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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
53/87

51 Tommy - Werehouse Ambush

 錠剤が効能を発揮する。痛みは遠くに押しやられ、上機嫌になる。鼻歌を口ずさむ。ラヴェル、亡き王女のためのパヴァーヌ。美しく、荘厳でさえあるメロディを高揚感に包まれながら口ずさむ。

 しかし錠剤の効能はそのうち切れてしまう。効能が切れると、痛みが脇腹に戻ってきて、暗鬱な気分になる。鼻歌を止めてしまう。思考と視界がぼやける。

 目に見えるすべては靄がかかったようになる。それが嫌で、トミイは錠剤を口に放り込み、噛み砕く。錠剤が効能を発揮する。そして世界は晴れ渡る。

 他人から見れば不審でしかない仕草。暗鬱、覚醒、高揚を短時間で繰り返している。

 トミイは鼻歌を再開する。

「あんた、大丈夫かよ?」

 トミイの様子を見た仲間がいう。

 移動する車中。臨海部の姿が見えてくる。

 トミイは鼻歌を続けながら、親指を立てた。問題はない、と仲間たちに無言で伝える。

「あんたが問題ないっていうならいいんだがよ」

 仲間はいう。

 問題がないわけはなかった。あの赤い髪の女につけられた傷は、間違いなくトミイの体力を削いでいた。薬物の力で、なんとか失った気力と体力を補っているだけだ。だが、それでもまだこの体は動く。戦うこともできる。

 もう少し、もう少しだけこの体を酷使すれば、小娘たちに追いつける。逆になにもしなければ、小娘たちを失ってしまう。

 約束された報酬のためには、全力を尽くすのみだった。体が動くならば、戦いを続けることができるのであれば、どうしてそれを躊躇うというのだ。

 臨海部に雨が降る。雨は第三地区の煤けた空気を浄めていく。

 車が止まる。ゴトーの拠点はすぐ近くだ。

 トミイたちは車から降りた。雨を気にもせず、歩き出した。武器の確認は車内ですませていた。

 周囲を確認する。比較的低層の倉庫が立ち並ぶ区画。出歩いている人はいないが、明かりがついている建物がいくつもある。中に人がいるのだろう。

 暗い緑の屋根をした倉庫が、ゴトーの拠点だった。そこも明かりがついていた。中に人がいるかもしれない。

 闇に紛れながら、トミイたちはその倉庫の前までやってきた。トミイたちは視線を交わした。誰が先にいくのか。トミイは率先して動いた。鈍色の金属質な扉の前に立ち、扉を叩いた。

 仲間たちは物陰が作る闇の中で、息を潜めた。

 扉の向こうからは、なんの反応も返ってこなかった。

 もう一度扉を叩く。

 反応がない。

 トミイは仲間たちに視線を向けた。仲間たちが物陰から出てくる。

 そのとき、不意に鈍色の扉が開いた。

 トミイはすぐ扉の隙間に手を挟み込んだ。次いで体も素早くねじ込んだ。扉を開いた小男がトミイを見て立ち竦む。ゴトー本人ではなかった。トミイはにこりと笑いながら、小男に銃を突きつけた。

 仲間たちが駆け寄ってくる。倉庫内に踏み込む。小男を跪かせて、手を後ろ手に組ませた。小男の両手を縄で縛り、背中を蹴る。小男が床に倒れる。

 トミイたちは倉庫内を見て回る。倉庫は空に等しかった。なんの物資もここにはない。粗末なテーブルに、通信機材が置かれてあるだけだ。

 ゴトーはここにはいない。がらんどうの倉庫を一目見て、それがすぐにわかった。

「奴はいない」

 トミイは口に出した。

「それならどうする?」

 仲間がいう。

「奴がいてもいなくても、こっちは構わん。小娘たちを待ち伏せにしよう」

「大臣令嬢たちが、もうゴトーと合流し、ここを出た可能性は?」

「それはあの小男にきいてみよう」

 トミイは床に倒した小男に近寄った。

 小男は外国の言葉でなにか叫んでいる。

「なんていっている?」

「中国語で、くたばれだとさ」

 トミイが尋ねると、仲間はいった。

 トミイはげらげらと笑った。その上で、小男の腹を足で蹴った。男が蹴りの衝撃と痛みで咳き込む。

「ここに小娘たちはやってきたか?」

 トミイはいう。仲間が通訳する。

 痛みが引いたところで、小男はいう。

「くたばれ」

 トミイはまた小男の腹を蹴った。さらに小男のこめかみに銃を突きつけた。先ほどまでの笑顔は消し去った。

「質問に答えなければ、次は銃弾を撃ち込む。小娘はここへきたのか?」

 仲間が通訳をしているあいだに、トミイはわざと弾倉を再装填する。金属質の心地よい音が鳴る。わざと銃口に消音機を取りつける。意地悪く、あえてゆっくりと取りつけ、その動作を見せつけた。

