52 Nate, Alice - You Saved Me
息が切れる。足を止める。第三地区の煤けた空気をたんまりと吸い込んだ壁に凭れかかる。
荒い息をつく。白い息が宙に散らばる。
誰も追いかけてはこない。銃弾も飛んでこない。倉庫街を走り抜けて、廃墟とも戦場とも貧民窟とも見分けがつかない猥雑な街並みの場所までやってきた。とにかく必死で走った。どれだけ二人は走っていたのだろう。心臓は張り裂けそうになっている。
アリスは息切れと、寒さと、そして初めて人を撃ったことへの衝撃で、しゃがみ込んだ。
ネイトは雨に打たれて重たくなったフードを脱いだ。逃げることしかできない惨めさに、天を見上げた。荒い呼吸がようやく落ち着いてくると、ネイトはしゃがみ込んだアリスの顔を見つめてこういった。
「そんな暗い顔をするな」
ネイトはアリスの手が震えていることに気がついた。
「あなたも暗い顔をしてるわ」
アリスは沈鬱な声でいった。
「俺のことはいい。あんたのおかげで、助かった」
「悪い予感が的中したわけね」
「ああ」
二人で決めた段取りはこうだった。ネイトが男とも女とも判別がつかない格好で、アリスの囮となって様子を窺う。もし敵の待ち伏せがあった場合には、後方に潜んだアリスが威嚇射撃を行うことで、敵の追跡を妨害し、ネイトの逃走を手助けする。
廃墟の屋上でした悪い予感は、ものの見事に現実のものとなった。実際、ゴトーの倉庫では敵が待ち伏せていた。敵に追われたが、アリスが後方から銃撃をすることで、敵の追跡の手が緩んだ。それで逃げ切ることができた。
「あいつらはなんだ? 一体どこの連中なんだ?」
「連中の声、中国語が混じっていた」
「朝はロシア人ども、今度は中国人か。くそっ、次は誰が襲ってくるっていうんだ?」
忌々しさを堪えることができず、ネイトは吐き捨てた。
「それよりどうして情報が漏れていたの? ゴトーが私たちを待ち伏せていた?」
アリスは疑念を口にした。
ネイトは首を横に振った。
「あれはゴトーの手下ではない。ああいう見るからに荒っぽい連中は、ゴトーは使わない」
「では、どこ手の者だというの? それと、どうやって情報が漏れたのか…」
そういって、アリスは深いため息をついた。
ネイトは苦い表情を浮かべた。敵は誰なのか、どうしてネイトたちを待ち伏せできたのか、はっきりしたことはなにもわからなかった。
「ありとあらゆる勢力から狙われてる。俺たちに関係がありそうな場所は、片っ端から調べ上げられているんだろう。俺とゴトーの繋がり。そこまで敵は調べていたのかもしれん」
「まさか、人に向かって銃を撃つなんてね」
アリスは呟いた。
「ああ、まさか本当に人に当てるなんてな」
ネイトは少し笑った。
アリスはにこりともしなかった。手は震え続けている。顔は怯えたようになっている。
「銃を撃つこともできないのって、私はあなたを笑った。いまになって気づいたわ。とてもじゃないけど、笑えるものじゃない、笑っていいことじゃない」
アリスは俯いた。誰かを傷つける、誰かと命のやり取りをする。その重み、その恐怖、その深遠さが、彼女の肩にのしかかり、彼女は戦いた。自分が解き放った銃弾、自分を掠めて飛び去った銃弾。運命は気まぐれであり、今回は彼女に恩寵を与え、敵には苦痛と傷を与えた。だが、運命が少しでも気を変えていれば、その苦痛と傷は彼女が負うことになっただろう。場合によっては、彼女は死さえも引き受けなければならなかったであろう。彼女の頭の中で想像が動き回る。死に対する恐怖が心の中で一斉に飛び立つ。
結局のところ、銃を手にして命の奪いあいをするというのは、そういうことなのだ。自分と他人の命、それまでその人が歩んできた過去とこれから歩むだろう未来を平然と賭けの対象にして、慈悲という概念を持ちあわせぬ運命に委ねてしまう。少しでも想像を働かせれば、その異常性と恐怖に気がついてしまう。
「アリス」
ネイトはアリスの前にしゃがみ込んだ。顔を俯かせたままのアリスの肩に手をかけた。
「俺を見てくれ」
ネイトはいった。
「なにはどうあれ、あんたは俺を救った。助かったよ。あんたがいなきゃ、俺はきっとドジを踏んでた」
アリスが顔を上げる。彼女の顔は暗く、怯えていた。
「俺も、あんたも、まだ生きている。そして、まだ死ぬわけにはいかない、そうだろう?」
ネイトはアリスに問いかけた。
アリスは、弱々しくも、こくりと頷いた。
「だろ? なら、ここで立ち止まっているわけにもいかない。あんたにも立ち直ってもらう」
ネイトの言葉に、アリスは再び頷いた。彼女の暗い顔に、冷静さが戻ってくる。
