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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
48/87

46 Emma, Tommy - Resscued by Grossman

 血が止まらなかった。

 エマはロシア語で咆哮した。トミイに対するありとあらゆる罵詈雑言を吐き散らし、トミイに対する怒りを極限まで高めることで、痛みを頭から追い出そうとした。

 部屋の床には死体が三つ転がっていて、夥しい量の血が流れていた。部屋の壁と天井には銃撃で吹き飛んだ血と脳味噌がこびりついていて、強烈な臭気が部屋にこもっていた。

「あの男を追え、急げ」

 地獄のような部屋の中で、ロシア語で男が仲間に指示を出す。男の仲間二人がトミイを追って部屋から駆け出していく。指示を出した男はエマの前に立つと、もう一人残っていた仲間と一緒にエマの手当を始めた。布をエマの鼻の下に押し当て、それで止血しようとした。

 布が鼻に強く触れた瞬間、エマは痛みのために絶叫した。鼻骨に異常がないか心配になった。

「なにか冷やすものはないか? 氷かなにかだ」

 男は隣にいる仲間に尋ねた。

「探してきます」

 そういって、男の仲間はその場から離れていく。

 頭が割れるような痛みだった。トミイに顔面を三回か四回ほど全力で殴られた。出血に加えて、もうすでに顔が腫れていると自覚があった。殴られた部位がじんじんと熱い。

 エマはトミイのにやついた顔を思い浮かべて、トミイへの憎しみを増幅させた。がっちりとした体格で髪の長いトミイの容姿をくっきりと記憶に焼きつけ、報復を誓った。

 屈辱感と敗北感がエマの腹の底から込み上げてくる。エマは不意打ちをかけたのにもかかわらず、あの男にそれを躱され、ついには床に倒され、敗北を喫した。ロシア人たちの介入がなければ、自分はトミイに頭を撃ち抜かれて、床に転がる死体の仲間入りを果たしたことだろう。

 なんという失態、なんという屈辱か。性差、体格差はあるにせよ、勝負に負けた。それが猛烈に悔しかった。

 殺してやる。

 憎しみを込めて、エマは叫んだ。叫びは押し当てられた布のために、ひどくくぐもってきこえた。

「静かにしろ、これでは手当てにならん」

 男はエマを窘めた。男は中背で頭を丸刈りにしていた。ぱっちりとした二重瞼で、目は役者のように大きかったが、眉間に常時皺が寄っていて、丸刈りの髪形もあわさって厳めしい印象があった。ただ身なりは清潔で、顔の髭も綺麗に剃ってあった。男からは厳めしさだけでなく、几帳面さも感じられた。

 先ほど部屋を出た仲間が戻ってきて、水で濡れたタオルと、氷を詰めた袋を持ってきた。冷たいタオルがエマの鼻に押し当てられた。殴打で腫れた場所にも、氷を詰めた袋が押し当てられた。

「少しは楽になったか?」

 男がエマに尋ねる。

 患部が冷やされることで、痛みは若干和らいだ。エマは男に軽く頷いてみせた。

「あんたは?」

 今度はエマが尋ねた。

「俺はグロスマン。エヴゲニー・グロスマンだ」

「スースロフの部下か?」

 エマがきくと、グロスマンは頷いた。

「一体全体どうなっている?」

「ボスの息子が見つかった。殺されていた。犯人はあの長髪の男らしい。あんたがボスのところを出たあとでそれがわかった」

「それはお気の毒にな」

 エマは口ではそういうが、内心はまったくそう思っていなかった。

「ボスは怒り狂ってる。犯人を殺害する命令を出した。それで俺たちはまずあんたを追ってきたんだ」

「なぜ私を?」

「奴はあんたを尾行してた。あんたを追っていれば、奴も姿を現すと思った」

「大変な目に遭った」

「ああ、こっちも仲間が三人殺された」

 グロスマンは倒れている三人の死体を見やる。

「助かった。礼をいう」

「それで、あの男は何者だ?」

「トミイと名乗っていた。あんたもわかるように、熟達した銃の使い手だ。軍か警察か、あれはどこかでちゃんとした訓練を受けていたに違いない。それと、奴も小娘を追っている」

