55 Nakiri - Hunt
混濁した意識。混濁した視界。体はほとんど動かせない。頭だけ宙に浮いているような感覚。
視界は濁っている。すべてが曖昧に映る。自然光と風景がぼんやりと見える。人影も見える。だが集中力が持続しない。数秒で、すべてが混濁する。そして視界が暗転し、意識が飛ぶ。どれほど時間が経過したのかわからないが、やがて覚醒する。また目の前には混濁とした世界が広がる。
白く淡い自然光が、その場所に差し込んでいた。左右には、おそらく青い生地のカーテンが引かれている。目の前には白い間仕切りがある。
病院。推測する。自分になにがあったのか、それを考えようとすると、意識が飛ぶ。また視界が暗転する。
次に意識が戻ったときは、思考をあえて停止させた。なにも考えない。なにも推測せず、思索もしない。それによって、この意識が再び飛ばないようにする。目の前に生起する現象を、ただ眺めるだけに徹した。光の移ろい。通り過ぎる人の影。風がそよいで、揺れるカーテン。情報量の少ない風景を、なにも考えずに眺める。それでもまだ視界はぼやけている。体は動かない。
長いこと風景を眺め続けていると、なんの前触れもなく、意識が飛び、視界が暗転した。意識が再び戻ったとき、周囲は暗かった。ぼんやりと暖かな光が、視界の斜め上にあるのを感じる。夜が訪れたのだとわかった。光に影が差す。人影が過ったのだ。複数の人影。
声がきこえてくる。
「まだ意識は戻らんのか」
甲高い声だった。どこかできいたことがある声。
「意識は回復しつつあります。一定の刺激での開眼も確認しています。ただ、会話をするにはまだ早過ぎます」
今度は低い声がする。
「回復を早めることはできんのか?」
甲高い声に、苛立ちが滲んでいる。
「なにかいい方法があればそうしています」
「くそっ」
「体を強く打って、あちこちの骨が折れている。その上ひどい出血だ。よく生きていた、というくらいです」
「こいつは、護衛の部隊で唯一生き残った。当時の状況をなにがなんでもきかねばならん」
「こんな状態では、まともな会話などできやしませんよ」
二つの影が遠ざかった。
そこまでは覚えていた。また意識が飛んだ。
次に意識が戻ったとき、周囲は明るくなっていた。靄がかかった視界だが、自分の傍に数人が立っている。彼らが会話を交わしている。
「刺激を送ると、このように開眼します。ただ状態としては、いまだ昏睡状態といえ、果たして見当識がどこまで正常に機能しているのかはわかりません」
「一刻も早くこの男から、当時の状況をきき出さねばなりません。どのように襲撃が始まったのか、どのようにして生き延びることができたのか」
「スギヤマからも状況はきいている。スギヤマが彼を引きずりながら、一緒に逃げ延びたそうだ。車両から抜け出して、地下の空調設備が密集した部屋に二人は逃げ込んだ。追っ手はその部屋にも探索をかけたが、際どいところで、彼ら二人は見つからずにすんだそうだ」
「彼は部隊で唯一生き残った。それが引っかかります」
「なにがいいたいんだ?」
「もしもこの男が襲撃を手引きしていたとしたら。本来は彼だけが生き残る手筈だったとしたら」
「疑うのはいいが、大きな問題がある。まず一つは、もし彼が手引きをしたのなら、なぜ彼は襲撃現場に帯同したのか。流れ弾で命を落としかねない危険な状況に、あえて飛び込んでいくだろうか。次に、証拠だ。彼が手引きをしたという証拠があるのか」
「だからこそ、この男から詳しく話をきかねばならないのです」
「彼がまともな会話をできるようになってから、じっくり尋ねるといい。それでも、お前のその疑いは、突飛過ぎるような気がするが」
「あれほど手の込んだ襲撃は、何者かの手引きがなければ実行はできません。敵は我々の予定を見計らい、襲撃をかけ、犠牲を出すことなく鮮やかに撤収していった。必ず我々の中に情報を漏らした裏切り者がいます。この男は、襲撃の直前に点呼に遅れていた。そんな証言があります。そして部隊の中で、一人だけ生き残った」
「疑い過ぎだ。彼を疑うというなら、他にも疑うべき人間はいる」
「それはそうですが…」
「死んだ部隊長はどうだ? 遺体から不審なメモが見つかったそうだが? 秘匿回線のコードのような…」
「あれこそ疑うに及ばないでしょう。あの部隊長は敵と交戦して死亡しました。自ら襲撃を手引きし、そして襲撃相手と交戦して死亡する? そんな馬鹿な…」
「ともかく裏切り者探しを急げ。必要なら、スギヤマからも話をきくといい。彼はもう意識もはっきりとしている」
「裏切り者を早くこの手で痛めつけてやりたい」
「お前はその専門家だったな」
「近頃は骨のある奴が少ない。すぐに音を上げてしまう者ばかりだ。楽しみがない」
「お前の奮起を期待するよ」
男たちが酷薄に笑う。誰の会話か理解する。ハタ、そしてチョウ。裏切り者狩りを始めた諜報部門の人間たち。
集中力の持続はそこまでだった。思考を始めた瞬間に、すべてが霞み、そして即座に暗転する。意識が飛んだ。
どれほどの時間が経過したのかわからぬまま、覚醒する。目を開ける。
今度はチョウが一人で自分の前に立っていた。うろうろと歩く。狩りの獲物を見るような、粘着質で狂気的な目。
「きこえているか?」
チョウはいう。
「いずれ貴様への尋問が始まる。貴様には不審な点がいくつかある。私は徹底的に追及するつもりだ」
チョウが耳元に近寄る。そして囁く。
「必ず追い詰めてやる」
チョウは宣言する。明らかに自分を疑っていた。恐怖を覚えた。
不敵な笑みを浮かべて、チョウは立ち去っていく。
体を動かそうとした。だが、力が入らない。いまだ身動きができなかった。
助けが必要だ。一刻も早く、外部と連絡を取らなければならない。
あの男をなんとかしなければならない。
そう思ったが、その思考を始めた瞬間に、また視界が暗くなった。意識が乱れ、白濁し、やがて飛んでいく。




