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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
49/87

47 Liang - Negotiation

 蘭芳苑は、華龍盟が経営する飲食店だ。治安が崩壊した第三地区で公然と華龍盟の名前を出して営業をしている。もちろんそれを咎める者は誰もいない。また、あえて店に寄りつこうとする者もいない。

 店の中にいるのは華龍盟の構成員、関係者ばかりで、店は飲食を提供するよりも、犯罪の機会と薬物を提供して繁盛していた。

 店の迎門を潜り抜ける。店内は煙草の煙が充満している。刺青をした男たちで溢れている。

 トミイに視線を送ってくる男がいた。こちらへこいと合図をしている。トミイはその男の席に向かった。円卓に八名の男たち。

「リャンに指示を受けたのか?」

 トミイは男たちに尋ねた。

 リーダー格の男が頷く。

「ゴトーを襲撃するんだってな」

「ああ。あんたら、ゴトーに面識はあるか?」

 男たちは首を振る。

「みんな取引をしたことはあっても、直接本人の顔を見たことはない」

「取引になればそれでいいわけだ。まったく黒社会の人間らしいよ。そういうことなら、俺の記憶が頼りだな」

「あんたはゴトーと面識があるのか?」

「一度だけだがな」

 トミイはいった。

 もうずいぶんと古い記憶だった。あの男が官僚で、自分が軍に所属していたころの記憶だ。ゴトーとトミイは、内務省と軍が共同で企画した特殊作戦に関係して、一度だけ顔をあわせていた。作戦に志願した下士官のトミイを面接したのが、当時内務省警備局に所属していたゴトーだった。あのころトミイはいまのような長髪ではなく、髪は短く、若々しい、いかにも軍人らしい風貌をしていたが、一方のゴトーは、あのころからすでに老け込んだ風貌だった。当時から白髪が目立ち、顔立ちは官僚らしいというべきなのか、陰気で、爬虫類のような顔をしていた。年齢でいえば三十前後だったはずだが、とてもそうは見えなかった。

 ゴトーに会ったのは、面接の一度きりだった。だが、トミイはゴトーの顔をはっきりと覚えていた。

 なぜなら、ゴトーはトミイを落第と評価したからだ。軍の施設、会議室に差し込む西日、ゴトーの顔、紙切れに書き込まれた落第の文字。はっきり覚えているのはそれくらいだ。トミイは志願した作戦に従事することができなかった。その後、同僚とのあいだに問題を起こして、軍を離れた。

 苦い記憶とか辛い記憶、そういうものではない。ただ、触れればちくりとする、そうであってもときどき思いがけず触れてしまう針のような記憶だった。

「ゴトーはどういう男なんだ? あまり詳しくは知らないが」

 男たちがトミイに尋ねる。

 トミイはいう。

「いかにも官僚らしい男だ。俺は取るに足らない男だと思っている。街の連中は、あいつの頭が切れるってことで過大評価してるが、実際はそんな大した奴じゃない」

「だが、組織はあいつと組んだことで儲けたときくがね」

「知恵と腕っ節はまた別の話だ。俺は腕っ節の話をしてる」

「奴はテラウチとかいう、AGWの将校をぶっ殺したって噂もある」

 誰かが発言する。その言葉に一同が感心する。AGWを相手にするとは大した奴だ、との声も漏れる。

「だが噂は噂だ。ここにいる俺たちだって一人や二人は人の頭を吹き飛ばしてる。いいか、奴を恐れることはない。奴の拠点に踏み込む。奴にはしばらく大人しくしてもらう。そして、奴に会おうとしている小娘を捕らえる。俺たちの仕事はそれだけだ」

「トミイ、あんたも含めて我々九人でゴトーを襲い、小娘を捕らえる。確かに、簡単な仕事に見える」

「ああ、簡単な仕事さ。だが、油断はするな。決して手を抜くんじゃない。フェイの小僧は油断して、麻薬の売人に腹を撃ち抜かれて死んだ。あれからまだ二十四時間も経過していない」