「どこの手の者だ?」

「わからん。だが、手がかりは揃っている。トミイという名前と、容姿、特徴をあたれば、素性はすぐわかるだろう」

「すぐ仲間に調べさせる。ところであんたの名は?」

「エマ」

 グロスマンは首を傾げる。

「エマ? 英語圏の名前だな。それなのに、ロシア語が使いこなしているとはな」

「片方の親はロシア出身だが、名前は故国に拘らなかった。どこでも通用する名前にしたかったようだ。国や故郷に拘るなんて、いまや時代遅れだ」

 エマはいった。

「そういう考えもあるだろうな。確かに、俺にも国はない」

「あんたの出身は?」

「生まれはキエフらしい。だがその後すぐにモスクワへ流れた」

「ウクライナの人間が、ロシアのギャングのもとで働くのか?」

「あんたがいうように、国や故郷に拘るなんてのは、時代遅れなのさ。それにスースロフは、ああ見えていい男なんだ。仁義や恩義を重んじ、他人には施しを行う。モスクワの貧民窟で路頭に迷っていた俺は、あの男に拾われた」

「スースロフが本当に立派な人間なら、ギャングになどならないと思うがな」

「それも時代の影響だ。ボスは生まれた時代も場所も悪かった。ボスのような生粋の自由民主主義者は、もうあの国では活躍できなくなった。だから、地下へ潜ったんだ」

 グロスマンはいった。

「さあ、雑談は終わりだ。この場から離れよう。銃撃戦のせいで、周囲は大騒ぎになっている。官憲も駆けつけてくる」

 グロスマンとその仲間が二人がかりでエマの腋の下に腕を通して、エマを持ち上げた。

「仲間の死体はどうする?」

「なんとかしてやりたいが、時間がない。お前には、そのトミイという男を追うのに協力してもらう」

 グロスマンはいった。

 グロスマンたちの肩を借りて、部屋を出た。廊下には銃撃をききつけて何人もの住民が顔を出している。

 彼らに向かってエマは叫んだ。

「部屋に引っ込んでろ」

 およそ女とは思えない悪鬼のような表情と凄みのある声でエマが叫ぶと、住民たちは怖気づいて、沈黙したまま部屋に戻っていく。

 公営住宅を出る。空からものが降ってくる。金具や陶器、ごみ、といったもの。公営住宅の住民たちがエマたちに向かって投げつけているのだ。住民たちはエマたちが起こした銃撃戦に激怒している。

「銃を貸してくれ」

 エマはグロスマンに頼んだ。グロスマンが拳銃をエマに手渡す。

 エマはものを投げつけてくる住民たちに、銃を乱射した。銃弾が建物の壁にめり込む。住民が手にしていた陶器に直撃する。悲鳴が上がる。住民たちが部屋に逃げ込む。

 悲鳴のあとは、不気味なほどの沈黙。

 グロスマンたちのバンまで運び込まれた。バンのすぐ脇には、顔がなくなったグロスマンの仲間と思しき死体が一つ転がっていた。後部座席に横たえられたエマは、タオルと氷を患部に押し当てながら、車の天井をじっと見つめた。

「殺してやる」

 エマはトミイへの殺意を剥き出しにして、呟く。

 バンに乗るグロスマンやその仲間たちにもエマの思いが伝染したのか、彼らの顔にもトミイへの怒りと憎しみ、殺意が漲っているのがわかった。

 憎しみはすべてを凌駕する。

 昔の人はいいことをいった。なにかに対する憎しみさえあれば、苦痛も屈辱も忘れることができる。


 トミイは車を第三地区のある方向、東北方向へと走らせた。何度か後方に注意をしたが、敵が追跡している気配はなかった。どうやら敵はトミイを見失ったらしい。

 速度をさらに上げて、車を飛ばした。第三地区に近づくにつれて、街並みはどんどん荒廃していく。政府とAGWが衝突しあう戦場へと近づいているのだ。建築途中で廃棄された多数の建築現場が目に飛び込んでくる。剥き出しの鉄骨、崩壊した連結通路、朽ち果てた鋼のクレーン。とある超高層建築に掲げられた看板は、砲弾が直撃したことで、看板に描かれた女優の首から上がなくなっている。維持管理、修繕という概念をことごとく無視したがために、外壁が色褪せてしまい、蔦が這った建築物が視界の両脇に見えた。

