54 Kuroki - Time Slipping Away
一日が猛烈な勢いで過ぎていく。
不眠不休。体力の限界を感じる。案件を追い、案件に追われる。内務省の薄暗い廊下の脇に置かれた長椅子が目に入ると、そこに倒れ込みたくなる。省内は殺風景だが、清潔でもある。だが、自分のような立場の者が、人目も憚らずに廊下の長椅子で眠れるわけがない。
内務省は燃え立っている。
自分のデスクにはいられなかった。この十数時間、各方面から引っ切りなしに連絡が入ってくる。様々な立場の者からの罵声、怒声、苛立ちを含んだ声をずっときかされていると、頭がおかしくなりそうだった。
自分の席を離れて、便所に向かった。便所の薄暗く不健康な青白い照明の下、手洗いで顔を洗った。手洗いの水を大量に使い、顔に水を浴びせかけ、眠気を追い払う。もう一度鏡を見ると、そこには案件の処理に翻弄され、疲弊し切った自分の姿が映っていた。
クロキはじっと自分の顔を見つめた。
なんという顔だ。こんな疲れ切った顔をして、これからの十数時間を乗り切れるというのか、立ち向かえるというのか。
クロキに休息を与えないほどに、事態は動いていた。
もう一度鏡を見つめる。目の下の隈、増えた白髪、顔の皺に自然と目がいく。疲労は確実に顔に刻まれていく。
思考が疲労によって千々に乱れる。考えをまとめたかった。この一日の動きを反芻する。時間が遡行する。夜明けまで時間が巻き戻る。
夜明け。人が眠りから覚める時間帯。都市は眠ることを知らないが、そうはいっても束の間の静けさに包まれる時間帯。内務省も普段は静まり返っている。だが、この日は違っていた。夜が明ける前から内務省の庁舎前には人が殺到していた。殺到する人々をかき分けながら、職員が慌ただしく出入りをする。報道関係者が押し寄せる。さらに前日の夜の事件関係者や政府に反感を抱く集団、陰謀論者の類までもが内務省の庁舎前に集結し、政府及び内務省の失態を糾弾せんと気炎を吐き散らしていた。AGWの襲撃、それに呼応するような大学構内で発生したテロ。報道関係者の囁く声と陰謀論者の根拠のない風説が飛び交い、事件関係者の怒りは増幅されて、内務省前は巨大な混沌の爆心地と化した。
AGWの襲撃直後から官邸に呼び出されていたセガワ大臣とオオヤマ次官が、内務省に戻ってくる。不眠不休は彼らも同じだった。大臣室の扉を開けるなり、クロキは明らかに不機嫌そうな二人の顔を見ることになった。
「お前から直接報告をききたい」
オオヤマ次官が苛立った口調で、開口一番そういった。
クロキは大臣と次官に状況を報告した。スギヤマの暗殺、AGWの攻勢、大学構内で発生したテロ、内通者の暗躍、大臣令嬢の失踪。クロキは発生した事件につき、真実を伝えたつもりだった。嘘や詭弁は一切口にしなかった。セガワ大臣にそれらは通用しないからだ。報告をきいたオオヤマ次官は激怒し、クロキを叱責した。特にテロ計画の進行を察知しつつも半ば見過ごしたことと、内通者を特定できなかったこと、さらには大臣令嬢の失踪を招いたことを非難した。
「お前はなにをやっていたのだ。テロ計画を察知しておきながら、その進行を放置し、ついには犠牲者を出すなど。考えられない。あってはならんことだ」
「大学構内で発生したテロ計画の情報は、敵に潜伏させた諜報員から齎されました。敵においてもこのテロ計画を認知していた、もしくは関与していたのは少数の者だけでした。情報源がすぐに特定されてしまう可能性がありました。我々が即座にこの計画を阻止する行動に出た場合、我々の諜報員の正体が敵に露見したことでしょう。そのため、テロ実行の瀬戸際で、対処することにしたのです」
「その行動が正しかったと思っているのか?」
次官はいった。
クロキは頷いた。
「ある程度までは。苦慮したのは政府側に潜む内通者の影響でした。彼が計画実行の手助けを行ったことで、襲撃犯たちがこちらの想像以上の動きを見せました」
「内通者だと?」
「ええ。前々から我々内務省の高級官僚たちの中に潜り込んでいるとされるもぐらです。次官もその存在はご存知かと思いますが」
「続けろ」
「そのもぐらの関与も、諜報員から示唆されていました。私としては、我々の内部に潜む内通者の特定も、必要だったわけです」
