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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
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39 Tommy - Raided by Two Russians

 悪夢は常にこれ以上ないというくらいに鮮明で、これ以上ないというくらいに忠実に過去を再現していた。

 そこは真っ白い部屋で、部屋には椅子以外にはなにも置かれていなかった。服を剥かれ、鼠色の安っぽいパイプ椅子に手足を縛られた上で座らされ、男の嘲笑に耐えている。

 屈強な体つきの男が、裸の自分を見て嘲笑している。無様であると罵倒している。男の浮かべる笑顔は典型的な精神病質者のそれだった。まるで自分と似ている。男につられて自分も笑った。狂人同士で笑いあう。

 男は片目を瞑る。そして笑いかける。それが男の癖なのだろう。

 男は笑みを崩さずに、手で自分の体を触れながら、ゆっくりと自分の周りを一周した。その動作になんの意味があるのかわからなかった。男の指先が肌を撫でる。体つきを確かめているのか。

 男がまた自分の目の前に戻ってくる。

「お前なら奴の拷問に耐えられそうだな」

 男はいう。奴が誰なのかさえわからない。

 部屋の扉が開く。また別の男が入ってくる。頭を丸めた、神経質そうな顔をした男で、動作も落ち着きがない。屈強な男の前で、いわれたわけでもないのに、気をつけの姿勢を取る。どうも男の部下らしい。

 屈強な男が口を開く。

「こいつがお前の面倒を見る。こいつを楽しませてやってくれよ」

 自分にそう声をかけて、屈強な男は部屋を出る。

 真っ白な部屋に、身動きの取れない裸の自分と、神経質そうな男の二人が残される。

 男に笑いかけた。

 直後に鳩尾に拳を叩き込まれた。苦悶の声を吐き出す。床に倒れ込みそうになる。男が自分の体を押さえ、安定させ、再度鳩尾に拳を叩き込む。それを何度も繰り返す。やがて耐え切れずと胃の中のものを吐瀉する。

 男は無言で部屋を出る。吐いたものの臭いが部屋に充満する。五分後に男は戻ってくる。大量のバケツを部屋に持ち込んでくる。

 男はバケツに入った氷水をぶち撒ける。深い呼吸は許されない。浅く息を吸った瞬間に水が撒かれる。肌にぶつかる氷が、水の冷たさが尋常でなく痛い。

 部屋の照明が落ちる。真っ暗闇になる。スポットライトが一つだけ灯る。その光が自分に落ちてくる。

 髪を掴まれる。光を目に当てられる。暗闇で、男の動きがはっきりとはわからない。痛みで意識が朦朧としている。意識が飛びそうになると、男が髪を掴んで引き直す。

 男は自分になにか声をかけるのではないか。散々痛めつけられたあとだからか、そう思った。質問に答えろ、真実を伝えろ、もしくはこれが拷問の終わりか、それともこれが拷問の始まりだから覚悟をしろ、とか。

 だが男はなにも声をかけてこなかった。一瞬男の顔が見えた。男は神経質そうな顔を崩していなかった。だが荒ぶった様子で、自分の口に水が入ったペットボトルを差し込んでくる。水が口に入り込んで、舌が水に触れた瞬間にそれが水ではなく塩水だとわかった。塩水を吐き出そうとする。だが、男は自分の口にペットボトルを差し込み続けた。どうやっても喉の奥に塩水が入り込んでくる。耐え切れなくなって、ついに塩水を飲み込む。強烈な塩辛さに、体が反発する。全身を揺らす。

 それでも拷問は終わらない。

 なにか声をかけてくれ。声を発してくれ。絶え間ない暴力を浴びせかけないでくれ。言葉もなく、まるで労働作業の如く無感動に暴力を振るわないでくれ。

 拷問を加える男に乞う。男は返事をしない。返事の代わりに、暴力で答える。

 意識を失う寸前に、男の姿が目に入る。

 男の上半身から湯気が立ち上っている。季節は冬、空調の効いていない、ひどく寒い部屋。

 男はなにも語らない。表情からもなにも読み取れない。だが、その上気した姿はある事実を雄弁に物語っている。

 男は拷問に快感を覚えている。

 そして自分は意識を失う。

 夢はそこまでだった。目が覚める。車のハンドルに凭れかかって、眠りに落ちていたのだ。夢は鮮明でも、眠りは浅かった。嫌な寝汗をかいていて、不快感が消えない。

 目を開ける。第四地区の煤煙が遠くに見えている。

 トミイは、高架道路の脇に車を停めて眠っていた。記憶が正しければ、眠りに落ちてから約二時間が経過している。その間に夜が明け、朝の清浄な光が道路に落ちている。

 上着のポケットから錠剤を取り出す。なんの迷いも躊躇いもなく、錠剤を噛み砕く。精霊の加護を祈る。

 あの夢を見た直後が一番落ち着かない。精神が狂いそうになる。錠剤の力と精霊の加護が必要だ。

 ハイになるのを待つ。ハイになればお気に入りのクラシックも歌えるようになるだろう。

 錠剤の効き目を待ちながら、トミイは記憶を手繰り寄せる。ウォンを始末したあとでリャンと落ちあった。リャンは次の仕事を持ち込んできた。下層部に迷い込んだ内務大臣の令嬢を攫えという。そのためにリャンは偽装した身分証、金、武器、そして車を用意していた。ウォンを始末した報酬も忘れてはいなかった。