 トミイはその場にいる全員に向けて発言した。敵拠点への突入は、大きな危険を伴う。たとえ敵が一人とはいえ、不測の反撃によって命を落とすことも十分に考えられる。

 フェイが死んだ、とトミイが口にした瞬間、円卓に座った一同は、表情を引き締めた。

「出発だ。移動中、手持ちの武器をよく確認しておけ。それとロシア人に注意しろ。俺たちの尻を狙ってくるかもしれん。絶えず周囲を警戒し、闖入者は排除するんだ」

 トミイはいった。

 全員が席を立つ。外に用意してあった車に乗り込む。トミイも男たちの車に同乗する。臨海部へ向かう。

 リャンはいまごろ、あの忌々しいロシア人たちを抑える行動を起こしているはずだ。リャンの手腕でロシア人たちが抑え込めればいいのだが、とトミイは思った。

 

 西日が眩しい。午後三時を少し過ぎただけなのに、陽の光はすでに日暮れの色になりつつある。厳冬。陽の光と寒さだけで、それを感じることができる。寒さはリャンの骨身に沁みた。リャンは寒さが苦手だった。寒さはいつもリャンに索漠とした風が吹き荒れる冬枯れの故郷、寧安郊外の鄙びた風景を思い出させた。あの侘しい風景から抜け出したくて、故郷を出て、さらには国を出たというのに、いまだに故郷の風景を思い浮かべるというのはどういうわけだろうか。

 部下に命じて車を走らせた。車の中で、リャンは交渉をどうまとめようかと思案を巡らせた。

 トミイの奴め、とリャンは呟き、苦々しい顔を浮かべた。トミイは面倒な事態を引き起こしていた。すでに情報は各所に出回っていた。トミイはニコライ・スースロフという、ロシア人勢力の頭目であるスースロフの息子を殺害していた。スースロフは息子の死に激怒して、トミイを殺害するように部下に指示を出し、いま彼の部下たちは血眼でトミイを追っているというのだ。

 トミイはニコライの死に関して正当防衛を主張していた。ニコライがトミイの車を奪おうと襲撃し、それに対してトミイは反撃し、それでニコライは死んだのだという。果たしてどこまで正当な防衛だったのか、甚だ疑問であるとリャンは思っていた。トミイの行動は常に過剰で過激だ。そして容赦がない。つい昨日も、麻薬の売人を、家族も含めて皆殺しにした。女や子どもでさえ、躊躇なく殺してしまう。スースロフの息子を正当防衛で殺したというのも、どこまでが本当なのか。組織からしても、リャンからしても、トミイは使い勝手のいい男ではあったが、暴走の危険性は前々から指摘されていた。これまでも何度かトミイは暴走し、問題を引き起こしてきた。ただ組織の人間さえ嫌がる危険で不名誉な汚れ仕事を進んで引き受けてきたのはあの男だった。だから組織は、そしてリャンは、トミイを厭わしく思いながらも庇ってきた。今回の件は、トミイに非があるとも、またトミイが暴走したともいい切れない事案ではあり、それゆえリャンは彼を庇わなければならないのだ。

 リャンは怒り狂うスースロフに対してトミイの殺害命令を取り消すよう交渉を行わなければならなかった。誰かの尻拭いをするのはいつものことだが、感情的になっている相手と交渉することは、特に事態を穏便に収めるための交渉は、非常に骨が折れる。

 リャンの冷たい表情の下では、スースロフとトミイに対する忌々しさが脈を打っていた。

 リャンは出発の前に、スースロフ側に連絡を入れていた。どういう話をするのか、それは具体的に伝えていなかった。リャンとしてはスースロフの怒りを収め、トミイが大臣令嬢の探索になんの障害もなく取り組めるようにしなければならなかった。トミイはいま、大臣令嬢に確実に近づいている。

 短い時間の中で、リャンはスースロフの素性を調べた。ロシアモスクワの出身。旧ソ連解体後にエネルギー事業で財を成した一族に生まれ、そうした一族にありがちな話だが、親欧米的で自由民主主義を重んじる環境の中で育つ。国内の名門大学を卒業し、家業を継いだ青年期にかけてもスースロフは政治活動に熱心だったようで、当然ロシア政府からは敵対視され、最終的に国内での地位を危うくした。それで地下世界に潜ったのだ。愛国者でありながら国家からは敵視された男。犯罪社会でも成功を収めたところを見る限り、その行動力と知性は本物のようだ。

「あと何分で到着する?」

 リャンは車を運転する部下に尋ねた。時間が惜しかった。こうしているあいだにも、大臣令嬢は逃亡し、トミイはそれを追跡している。そしてスースロフの部下たちはトミイの命を狙っている。