 その景色はもはや鬼城、つまりはゴーストタウンの一歩手前といえた。だが、そんな景色の中で、生活をしている者がいる。人々はそこに生きている。煙草を吹かし、露店を営む中年の男たち。薄汚れた通りを駆け抜ける子どもたち。女たちはくすんだ空を見上げて、きっと干しっぱなしの洗濯物の心配をしているに違いない。すべてが煤けて見える都市の中でも、人は逞しく生きていける。生活が終わることはないのだ。

 脇腹の痛みが徐々にひどくなっていく。脇腹に触れると、服が血でぐっしょりと濡れているのがわかった。出血の量にトミイはぞっとする。

 第三地区が遠くに見えていた。だが、そこに向かう前に手当をする必要があった。トミイはハンドルを切り、西へ向かう。第三地区が遠ざかり、狂おしい思いが募った。まるで恋人から遠ざかるようだった。

 トミイは華龍盟の関係者の事務所に飛び込んだ。リャンの名前を出して、事務所の奥に入れてもらった。そこでトミイは服を脱いで、脇腹の傷口にアルコールをぶっかけた。血を拭い、包帯を巻きつけて止血する。あの女のせいで三箇所も刺創ができていた。次に左手にも包帯を巻きつけて止血した。

 華龍盟の関係者の目も気にせず、硬過ぎるソファに横たわる。リャンに連絡を入れる。

「誰だ?」

 相変わらずの冷たい声。

「俺だよ」

 トミイはいう。

「どうした? なにか進展があったか?」

「厄介なことになった。ロシア人に狙われている」

「…事情を説明してもらおうか」

「今朝、高架道路上でロシア人から襲撃を受け、反撃して一人を射殺した。それで恨みを買ったようだ」

「それで?」

「ロシア人たちを抑え込んでほしい。どこの手の者かもわからんが、情報は街に流れているはずだ」

「お前が勝手に暴走して起きたことじゃないのか?」

 リャンが厭わしそうな声でいう。

「正当防衛だ。だから一人は生かしておいたんだ。だが、それでも報復に出てきた」

「厄介ごとを起こしてもらうために、仕事を頼んだわけではない」

「わかっている。小娘の手がかりは掴んだ」

「どういうことだ?」

「小娘の目的地がわかったってことさ」

「どこだ?」

 リャンの声色が変わる。

「第三地区だ。人手が必要だ」

「わかった。部下を向かわせる」

「一時間後に、第三地区の蘭芳苑に集まろう。あんたらが経営する店だ。そこだと都合がいいだろう?」

「わかった」

「詳細はそこで説明する。派手な騒ぎになるかもしれん」

「たかが小娘一人に、騒ぎだと?」

「意外な奴が絡んできた。誰だと思う?」

 トミイはリャンに問いかけた。

 リャンは答えられなかった。

「ゴトーだよ。小娘はあいつを頼ろうとしている」

「小娘はなぜゴトーを知っているんだ?」

「正確には小娘と一緒にいる小僧が、知恵を吹き込んでいる。話せば長くなる。詳細はまたあとで伝える」

「わかった。それで、ゴトーの拠点に踏み込む気でいるのか?」

「そのつもりだ。今度はフェイのような半端者は送るなよ。まともな奴を送ってくれ」

「…忠告をどうも。それについては承知した」

「それから、ロシア人の件も頼んだ。ゴトーとやりあうときにまであの連中が追いかけてくるとさすがに手に負えん」

「わかった。手は打っておこう」

 リャンはいった。そして通話を終える。

 トミイは瞼を閉じた。十分休息する。すべてを頭から締め出す。十分の眠りでは悪夢を見ることがない。悪夢は長い時間を必要とするからだ。

 十分が経過する。トミイは目を開けた。事務所の人間に礼をいい、出発する。傷が痛んだ。手の包帯に血が滲んでいた。

 トミイは車を走らせた。

 休んでいる暇はなかった。トミイは小娘と小僧がまだゴトーと合流していないことを願った。小娘たちがゴトーと合流してしまえば、また事態は厄介なことになる。ゴトーの手配によって小娘たちは消息を完全に絶ってしまうだろう。そうすれば、トミイは小娘たちに手が出せなくなる。リャンから依頼された仕事は失敗に終わってしまう。