「情報源が敵に特定されるため、計画をすぐに阻止もできず、また瀬戸際での対処も、内通者の暗躍で妨害を受けた、といいたいのか?」
「そんなところです」
「その結果が、大臣ご令嬢の失踪とあの多数の死傷者ということか。我々の仲間が殺された。意識が戻らない者もいる」
次官が右の拳を握り締める。その拳は卓の上で震えていた。拳を卓に叩きつけたい気持ちを次官は必死に堪えている。次官は内務省の中でも特に泥臭い性格を持つ男として知られていた。感情に左右されやすいのが欠点だが、実直であり、常識的な感性の持ち主だった。セガワ大臣にしてみれば、オオヤマ次官ほど大臣に忠実で、傍に置いていて操作しやすい人間は他にいないだろう。これまでオオヤマ次官が組織の中で栄達を果たしたのも、そしてクロキのようにセガワ大臣と過去を共有する関係ではなくとも、次官に任命されたのは、彼のそうした人柄が上から好ましいと評価されたためだ。だが、部下という立場のクロキからすれば、オオヤマ次官の感情の振れ幅はあまりに広いと感じるときがある。彼の感情が悪い方向に極端に振れている場合、部下は嵐を耐え抜くような心構えをしなければならなかった。
「その結果の重みは、認識しております」
クロキはいった。
「そんな言葉ですむ話ではない」
次官が激昂する。次官はまさに荒れ狂う嵐となっている。
クロキは黙って次官の怒りを受け止めた。セガワ大臣は表情を変えず、人形のような冷たい目でクロキとオオヤマを見つめている。
「攻勢とテロ。多数の死傷者が出ただけではない。大臣ご令嬢の失踪まで起こるとは…」
次官が呟く。怒りに突き動かされて、クロキを睨む。
「私の娘のことはいい。他の対策が先だ」
激怒する次官を制するように、大臣は口を開いてそういった。娘が失踪したというのに、まるで平然としている。大臣が口を開いたことで、次官は口を噤んだ。
殺伐とした空気が三人の間に垂れ込めていた。しばらく三人とも言葉を発することなく、互いに視線を走らせていた。大臣は冷徹な目で観察を続け、次官は怒りで自らの丸い顔を紅潮させていた。クロキは叱責を受けながらも、人を刺すような鋭い視線を次官に送り続けていた。
こめかみが脈打ち、肩を激しく震わせるほどの次官の怒りは、やがて大量の冷や汗を流し、表情が引き攣るほどの恐怖へと変化した。それは事態を処理しなければならないという恐怖だった。軍、警察、その他関係部署、事件関係者、そして国民、といった各方面から内務省へ津波の如く押し寄せてくる非難を受け止め、説明を行わなければならない、そして事態を乗り切らねばならないという恐怖だった。オオヤマ次官の顔が蒼ざめてくる。一方、セガワ大臣は動じていなかった。
「AGWの攻勢に対処したのは見事だった」
大臣は静かに口を開いた。険しい表情は崩していない。
「だが、第四地区の前哨基地は破壊され、指揮官はウガキに処刑された。兵士の死傷も数多い。それで軍首脳は内務省に対して怒り狂っているらしい」
「なぜこちらに対して?」
「ある幹部によると、内務省は事前に攻勢の気配を掴んでおきながら、軍に連絡を寄越さなかったと恨み言を述べている者もいるようだ」
耳が痛い話だった。クロキは静かに目を閉じた。
「君はスギヤマの暗殺のために、軍の施設や前線に度々赴いていた。どうも君の動きを注視していた人間が、軍にいたようだ。君の動きを見て、内務省は事前に攻勢の気配に気づいていたのではないか、といってきている」
「馬鹿な…」
クロキは目を開いた。そんな馬鹿な話があるか。思わずそういいかけた。確かに攻勢の可能性については事前に認識をしていた。そのためクロキもスギヤマの軍勢が集結していた第十三地区に接している地区の部隊には監視と警戒を強めるよう連絡を入れていた。ウガキの第四地区への攻撃については、クロキも読み切れていなかった。軍は自分に全地域で監視と警戒を強めるよう連絡を入れておくべきだったといっているのか。だが、仮にそのような連絡を入れたとして、軍は本当に動いたのだろうか。内戦の初期にはAGWを壊滅に追いやることすらできず、現在に至るまで大量の離反者や士気の低下に悩まされているあの軍が、ウガキの奇襲を抑え込むことはできたのだろうか。口から出かかる釈明の言葉をクロキはぐっと呑み込んだ。
次官が大臣に続いて口を開いた。