 トミイの動作を見て、喚いていた男が急に黙り込む。目が動揺している。

「答えるんだ」

 トミイはいった。

 小男が泡を食いながら、喋り始める。

「なんだって?」

「ここへは誰もきていない。令嬢のことは知らない」

 仲間が通訳する。

「本当か?」

 トミイが尋ねる。仲間が通訳すると、小男が必死の形相で頷き、喚く。

「こいつは、本当だといっている」

「わかった。ゴトーはどこへ? ここへはくるのか?」

 トミイは質問を続ける。

 小男は首を振る。

「取引で出ていったきりだ。いつ戻ってくるのかわからない、だと」

「なるほどな。おい、こいつを奥へ連れていけ。口を塞いで、しばらく黙っていてもらう」

 仲間の一人が小男を倉庫の奥まで引っ張っていく。

「ゴトーは中国語も達者なのかね?」

 引っ張られていく小男を見て、仲間がトミイに尋ねる。

「語学力があっても不思議ではない。元は優秀な官僚だった。いくつかの外国人勢力とつきあいがあるのも、そういうことなのかもしれん」

 トミイはいった。

 そういう頭の良さで黒社会を渡り歩くところがいけ好かない、と内心では思っていた。

「いいか、よくきけ。ここで大臣令嬢を待ち伏せる。各自、配置についてもらう。ゴトーが突然に現れるかもしれん。その場合は速やかに排除しろ。ただし、令嬢たちに異変を察知されてはいけない。上手くやれ」

 トミイは指示を出した。仲間たちは分散し、それぞれ持ち場を見つけて待ち伏せする。倉庫一階に二名、倉庫二階の前の通りを見渡せる位置にトミイも入れて二名、向かいの倉庫の二階にも二名、残る三名は外の暗がりに隠れた。

 倉庫の二階には、通りに面して大きな窓が設けられている。腰高窓であり、屈めば身を隠すことができた。

 窓の外を見ると、雨が降り続いていた。夜の暗さと雨で、視界は悪かった。

 外の通りは閑散としていて、街灯の放つ冷たく青白い光が、決められた間隔を守りながら夜の闇の中で何個も浮かび上がっていた。その青白い光を見ていると、憂鬱な気分になる。

 隣にいる仲間も自動小銃を構えて、通りを見張っていた。

 向かいの倉庫の二階で、人影が揺れる。トミイが合図を送る。向こうから返事がくる。仲間が親指を立てているのが見える。位置についたようだ。

 まだ通りに人影はない。

 トミイは勢いよく降る雨の音に耳を澄ませた。感覚を研ぎ澄ませ、集中する。

 時間が過ぎていく。

「本当に小娘たちはくるのかね?」

 仲間が呟く。

「くるさ。ここしか奴らが頼る場所はない」

 トミイはいった。

「あんたはどうしてこの場所がわかったんだい?」

「小娘と一緒にいるガキを知っている」

「ガキだって?」

「ああ、いけ好かないガキでね。AGWに売り飛ばしてやった。そのガキがいま小娘と一緒に逃げてる。どういうわけかは知らんがね。そのガキは、ゴトーを頼りにしていた」

「それでも、ここへはこないかもしれんぞ」

「いいや、くるさ。所詮は痩せっぽちの、なにもできないガキと、世間知らずのお嬢様さ。そういう連中は、結局のところ誰かに頼ってしまうもんなのさ。ましてこんな切羽詰まった状況だとな」

 トミイはきっぱりといった。

 トミイには確信に近いものがあった。ネイトの思考回路と行動特性をトミイは把握していたからだ。結局のところ、あのネイトというガキは、どれほど大人ぶっていようが、犯罪の手法を学んでいようが、ただの非力な存在に過ぎなかった。しかし、非力だが、知恵が回らないわけではない。だから、誰かを頼る。人脈がそう多いわけではない。力があり、信用の置ける者をきっと頼る。ネイトの思考と行動を分析すれば、答えは絞られてくる。

 子どもというものはすべての行動、すべての心理状態において、手抜かりと甘えが存在する。だからトミイは子どもが嫌いだった。犯罪に関わろうとする子どもは特にそうだった。

