマンは目があった。兵士たちはグロスマンを睨んだ。こちらを見るな、と兵士たちは合図を送っていた。
グロスマンは目を逸らした。目を逸らす、無関心になる。それも生き残る方策の一つだ。暴力が吹き荒れる事態において、倫理観や正義感はなんの役にも立たない。無視、無関心を決め込む保身的な態度の方が役に立ち、それによって命を繋ぐこともある。
グロスマンはエマを待った。
兵士たちに連行された少女のことは、忘れることに決めた。