「それだけではない。クロキ、お前の軍への容喙が問題視されている。フジイ大佐を使って、地区の指揮官を唆し、軍を動かすなど、一介の内務官僚に許された行動ではない」
「差し迫った状況でした。敵は攻勢を開始していた」
「いくら緊急事態で差し迫った状況とはいえ、部隊の指揮官に脅迫まがいの要求を突きつけ、軍の部隊を展開させた」
「脅迫ではない、ただの助言に過ぎません」
「部隊指揮官が、軍の聴取でそう答えていた。お前のそういう強引な手法が、軍の反感を呼び起こしている」
クロキは息を吐いた。込み上げてくる怒りを抑える。ならば他にどうすればよかったのか。ウガキが政府の不意を狙って攻勢をかけ、前哨基地の指揮官は殺害され、地区は陥落の危機にあった。誰かがなんらかの行動を取らなければならない状況だった。あの状況下で、他にどういう行動ができたのだろうか。軍は容喙が不満だというが、ならば軍は容喙もなしに速やかに対処することができたのだろうか。思い返せば思い返すほどに怒りが湧いてくる。それは誰に対してもぶつけることのできない怒りだった。
「お前は不満に思うだろう。怒りも感じるだろう。だが、事態が起こってしまったからには、仕方がないのだ。スギヤマを追い込んだこと、敵の攻勢に機転を利かせたことは見事だったかもしれんが、それ以外でお前がやったことは、問題だらけだ。私と大臣はこれから各方面に火消しに回る。お前の失態のせいでな」
肩をいからせるクロキを見て、次官は嫌味たらしくそういった。
クロキは唇を噛んだ。まさしく次官のいう通りだったからだ。
セガワ大臣は変わらず冷たい目をしていた。
「ともかく大衆を納得させるための物語が必要だ。建物の外で無責任な言説を吠え立てる者たちを、抑え込まねばならない」
大臣はいう。
「情報を塞ぎます。大学構内でのテロについては、実行犯の身元はまだ特定されていないと発表してください。内通者の件、そしてご令嬢の件は伏せてください。情報を出し過ぎると、収拾がつかなくなります」
クロキはそのように進言した。
大臣はわかったというように頷いた。
「AGWの攻勢はどう説明するかね?」
「攻勢については、状況をそのまま説明すればよいでしょう。どの道ウガキは撤退したことで、攻勢は中止となりました。大学構内でのテロとの関連性については、捜査中であると発表願います」
「内務省が事前に情報を掴んでいたという点は、曖昧にしておく、ということでいいんだな?」
次官が尋ねてくる。
「その通りです」
クロキはそう答えた。
「我々は不確定な情報を手にしていた。実際、敵が企図した複数の計画がどのように関連していたのか、確かなことはいまもわかっていません。ゆえに捜査中であるということで押し通します」
「…いいだろう」
次官はいった。大臣も異論はないという顔で頷く。
「ちなみにそのあとはどうするかね? いつまでも捜査中で白を切り通すわけにもいかん」
「攻勢とテロ事件は、あくまで別個の動きであるように発表を。どこまで関連があったのかなどは、ウガキやスギヤマのような立場の人間を捕らえて尋問しない限りはわからないでしょう。もしくは、我々が内通者、例のもぐらを突き止めない限りは」
「わかった」
大臣はいう。そして次官に目を向ける。もう議論は十分であると、視線で意思疎通をする。次官も頷いた。
「捜査の進捗は随時報告します。…それから、大臣のご令嬢は必ず無事に大臣のもとへお返しします」
クロキはいった。
「ありがとう。よろしく頼んだよ」
表情をまったく崩さない大臣。まるで他人事のような表情でクロキにいう。お前の言葉にはなんの期待もしていないし、希望も抱いていないとでもいい出しそうな表情で。
次官が下がっていい、と手で合図する。
クロキが大臣室から出る前から、次官と大臣はクロキを含めたこの世のすべてを締め出すかのようにして二人で膝を詰め、議論を始めていた。
自分の失態によって、各方面に火消に回るという地獄に、あの二人を引きずり込んだのだ。
クロキは項垂れながら、自分のデスクに戻った。
時間が経過する。部下を集め、状況を伝える。部下たちに指示を出し、全力疾走させる。警察の捜査の乗っ取り、令嬢の捜索、スギヤマの行動確認。複数の案件を並行して追いかける。
