41 Emma - Meet Suslov
男性的で権威的なデザイン。少なくともエマの好みではない。
複数棟で構成される高層建築。中央には尖塔が乗っかった高層棟があり、その左右には高さが均一の低層棟。各棟の上部に照明で光を走らせている。そうすることで中央の棟が天に突き出るのを強調した外観になっている。
ロシア人街のど真ん中。ここへ辿り着くまでの通りで何人ものロシア人を見た。彼らは猜疑心の強そうな目を光らせていた。狭い共同体を作り上げた人間が往々にして外部の人間に向けがちな態度だった。
目的の建物の入口で、エマはスースロフに面会をしたいと警備の者に申し出た。すると驚くほどあっさりとスースロフは面会に応じたのだった。所持品を検められたあとで、中層部の階まで通された。呆れるほど華美な内装設計だった。内装はネオバロックの影響を受けている。
広い応接室に案内される。部屋の扉を開けるなり、テーブルに着くスースロフの姿が目に入る。スースロフはビジネスマンのような風采だった。三つボタンのスーツを着込み、整髪剤で前髪を整え、眼鏡をかけていた。典型的なインテリゲンチャの姿。
エマは席を勧められた。テーブルを挟んでスースロフの正面に座る。スースロフの表情がよく見える。冷静だが、どこか殺気立っている。
「私に会いたいというのは君かね」
やや片言の発音。それでもその声は上品にきこえる。
「はい。ある情報を求めてやってきました」
スースロフと同じくらいに落ち着いた声で、そしてややゆっくりとした速さでエマはいう。
「おおよその見当はついているが、いってみるといい」
スースロフはいう。
「私は、セガワアリスという女の行方を捜しています。あなたのご子息が、それらしき女性を見かけたという話をききました。まだ数時間前の話です。まずはご子息からその情報の真偽を確認したいのです」
「息子はここにいない」
「ではどちらにいらっしゃいますか?」
「私にもわからんよ」
「あなたはセガワアリスについてなにかご存知でしょうか?」
「それを知っていて、それを君に伝えれば、なにか見返りはあるのかね?」
スースロフの目がビジネスマンの目に変化する。
「もちろんです。見返りのない依頼はあり得ません」
「ほう。君が用意できるのは、金かね?」
「金以外に、情報、ビジネスの機会も」
エマは平然と嘘をつく。具体的な見返りなど用意しているはずもない。
「私の予想では、ここにくるだろう人間はおそらく三種類。政府、AGW、どこかの犯罪組織。君はどこの手の者かね?」
「どうしてそんな予想を?」
「私も馬鹿ではない。報道には接している。君たちが必死に追いかける女の情報を、私の息子が掴んでいる。なら君たちがここへくるのも予想できることだ」
「私はAGWの者です」
「なるほど」
スースロフの視線が、エマの赤い髪に注がれる。どういう出自だ。そんな疑問を抱いているに違いない。
「私には半分外国の血が流れています」
先手を打つ。
「ほう、どこの国かね?」
「あなたの国です」
エマはいう。
スースロフは笑う。初めて見せる笑顔。
「君の髪の色のわけがわかったよ。なるほど、よく見てみれば、顔立ちもどこかこの国の人間とは違っている」
スースロフはロシア語でいう。そしてエマをこれまでになく興味深げにじっくりと見つめる。この男の性格が読めてきた。見た目はいかにもビジネスマン風、性格や振る舞いも冷静で知的。一方で故国に対して強い拘りを持ち、故国との縁を重視する保守性がある。
「君の家族は?」
引き続きロシア語でスースロフは尋ねてくる。
「両親はすでに亡くなりました。テロに巻き込まれたんです。歳の離れた弟と妹がどこかに」
エマもロシア語で答える。
「弟と妹とは連絡を取っていないのかね?」
「ええ。親の死をきっかけに、離れ離れになったんです。どこにいるのかもわかりません。元気でいればいいのですが」
「それは気の毒なことだ」
「お気遣いありがとうございます。ところで、そろそろ私が望む情報をいただけないでしょうか? セガワアリスという女のことを。私は私の仕事を果たさなければならないのです」
エマはいった。
