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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
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48 Grossman - 1 Hour Change

 たった一時間で、世界は変わり果てた。

 たった一時間で、それまで見知っていた人間は次々と死んでいった。

 考えてみれば、見慣れた出来事のはずだった。考えてみれば、そんなことに慣れているはずだった。世界がおかしくなってから久しいが、その間にどれほどの人間が死んだという。どれほどの大地が穢され、どれほどの街が閉鎖に追い込まれたという。

 わずかな時間で世界は変わる。たった一つボタンを押すだけで、たった一つ爆弾が爆発するだけで、半径五キロ圏内の万物は消滅する。そんな悪魔の所業を無数に繰り返すことで、いまの世界はできあがった。それをこの時代に生きる人間はよく知っているはずだった。

 それだというのに、なぜいまさら人の死に衝撃を受けるのか。なぜいまさら、体も心も麻痺をしたようになって、呆然と立ち尽くすことしかできなくなってしまうのか。

 ほんの一時間前といまとでは、グロスマンにとっての世界は、まるで異なったものになっていた。

 午後一時、グロスマンはエマを自分の事務所に運び込んだ。超高層建築の周縁に建つ雑居ビルの二階にグロスマンは事務所を設けていた。そこで改めて負傷したエマの手当てを行った。エマは顔面を殴打され、大量の鼻血を流してはいたが、それ以外では幸い負傷はなかった。清潔な布をあてがい、鼻血を止めた。殴られた箇所は氷で冷やしてやった。痛み止めのモルヒネも事務所にはあったが、エマはモルヒネの注射を断った。グロスマンはエマを事務所のソファに寝かせて休ませたが、エマは三十分もしないうちに起き上がった。トミイに関する情報を集めようとエマはいった。

 エマとグロスマンは、トミイに関する情報を集めた。さまざまな伝手を頼り、事務所の壁にトミイに関する情報を付箋で張りつけていった。約三時間の共同作業。それでトミイに関する情報はおおかた集まった。元軍人で、現在は暗黒街の始末人。ここ数年は専ら華龍盟に雇われていた。軍歴から逆算すると年齢は四十代後半。薬物依存の傾向と精神病の兆候があり、極めて危険な人物だが、華龍盟が関与もしくは主導した事件には、必ず彼の影を見ることができる。どうやら華龍盟には重宝されているようだった。

 トミイの人となりに関する情報は集まった。だが、現在の彼の居場所については、情報がなかった。グロスマンたちに必要なのは、彼がどこへ向かっているのか、それについての情報だった。

 情報を流し、情報を待つ。寄せられる大量の屑情報にエマが激怒する。煙草の吸殻を床に叩きつけ、灰皿を壁に投げつける。グロスマンの部下でさえエマに慄く。エマはソファに深く凭れて、大股を広げて煙草を吹かす。苛立ちの紫煙が立ち上り、事務所に充満する。

 腐らずに情報を流し、情報を待つ。

 事態が急変したのは午後四時過ぎだった。グロスマンの事務所にもスースロフの最側近から連絡が入った。

 華龍盟との交渉が決裂。華龍盟はトミイの引き渡しに応じず。

 連絡は短く、指示という指示はなかった。グロスマンは引き続きトミイについての情報を集めると返した。

 そこからの一時間だった。

 そこからの一時間で、世界は変わった。

 グロスマンのもとに、各所から悲鳴の連絡が届く。

 混乱と憤怒の完璧な調和。なにをいっているのか、なにを伝えようとしているのかわからない声。やがてはその声は悲鳴と断末魔の叫びに切り替わる。銃撃音と悲鳴の交響曲。恐怖と苦悶の協奏。仲間たちが撃ち殺されていく。仲間が発する悲鳴を何度も耳にしていると、次は自分が殺されるのではないかという不安と恐怖で頭がおかしくなりそうだ。