 トミイは休む暇なく仕事にとりかかることになった。小娘が消えた地点まで、車で移動する。偽装した身分証と袖の下、政府の軍や警察にもいき届いた華龍盟の威光の組みあわせで、いともたやすく政府支配領域まで入り込む。ただ戦闘があった地区は避けて移動した。そこではさすがに偽装身分証も袖の下も、華龍盟の名前も役には立たない。

 久しぶりに車を駆った。戦闘で鳴動する都市の景色を横目に車を走らせるのはこの上ない快感だった。現代では一般の乗用車は貴重なものになりつつあった。国土の閉鎖と都市の超高層化によって社会の車需要が減少し、エネルギー事情の逼迫もさることながら内戦の影響で軍用や産業用車両の生産が優先されてしまい、一般車両はその生産に規制がかかっているためだ。もはや車は庶民には手が出せない代物になっている。車を使ったのはいつぶりだろうか。ずっと前のヤマのときだったような気がする。

 トミイは目を擦る。錠剤の効能がまだ訪れない。早くあの高揚感を味わいたいというのに、そのときがやってこない。

 またハンドルに凭れかかる。他人から見れば気分を悪くしているように見えるのだろうか。

 やがて目の奥がちかちかとしてくる。それは火花が飛び散るようなイメージ。力が漲ってくる。高揚感に全身が包まれる。

 ハイになれた。そう思った瞬間に、車のサイドガラスが叩き割られた。ドアの向こうにいるのはフードを被った二人組の男たち。手にしている警棒でガラスを叩き割ったのだ。ガラスは粉々になる。男たちはドア越しに警棒でトミイを叩く。しばらくトミイを叩きのめすと、今度は荒々しくドアを弄り、ドアを開けた。トミイを路上に引きずり出す。

 車強盗。下層部のチンピラ稼業。

 男たちがトミイに警棒を叩き込もうとした瞬間、トミイは素早く銃を抜いて、男の股間に銃弾を撃ち込んだ。二発。ハイになっているせいか、最後の一発は狙いが定まっていなかった。一人、路上に汚い血を漏らしながら倒れ込む。

 もう一人の男はトミイの突然の反撃に呆然としている。トミイは男に銃を向けた。男は警棒を落とす。手を上げ、腰を引く。唇が震え始める。

 トミイは立ち上がった。男の髪を掴む。男の顔を車に叩きつけ、そして男を地面に倒した。警棒を拾い、それで何度も男を叩きのめす。抵抗の意思がなくなったところで、男の顔を見る。外国人。おそらくはロシア系の顔立ち。

 トミイは奇妙な点に気がつく。強盗たちの顔だ。生きている男も、銃を撃ち込んで殺した男も、顔に真新しい傷ができている。なにかで殴打されてできた傷。トミイがつけたものとは思えない。

「チンピラどもめ。さっきも盗みに失敗して、返り討ちにあったのか? 貴様らにできるのはせいぜい万引き程度だ」

 そういってトミイは男たちを罵った。

 怯え切った様子の車強盗は、ロシア語でなにかを喋り出す。仕草から見て命乞いをしているようだ。

 外人とはいえ、どう見ても冴えないチンピラだった。歳も若い。十代後半か二十歳過ぎだろう。

 殺してやる。一瞬そんな思いがちらついたが、トミイは目の前の男を生かすことに決めた。仮にこの男たちがどこかの組織に属していたらどうなるか。証人を残しておけば、その組織に妙な誤解を与えないで済む。このチンピラも、組織に、強盗に失敗したからその報復を願うという恥晒しなことはしないだろう。

 トミイは男の顔面を思い切り警棒で殴りつけて、男を失神させた。

 車に乗り込み、すぐにその場から離れた。いまになって錠剤が本格的に効いてくる。気分が陽気になり、警棒で殴られた痛みを忘れる。鼻歌が自然と零れ出す。エルガー、エニグマ変奏曲の第九変奏、ニムロッド。なんという高潔なメロディだろう。こんな美しい朝にふさわしい。

 錠剤が効いてハイになり、鼻歌を口ずさんでいる瞬間、トミイはあの悪夢のことも、ましてや先ほどの強盗のことも綺麗さっぱりと忘れることができた。

 車を走らせる。このまま小娘が消えた地点へ向かうこともできたが、その前に立ち寄りたい場所があった。華龍盟の関係者、ソンが経営する酒場だった。あの中年女は情報屋でもある。小娘の情報をすでに掴んでいるかもしれない。

 トミイはハンドルを切る。高架道路を降りる。猥雑騒然たる下層部に入り込んでいく。


【注釈】


エルガー:19世紀後半から20世紀にかけてのイギリスの作曲家。代表的な作品は、「エニグマ変奏曲」の他、「威風堂々」など。


エニグマ変奏曲:エルガーの代表的な作品で、第1変奏から第14変奏までで構成される。エニグマとは謎かけを意味する言葉。各変奏の題名にはエルガーの友人の愛称やイニシャルが用いられており、どの友人がどの変奏の題名に該当するのかという謎かけが仕込まれている。


ニムロッド:エニグマ変奏曲の第九変奏で、特に知名度が高い部分である。イギリスでは葬儀や追悼の場面で演奏される機会も多い。

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