44 Suslov - Son
赤毛の女が立ち去ってから一時間。
下層部の荒廃した通りを疾走する車があった。車はスースロフの所有する高層建築の前で停車した。顔面を蒼白にした男たちが車から死体と怪我人を運び出す。そしてちょうどその時間、少し早めの昼食を取ろうとしたスースロフに緊急の呼び出しを行う。
死体と怪我人が建物の内部に運び込まれた。
スースロフは運び込まれた死体を見るなり、悲鳴を上げた。そして頭を抱え、絶叫しながら、室内を歩き回るのだった。スースロフは生来彼の気質であった冷静さを失う代わりに、冷酷さを増幅させていった。怒りと悲しみに荒んだスースロフを見て、彼の部下たちは誰も彼に声をかけることができなかった。いま彼にたった一言でも声をかけようとしたならば、あるいは彼に指一本でも触れようとしたならば、その者は狂犬の餌にさせられるか、もしくは目玉をくり抜かれる運命を辿ったであろう。スースロフは悲嘆に暮れて叫び声を上げ続けたが、それによって彼は顔を紅潮させたりはしなかった。むしろ表情や動作は時間が進むにつれ、粛然としていった。その粛然の中に、スースロフは彼自身の途轍もない怒りや悲しみや狂気を潜ませたのである。やがてスースロフは部下が用意した椅子に頭を抱えて座り込むと、悲鳴を上げることも止めて、じっと黙り込んだ。十分以上もスースロフはそうしていた。椅子から立ち上がったとき、スースロフはいつもの冷静さを取り戻していた。それでいてスースロフは怒りを減退させたわけではなかった。たった一つの心の中に冷静さと怒りを共生させ、ときにはそれらを融合させ、調和させることができる稀有な人物、優秀な人物ほどそれができるというが、スースロフもその一人であった。
近くにいた部下に、スースロフは重々しい声でいう。
「誰が息子を殺した? 運び込まれた怪我人をここへ連れてこい」
死体。顔には激しい殴打の痕跡があり、下腹部は銃弾で撃ち抜かれて夥しく出血した、若い男の死体。それはスースロフの息子、ニコライであった。不孝な息子。周囲のあらゆる人間に父親が持つ権威を振り翳し、父親の名誉を穢した。犯罪の才能がまるでないのにも関わらず、二十歳を過ぎても都市を徘徊し、一獲千金の犯罪稼業を夢見た愚か者。だが、そんな救いようのない男ではあっても、スースロフにとってはただ一人の息子だった。かけがえのない家族であったのだ。ニコライは母親の愛を知らぬ哀れな子だった。ニコライの母、つまりスースロフの妻は、ニコライがまだ幼いころにスースロフと別れることを決意し、長女と一緒に故国へ戻った。自身の稼業の後継者が必要だったスースロフは頑として息子を手放さなかった。母親の愛、躾、教育を与えられなかった息子は成長するにつれ手がつけられなくなり、結局は父親の稼業を継ぐこともなく、また何事かをなすこともできないまま、無残に死んでしまった。
「怪我人も重傷です。すぐに手当てが…」
部下がくどくどとその続きをいおうとする。続きをきく必要はなかった。スースロフは怒りで大きく目を見開かせつつ、静かに部下に命ずる。
「ここへ呼べ」
かつてないほどに冷酷な顔をしたスースロフに、部下は言葉を失った。部下が驚くほどの素早さで、怪我人をスースロフの前に叩き出す。
鼻が潰れ、顔を痣だらけにした男が、スースロフの前に連れてこられる。息子の護衛につくよう命じていた男だった。男は部下たちによってその場に跪かされた。その体勢でさえ男は苦しそうだった。
スースロフは男の状態などまるで意に介さず、尋問を始めた。
「なにがあったかいえ」
「…申し訳ございません」
スースロフは男の髪を掴み、その頬を叩いた。
「私は謝罪をききたいのではない。なにがあったときいている」
「…車の強盗を行おうとして、反撃に遭いました。ご子息は、そのときに銃で撃たれました」
「お前はなぜ生き残ったのだ?」
「…なぜか生かされました。ただ、銃を撃った男も、とっさの反撃で銃を撃ったのです。私とご子息は、その男が車を所持しているという理由だけで襲いかかっていましたので…」
スースロフは思わず手で目を覆った。なんと愚かな息子なのか。
「息子の顔の傷は? お前の顔の傷もそうだが、その男にやられたのか?」
それなりに秀麗だった息子の顔はいま、ひどく傷がついている。男の顔も同じだ。
「この顔の傷は別の者にやられました。例の令嬢です。令嬢と一緒にいた男にやられました」