「これからどうするというの? ゴトーの拠点には敵がいた。どこにも頼るべき場所がない」
アリスはいう。
ネイトは息を吐いた。考えをまとめる。
「要は一時的に身を隠せる場所があればいい。そうだったな? それなら、その場所を見つけて、向かえばいい。誰かを頼ってドジを踏んだのなら、今度はそうしなきゃいい。自分たちでセーフハウスを見つけるんだ」
「でも、どこにそんなものが?」
「この地区の東部、川沿いに建つ孤児院がある、あんた、そういっていたろう? そこへ向かおう」
ネイトはアリスの言葉を思い起こしながら、そういった。
「確かに私はそこへいきたいといったわ。でも、それも情報が洩れているかもしれない」
「孤児院の話、それからあんたの記憶の悩み、それは誰にも話したことがないとあんたはいっていたよな?」
「ええ。仮に知っているとしたら、両親くらいね」
「目的地が政府に知られるくらいなら、まだましだ」
「でも、現地がいまどんな風になっているのかわからない。建物に入れないかもしれない。誰かが住んでいるかもしれない」
「どうせ廃墟になってるさ。内戦の影響で福祉施設なんてのは真っ先に切り詰められていく。それにこの地区は前線にも近い。戦闘の影響も何度となく受けている。そんな場所の孤児院なんざ、打ち捨てられているはずさ」
ネイトはいった。
「よく知っているような口ぶりね」
「ああ、よく知ってるさ。俺も孤児院に入れられて、抜け出した人間だからな。金も物資も足りなくなって、劣悪な環境に落ち込んだ孤児院をこの目で見た。抜け出して、戻ってみたら、廃墟になってた。どこもそんなもんさ」
「あなたの言葉を、信用していいのかしら?」
「信じてくれ。きっとそうなってる」
ネイトはいった。
アリスはネイトの目をしばらく見つめた。やがて、いいわ、信じてみる、といった。
ネイトは、それでいい、といって頷いた。
「ねえ、どうして孤児院を抜け出したの?」
アリスが尋ねる。
ネイトは発言するまでに少し考えた。
「…そりゃ、わかるだろ?」
ネイトはいう。おどけたつもりはまったくなかったが、それまで暗い顔をしていたアリスが、ネイトの言葉をきいて、ようやくかすかに笑った。
「それじゃわからないわ」
「あんたならわかってくれると思ってた」
ネイトも微笑んだ。
「どうして? 推測すればわかるってことかしら?」
「そんなところだ」
ネイトは頷いた。
「…そうね、施設の規則や習慣に馴染めなかった、とか?」
「少し違う」
「周囲の子たちと馴染めなかった」
「それも違う」
「じゃあ、なんだったの?」
「施設に本がなかった。それだけさ」
アリスが驚いた表情を浮かべる。
「そんな理由で抜け出したの?」
「ああ、そんな理由さ。内戦のせいで、いやもしかすると内戦以前から、どんどん孤児院は切り詰められていった。衣食住を整えるのに精一杯で、娯楽や教養は切り捨てられたんだ。俺は死人のような顔をして、政府が垂れ流す自分たちに都合のいい物語をきかされていた。孤児院を出た者は、上手い具合に政府の物語を信じてしまって、政府の下働きをするか、末端の軍人になるんだ。そして政府のいう物語を信じ込みながら、実際には上層階級や政府にこき使われ、内戦に駆り出され、命を落としていく。俺はそんな環境と未来が嫌で、仲間と一緒に孤児院を抜け出した」
アリスは言葉を失っていた。
「あんたは当たり前のように本を読むだろう? 当たり前のように研究に没頭するだろう? でもそれは、俺にとっては当たり前どころか、渇望してやまないものだったってことさ」
ネイトは自嘲気味に笑った。
「どれもこれもこの国が自分で選んだ間違えのせいだ。格差を解消することもせず、国土を打ち捨てて高層化の道をひた走り、そして内戦を終わらせることもしない。憎悪と怨念が永遠に燃え上がるだけだ」
「…それであなたは盗みを始めたってわけ?」
「そうさ。最初は、本をたんまりと欲しかったのさ。静かな楽しみが欲しかった。知識をつけたかった。子どもらしい考えだろ?」
ネイトはおどけてそういった。
アリスは目を伏せ、頷いた。
「そうね。でも、あなたに向学の精神があるなんて、見直したわ」
「あんたは頭がいい。知識がある。それに度胸も。俺たちはたぶん気があうと思うぜ。俺たちが手を組めば、なんだって切り抜けられる」
ネイトは大真面目にそういった。
アリスは、ふっと笑った。
「私は、もう手を組んでるつもりだけど」
アリスはいった。
ネイトは、ああ、そういえば、そうだった、といって笑う。
「さあ、いこう。今度は誰にも頼らないぞ」
ネイトとアリスは立ち上がり、闇の中へ向かって歩き出した。