「…しかし、通りには誰一人として歩いている者がいない」

「大人しく待とうや。いまはそれしかない」

 トミイはいった。

 さらに時間が経過する。

 外で待機をする仲間が、合図を送っていた。いったん倉庫の中へ戻りたいといっている。雨と寒さで彼らの体は震えていた。

 しかしトミイはその場で待機するよう指示を出した。

 ちょうどそのとき、視界の端に、通りを歩く人の姿が映り込んだからだ。

 トミイは視線を走らせた。仲間たちに気づかせる。

 身を潜めている仲間たちも歩行者の姿を確認する。気取られないよう、慎重に見張る。

 歩行者とは距離が離れていて、暗闇と雨のせいもあってか、その輪郭しか捉えることができていない。どういう服装なのか、性別はどちらか、いまはそれさえもわからない。

 だが、確実にこちらへと近づいてきている。歩行者は一名。他に人の姿はない。

「一人か。例のガキがいない。令嬢たちではないな」

 仲間がいう。

「まだわからんよ」

 トミイはいった。

 歩行者の姿が徐々に判明してくる。雨具に身を包み、目深にフードを被っている。体つきは細身で、中背。

「女か? 捕まえてみるか?」

 トミイは少し考えた。

「いや、待て。しばらく放置しろ」

 トミイは仲間に待機を続けるよう合図を送った。

 外で雨に打たれる仲間が、忙しい身振り手振りで不満を表明する。なぜ待つというのか。早く捕まえよう、とトミイに伝えている。

 向かいの倉庫に陣取る仲間たちも、トミイに視線を送ってきた。

 トミイは待機を続けろ、と合図した。

 一人。それが気にかかる。

 歩行者が近づく。立ち止まる。周囲を窺っている。まるでこちらの待ち伏せに気づいているかのように。

 降り続く雨は、トミイたちの気配をかき消しているはずだった。それなのに、なぜあの歩行者はこちらへさらに近づいてこない。なぜ立ち止まり、周囲を窺う。

「なんなんだ、あいつは? 早く捕まえて、締め上げよう」

 隣で仲間が痺れを切らしてそういった。

 他の仲間たちも指示を乞う視線を送ってきている。

 まだ対象との距離が遠い。こちらが追いかけても、逃げられる可能性がある。

 もう少し待て、とトミイは合図する。

「早く動こう。逆に見逃すぞ」

 仲間がいう。

 そんなことはいわれなくてもわかっていた。あと少しの距離が詰まれば、すぐにでも飛び出せる。

 雨の勢いが一瞬激しくなった。寒さに身が凍る。

 歩行者が動き始めた。トミイたちにさらに接近する。

 それでいい、あと少しだ。トミイは思った。仲間たちに指示を出す数秒前のことだった。

 痺れを切らした仲間たちが、徐々に物陰から身を乗り出そうとする。すぐにでも動けるように、中腰になる、あるいは壁際から半身を晒し、対象に狙いをつける。

 暗がりの中で、半身を晒した仲間の一人が息を吐く。それが空中に白く浮かび上がる。凍えるような寒さの中、くっきりと。

 歩行者の視線が、その白く浮かぶ息を捉えていた。

 歩行者が踵を返す。こちらに背中を向けて、歩き出す。

「くそ、気づかれた」

 隣で仲間がいう。

 トミイは、他の仲間たちに合図を送った。

 外の暗がりで待機していた仲間たちが走り出す。遠ざかる歩行者を追う。歩行者も気づく。互いに全力で疾走する。

 向かいの倉庫に潜んでいた仲間が、自動小銃を発砲する。狙いを外す。

 雨の中で轟音が響き渡る。

 次の瞬間、別の発砲音が響いた。

 地上で歩行者を追っていた仲間が、被弾して倒れる。逃走する歩行者が撃ったのではない。どこかで他の誰かが発砲したのだ。

 トミイは目を凝らした。

 暗がりの中、かすかに見える人の姿。銃を構えている。

「令嬢か?」

「わからん。とにかく俺たちも追いかけよう」

 トミイたちも外に出た。

 自動小銃のけたたましい発砲音が鼓膜を揺さぶる。先行していた仲間が銃を闇雲に撃ち放っていた。トミイは被弾した仲間の状況を確認した。仲間は地面に伏せ、悶えていた。鎖骨を撃ち抜かれていた。出血は少量だが、激しい痛みを訴えている。戦闘を継続できるはずもなかった。