「私の息子がその女を最後に見たのは、第八地区だ。…息子には手を焼いている。才能がないにもかかわらず、犯罪稼業にある種の強い憧憬を抱いている。身の程をわきまえず、大きなヤマを踏みたがっている。私の立場を考えもせず、街をふらついている。息子は偶然それらしき女を見かけ、尾行し、その女を捕らえようとした」
「だがいまになっても連絡が取れない、行方が知れないと」
エマがいうと、スースロフは頷いた。
「そうだ。息子につけていた護衛にも連絡がつかない」
優秀な父を悩ませる凡愚な息子。その息子に、偶然にも天から大きなヤマが降ってきた。だが結局息子は上手くそれを処理することができず、厄介な事態に発展してしまった。
「最後に連絡がついた位置は? 詳しい場所までわかりますか?」
スースロフは部下を呼びつけた。地図を持ってくるように指示をする。一度退室したスースロフの部下が、地図を手にして再び入室する。地図に書き込みがされてある。スースロフはその書き込みを指さした。
「ここが護衛から最後に連絡のあった場所だ。おそらくこの周辺に女はいたのだろう」
エマは地図をよく確認しようと身を乗り出した。第八地区、公営住宅が密集する地域の片隅。地図を手に取ろうとしたが、スースロフが地図を取り上げる。
どういうつもりなのか。エマはスースロフを睨んだ。
「まだ取引の内容を細かく決めていない」
スースロフはいう。
「それなりの見返りは用意すると申し上げましたが」
「それは細かいとはいわない」
「金、情報、機会。どれを選ばれますか?」
「ビジネスの機会だ。そちらが支配する領域で、我々も安全に商売がしたい。故国から仕入れた武器や薬を広く販売したいのだ。君たちAGWの公認がほしい」
エマは顎に手を当てて、考え込む素振りを見せる。約十秒の沈黙。わざとらしい演技をする。
「…いいでしょう。承知しました。ただし、いただいた情報の真正度や重要度によっては、この約束もある程度変化するということはご了承ください」
「よかろう。その点は互いに紳士淑女らしく振舞おうではないか」
簡単に約束をすっぽかすな。別の表現を使えばそうなる。
だがエマには約束を守る気など毛頭なかった。AGW支配領域での商売の公認、そんなことをエマの一存で決められるはずもない。仮にAGWの上層部に話を通しても、上層部が公認するとはとても思えない。エマにとってはスースロフとの約束など所詮口約束であり、その場を凌ぐための方便に過ぎなかった。
「私を甘く見ないことだ。こう見えてもしつこい性格でね。約束や取引を反故にした連中は、皆地獄へ送ってやった」
エマの心中を見抜いたかのように、スースロフはいう。
エマは微笑んだ。
「約束を違えることはありません。私も世の中を知っているつもりです」
自分でも胡散臭いと思う微笑み。またしても平然と嘘をついた。地獄へ送るだと、できるものならやってみろ、と心の中で毒づくが、嘘と微笑みでその場を押し切る。
スースロフはなにもいわず、エマに地図を渡した。エマの言葉を信用したわけではなさそうだ。その目は氷のように冷たかった。
「余計な話ですが、仮に私がご子息の行方に関する手がかりを掴んだ場合、なにか見返りはあるのでしょうか?」
「それも真正度と重要度による」
「仮に真正で重要な情報だった場合は?」
「なんらかの見返りは期待してもいい。私は古い人間だ。これでも約束と恩義は重んじる」
スースロフはいった。スースロフの言葉をきいてエマはソンの顔を思い浮かべた。スースロフもソンも同じ目をしている。冷酷でありながら、古い価値観に執着している。まるでそれを彼らの信条、人生で守るべき法則であるかのように見なしている。
「私は細かいことを気にしない性格です。ただその見返りについてはお言葉に甘えて、期待することにします」
「いいだろう。それは当然のことだ」
「それでは、これで」
エマは席を立った。
懐古趣味が前面に出た、威圧的な建築デザイン。人を抑圧するようなそのデザインは、トミイの好みでもある。心を刺激するのだ。