 時刻は夕方五時を過ぎた。

 外は暗くなりつつあった。

 グロスマンの表情も、次第に暗く落ち込んでいく。

 陽が沈み、闇が街に降りてくる。

 華龍盟との交渉が決裂して一時間も経過していない。だが、すでに戦争は始まっていた。各地の同胞が、華龍盟によって襲撃を受けている。敵は巨大組織の利点を活かした、圧倒的な人海戦術を展開している。華龍盟はスースロフ一派の各拠点を軍隊と見紛うような人数と武装で襲撃をかけていた。各地の拠点は、機関銃の乱射と手榴弾の爆発によって、目も当てられないような状況に陥っていた。苛烈な銃撃に恐れをなした同胞たちが、グロスマンのもとにも救援の連絡を入れてきたが、もはや手遅れだった。華龍盟は自分たちにも犠牲が出ることを覚悟の上でこちらの拠点内部にも踏み込んできて、同胞たちを残らず殺し尽くしていた。やけに反響する銃撃の音が電話越しにこちらにも伝わってくる。敵は容赦なく同胞たちを殺して回っていた。

 同胞たちが殺されていくのを、グロスマンは黙って見ているしかなかった。グロスマンの部下も含めて、誰も事務所から外へ飛び出す勇気がなかった。正確には勇気がないというよりは、勇気を喪失したといっていい。同胞たちの最期の叫びを、部下たちも耳にしていた。

 死という言葉が、これほど恐ろしく思えたことはない。死が自分にまとわりついている。少しでも気を抜くと、死は自分に襲いかかってくるだろう。死は自分の喉をかき切るのか、それとも頭を撃ち抜くのだろうか。

 グロスマンは恐怖に慄いた。

 華龍盟の圧倒的な攻勢に、街に散らばった仲間たちは次々と襲撃をかけられ、命を落としている。

 たった一時間のこと。

 たった一時間で、世界は変わり果てる。

「交渉から一時間も経過していないのに…」

 仲間の一人が、グロスマンと同じ暗い顔で呟き、唇を噛み締めた。同胞たちを殺された怒りよりも、敵の圧倒的な攻勢とその苛烈さに、ただただ暗澹となるしかなかった。

「華龍盟を相手に戦争をするってのは、そういうことなんだ」

 仲間の呟きに、エマが反応した。

「いざとなれば味方の犠牲なんて奴らは気にしない。抵抗の意思を徹底的に砕くために攻勢をかけてくる」

 エマはいう。

 グロスマンはエマを見つめた。

「華龍盟をよく知っているような口ぶりだな」

 グロスマンがいうと、エマはにやりと笑う。

「ああ、よく知っているさ。次に奴らがどんな攻撃を仕かけるのかも、予想はつく」

「奴らはどうするつもりなんだ?」

「今度はスースロフの住まいに突撃をかけるな。派手に銃撃戦を行って、揺さぶりをかけるつもりだ。その次は、スースロフの側近、もしくはその家族を狙った誘拐。家族を誘拐して、スースロフからの離反工作を目論む。じわじわとスースロフの手足を削いでいくんだ」

「連中は最終的にはどうしたいのだと思う?」

「スースロフが正気に戻って、トミイから手を引く。それが叶えば奴らは手を引くさ。華龍盟はなにもあんたらの破滅を望んでいるわけじゃない」

「いまの状況では、とてもではないが信じられんね」

「気に障ると申し訳ないが、スースロフは奴らが本気で潰しにかかるような相手ではない。華龍盟からしてみると、スースロフなど所詮はこの国の下層社会の一勢力に過ぎない。華龍盟はいまや国家を跨いで活動する組織であり、国家を相手にする組織でもある。勢力の規模がまったく違う」