「あと十分以内に到着します」

 部下はそう返事をした。

 車が角を曲がる。スースロフの住まいだという威圧的な高層建築が見えてくる。

「あれは…」

 部下が道路前方を見て呟いた。

 道路の中央で、なにかが燃え盛っていた。濛々と煙が立っていた。

 車は火の方向に近づいていった。

 大きなドラム缶が激しく燃えていた。燃え立つドラム缶の中に、なにかが見えた。

「…人が焼かれている」

 部下がいった。

 車は燃え立つドラム缶の横を、距離を置きながら通り過ぎていく。

 ドラム缶の中に、人らしき姿が見える。炎の中に置き去りにされている。火炙りにされているのだ。火炙りにされたその人物は皮膚が焼け爛れ、ついには黒く焦げてしまっている。その人物がとうに死んでしまっていることは明らかだった。彼は炎の中にいて抵抗もなく、反応もなかった。悲憤の悲鳴も、憤怒の雄叫びもきこえない。

 そしてこんな通りの真ん中で、このような事態が起きているにもかかわらず、通りにいる人々は誰も行動を起こさなかった。人が焼け死んだというのに、誰も火を消そうとしない。

「…ひどい。なんて悪趣味なんだ…」

 思わず部下がそう口にした。

 リャンはずっとその燃え立つドラム缶を見つめていた。見せしめのための殺人、処刑のようにしか思えなかった。人々が駆け寄って火を消さないのは、それが理由かもしれなかった。処刑を行った人間が、通りを見張っているのかもしれない。

 車はやがてスースロフのビルの前まできた。

 リャンと部下二人は車から降りた。

 建物の中に入る。スースロフの部下たちの殺気立った視線が、リャンたちに容赦なく注がれた。

 リャンは平然とした表情を崩さなかった。スースロフに取次ぎを願った。

 武器となり得るものすべてをスースロフの部下たちに預けると、リャンはスースロフがいる部屋に通された。スースロフは椅子に座り、手を組んで俯いていた。歓迎されていないことはわかり切っていた。だからリャンと部下たちは無表情を貫き通した。

「座れ」

 威圧的な口調で、スースロフはいった。

 リャンたちは用意された席に座った。スースロフと向かいあう。

 リャンは黙っていた。あえてなにも話しかけなかった。敵の出方を窺った。敵対的な表情を浮かべるわけでもなく、かといって怯えや恐怖、哀悼や同情を顔に出すこともしなかった。冷静で、抑制された表情のまま、スースロフと向かいあった。

 空気が凍る。時間が凍る。狂ってしまいそうなほどの重苦しい沈黙。

「…息子が殺された」

 スースロフが口を開いた。

「息子を殺された気持ちがわかるか?」

 怒りに満ちた声で、スースロフはいう。

 リャンはそこで表情を変えた。慎重に言葉を選びながら、表情には哀悼の思いを滲ませた。

「…ご子息の件、心からお悔やみを申し上げます」

 リャンはいった。

「私は望みをいおう。私の息子を殺した者をここへ連れてくるんだ。そちらの手の者なのだろう?」

 スースロフはいう。

「その者に関してですが、彼はいま重要な仕事の最中でしてね。一刻を争うのです。残念ながら、彼をここへ連れてくるわけにはいきません」

 リャンはそう答えた。

 スースロフは机の上のグラスを払い飛ばした。吹き飛んだグラスが壁に当たり、四散する。

「そちらの事情など知ったことか。ここへ連れてこい。そうすれば、お前が望むように、我々も矛を収めよう」

「そういうわけにはいかないのです」

 リャンは冷静だった。

「そちらが戦争を希望するのなら、そうしようではないか。華龍盟がどれほど巨大な組織だとしても、我々は最後の一人になるとて命尽きるまで復讐を行う」

 スースロフが激昂して叫んだ。

 リャンは理性をなくしたスースロフの言葉に思わず侮蔑の笑いを浮かべたくもなったが、その思いを噛み殺し、落ち着いた表情を崩さなかった。

「戦争を始めるのは簡単にできます。ただ、戦争で誰が得をするというんです? 部下たちは死んでいく、金は失う、時間も労力も当然失う。我々はやくざ者だ。だが、やくざ者にも経済がある。守るべき命がある。戦争はそれらを吹き飛ばしてしまう」