 トミイは第三地区でゴトーが拠点としている場所を知っていた。あの男は臨海部に拠点を置いていた。とにかくそこへ急ぐしかない。襲撃をかけるのだ。小娘たちがすでに到着していれば、その場で捕まえる。まだ到着していなければ、そこで小娘たちを待ち構えるのだ。

 傷が痛む。体力は確実に削がれている。だが、まだ体を動かすことはできる。

 しっかりとした休息を取るのは、小娘たちを捕らえてからでいい。それまではこの体を酷使してでも、与えられた仕事を完遂するのだ。

 

 第三地区に近づいてきた。

 川の向こう側。そこが第三地区だった。だが、川の両岸には高い壁が築かれている。高密度の鉄筋コンクリート造の壁が、何十キロにも渡って第三地区を包囲している。監視塔が規則的に配置され、政府の兵士たちが警戒に当たっている。

 壁で都市を封鎖する。そんな二十世紀の古典的な手法は、世紀を二つ跨いだいまでもまだ生き残っているのだ。第三地区だけではない、この都市全体も、放射能による汚染と人々の汚染地域への侵入を防ぐため、壁を周囲に築いていた。

 監視塔に配置された銃を構えた兵士を見上げ、アリスは顔を強張らせた。

 ネイトはアリスの表情の変化をすぐに見て取った。

「大丈夫だ。怖がる必要はない」

 ネイトはいった。

「監視が相当に厳しいようだけど」

 アリスはいう。

 第三地区を包囲する壁が途切れる場所には、第三地区へ渡るための橋と検問があった。そこが第三地区へ渡る正規の経路であるため、当然に警戒は厳しい。監視塔の兵士と同じく、検問の兵士たちも銃を携行している。彼らはすべての通行者の身分を確認している。

「正規の経路を使うわけがない。兵士たちに撃ち殺されるだけだ」

「ならどうやって第三地区へ向かうの?」

「トンネルを使う」

 ネイトはいった。

「トンネル?」

「運び屋たちが勝手に作ってしまった侵入経路だ」

 ネイトはアリスを閉鎖された地下鉄の駅へ案内した。都市の超高層化に伴い、超高層建築を繋ぐ高架鉄道が発達したこの時代においては、地下鉄は対照的に衰退という名の線路を走ることになった。いまではほぼすべての地下鉄の路線が閉鎖されるという状況にあった。実はそれには内戦も影響していて、都市全域に張り巡らされた地下鉄の網を軍事利用されることを恐れた政府、AGWの双方が、ほとんどの地下鉄の線路を瓦礫で塞いでしまい、物理的に閉鎖したのである。地下鉄線路はこのようにして閉鎖され、利用されなくなった駅は廃墟として都市の地下に取り残されることになった。

 暗く荒涼とした駅構内は、足音がやけに響く。水漏れによって水滴が床に落ちる音さえ、はっきりときこえる。空気は地上以上に淀んでいて、嫌な臭いさえする。

 暗闇の中を、ネイトはアリスの手を引いて歩いていく。

 時折闇の中に光の筋が走ることがある。自分たち以外の靴音もきこえてくる。おそらくは政府の兵士たちが警備をしているのだ。

 ネイトは警備に当たる兵士たちに臆することなく、暗闇を利用しながら先へ進んだ。兵士たちが手に持つ懐中電灯をよく確認した。懐中電灯が放つ光で、彼らとの距離感や彼らがどこに目を向けているのかを把握した上で、行動した。

 まさに廃墟となってしまった空間。電気も通っておらず、自然光が入り込む余地もない。完全な暗闇が広がっていた。

 線路には夥しい瓦礫が積まれ、塞がれており、人一人の通行さえできなかった。地下鉄の網を利用しての進軍や奇襲、特にテロ活動を恐れた政府とAGWは、互いに競うようにして駅の区間という区間を瓦礫で塞いだ。