「息子は小娘を見つけたと騒いでいたそうだな。そしてお前は息子に呼び出された。そこでなにがあったのだ?」
「令嬢と、令嬢と一緒にいた男を尾行しました。一度は見失ったのですが、再び彼らを見つけて、襲いました。ですが…」
「それも反撃に遭ったというのか? なんと無様なことだ」
スースロフは軽蔑するようにいった。
男はなにかをいい返すことこそしなかったが、反論をしたくてたまらないという顔をしていた。
「いいたいことがあればいえ。それを許可しよう」
スースロフは男の顔を見て、そういった。
護衛役の男は口を開く。
「私はご子息に危険だといって反対をしたのです。ところが彼はそれをきき入れなかった」
「それで?」
「…それで、この様です。この顔を見てください。散々に痛めつけられ、挙句にご子息は命を落としました」
泣き言を男はいう。それをきいてスースロフは男の顔に蹴りを入れた。男の鼻から血が迸る。靴の裏が血で汚れた。部下たちが必死に男を押さえる。
「貴様はなんのための護衛役なのだ、愚か者め」
スースロフはいった。その目は汚物を見るかのような忌まわしそうな目であった。
「それで、お前たちは息子の顔に傷をつけた者、そして息子を殺した者の顔を覚えているのか?」
男に問いかける。暴行によって男の意識は朦朧としているのだろう。男は口を開くが、言葉が出てこない。浅く苦しそうな呼吸をすることしかできなかった。
スースロフは男を押さえつける部下たちに指図する。部下の一人が注射器を持ってきて、男の静脈にモルヒネを流し込んだ。
モルヒネの効果が表れるのを待ってから、スースロフは質問を再開する。
「顔を覚えているか?」
痛みが消え去り、陶然とした顔になった男の髪を掴んで揺さぶる。男の目は夢遊病者のそれのようになっている。
それでも男は首を縦に振った。
「そいつはどういう奴だった?」
髪を掴む。揺さぶる。男に自分と目をあわすよう強制する。スースロフの目の奥に潜む計測しようがない怒りと憎しみを男に伝えようとする。子どもを奪われた父親の心に吹き荒ぶ嵐がどのようなものか知っているか。
「…ご子息を殺したのは、長髪の男でした」
男が呟く。声はひどく弱々しい。
「…車はシヴォレーの模造品のような、中国製の車」
男の呟きにスースロフの部下が反応する。スースロフに部下が耳打ちをする。
「該当する車が、先ほどまでこの建物の前に停まっていました」
「いまその車はどこに?」
「面会にきた赤髪の女が出ていったあと、車も姿を消しました」
「女を乗せて消えたのか?」
「いえ、そうではなさそうでした」
スースロフは思考を巡らせた。息子の行方を探る女と息子を殺した男の奇妙な接近。そこにはなにか思惑があり、意図があるはずだった。それは一体なんなのか。スースロフは雑念を追い払った。息子のことさえもこの瞬間は頭から締め出し、考え込んだ。女は息子を追い、男は女を追っている。つまりそれはなんのための行動か。
「女の行き先に向かえ。第八地区西部の公営住宅群だ」
スースロフは部下に命ずる。
「男も小娘を追っている可能性がある。あの赤髪の女を尾行して、小娘の手がかりを得ようとしているのか。我々はあの赤髪の女の行き先を知っている。もし女より先回りができれば、その男を捕えることができるかもしれん。可能な限り生きたまま捕まえろ」
スースロフはあの赤髪の女がここを立ち去ってからの時間を考える。すでに一時間半以上が経過していた。あの女は徒歩だったが、それでももう目的地に着いているかもしれない。
部下たちが急いで出動する。二台のバンで駆け出していく。
「この男はどうしますか?」
部下の一人が、護衛役だった男の処遇について尋ねる。モルヒネが回っているせいで、陶酔状態になっている。
「まだ殺すな。息子を傷つけ、殺した者をこいつに確認させる。それまでは生かしておけ」
用がすめば、惨く殺してやる。
スースロフはそう決意し、部下に命じて男を部屋から追い出した。
部屋に息子の遺骸と二人きりになる。スースロフは椅子に座り、頭を抱えた。しばらくして、現実に目を背けてはいけないと思い、息子の惨たらしい遺骸を見た。ひどく傷のついた顔、血で赤く染まった下腹部、すでに死後硬直が始まっている。愚か者のなれの果てというしかなかった。
「ニコライ…」
スースロフは呟いた。息子の名を口に出した瞬間、涙が止まらなくなった。
スースロフは、慟哭した。