 エマがそういうと、グロスマンはむっとした表情を浮かべた。

「本気ではないくせに、この攻勢か。一体、何人が殺されたっていう」

「あんたのボスが正気を失っているせいだ。華龍盟との交渉決裂は仕方がない。だが、奴らに戦争を起こす気にさせたのは、あんたのボスの暴走のせいだ」

「息子を失ったボスは、簡単には手を引かんぞ」

「ああ。だから、しばらくはこの状況を耐えるしかない。グロスマン、あんた家族は?」

 グロスマンは首を振る。

「俺に家族はいない」

「ならよかった。敵は必ずスースロフ側近の家族を狙ってくるぞ。仲間にも伝えてやるといい。もう手遅れかもしれんがな」

 エマが酷薄な笑みを浮かべていった。

 グロスマンは苛立った表情を浮かべた。

「たった一時間。たった一時間で、こうなってしまうのか…」

「あんたらの仲間に裏切り者がいるからこうなる。たった一時間で、あんたらの仲間の位置を掴んで、敵は攻撃を行っている。誰かがあんたらの情報を売り飛ばしたんだ」

 グロスマンとその部下たちの表情が硬くなる。

「誰が仲間を売り飛ばしたっていうんだ?」

「私の知ったことか。だが、こんな短時間で敵が攻撃を行えたあたり、そいつは以前から情報を華龍盟に渡していたんだろうよ。どういう目的があったのか、そもそも悪意があったのかもわからんがね」

「くそっ、どうすればいいんだ?」

 グロスマンが吠える。

「いったろう? 敵の攻勢には耐えるしかない。私は私でトミイを追うが」

 エマはいった。

「この状況で、奴を追うのか?」

「こんな状況だから、奴を追うのさ」

エマは不敵に笑う。

「…どの道スースロフは簡単には屈服はしないだろう、あの怒りようだとな。それに、憎しみを忘れるな。私も奴にやられた。あんたの部下だって奴に殺されたんだぞ」

 トミイの銃弾に倒れた部下たちを思い出す。憎しみ。殺された部下のことを思えば、確かに、グロスマンはあのトミイという男を憎んでしかるべきだった。

「私はトミイを捕まえ、大臣令嬢の居所を吐かせて、そのあと拷問にかけて手ひどく殺してやる。そのために全力を尽くす。グロスマン、あんたも、トミイを捕まえて殺すという点では同じなはずだ。状況は変化しているが、どうせやるべきことは変わらんよ」

 エマはいう。

 グロスマンはエマを見つめて、この女はなんなのだ、という思いを抱く。猫のような顔立ちに、異常に猛々しいその性格、腹の据わった態度。エマは年齢と性別に似あわない堂々とした姿勢と強烈な人格の持ち主だった。なにか一種の怪物を目の前にしているようだとグロスマンは思った。いったいこの女にはどういう過去や歴史があって、いまの彼女があるのだろうか。

「一体あんたって奴は…」

 グロスマンがそういいかけたとき、スースロフの最側近からまた連絡が入る。

「なんだ?」

「もう知っているとは思うが、同胞たちが次々と襲撃を受けている。ボスの事務所に人を集結させている。いますぐ合流するんだ。ボスからの指示だ」

「合流する途中で殺されないよう気をつけるよ」

「事務所で会おう」

 通話を終える。

 グロスマンは指示の内容を部屋にいる全員に伝える。

「ボスのところに向かえと指示が出た。襲撃を避けるためだ。武器装備を忘れるなよ」

 部下たち全員が頷く。

 グロスマンはエマに目を向ける。

「あんたも一緒にくるといい。ここは危険だ」

 エマは頷いた。

 グロスマンは窓際へ歩いた。怪しい連中が外で見張りをしていないか確かめようとした。

 その瞬間に、銃撃が始まった。猛烈な銃声がきこえたかと思うと、数発の銃弾が事務所のガラスに当たり、ガラスが砕け散った。銃撃を受けたグロスマンは後ろ向きに床に倒れ込んだ。

 エマは中腰になってグロスマンに駆け寄った。銃弾はグロスマンの首筋を掠っていた。掠ったことによって血が少し出ていたが、グロスマンは無事だった。グロスマンは荒い呼吸を繰り返した。その瞳孔は開いていた。敵が銃弾を外さなければ、間違いなく即死だっただろう。