横目に大臣の会見の映像が映り込む。冷徹な顔、多くを語らない姿。腕組みをして沈黙を守る次官の姿も見える。紛糾する会見。白を切り通す大臣。
内務省前に集結した有象無象の人々が、朝日に照らされている。きくに堪えない言葉を吐き散らしながら、内務省に対する怨念をぶちまけている。クロキは思わず耳を塞いだ。
憔悴し切った様子の警護課長が廊下を通り過ぎていく。病的な顔つき。部下が死に、内通騒ぎまで起きている。重圧で摩耗している。
声をかけることもできなかった。目もあわせられなかった。クロキは目の前に突き出されていた書類にかぶりつくふりをした。
時間が経過する。それでもまだ昼にもなっていなかった。警察からの連絡。令嬢についての情報なし。それに激しく苛立つ。捜査関係者を怒鳴りつけようとしたとき、警備局長のウエハラが、憔悴した警護課長を伴ってクロキのもとに怒鳴り込んでくる。
「病院に送られた警護課の課員を解放しろ。ろくな診察も受けさせず、実態として拘禁に近い状態に置いているとは、どういうつもりなんだ?」
ウエハラはクロキの胸倉を掴みかねない勢いだった。入省同期。だが、年齢はウエハラの方が上だった。クロキと同じく一貫して公安畑を歩んできた人間だが、セガワ大臣との関わりは薄い。大臣の威光を笠に着て、公安の人員を好きに扱うクロキに反感を抱いていた。
病院に送られた警護課の職員とは、フクダのことだった。クロキはフクシマに命じて、フクダを診察のために病院に送ったあとで、聴取を始めていた。実質的には、病院のベッドに上にフクダを縛りつけ、長時間に渡る尋問を行っていた。
「一体なにを考えている?」
ウエハラはクロキに対する激しい敵意を隠そうとしない。警護課長は口を噤んだまま、クロキとウエハラを交互に見やった。
「必要な処置だ。AGWが関与した案件は、すべて私の案件だ。私がそう指示を出した。事件の捜査のためだ」
クロキは怯むことなくいった。
ウエハラがクロキに迫る。
「警護課、及びその課員は、私の管轄下にある。私に連絡を入れるのが筋ではないか」
「そうだったかもしれないな」
ため息をつきながら、クロキはいう。
「かもしれない? 私をなんだと思っている?」
「警備局長だ。だが、この案件は私が対応する。私がAGW対策担当ということは知っているだろう? フクダという警護課員は、AGWとの内通が疑われる同じ警護課の職員と、テロ事件の現場で、警護活動に当たっていた。テロと呼応するかのように発生した銃撃によって、内通を疑われた職員は死亡、フクダは生き残ったが、現在に至るまで銃撃の詳細を語ろうとしていない。そのような人物を、捜査のために我々が身柄を押さえるのは当然だと思わないか?」
「我々の仲間だぞ」
「我々の仲間でも、調べなければならない。我々の仲間であろうと、AGWに内通する者はいる」
「その課員に内通の疑いはないはずだ」
「可能性が少しでもあれば、我々は身柄を押さえる。彼が内通者でなくても、内通者に繋がる情報を持っているかもしれない」
「馬鹿な…」
「どうしてそういい切れる? 調べてみないと、彼から詳細をきいてみないとわからないというのに、どうして彼を放置できるというんだ?」
「警護課を所管する者として、彼が置かれている現在の状況は容認できん。これでは捕虜に対する扱いと変わらん。厳重に抗議する。拘禁を解くんだ」
ウエハラはクロキに迫った。
クロキは首を振って拒絶した。
「断る。私の方法で、彼を調べる」
「なんだと?」
「文句があるのなら、次官か大臣にでもいえ。もっとも二人は、各地を走り回っている。連絡がつくとは思えんがな」
クロキの言葉に、ウエハラは怒りで白目を剥いた。ウエハラの手が一瞬、クロキの胸倉を触れた。本気で胸倉を掴もうとしたのだ。ウエハラは怒りを堪えながら、クロキを指差した。
「そういうお前の態度が気に入らない。仁義や礼儀をまるで知らない。私はこの仕打ちを忘れんからな」
ウエハラが激しく睨みつけてくる。
クロキは冷然と睨み返した。
数秒対峙し、ウエハラは踵を返して、歩き出す。クロキの視界から消え去る直前でウエハラは振り返って、周囲の職員にもきこえるほどの大声で叫ぶ。
「お前の方法など、上手くいくわけがない。どうせまた余計な犠牲を生むだけだ」
場の空気が凍りつき、職員たちも息を呑み込む。
警護課長が、申し訳なさそうな顔で、いまだにクロキの前に立っていた。
