49 Emma - Can't See Anything
言葉通り壊し尽くされた店。華龍盟の紋章を掲げた看板は剥がされ、足で何度も踏みつけられている。店内のテーブルと椅子はひっくり返され、散らかっていた。床には店員たちの死体。壁の前に膝をつかされ、その上で後頭部に銃弾を撃ち込まれていた。男も女も関係がなかった。皆、同じ姿勢をさせられて、そして処刑されている。
エマはその光景に動揺することなく、音を立てずに店の奥に進んだ。十五時間ほど前に開いた扉を再び開いた。扉の向こうにはまだ人の気配があった。
狭い従業員室内に、三人の男たちがいた。三人はエマに気づいていない。背中を向けている。男たちのさらに奥には、椅子に座らされた女の姿が見える。エマの位置からでは顔は見えない。女の手足だけが見える。男たちは女に対して拷問を加えている。
素早い三連射。エマは、男たちの頭を撃ち抜く。店員たちと同じように、後頭部に銃弾を撃ち込んで殺してやった。
男たちが床に倒れ込む。女の顔が見える。
ソン。
顔は殴打により血塗れだった。指の先、爪はすべて剥がされていた。エマが殺した男たちは凄惨な方法でソンに拷問をかけていた最中だったのだろう。次はなにをするつもりだったのか。指を切り落とすか、それとも万力で顎を砕くつもりだったのか。
「ソン」
エマは声をかける。傷を確認する。腹にも傷があり、ひどく出血していた。
「きこえるか」
エマの呼びかけに、ソンはかすかな反応を示した。口元を動かし、目を薄く開いた。エマに笑いかけているつもりらしい。
エマは周囲を探った。血を拭い、傷口に当てるための布を探した。従業員が使う棚から、未使用の雑巾をすべて引っ張り出し、ソンの顔の血を拭った。次に腹部からの出血を止めようとした。上着を捲り腹部の傷をよく見る。銃創だった。幸い急所は外れたようだが、それでも出血がひどい。この銃創に加え、顔面を殴打され、指の爪もすべて剥がされているのを考慮すると、ソンが息をしているのは奇跡といってよかった。
「頑張るんだ。あんたを医者へ連れていく。ちゃんとした手当てを受けよう」
エマはいった。だが、ろくな移動手段はなく、頼るべき医者の居所もわからなかった。どうすればいいのか。エマはそこで躊躇することも、狼狽することもなかった。ともかくこの女をつれ出して、医者に診させなければならない。そのために必要なことは、他人を脅してでも、他人から車を盗んででも、やるしかないのだ。
従業員室の机の上に無造作に置かれてあった酒を、雑巾にかける。アルコールが染み渡った雑巾を、ソンの腹部の銃創にあてがう。
「…他の店員たちは?」
ソンが呟いた。
エマは一瞬躊躇った。だが、伝えることにした。
「みんな殺されたよ」
残酷な事実を口にする。
「…あんたほどには苦しまず、みんな逝ったようだ」
ソンは口元を少し動かした。その動作だけで、ソンの嘆きが伝わってきた。
「あまり喋らない方がいい」
エマはいった。
ソンがかすかに首を振った。
「…もういいんだ」
掠れていて、ようやくきき取れる程度の声で、ソンがいった。
エマは顔を上げた。ソンを見つめた。
「…泣き言なんてききたくないぞ」
エマは止血の処置を続けた。ソンの体に巻きつけられるよう、雑巾を細かく引き裂いた。
「…お前は善良な子だった」
ソンが呟く。その目には、かつてのエマが浮かんでいるのか。
「…そんなお前を、私はろくでもない人生へ引き込んだ。…お前の人生を、血塗れにした」
「やめろ」
エマはいう。
「そんな言葉などききたくない」
細かく裂いた雑巾を、ソンの腹にきつく巻きつける。次は、爪を剥がれた指だ。
「…もういいんだ。なにも見えない、なにも感じなくなっている」
「うるさい。黙っていろ」
エマは吠える。
だが、ソンは、きき入れなかった。
「もう助からない。わかるんだ…」
「お願いだ、黙れ、黙ってくれ」
エマはいうが、ソンはかすかに笑う。拒絶の意思を示している。
「…最期にきかせておくれ」
ソンは自分に残された力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「…私を許してくれるか?」
ソンが問いかけてくる。
エマはソンを見つめた。エマの目にも、過去が映り込む。かつての幼かった自分、かつての冷酷であったソン、いわれるがまま銃を握って人を殺した日、打ち棄てられた純潔、叶わなくなったまっとうな生、ソンに養われた日々、あてがわれた残飯の温かさ、エマを自分の息子と重ねて見ていたソンの目、家族を失ったソンの涙。一瞬という時間の流れの中で、数々の過去が浮かんでは消える。
「もう過ぎた話だろう」
エマはいう。
その言葉をきいて、ソンは安堵したようだった。ソンは頭を垂れた。
「…楽にしてくれ。家族に会わせてくれ」