トミイは建物の前で見張りを行っていた。時間にして約三十分。建物の斜め向かいに車を置いて、背もたれを倒して、寝た振りをしながら時間をやり過ごす。まるでやる気のない見張り。むしろ向こうが気づいて接触してくれば好都合だった。こちらに抗争や敵対の意思はない。情報が欲しいだけなのだ。
かすかに眠気を感じる。恒常的な睡眠不足は、微睡の誘惑を生む。だが、すんなりと眠ることができなかった。悪夢を見ることが恐ろしいのだ。大きな悩みの種になっているが、解決することができないでいた。
かつて仕事でドジを踏んだ。十五年近く前の話だ。仕事の依頼主はAGW。あのころAGWは蜂起して一年かそこらの時期で、毎日のように政府と熾烈な戦闘を繰り広げていた。毎日すべての前線で戦闘が発生し、政府の支配領域では毎日官僚や軍人を狙ったテロが発生した。両勢力の戦闘が膠着化するまでには膨大な犠牲を要した。都市の超高層化は戦域を極端に限定化させ、それによって銃後の区別がより一層曖昧となり、非戦闘員も容赦なく戦闘に巻き込まれ死んでいった。そうした状況を利用して行われる殺人も横行した。トミイが請け負った仕事も、ある女とその子どもを殺害することであった。その女はAGWを裏切り政府に通じており、その素性が露見してAGWを出奔、戦闘避難民が集結する区域に身を潜めていた。トミイはソンの手を借りて女の居場所を突き止めた。いまでも女の顔を覚えている。質素な身なりに似あわないくらい艶のある長い髪、そして陰のある表情が印象的な綺麗な女だった。トミイは女の住まいに押し入るなり、容赦なく女を撃ち殺した。女の子どもも一緒だった。トミイと子どもは目をあわせた。子どもの目はあり得ないほど大きく見開かれ、そこに母を殺された恐怖と悲しみが張りついていた。トミイと向かいあい、恐怖に耐え切れなくなったのか、子どもは大声を上げて泣き始めた。幼い子どもが泣き叫ぶ姿、それでもそれは咆哮と表現してもいいくらいだった。しばらくは子どもに銃を向けていたが、そこで妙な情が働いた。日々繰り返される戦闘、増え続ける死者、終わりのない混沌とした社会の状況。親を殺され、身寄りもない子どもが簡単に生きていけるような時代ではなかった。そもそも誰が生きようが、誰が死のうが、人間の死というものが極めて軽く扱われる時代だ。ゆえに子ども一人を生かしたとしても、誰も関心を払わないし、上手くごまかすことができるだろうと思った。トミイはその子どもを生かすことに決めた。
そしてその判断は、結果的に大きな過ちだった。AGWはトミイの子どもを生かすという判断を許さなかったのだ。どういう経緯で子どもの生存やトミイの判断をAGWが知ったのかはわからない。もしかすると殺害の現場に監視役がいたのかもしれない。ともかくもAGWはトミイの判断を重大な過ちとして、トミイの身柄を拘束し、拷問にかけた。チョウという名の、神経質そうな男がトミイを責め抜いた。時折拷問に立ち会った屈強な男は、AGW司令のウガキだとあとになって知った。トミイは命だけは奪われなかった。だが拷問によって男性としての機能を奪われた。悪夢に苛まれ、健全な睡眠を取ることができなくなった。結果として、薬物に依存をするようになってしまった。
報復心は湧かなかった。むしろ自分の判断の甘さを呪った。女子どもも関係なく、仕事となればなんの慈悲もかけずに殺すべきだったのだ。己の未熟さがすべての原因だった。ただ、いつも浅い眠りに落ちるたび、こう思う。拷問が恐ろしい、そして安らかな眠りにつきたい。拷問を受けてから、まともな眠りを取ったことがない。
車の天井を見つめる。ときどきそれに飽きて建物を見る。
見張りを始めてから四十五分、建物の正面から、女が出てきた。
トミイは女をじっと見つめた。髪が赤く、きりっとした目つきで、我の強さが滲み出ている。いつでも、そして誰にでも噛みつこうとする意思を体から発散させている。その鼻をへし折ってやりたい、そう思わせるに足る女。若さと強靭な意志がその体から匂い立っている。
女は周囲を窺いながら歩く。服装はみすぼらしかった。尾行を警戒しているようだ。
さあどこへいく。どこへ向かう。そしてお前は何者だ。
トミイは彼女を見失わぬ程度に距離を取りながら、彼女の尾行を始めた。