「局長についていくんだ」
クロキは警護課長の肩を叩き、送り出した。
警護課長は目を伏せながら、クロキに対し何度か軽く頭を下げ、ウエハラのあとを追った。
目の前に誰もいなくなると、クロキは深くため息をついた。
「一体なんの騒ぎです?」
フクシマがひょっこりと現れて、そういった。
「君のところの局長に、怒鳴られたんだ」
クロキは乾いた笑みを浮かべた。
「拘禁した警護課員を解放しろと要求してきた」
「拘禁? まさか、あれは治療のために病院に送っただけですよ。手足の自由は奪い、尋問も始めていますがね」
「それを拘禁というのさ」
「我々は、セガワ大臣の許可をいいことに、軍やら公安やらの人材を好き勝手に引き抜き、ときには所轄の警察は勿論、軍や公安をも動かしてしまうような輩ですからな。本来自分の指揮下にあるはずの部署を好き勝手に扱われてしまうウエハラ警備局長からすれば、我々は憎むべき相手でしかない」
「おそらくは君が一番奴に嫌われているだろうよ。公安に所属しながら、公安をいいように操り、局長ではなく、審議官と大臣に従っているような人間は」
「審議官ほど憎まれているとは思いませんね。ウエハラさんとは同期でしょう? 入省同期の争いは、熾烈で醜悪ですからなあ」
軽口を叩きあった。クロキとフクシマは互いににやりと笑った。
「それで、なにかわかったことはあったか?」
フクシマは捜査の進捗の報告のためにここへやってきたのだ。
「はい。まず、内通を疑われているもう一人の職員、総務部のワタナベですが、あれは締め上げてみましたが、潔白だとわかりました。彼が秘匿回線を使ったのは、部内の人事評定と上席者の醜聞について告発するためでした。ワタナベから秘匿回線での連絡を受け取った人事部の者が証言しました」
「評定と醜聞だと?」
「上席者の横暴と不正を告発、というか奴の不満を申し立てるために、奴はわざわざ秘匿回線で人事に連絡をしたんです。まったく迷惑な話ですよ。そんなことのために秘匿回線を使うなんて」
フクシマは呆れる。
「ま、とにかく、ワタナベについては、彼の潔白を証明する人間も出てきていることから、内通の疑いは少ないと判断していいでしょう」
「それで、フクダについてはどうだ?」
クロキの関心はむしろそちらにあった。
「少しずつ事件について語り始めましたが、確信の部分には踏み込めてません。どのような経緯で、イワマと銃を撃ちあったのか。イワマが行ったと思しきAGWとの交信。彼はイワマの相棒で、ずっと彼と行動をともにしていたが、語ることはあまりに少ない」
「嘘をついている?」
「それもあるでしょうが、元来寡黙な人間のようです。銃撃戦に衝撃を受けているようでもありますが…」
「徹底的に調べるんだ。イワマが本当に内通者だったのか? 彼はテロを成功させるために自ら命を投げ打ったのか? 彼が死ぬことで、本当に我々の内部に潜むもぐらは消え去ったということでいいのか? フクダを調べることは、それら疑問の答えに繋がる」
「ええ、わかっています」
フクシマはいう。
「あまり時間をかけ過ぎると、ウエハラが吠え立ててくる」
「あの様子では、大臣と次官のところにも怒鳴り込んでいきそうですね」
「いまは次官の機嫌もよろしくない。これは私の責任だが。次官がウエハラと一緒になって吠えてくると厄介だ」
「それは確かにそうですな」
「どちらも我々と過去を共有していない。だからどちらも噛みついてくる」
「尋問を急ぎます」
「頼むぞ」
フクシマが駆け出していく。
次にフジイとハギノに連絡を取る。
「スギヤマの動向はどうだ? 奴の生死は確認できたか?」
モニター越しの二人の表情は冴えないものだった。
フジイがいう。
「依然わかっておりません。敵陣の監視は続けていますが、スギヤマの動向を示すような情報はなにも」
「情報収集を続けろ。どんな子細な情報も見逃すな」
「承知しました。申し訳ありません」
「いいんだ。まだ奴の生死が判別したわけでもない。それより、襲撃現場に施した細工はどうだ?」
クロキは尋ねた。
ハギノが口を開いた。
「二時間前の時点で、AGWは襲撃で死亡した兵士たちの遺体の回収作業を完了。我々が飛ばした偵察機からの映像で確認が取れています。遺体回収の際、敵がこちらの細工に気づいた様子はありませんでした」