ソンはいった。そして、目を閉じた。
エマは覚悟を決めた。
銃を構えた。狙いをつけて、引き金を引いた。目を逸らしはしなかった。残酷な光景を目に焼きつけた。
放たれた銃弾は、ソンの額を貫いた。
そしてエマは咆哮する。
怒りと憎しみに突き動かされ、叫び声を上げて、ソンを拷問した男たちの死体に弾倉が空になるまで銃弾を叩き込んだ。男たちの頭が、顔が、ぐちゃぐちゃになってしまえばいい。吹き飛んでしまえばいい。ソンを辱めたこの男たちの死体など辱められて当然なのだ。
弾が尽きる。それでも引き金を引く。
血が溢れ、目玉が潰れ、脳味噌が露出した男たちの死体。まだだった。まだ憎しみや怒りを浄化できはしない。もっとこの男たちを辱めてやる。
銃弾を装填する。銃を構える。男たちの死体をまた撃とうとする。
「そこまでだ」
声がする。エマは、自分の後頭部に銃を突きつけられるのを感じた。
背後にまったく気がついていなかった。だが、振り返る必要もなかった。その声の主が誰なのかわかっていたからだ。
グロスマンが、エマの背後で銃を突きつけていた。
「もうそこまでにしておけ」
グロスマンはいう。
エマは大人しく銃を下ろした。
「それでいい、こっちを向け」
グロスマンがいう。
だが、エマは振り返らなかった。
「こっちを向くんだ」
苛立ったグロスマンがエマの肩を掴み、強制的に振り返らせた。エマの顔をグロスマンが見つめる。
グロスマンはエマの顔を見て、その頬に伝うものを見て、しばらく言葉を失った。エマも黙り込んでいた。やがてグロスマンが問いかける。
「お前は何者だ? 一体、どういうわけでこんなことを…」
グロスマンの問いに、エマはしばらく答えなかった。
「答えろ。答えるんだ」
グロスマンはいう。
エマは口を開いた。
「私はかつて華龍盟に厄介になったことがある。まだ私が子どもだったころの話だ」
エマはグロスマンに語った。身寄りがないエマを華龍盟が拾い、その命を養う代わりに、エマに人殺しを課したこと。そしていま自分が楽にしてやったソンがエマのかつての世話役だったことを。
「…そうしたら、なんだ、お前は、かつて華龍盟の手の者だったっていうのか?」
「ああ。昔の話だが」
エマは目を伏せた。
「なぜそれを俺に伝えなかった? もちろん、ボスにもだ」
「それをいってどうなるというんだ? 私はいまや華龍盟にも関係がない。状況次第では彼らと敵対することも躊躇しない。現に華龍盟の襲撃から、私はあんたを助けてやったろう?」
「だが、いまお前は俺たちの同胞を殺した。お前は俺たちの敵なのか、味方なのか、どっちなんだ?」
グロスマンは銃をエマの額に突きつけた。
エマは目を開けた。
「敵でも味方でもない。私があんたらに協力をするのは、トミイを追うという目的のためだ」
「同胞たちを殺したのはなぜだ?」
「…こいつらはソンを拷問で殺そうとしていた。私はこの女の世話になった」
エマはいう。
グロスマンはソンの死体に視線を向けた。
「立派な俺たちへの敵対行為だ」
「なんとでもいえ。みんなトミイのせいだ。この女が死んだのも、華龍盟と抗争が起きたのも、あんたらの仲間が大量に死んだことも、あんたのボスの息子が殺されたのも」
エマは憎しみに燃える。
「私を敵と見做すのなら、さっさと撃つがいい。私は簡単には死なんぞ。お前も道連れにしてやる。もしまだ私と協力関係を続けるのなら、私はどんな手段を使ってでも、トミイを追い詰める。そして、トミイを殺す」
エマはグロスマンにそう宣言した。
グロスマンはエマに突きつけていた銃を下ろした。
「トミイへの手がかりは、ないといっていい。そして戦争も始まっている。こんな状況でどうやって奴を追うんだ?」
グロスマンが問いかけてくる。
「どんな手段でも使うといっただろう。私が持つすべての人脈を利用する。金も使う」
「それで奴の居所がわかるのか?」
「やってみる価値はあるさ」
エマはそういい、猛烈な勢いで頭を動かし始めた。策を考える。いくつかの策はすぐに閃いた。
「私に賭けてみるか?」
グロスマンに呼びかけた。グロスマンの目を見つめると、彼が逡巡しているのがよくわかる。この女の言葉をどこまで信じるべきなのか。この女の考えた策で、トミイを追い詰めることはできるのか。
やがてグロスマンはエマにこういった。
「お前の策をきかせろ。それから、ここを火にかけるぞ」
エマとグロスマンは二人で、店全体に油を撒いた。厨房の鍋に油をたんまりと注ぎ込み、最大火力で火をつける。十分もすると白煙が立つ。さらに十分で発火する。グロスマンはバケツに注いだ水を、発火した鍋にぶっかけた。一気に白煙と炎が広がり、爆発したようになる。やがて店全体が炎上する。
煙と炎で、店の中は見えなくなる。
エマは燃え上がる炎をじっと見つめていた。




