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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
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42 Alice, Nate - Memory and Trauma

 髪を染めることに、初めアリスは抵抗した。だが、染めた髪を鏡で見ると、それが意外にも似あっていたためか、アリスは悪くないと呟いた。

 ネイトは染料で汚れた手を水で洗い落としながら、髪を染めたアリスを鏡越しに見つめる。アリスの髪を黒髪から金髪に変えたのだ。安物の染料を使った粗っぽい仕上がりで、ところどころ髪色にむらがあったが、それでも金髪にしたほうが彼女にはあっていると思えた。黒髪は彼女の知性と陰を際立たせていたが、金髪は彼女の美しさを際立たせた。どうせ通りを歩くにしても顔を隠すのだ。それなら髪を染めたところで、たいした問題にもならない。アリスの手配書が出回るとしても、そこには黒髪のアリスが描かれているはずだ。ならば人の目を欺くのにもちょうどいい。

「案外悪くはないけれど、これで目立ったりはしない?」

「黒髪のままでいるよりはましさ」

 ネイトはいう。

「私、いままで髪を染めたことがなかったの」

「だろうな。染めるのを嫌がる様子を見ていて思った」

「なんだか変な感じね。自分の印象が違っているから」

「そのうち慣れる」

 アリスは染めた髪の一房を手に取り、鏡でじろじろと見つめていた。色むらができていることについては不満を零す。

「こういう色むらはなんとかならなかったの?」

「悪く思うな。こっちも美容師じゃないんだ」

「不良になった気分ね」

 アリスがぼそりというと、ネイトは鼻で笑う。

「髪を染めれば不良になるのか? なら俺もそうなるわけか」

「あなたも染めているの?」

「地毛が少し赤みがかっているんだ。だから黒く染めてる」

「もしかして、ご両親のどちらかは外国の方かしら?」

「さあな。親は早くに死んだから、よく覚えていないんだ。ただ母親は純粋なこの国生まれの人間だったと思う。俺と違って黒い髪をしてた。…父親については、まるで記憶がないな。生まれたときから父親はいなかったと思う」

「立ち入ったことをきくようだけど、あなたの親御さんはどうして亡くなられたの?」

 アリスにそう尋ねられて、ネイトは一瞬間を置かざるを得なかった。母親の死について話すべきなのかどうか迷ったのだ。

 一呼吸ついてから、ネイトは語り出した。

「…俺の母親は、俺がまだ三歳かそこらのころに、家に押し入ってきた暴漢に殺されたんだ。治安が崩壊した下層部では、強盗や殺人なんてのはよく起こる話だ。そのころは毎日のように戦闘やテロが起きていたともきく。内戦のどさくさに紛れて殺された人も多かったようだ。俺は母親が暴漢に銃で撃ち殺されたとき、その場にいたが、なぜか暴漢は俺を殺さなかった。不思議なもので、俺はとても幼かったのに、いまでもそのときの記憶を鮮明に覚えているんだ。夢もよく見る。母親が髪を掴まれて床に倒され、銃弾を撃ち込まれる姿だが」

 母親が狂ったようにネイトに語りかける姿と不条理の体現者であるかのような暴漢の姿が脳裏に過る。

「銃を握るとき、あなたの手が震えるのは、もしかして…」

「関係あるかもな。トラウマが原因で、体が無意識に拒否反応を起こしてるのかもしれない。下層部の医者がいってたよ。そういうのはストレス障害の一種だと。れっきとした病気なんだと」

「心的外傷後ストレス障害…」

 アリスが呟く。

「医学用語でいえば、そういうことなんだろうな」

「…ごめんなさい」

 アリスが神妙な面持ちでいった。

「なぜ謝るんだ?」

「あなたが銃をちゃんと握れないことを私は笑ったわ。でも、そういう状態にある人を、本当は笑ってはいけないと思うの」

「銃も握れない臆病者、半端者であることに変わりはない。笑われても当然だ」

「でも、病を患って仕方なくそうならざるを得ない人に対して、取るべき態度ではなかった」

「…俺はあんたの友人の死に関与したんだ。慈悲をかけてもらえるような立場じゃない。憎しみを忘れるな」

 アリスの畏まった態度に、アリスの友人の死に関わり、誘拐まで企てた立場のネイトは困惑するしかなかった。思わずぶっきらぼうな言葉を吐くことしかできなかった。

 アリスはネイトの言葉をきいても、首を振って、こういう。

「たとえそれでも、私の態度はよくなかった。ごめんなさい」

 またしてもアリスは謝罪する。

 ネイトは唇を噛んで、アリスを見た。いいたいことが上手くまとまらないのだ。誤る必要はない、と彼女に伝えても、きっと彼女はきき入れないだろう。では他にどういう言葉をかければ適切なのか、それがネイトにはわからない。