「わかった」
AGWがこちらの仕掛けた罠にまんまと引っかかればいいが、とクロキは思った。
「審議官、AGWに潜伏している諜報員から、なにか連絡はありましたか?」
フジイがいう。
クロキは首を振った。
「いや、まだだ。スギヤマの襲撃以後、連絡が途絶えている」
「まさか、我々の襲撃の巻き添えに…」
「それはわからん。だが、襲撃現場で君たちは、遺体の確認を行ったはずだ。私も映像で見ていた。だが、そこに彼の姿はなかった」
「敵も激しく応戦しました。我々が遺体を見つけていないだけかもしれません」
「現状ではなんともいえんよ。あれだけの鬩ぎあいのあとだ。AGWの内部も相当混乱しているだろう。こちらとの連絡が困難というのも、無理はないことだ」
「そうであればいいのですが」
「いまは待つしかないさ。次の会議でまた状況を伝える」
クロキはいった。
モニターに映る二人が消える。ブラックアウト。
時間が経過する。ようやく午後の時間に突入。フクシマからの連絡。フクダが少しずつ事件について喋り始めた。時間を埋めていく。テロ事件以前から遡って、フクダとイワマ、二人になにがあったのかを解明していく。フクダはいまのところ堅実な回答を続けているという。厳しく追及しろとクロキはフクシマに指示を出す。時間がない。ウエハラの妨害が始まるかもしれない。
警察からの連絡。令嬢について。現時点になっても、いまだに令嬢を発見できず。都市下層部で目撃情報が複数入っており、また令嬢を巡って犯罪組織同士の衝突が発生しているが、令嬢の姿を直接確認はできていない、と捜査の担当者が説明する。クロキは怒りを堪え、衝動をやり過ごした。令嬢を狙って行動を始めた犯罪組織の人間を取り押さえ、連中が持っている情報をすべて吐かせろと指示を出す。職業的犯罪者どもが行動を始め、下層部においては令嬢についての情報が飛び交っているに違いない。令嬢を狙う犯罪者たちを押さえ、情報を辿れば、令嬢にいき着くはずだ。令嬢はほぼ裸一貫で下層部に落ちていったのだ。どの道、遠くまでは逃げ切れない。
時間が経過する。夜が近づく。内務省はいまだ燃え立っている。内務省への抗議のために、いまだ人々が庁舎前で陣を作っている。
時間が経過する。時間遡行が終焉に辿り着く。時間は現在へ。
鏡から目を離す。疲労と眠気で俯く。強く目を瞑り、そして開く。疲労と眠気を締め出すために。
便所を出て、廊下へ。部下の一人が待ち構えていた。次官とウエハラ警備局長から連絡が入っている。折り返しを、という。
ため息も出なかった。顔を歪ませる。逃げていても始まらない。まずは次官から連絡する。
「警備局のウエハラ君が私のもとにきた。警護課の職員をお前が実質的に拘禁し、尋問を行っており、これは遺憾だということだそうだ。彼は職員の拘禁を解くように私にいいにきた」
「その職員への聴取は捜査上、必要なことです」
「お前の手法を押し通したわけだ。内規を踏まずに。お前のそういう…」
「私の手法が反感を呼んでいるのは承知しています。ただ、内通者が誰なのかを解明するために、これは必要なことなのです。警護課の職員を厳しく尋問することには、確かな意義があるのです」
クロキは次官の言葉を遮った。
「それでウエハラを抑え込めるとでも?」
「内通者に我々は長年苦しめられてきた。AGWとの闘争が始まったときから、いや、もしかするとその以前から、あのリョクノが率いていた政治団体が存在したころから、我々は我々の内部に裏切り者を抱えていた。彼のせいで何人仲間が死にました? 何人仲間が惨く殺されていったんです? その元凶に迫る機会を、私は決して逃したくはない。次官もそうだと思います。もちろん、セガワ大臣も同じ思いのはずです」
クロキはいった。
クロキの発言に顰め面を浮かべる次官の様子がすぐに想像できる。闘争で死んでいった職員たちの話を持ち出すと、幹部級の職員は皆弱くなる。記憶や思い出に対して冷淡でいられる人間は少ない。
「私はお前とは過去を共有していない」
過去。反政府活動を本格化させたリョクノ教授を内偵するために、若かりしセガワが軍や内務省内から人材を引き抜き、作り上げた組織。高い殉職率と比例するかのように、組織の絆は強固だった。後年、それが省内の主流派を形成することになった。
