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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
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38 Kuroki - The End of History and the Red Hair Girl

 赤い髪の少女が泣いている。

 彼女の涙が枯れることはない。ずっと泣き続けている。事件があった大学から、内務省の庁舎にある薄暗い聴取室に移送されても、彼女はそうしているのだ。

 つき添うクロキはなにもいわずに彼女を見守っていた。

 真っ白な部屋にぽつりと置かれた二つの鼠色の椅子に腰を下ろし、クロキと少女は向きあっている。鼠色の机の上にはなにも置かれていない。彼女は尋問の対象者ではない。

 クロキは少女が泣き止むのを待っていた。正確には、彼女が泣き止むまで、さまざまなことを考えていた。時間を遡ること、歴史の終焉と循環に思いを馳せること、忘れたくても忘れることができない過去を思うこと、神に対してこれまで自分が犯してきた大罪の許しを請願すること、また神に対してそうした大罪を犯す残酷な運命を課したことを呪うこと。

 なぜそのようなことを考えるかというと、目の前の少女が泣き止んだとき、クロキはまたしても罪を犯さねばならぬからだ。この世の地獄に何度も他人を引きずり込み、クロキもそのたびに気が狂うほど悶え苦しんだというのに、また同じことを繰り返そうとしているからだ。

 そしてクロキは思い至る。歴史に終わりはなく、歴史は繰り返すもの、循環をするものだということを。前々世紀の終わりごろ、歴史の終焉なる言葉が声高に叫ばれた。見るも無残な共産主義体制の破綻と崩壊、世界を覆い尽くそうとする資本主義の席捲。半世紀ものあいだ世界を二分したイデオロギー闘争の結果、共産主義が崩壊した時代においては、民主主義と自由経済が歴史の課程における最終的な支配体制であり、支配体制の変遷の歴史における最終局面が、つまりは歴史の終焉が訪れたのだ。今後は資本主義と自由経済が世界中に浸透する過程へと突き進むだろう。そうした言説がかつて存在した。だがそれから二つの世紀を跨いだいま、歴史の終焉というあの言説は正統性を失おうとしている。独善性を増した民主主義国家の暴走が国民を分断し、秩序を粉砕し、さらには第三世界やテロリズムの憎悪に火をつけた。互いの憎悪に歯止めをかけることもできずに、大地を穢し大地を放棄せざるを得なくなったあの血みどろの戦争を経て、あとに残った支配体制とはいったいなにか。この国のような名ばかりの民主制、隣国のような圧政と独裁の実態を隠蔽する社会主義と共産主義、もはや民主主義も社会主義も信用ができないがために選んでしまった独裁体制。歴史は新たな段階に突入したのか。いやそれよりはむしろ前々世紀初頭、民主制も社会主義も独裁も混在していた時代に立ち返ってしまったようにも思える。歴史は終焉したのでなく繰り返しているようにも思える。

 支配体制変遷の歴史にしろ、国家社会の歴史にしろ、個人の歴史にしろ、それらは常に新しい段階を迎えているのか、それともある特定の終焉に向かっているのか、もしくは循環しているだけなのか。クロキからしてみれば、歴史は循環しているようにしか思えない。そうでなければ、戦争やテロといった愚かで悲惨な選択がなぜに繰り返されるのだ。なぜに自分は前途ある若者や子どもたちを血で血を洗う内戦に関与させることを繰り返しているのだ。それは歴史が循環し、個人に対してもその循環の運命を課しているからではないのか。

 歴史は繰り返す。この当たり前の事象が、クロキにとってはこの上なく苦痛だった。しかし少なくともいまのクロキの立場、いまの職にある限りは、そうした循環現象、繰り返しからは逃れられないのだ。そしてクロキは職を辞することもできない。死んでいった仲間の姿が浮かぶ。死なせてしまった若者たちの姿が浮かぶ。彼らの影が、亡霊が、クロキを許すはずはない。彼らの無念を晴らすためにも、クロキは留まるしかない。歴史の循環を、繰り返しを、そしてそれによって顕現する地獄と苦痛をクロキは耐え抜かなければならない。

 夜は更けていく。日付が変わろうとしている。

 この部屋には窓がない。聴取する人間の精神を追い込むため、窓を設けていないのだ。ただ、いまは尋問をしているわけではなかった。

 日付が変わる。

 少女が泣くのを止めて、クロキを見つめた。涙の跡が顔にくっきりと残っている。

 クロキは彼女を直視できなかった。昔を思い出すからだ。目を逸らしながら、言葉を発しようとする。

「私の目を見ないのね」

 少女がいう。

 クロキは机に手をついて、頭を抱える。

「君にいうべきかどうか、ずっと迷っている」

「兄さんのこと? 兄さんが、裏切り者だったってこと?」

 少女の声は、悲しみと怒りに満ちている。

「どこでそれを知ったかね?」

「現場に忍び込んだとき、警察の人が立ち話をしているのをきいたわ。兄さんが、AGWに情報を流していたって」

「まだ詳しいことはなにもわかっていない。これから捜査することだ」

 クロキは事務的な口調でいった。

「私をここへ連れてきたのはどうして? 私も裏切り者だと思っているの?」

 少女は机を叩いて立ち上がり、叫ぶ。そうして怒りや不信や悲しみをクロキにぶつけているのだ。

 しばらくの沈黙を置いてから、彼女の感情が少し落ち着くのを待ってから、クロキは口を開く。

「君も、君のお兄さんも、私は裏切り者だとは思っていない」

「じゃあ、どうしてここへ? ここは尋問室でしょう? あなたは、私になにをしたいというの? なにを求めているの?」

 少女がいう。

「…もしも私が、君に復讐の機会を、君の兄の仇を討つ機会を提供するといえば、君はどうする? 君は復讐を望むかね?」

 クロキはいった。

 歴史は繰り返す。またしても、若者を地獄へ引き込もうとしている。


【注釈】


歴史の終焉:日系アメリカ人の政治学者フランシス・フクヤマが1992年に発表した著作「歴史の終わり(原題は The End of History and the Last Man)」で提唱した仮説。冷戦終結後の世界情勢や国際政治におけるイデオロギー闘争の終焉と民主主義と自由経済の最終的勝利を論じ、大きな話題となった。サミュエル・ハンティントンが1996年に発表した「文明の衝突」とあわせて、90年代以降の国際情勢を語る際に頻繁に引き合いに出される。

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