「経済や人命よりも重視される概念もある。それがなにかわかるか?」

「わかりませんね」

 リャンは首を振った。

「名誉だ。私は息子を殺され、そしてなんの行動も起こさなければ、名誉を失う。無能な親だと誹りを受ける。名誉のためだけに行う戦争もあるのだよ、わかるか?」

「名誉にもさまざまな種類があります。私心を抑え、よく国を治める。私の故国には、そうして名誉を得た古人が多くいます。怒りや憎しみに突き動かされ、自らの身を滅ぼしてしまう。果たしてそれが賢明といえるでしょうか?」

「減らず口を叩くな。貴様には、子を亡くした親の心情がわかるまい」

 スースロフが机を叩いて叫ぶ。

 リャンは動じなかった。

「私も人だ。親しい者が死ねば、心は痛む。たとえやくざ者であってもだ。しかし、それだけで戦争を決意はしない。安易な報復にも出ない。経済と利害、我々犯罪の世界に生きる者はそれが最優先のはずだ」

「経済と利害を優先するだと? いつから貴様はかつてのこの国の人間のような浅ましい存在になり下がったのだ?」

「我々は犯罪と暴力によって生きている存在だ。陽の当たらない無間地獄のような世界で、今日明日までの命と思い定めながら惨めに生きていく。それが我々だ。名誉名声を気にかけることは、堅気の人間にのみ許されたことだ」

「私が望むのは復讐だ。息子を殺した者に、息子の死の償いをさせねばならん。それを求めることが、おかしなことだろうか? そんなわけがあるまい」

 スースロフは鋭く残忍な目でリャンを睨みつけた。

「改めて伝えよう。息子を殺した者をここへ連れてくるがいい。私はその者に息子の死の償いをさせる。他にはなにも望まない。部下を率いて、華龍盟に戦争を仕かけることもしない」

「そちらの要求はわかりました。ただ、私も部下から報告を受けておりましてね。きけば、ご子息側から理由もなく襲撃をかけられたとのことです。とっさの反撃で、ご子息の命を奪ってしまった、と。仮にそれが事実だとするなら、私の部下は正当防衛であり、責めを負う必要はないと思いますが」

 リャンはあえて事務的な口調でいう。スースロフの息子の所業について非難するようにいえば、火に油を注ぐだけだ。

「それこそ堅気の世界での話だ。我々には通用しない」

「仰る通りです。しかし、それで部下をすんなりとそちらに引き渡したようでは、それこそあなたがいうように我々の名誉にかかわる。非のない部下を売り飛ばしたと誹りを受けるでしょう」

「経済と利害を優先するのだろう? 戦争を避けるには、部下を売り渡す。それだけでいいのだ」

「こちらに完全に非があればそうでしょうね。だが、今回はそうではない。それはそちらもよく理解しておられるでしょう。部下の話では、ご子息に同行して現場を目撃していたそちらの構成員がいらっしゃるとか。彼から事情を説明されませんでしたか? その事情をきいていれば、他人に責任を追及できる立場ではないとすぐに理解できると思いますが」

「なんだと」

「その構成員から事情の説明はありましたか?」

 憤慨するスースロフに、リャンは冷ややかに問いかけた。

 するとスースロフは鼻で笑った。目の色が冷たくなり、より一層残忍な目になった。リャンが初めて目にしたスースロフの笑いは、スースロフの凶暴さと狡猾さを象徴しているようでもあった。

「ああ、確かに息子につけていた護衛が、のこのことそいつだけ生きて帰ってきたな。だが、そいつは息子を見殺しにした無能だ。詳しく事情をきく前に殺した」

「殺しただと?」

 リャンは思わず殺気立った声で、きき返した。

「そうだ、惨く殺してやった。ここへくる前に、通りで火炙りにされた死体を見なかったか? そいつだ。生きたまま火をつけて殺してやったよ」

 スースロフが得意げにいう。

 通りで燃え立っていたドラム缶。その中に放り込まれ、黒く焼け焦げた人間の姿がリャンの脳裏に浮かんだ。

 リャンの脈は速くなり、こめかみの血管は浮き立った。

「正当防衛かどうか、帰責性があるかどうか、そんなものは堅気の人間が気にすればいい。息子が死んだ。私はその落とし前をつけたいだけだ」

「こちらには非がない。それをいま確信した」

「だったらどうするのだ?」

「そちらの要求をすんなり呑むわけにはいかない」

「それで?」

「復讐に走りたければ、そうするがいい。戦争となれば、こちらも全力であんたの首を狙いにいく」

 哄笑が起きる。残忍な目が光る。憎しみと怒りの視線が激突する。

 交渉は決裂した。


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