「所属は違っても同じ内務省で仕事をしてきた。互いにAGWとの闘争にも関わってきたではありませんか」
クロキはいう。
「幹部にもなれば誰でも部下を持つ。次官も、私も。何人我々は部下を死なせたでしょうか。敵の内通者がいなければ、何人の命が失われずに、どれほどのかけがえのない仲間たちの命が失われずに…」
「わかった。もういい」
今度は次官がクロキの言葉を遮る。
「ウエハラ君は抑え込んでおく。私から連絡を入れておく。お前は必ず結果を出せ」
それで次官との通話は終わった。
クロキは一応ウエハラにも連絡を入れた。
「折り返しを、ということだったから、連絡を入れた。端的に用件を伝える。次官と話がついた。警護課の職員への尋問は続ける。以上だ」
ウエハラが当然の如く激怒する。
「次官をいいように抱き込んだな」
「なんとでもいえ。次官から連絡があるだろう」
クロキは一方的に通話を終えた。ため息をつく。厄介な入省同期。
次官やウエハラとの連絡の最中にも、他から連絡が入ってくる。省内から、警察から、軍から、諸々の捜査状況について。クロキは目頭を押さえた。気合を入れて、対応を始める。
令嬢の動向が少しずつわかってきた。犯罪組織同士の衝突の発生地点を分析する。現在激しく衝突しているのは、下層部のロシア人勢力と中国マフィアの華龍盟。華龍盟がロシア人勢力の拠点に襲撃をかける形で、衝突が展開されている。華論盟が圧倒的優位にあるにもかかわらず、ロシア人勢力は頑強に抵抗を続けている。その理由はなにか。また、衝突のほとんどがロシア人勢力の拠点付近で発生しているが、それ以外の地点でも両勢力、もしくは一方の勢力による戦闘ないし銃撃の報告が上がってきている。ロシア人勢力の拠点以外で発生した戦闘や銃撃、ここではなにが起きていたのか。捜査担当者はこの点に注目し、分析を行っている。両勢力の人間も数名、すでに身柄を取り押さえている。尋問で早急に正確な情報を引き出せば、なにかしらの手がかりが得られるはずだった。現時点での安易な推測はこうだ。拠点付近以外での両勢力の衝突は、おそらく令嬢に関するものではないか。令嬢の居所を掴んだ両勢力が鉢あわせし、戦闘や銃撃に発展したのではないか。クロキは両勢力の構成員に対する尋問を徹底的に行えと指示を出す。どうせ連中はやくざ者の集団、社会に背を向け、自分よりも弱い立場の人間を搾取することでしか存在することができない人間たちだ。人権軽視といわれようが、手荒な方法を使ってでも、令嬢に関する情報を引き出せと命じた。
次にフクシマからの連絡。警護課の勤怠記録含む内部資料押収の許可を求めてきた。フクダとイワマの行動を追う客観的資料が必要だという。
クロキは許可した。警護課に殴り込みをいれるようなもので、ウエハラがまた吠えるだろうが、次官を味方につけている。いまはなんとでもなるだろう。警護課長に屈辱を与える可能性はある。それについては少しばかり心が痛んだ。
「イワマの行動も追いかけてますが、我々がイワマを内通者だと疑う唯一の根拠はなんだと思います?」
フクシマはいう。
「例の秘匿回線か?」
「そうです。令嬢の襲撃直前、しかも我々が会場警備の増強という罠をばら撒いた直後で、奴は秘匿回線を用いて、何者かと連絡を取っていた。その事実をもとにして、我々は奴を疑っている」
「続けろ。なにがいいたい?」
「確かにイワマのアクセス権で秘匿回線が利用されていますが、これ、本当に奴自身が利用したんでしょうかね?」
「それを調べるのがお前の仕事だ」
イワマとフクダの行動を再構築する。あらゆる記憶、記録を動員して、客観的な事実を浮かび上がらせる。イワマが本当に裏切り者だったのか。
矢のように連絡は入り続ける。今度は省内の尋問室の守衛から。急いで尋問室にきてくれという。
クロキはため息をついたあとで、席を立った。
尋問室の扉を開く。うんざりした表情の守衛が出迎える。そして、クロキに任せたといわんばかりの表情をして部屋を出る。
がしゃりという、扉が閉まる重々しい音が背後からきこえる。
「なにをやったんだ?」
クロキはいう。
椅子に、赤い髪の少女が座っている。エリカ。机に凭れかかり、憮然とした、敵対的な顔でクロキを見上げた。
「正当な権利を主張しただけよ。人権、生命と自由の尊重。憲法第十三条だったかしら? それを主張したんだけど」