 だが、地下鉄網が死に絶えたわけではない。かつて都市全域に緻密に張り巡らされた交通網を、犯罪活動に利用しようと下層部の人間たちが目をつけたのだ。

 ネイトは線路脇の重たい扉を音が立たないように慎重に開いて、中へ入った。扉をゆっくりと閉じる。

「ねえ、さっきのトンネルって、どういうことなの?」

 闇の中、アリスが耳元で囁く。

「さっきいったろ? 運び屋たちが勝手に作った経路だって」

 ネイトはアリスの手を引き、先へ進む。闇に目が慣れていないアリスには、なにも見えない。一体自分はどこを歩いているのかさえわからない。だが、ネイトには見えている。ここは保守点検用に設けられた通路だった。通路幅は狭く、二人横に並んでは歩けない。ある地点まで歩くと、ネイトは立ち止まり、壁に手をついてしゃがみ込んだ。

 壁には小柄な人がようやく通り抜けできる程度の穴が開いている。ネイトはその穴の中に入っていく。アリスはネイトのあとに続いた。四つん這いになりながら、しばらく進んでいく。穴を潜り抜けると、地下鉄の別の線路に辿り着く。この線路も瓦礫だらけだが、完全には塞がり切っていなかった。辛うじて人の通行ができる程度の空間が残さていた。

 ネイトはいう。

「トンネルってのは、塞がれたはずの線路や連絡通路に運び屋たちが勝手に作ってしまった抜け道のことだ。この線路の瓦礫も、運び屋たちが一部取り除いたんだ。そうやって秘密の経路を作って、人や物資をこっそりと運び込んでる」

「なら、この線路を先に進めば、第三地区へ出られるの?」

「そういうことだ。俺や俺の仲間も使っていた。ついてこい」

 ネイトは瓦礫をかきわけ、歩いていく。片手にはアリスの手を掴んでいた。瓦礫の山の中に、確かに通路が作られていた。瓦礫で完全に塞がった場所には、小さな穴が開けられていた。通路を歩き、穴を潜り抜ける。闇の中でそうした動作を何回も繰り返すうちに、やがてネイトたちは地下鉄の駅まで辿り着いていた。

 警備を担当する兵士たちの懐中電灯の光が見える。彼らをやり過ごしながら、ネイトたちは地上に出た。

 光が眩しい。西日が差している。

 光の中で、ネイトたちは互いの姿を見やった。小さく狭い穴を這って進んだせいか、二人とも埃塗れになっていた。

「ひどい身なりね」

「周囲の目を欺くにはちょうどいい」

 ネイトはいった。

「ここが第三地区…」

 アリスは呟いた。

 白い壁に包囲された街。廃墟で埋め尽くされた街でもある。あちこちで煤煙が立ち上り、西日の中で塵芥が宙に舞っている。対岸もそれなりに荒廃していたが、第三地区はさらに荒廃が進んでいる。外壁が剥がれ落ち、構造さえも剥き出しになった、いつ倒壊しても不思議ではない建築物が列をなしている。道路のアスファルト舗装は、繰り返される戦闘によってその多くが砕け、無残な罅割れが入っている。道路脇には瓦礫が積み上げられ、天然のバリケードを形成している。いまアリスとネイトが立っているこの区画でさえ、ひりひりとするような喧騒を肌で感じることができた。どこかからきこえる猥雑な声、瓦礫、焼け爛れた壁に描かれた醜悪なグラフティ、それが組みあわさって形成される風景は、まさに混沌としかいいようがない。あまりの荒廃ぶりにアリスは眩暈がした。

 ネイトにとっても、見慣れた景色ではあったが、眺めていて気持ちがいいものでは当然なかった。

「これこそが下層部だな」

 ネイトは強がってそういう。

「強がりはいわなくていいわ」

 アリスはそう返事する。

「どうして?」

「あなたの顔も私と同じように引き攣っていたから」

 アリスはいった。

 ネイトはにやりと笑った。よく人を観察していると感心する。

 ゴトーの拠点は、第三地区の臨海部だった。ここからだと方角でいえば、南東に歩いていく必要があった。

 日が暮れるまでに、拠点に辿り着けるだろうか。歩き始めたネイトはそんなことを考えた。


【注釈】


「ウクライナの人間が…」: ウクライナとロシアは歴史的にも文化的にも密接なかかわりを有する一方で、外交的には鋭い緊張関係が続いている。ドネツィクなどの東部地域では親ロシア派の住民が多いとされるが、キエフを含むウクライナ中部から西部地域では、反ロシア感情が強いとされる。

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