62 Tommy, Alice - Damn You
あの女の目を思い出す。意志は薄弱そうだった。勇敢かどうかはわからなかったが、子どもに対する狂気的な愛を感じた。危険を察すると女はすぐに子どものもとへ駆け寄ろうとした。子どもを庇おうとしたのだ。子どもを守るためなら、親はなんだってする。意志の薄弱そうな女ではあったが、彼女も人の親だったのだ。
トミイは女を殺した。トミイが何者であるかを察し、幼い子どもに駆け寄ろうとした女の髪を掴んで、女のこめかみに銃弾を撃ち込んだ。女の血と脳味噌が硬いタイルの床に派手に飛び散り、女の子どもは狂ったように泣き叫んだ。
トミイは窓の外を眺めながら、もの思いに耽っていた。過去と戯れていたのだ。
部屋の外はずっと騒がしい。街には新たな夜明けが訪れている。終わらない喧騒の日々、その繰り返し。
華龍盟の事務所は、異様な活気に満ちていた。ロシア人たちとの抗争で、誰もが興奮し切っている。組織は圧倒的な物量差で、ロシア人たちを追い詰めていた。トミイは組織の人間に話をきいた。敵の首魁であるスースロフは組織の攻勢によって、本部に籠城することを決め込んだ。組織はスースロフが籠る本部を包囲しているという。
ロシア人たちの悲鳴が部屋の外からきこえる。戦闘で捕虜にされ、拷問にかけられているのだ。だが、ここは軍ではない。手荒で残忍な拷問が加えられているのは、容易に想像ができた。
自分がきっかけで始まった戦争だというのに、トミイは組織とロシア人たちの抗争劇を他人事のように冷めた目で見ていた。もとはといえば、ロシア人がトミイをさしたる理由もなく襲撃したのが抗争のきっかけだった。トミイにしてみれば、あれは正当防衛だった。だが、反撃して殺害してしまったのが、スースロフの息子だったということで話が拗れ、戦争に繋がったのだ。理不尽な話だとトミイは思う。あのとき殺したのがスースロフの息子でなく、彼につき添っていた彼の部下ならば、あるいはただの街のチンピラならば、こんな戦争には発展しなかっただろう。息子が死んで理性を失くしたスースロフも愚かというしかない。事態を収束させようと交渉に臨んだリャンから息子の死の事情をきかされても、スースロフは正気を取り戻すことはなかったという。そして戦争が始まった。組織も組織だ。勢力差が明らかな、歯牙にもかけない相手に対して、一切の抜かりなく攻撃を加えている。下層部のロシア人たちを殺し尽くす勢いだった。敵を圧倒するためとはいえ、ここまで苛烈な対応が必要だったのか。政府もこの戦争を察知しているだろう。これ以上派手に動くと、政府が介入してくる懸念がある。それを組織は考えているのだろうか。
部屋のベッドに腰かけて、窓の外を眺める。休息を取っているつもりだった。赤髪の女からつけられた傷は、思いのほか痛んだ。薬はもうこれ以上効果がない。眠りに落ちれば、また悪夢を見るだろう。それが嫌だったので、トミイは眠らずにもの思いに耽っている。
時間をやり過ごす。過去は、自分自身と高めるための最高の道具である。忘れたくても忘れられぬ過去。長く生きれば、そんな過去も積み重なる。引き出しを開けるような感覚で、過去は眼前に現れる。過去のことを思うと、さまざまな教訓を得ることができる。ときには神の御声をきいたような気分にもなれる。過去を思いながら、感覚を研ぎ澄ませる。未来への教訓と警告を知覚し、やがてくるだろう対決に思いを馳せる。
ゴトーとの対決。
ゴトーは必ずあの小娘と小僧を連れて、取引を持ちかけてくるだろう。トミイはそう確信していた。どれほどの時間がかかるのか定かではないが、ゴトーはきっとこちらに連絡を寄越すだろう。そして、トミイはゴトーと対決することになる。あの男は一筋縄ではいかない。大人しくこちらのいいなりになって、取引に応ずるとは思えない。なにかを企んでいるに違いない。