 トミイは被弾した仲間を、銃弾が飛来しない安全な物陰まで運んだ。それから敵の位置を確認する。

 逃走者も、その援護を担当した者も、物陰に隠れて、銃撃を避けていた。

 数的、武装的には、トミイたちが圧倒的な優位にある。それは明白だった。

 仲間たちの援護を受けながら、トミイともう一人の仲間で、敵が身を隠すその物陰に接近した。敵からの反撃はなかった。

 物陰を窺った。そこに敵の姿はなかった。遠くに、走り去ろうとする敵の背中が見えた。

 トミイは自動小銃を構えた。狙いを定め、引き金を引こうとした。

 そのとき、自分の隣にいた仲間が、銃弾を浴びて地面に倒れた。太腿を撃ち抜かれたのだ。仲間が苦悶の声を上げ、地面を転がる。

 トミイは銃撃を避けるため、即座に地面に伏せた。

 誰かが別の場所から、トミイたちを狙って銃を撃っていた。自分を狙ったはずの銃弾が、地面に着弾し、めり込む。トミイは取り乱しながら地面を這いつくばった。

 予想外の敵の攻撃に、仲間たちが銃を乱射する。敵の位置を正確に把握することもなしに、夜の闇に向かって銃弾を撃ち込んでいく。

「射撃を止めろ」

 遮蔽物のあるところまで這っていったトミイは仲間たちに向かって叫んだ。

 仲間たちが射撃を止める。戦場となった倉庫街が一転して不気味な静寂に包まれる。

 トミイは自分を狙った銃弾が飛んできた方向を覗き見た。

 人の姿が見えた。少年でも、女でもない。朽木のように細く痩せた男がそこにいた。男は陰鬱な気を放っていて、遠くからでもそれを感じ取ることができた。覚えのあるその陰鬱さ。

 ゴトー。

 トミイは自然とその名を呟いていた。二十年越しの再会。感慨はない。ひりつくような緊迫感があるだけだ。

 男があとずさる。男は倉庫街の闇に消えようとしている。

「取引といこうじゃないか」

 トミイはとっさに叫んでいた。

「あんたの部下の中国人を預かった。あんたが取引に応ずれば、無事にそちらに引き渡そう」

 トミイはいった。

 部下を預かった。その一言によって、男は足を止めた。なにも言葉を発しない。だが、トミイの発言を待っている。トミイはそれを直感した。

「いいか、さっき逃げた小娘たちは必ずあんたを頼ってくる。必ずだ。俺たちの目的はその小娘だ」

 トミイは叫んだ。

「内務大臣令嬢、セガワアリス。あの小娘とあんたの部下、それを交換しよう。取引が成り立たない場合は、あんたの部下の首を切り落とす」

 トミイは交換条件を持ちかけた。部下の中国人の首を切り落とすというのは、冗談ではなかった。仮に男が話に乗ってこない場合は、それをやってのける覚悟がトミイにはあった。

 男からの返答はなかった。ついに無言のまま、男は闇の中へ埋没し、消えていったのだ。

 雨がまた激しくなった。その雨音はまるでトミイを罵る声のようにきこえてしまう。銃弾を避けるためとはいえ、地面を転がり、這いつくばったせいで、トミイはずぶ濡れどころか泥塗れになっていた。寒さで体が震える。被弾して地面に倒れた仲間たちも泥塗れになっていた。二名が負傷しているが、幸い死に至るような傷ではなかった。戦闘はできるはずもない。

 なんという様だ、とトミイは思った。あまりの無様さに、奇矯な笑い声を上げずにはいられなかった。トミイは自分自身を嘲笑った。そんなトミイを見つめる仲間たちの沈鬱な顔を見て、狂ったようにまた笑う。笑いながら、憎しみを燃やす。こちらの思うようには動いてはくれない、それどころか事態をさらに拗らせるネイトとアリスに対して、地獄の底で煮え立つ炎にも似た憎しみを照射する。

 あの小娘とガキを必ず痛めつけてやる。ガキは生きたままその頭皮と手足の爪を剥ぎ取ってやる。小娘は辱め、犯し尽くし、純潔を奪い取ってやる。

 降り頻る雨の中、トミイは誓いを立てた。怒り、憎しみ、闘志を奮い立たせ、凍えつくような寒さを忘却した。

「車で小娘たちとゴトーを追いかけよう」

 仲間の一人が興奮冷めやらぬ様子でそういった。

「無駄さ。どうせゴトーか、あのガキどもに車を荒らされている。使いものにならんだろうよ」

 トミイは醒めた顔でいった。

「まずは態勢を整える。負傷者の手当てがなにより先だ」

「ゴトーの奴はあんたの言葉に乗ってくるだろうか?」

 不安げな声で、別の仲間が尋ねてくる。

「俺はゴトーを知っている。あいつは、部下を切り捨てられるような男じゃない」

 トミイは確信をもってそういった。

「奴は必ず取引に応じるさ」

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