「扉から離れろ」

 エマは周囲の者に向かって叫んだ。

 ほどなく事務所の扉が蹴破られた。自動小銃を構えた男たちが乗り込み、銃を乱射した。

 エマは床に伏せた。グロスマンのホルスターから拳銃を抜き取った。躊躇うことなく銃の引き金を引いた。最初に乗り込んできた男の腹を撃ち抜く。その男に続く別の男の頭を狙って撃つ。初弾は外れ、次弾が男の頬に直撃する。血が吹き飛ぶ。敵が放った銃弾も、エマの頬を掠めていた。紙一重の差で、彼我の生死は分かれた。

 静寂が訪れる。エマが射殺した二人以外に、敵は事務所に乗り込んできていない。

 グロスマンの部下が、中腰の姿勢から立ち上がろうとする。

「姿勢を低くしろ」

 エマはそう叫んだが、遅きに失した。

 事務所の外から銃声がする。直後、立ち上がったグロスマンの部下の頭に、銃弾が直撃した。その部下の血がエマにも降りかかった。

 ほぼ水平だった銃弾の軌道からして、おそらく敵は向かいの建物のこちらと同じ二階から銃を撃っている。果たして地上にはどの程度敵がいるのか。

 こちらはエマ、グロスマンを含めて五名。

「いいか、敵は向かいの建物に陣取ってこっちを狙い撃ってくる。姿勢を低くしたまま地上に出るぞ。物陰には気をつけろ。それから、絶対に立ち上がるな、常時頭を狙われていると思え」

 エマは全員に対していった。

 エマはグロスマンに肩を貸してやりながら、姿勢を低くして、事務所を出た。建物の正面に見慣れない黒塗りの車があった。車は二台。

 エマたちが姿を見せるなり、その車から無数の銃弾が放たれる。壁に銃弾がめり込む。着弾音の独特な響きに、思わず身が竦む。

 エマたちは壁に身を隠した。

「裏口から逃げよう。あんな武装の奴らに正面からやりあっても勝ち目がない」

 グロスマンがいった。

「おそらく敵はあの車の中と向かいの建物の二階だけだ。逃げるならいまだ」

 エマはいった。

 グロスマンは頷いた。

「背後を警戒しながら逃げるぞ」

 グロスマンは指示を出した。

 背後に怯えながら逃げ出す。車が通れない細道や路地を通って、やっとの思いでスースロフの事務所まで辿り着く。そこには多数の同胞たちが集結していた。皆一様に華龍盟に対する激しい怒りと恐怖を抱いていた。

 血走った何人かの同胞たちは、華龍盟への報復を声高に叫び、興奮のあまり小銃を空に向かって撃ち放つ者もいた。

 グロスマンは集まった同胞たちに声をかけていく。

「ボスからなにか指示はあったか?」

「いや、まだなにもない。だが、尋常でなく怒り狂っている」

「ボスは最後の一人になるまで戦うと吠えていた」

「華龍盟の幹部と激しいやり取りがあった。華龍盟の幹部も、頭に相当血が昇っていたようだ」

「あちこちで仲間たちが殺されている。ここに合流できてない奴らは、どうなっていることやら…」

 同胞たちはさまざまな不安の声を漏らした。グロスマン同様、彼らも命からがらここへ辿り着いたのだ。

 各所で同胞たちが殺されている。激しい銃撃戦が展開され、華龍盟にも犠牲は出ているようだった。

「仲間を殺されて怒り狂った奴らが、報復に出たようだ」

「華龍盟の関係者を襲撃しに出かけていった」

「華龍盟の紋章を掲げた店は、徹底的に破壊して回るつもりだ」

 憎しみと怒りの声がきこえる。報復のため、復讐のために、目の色を変えた同胞たちが何人もいた。

「華龍盟の人間を殺せ」

「華龍盟の店は壊し尽くせ」

 憎しみの叫び声が上がる。やがては憎しみの大合唱に発展する。憎しみを忘れるな、とのエマの言葉をグロスマンは思い出す。ここにいる誰もが皆、いまこの瞬間、華龍盟に対する憎しみに突き動かされている。

 グロスマンは後ろを振り返った。

 それまで一緒にいたはずのエマが、いなくなっていた。

 エマは憎しみに駆られた人々とその声に背を向けて、どこかへと駆け出そうとしていた。


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