ゴトーと対峙することを考え出すと、トミイは眠気をまるで感じなかった。奇妙なことに楽しささえ感じた。ゴトーの人となりを捕まえたグエンからきいていると、嫌でもゴトーという男に興味関心が湧いた。妻をAGWのテロで殺され、AGW、ひいてはウガキに対する報復心を燃え滾らせている男。ぼろぼろになったウガキの写真をいつも持ち歩き、虎視眈々とウガキの命を狙っているという。自分と同じくらいに愚かな男だとトミイは思った。復讐のために犯罪に手を染める男と、生活のために犯罪に手を染める男。両者の愚かさにどれほどの違いがあるというのか。
トミイはゴトーからの連絡を待った。それがそう遠くない時期にやってくるだろうと予感していた。神か精霊がそれを差配しているのが、トミイには知覚できた。
興奮と歓喜を感じる。
ときは迫っている。
「第八地区南端、ロジスティクスセンター跡地」
壁に貼りつけた地図。ゴトーは指を差した。アリスとネイトはその地図を食い入るように見つめた。
「元は外国企業の物流拠点だった場所だ。付近には三箇所、高架道路への入口がある。閉鎖された地下鉄の駅も近い。現況は更地だから見晴らしもいい」
「狙撃にはもってこいの場所だ」
ネイトはいった。
「でも隠れる場所はない」
アリスは腕を組みながら、いった。
「いや、何者かによって投棄されたままの土砂やコンテナがある。弾丸を避ける程度には役立つだろう」
壁に凭れながら、ゴトーはいう。枯れ木を想起させるような長身痩躯。ネイトたちを見下ろしている。
「どういう作戦でいくんだ?」
ネイトが問いかけた。
「作戦はこうだ。小僧、お前はこの娘を捕まえた振りをして、交渉の場に立て。華龍盟の交渉担当者に、俺の部下の解放を求めるんだ」
「あんたはどうする?」
「俺は狙撃役だ。お前たちの動きを逐一見ている」
「なんだ、あんたは安全圏かよ」
ネイトは舌打ちした。
「お前が銃を撃てるなら、役目を代わってもいい」
ゴトーはいった。ゴトーの発言にネイトは苦い顔を浮かべた。ゴトーはネイトが銃を撃てないことを知っているようだ。
「娘と俺の部下を交換するその瞬間、ロシア人どもを乱入させる。俺は部下を捕らえている華龍盟の人間を最初に排除する。場は混乱するだろう。小僧、お前はその隙に娘と部下を連れて、逃げるんだ。俺が援護する」
「あんたとの合流地点は?」
「第六地区方面へ向かう高架道路の入口付近に車を停める。そこにしよう。地図で位置関係を覚えておけ」
「もし流れ弾かなにかにやられて、万が一の事態になったら?」
「死んでも辿り着け。それしかいえない」
ゴトーは真顔でいった。
「危険極まりないわね」
アリスはいう。
ゴトーはアリスに視線を向けた。
「大丈夫さ。少なくとも連中はお前を狙おうとはしない。取引材料だからな」
「そういう問題じゃない」
「ならどういう問題だ? それとも、このまま華龍盟に引き渡されたいか? いいんだぞ、俺はそれでも」
ゴトーの飄々とした態度に、アリスは顔を歪めた。こちらの心情を考えようとしない無神経さに、辟易とする。それからアリスはネイトを見た。ネイトもアリスを見ていた。お互いに憮然とした顔をした。きっと互いに同じことを考えている。
結局、この状況ではどの道ゴトーに従うしかないのだ。ここで自分が華龍盟に引き渡されれば、アリスはこの下層部で自らの過去の探求ができなくなる。ネイトも仲間を救う機会を喪失する。いまはこの男の方針に従うしかない。
「…くそったれ」
小さくそう呟く。状況は呑み込めても、感情は冷静ではいられない。
「なんだって?」
わざとらしくゴトーがきく。
アリスは一度ため息をついた。
「くそったれ、っていったの。下層部風にいえば、そういうことじゃない?」
今度は大きな声で答えた。
大臣令嬢とは思えないその言動に、ゴトーは笑い声を上げた。