「…あんたは変に真面目過ぎる」

 独り言のようにネイトはいう。

 アリスはきき取れなかったのか、それともどう返事をすべきかわからなかったのか、無言でいた。

「…あんたの友人に、悪いことをした。いまさらどうにもならないが、申し訳なかった。それからあんたの親にも、申し訳ないと思う」

 小さく掠れた声で、そんな言葉が自然と口から零れていた。きっと謝罪するアリスに影響を受けてしまったのだろう。

 アリスはじっとネイトを見つめていた。

「あんたの親は、いまごろあんたを心配しているだろうな」

「…そうね。たぶん、心配で仕方がないと思う」

「きかせてくれ。なぜ俺なんかと一緒に? なぜ俺なんかに手を貸す? あんたは考えがあるといった。理由や目的があるんだろう。それは一体なんなんだ?」

 常人ならば、いますぐにでもネイトから逃げて政府に助けを求めるはずだ。それなのに彼女はいま誘拐犯の一人と行動をともにしている。一体どういう理由でそうしているのだ。

「…私、ずっと悩んできたことがあるの」

 アリスはいう。

「…悩み?」

 ネイトが尋ねると、アリスは頷く。

「ええ。私も、私がずっと幼かったころの記憶について悩みがあるの。それは親にも誰にもいえないことだった。ずっと一人で抱え込んできた」

 いつになく暗い声と、陰のある顔でアリスはいう。

「どういう記憶なんだ?」

「下層部のある場所で、私は女の人に抱かれていた。あやしてもらっていたんだと思う。けれど、すぐに悲鳴と銃声がきこえた。混乱の中で、私を抱いていた女の人も、いつしか消えてしまっていた。激しく揺さぶられたり、また誰かが私に覆い被さったりするのを私は感じた。恐怖と混乱で私は目を閉じていたんだと思う。やがて、どれだけ時間が過ぎたのかわからないけど、私は目を開けた。そしてそこには、目を潤ませる父がいた」

「あんたはテロか戦闘に巻き込まれたのか?」

「父は、十五年前に私が第三地区の孤児院で起きたテロに遭遇したのだと説明したわ。確かに過去の報道を調べてみると、そんなテロ事件があったと記録されている。だけど、父の説明と私の記憶は食い違っているの。私を抱いていた人は誰だというの? 私はどうしてその人に安らぎを覚えるのだろう? 父の説明の中に、その女の人は出てこないわ」

「どういうことなんだ、それは? あんたの父親が嘘をついている? それともあんたが間違った記憶をしている? 真実はどこに?」

「それを確かめたいの。第三地区の東部、その川沿いに建設された孤児院がある。そこにいって、私は私の記憶、そして父の説明の真偽を確かめたいの」

「…第三地区」

「ええ、私たちが向かおうとしている場所ね」

 アリスは、にやりと笑う。

 そんなアリスを見てネイトは少しぞくりとした。背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

「悪いがゴトーとの接触を優先する。あんたの自分探しの旅は、あとに回してもらう」

「わかってるわ。だけど、私はそこへ行きたいの」

「どうして、その記憶を確かめたいんだ? あんたは悩みだっていうが、それは重大な悩みなのか? たかが幼いころの記憶だろう」

「私には大事なのよ。幼いころの幸福な記憶が、いつかその人を支える。けれどその記憶が虚偽であるならば、私はどうなってしまうのだろう。そんな不安があるの」

「記憶なんざ、新しく蓄積することだってできる。なにも過去の、幼少期の記憶に囚われる必要はないと思うぜ」

「私が誰であるのか、どこからきたのか、どこへ向かうべきなのか、どこへ行くべきなのか。それを知るには、記憶を辿ること、根源的な、原初的な記憶を辿ることは意味があることなの」