クロキは鼻で笑う。
「公共の福祉に反しない限りは正当だ」
「私が反したとでも?」
「いっておくが、君は捜査の対象者でもある。我々には尋問の権利くらいはある」
「尋問なんてなかったわ。これは拘束よ」
「ならいまから尋問を始めようか? どうかね? 私の提案については、意見はまとまったかね?」
クロキはいった。
エリカはクロキを睨んだ。
「あんた、どういうつもりなの?」
「提案を呑むか、呑まないか、どっちだ?」
「人殺しになれだなんて、正気じゃない」
「私は復讐の機会を提供するだけだ。殺すかどうかは君次第だ」
「そういう提案をすること自体、まともな役人じゃないわね」
エリカが眉を顰める。クロキは皮肉な笑いを浮かべる。
「AGWと戦い続ける人生でね。とうにいかれてるのさ」
「そんな奴の提案なんて」
エリカが吐き捨てるようにいう。
「提案を呑まないんだな? なら話は終わりだ。君はこのまま帰っていい。まあ帰ったところで、内通の疑いがかかっているから、君や君の家族は拘束されるだろうが。内務省は怒り狂っているよ。特に裏切り者に対してはね。それを考えれば、君らの今後の人生の見通しは暗いな。裏切り者の家族という烙印が、一生君について回るだろう」
「兄は裏切り者なんかじゃない。あんただってそういってたじゃない」
「私個人の考えと、組織や世間の考えは違う。組織や世間はそう疑ってる」
「ならあんたが兄の無実を証明してよ」
クロキはエリカを嘲笑する。
「私は他に仕事が多くてね。そういうのは他人に任せず、自分で動いてみたらどうかね? 復讐の機会を提供する、という言葉には、兄の無実を証明する機会を提供するという意味も含んでいる」
「詭弁だわ」
「どいつもこいつも、役人に責任や厄介ごとを押しつけたがる。それは政府の、役人の仕事だってね。少しは自分で動いてみればいいのさ。そうすれば我々の重圧が理解できるだろう」
「それがあんたの本音であり、本性ね。まともじゃない」
「もう何度もいわれ続けていて、なんとも思わない」
乾いた笑みを投げかける。
エリカの反吐が出そうな顔。
「…くたばればいい」
「なんとでもいえ。ただ、これははっきりさせておこう。私の提案を呑むことは、君の兄の汚名を返上できる機会になるということだ。それに付随する形で、君に知恵、知識、技術を与える。君から兄を奪った連中に対抗するための。それだけじゃない。君がずっと求め続けてきた、君の本当の家族についての情報も、開示する」
クロキはエリカに近づいた。机越しに、彼女と睨みあう。孤独を抱えた目。少女は本当の家族を知らずに生きてきた。
情報を明かすことは、古い約束を違えるということだった。だが、憎しみと復讐のためならば、仕方がない。彼女にはその権利がある。そしてクロキも、彼女と同じくらいに復讐を望んでいる。憎しみを持っている。
憎しみはすべてを凌駕する。
あの男がいった、古い言葉。リョクノ。教授の名を騙る、扇動者。
「本当に私の家族についての情報を明かすというの?」
エリカはいう。
「君が提案を呑むのなら」
クロキは答えた。
クロキを睨んでいたエリカは、やがて俯き、考え始めた。
クロキはエリカの答えを待った。
腕組みをして待っているあいだに、尋問室の入り口の扉についたガラス越しに、人影が過るのが見えた。どうやら自分に用があるらしい。
クロキは一度部屋を出た。部下がクロキにメモを渡す。
秘匿回線での緊急連絡。クロキとの接触を求めている。
急いで自分のデスクに戻る。回線のコードを確認する。AGWに潜伏させた諜報員からのもの。鳥肌が立つ。即座に対応する。どのように接触を行うかの段取りを組む。
それが片づいたあとで、尋問室に戻る。エリカに決断をさせるのは先送りしようと思った。それよりも諜報員との接触を急がねばならない。
尋問室の扉を開けてすぐにクロキはいう。
「急な用件ができた。私はここを…」
ここを出なければならない、といおうとしたところで、エリカに発言を遮られた。
「決めたわ」
「決めた?」
「あんたの提案について」
「どうするという?」
エリカは、敵に対してだけでなく、クロキに対しても憎しみを燃やしながら、強い決意を滲ませた声でいう。
「あんたの提案を呑むわ」