「命の危険を冒しても、それをするべきだっていうのか?」

「ええ」

 アリスは決然としていう。

 ネイトは首を振る。アリスのいうことが、彼女の判断が、まともなものだと思えなかった。

「あんたは記憶に囚われ過ぎてる」

 苦々しい顔で、アリスに向かっていう。するとアリスは少し寂しそうな笑みを浮かべて、こう返事するのだった。

「わかってもらおうとは思わない。でも、私にとっては大事なの。…そうね、信仰か宗教のようなものと思ってくれて構わない。記憶はその人の自己同一性に極めて重要な役割を果たすわ。それがなければ、自分が誰なのかわからなくなる」

「記憶があろうがなかろうが、俺が俺であるように、あんたはあんただ。記憶なんてどうだっていい。それでいいじゃないか」

 ネイトがいうと、アリスはまた寂しそうに笑う。

「じゃああなたは、お母様の記憶を忘れられるというの? あなたの仲間たちとの記憶を忘れられるというの? 彼らとの思い出のためになにかをしたことはないというの?」

 アリスはいった。

 彼女の言葉に、ネイトは肺腑を衝かれたような気分になった。仲間の姿が浮かんだ。レナの姿が浮かんだ。ネイトがレナを助け出そうとする行動は、仲間との思い出、レナとの思い出があるからしていることではないのか。レナを見捨てるという行動もとれるはずなのにそうしないというのは、それは彼女を大切に思う記憶があるからではないのか。自分自身も記憶に囚われて行動しているではないか。だとするならば、どうしてアリスの行動を非難できるのか。

 そんな思いがふっと現れて、ネイトは口を噤みそうになる。だが、それでもなんとか言葉を紡ぐ。

「危険との比較衡量を考えろ。いいか、敵が俺たちを追っている。味方はいない。そんな中で、寄り道なんてしていられるか」

「ゴトーとの接触を優先でいいわ。そのあとで、私はそこへ向かう」

「なんにせよ危険だ」

「いまだって危険に変わりはないわ」

「危険をより増やす、もしくはより高めるようなことをしてほしくないんだ。わかるだろう」

「それでも私は行く」

「ふざけるな。なんだって、そんな記憶のために」

 アリスの強情な態度に、ネイトは声を荒らげた。だがアリスもそれに屈せずネイトにいい返す。

「いってるでしょ。私にはそれが重要なの。もしかすると、それが…」

 そこまでいって、アリスは言葉に詰まった。急に唇を噛んで、黙ってしまう。

「それが? それがなんだっていうんだ?」

 追い打ちをかけるように、ネイトは険しい顔をしてアリスを問い詰める。アリスも燃え立つ目をしてネイトを見つめていた。

「…自分の記憶が全部偽りかもしれない。それを証明してしまうかもしれない。内務大臣の娘という肩書も、これまで愛情を注いでくれた父や母のことも、学問や知性に向ける敬意や愛情も、すべてが偽りの記憶だったとしたら? …そういう恐怖をあなたは知らないのよ」

「馬鹿をいえ。それは偽りなんかでなく現実だ。証明なら俺がしてやる。俺から見て、それは紛れもない事実だ」

「ねえ知ってる? AGWとの内戦以前は、バイオニクスなどを活用した疑似記憶の形成や記憶の変造を行う技術が、当時の最新技術として持て囃されたってことを。その後副作用の発生で規制がかかったことや内戦の影響もあって、そうした技術は衰退したけれど、他人が人の記憶を好き勝手に形成したり、変造したりということができたのよ。もちろん、記憶を消すということも含めてね。個人の記憶を操作してまったくのでっち上げの記憶を植えつけるなんて、簡単なことだったのよ」

「それでお前は偽の記憶を植えつけられたというのか? いいか、そういうのは妄想っていうんだ。お前の勝手な思い込みなんだ」

「それが妄想かどうか、思い込みかどうか、私はそれを証明したいの。確かめてみたいの」

 アリスは切実な目をしていう。

「ねえ、それが変なことかしら? わからなくなったら、確認する。確かめてみる。当たり前のことをしようとしているだけよ」

 アリスはそう訴える。言動だけ見ればまっとうなものだった。まっとうであり、かつ彼女の頭のよさを反映していた。不明点があればすぐに確認をする、そういう癖は、本当に頭のいい人間にしかできないことなのだ。だが頭はよくても全体の状況を掴めてはいない。自分のやろうとしていることがどれほど危険か、それがまだ呑み込めてはいない。

 ネイトは努めてアリスから目を逸らした。どうせ彼女の目は燃え立っているに違いない。彼女の熱が宿った目を見れば、人はそれに動かされてしまう。

「…とにかくゴトーに会おう。それが先だ。この話はそのあとだ」


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