37 Alice, Nate - Breaking into Residential Tower
アリスとネイトは北東、第三地区に向かってひたすら歩いた。日付が変わるまで、夜の色がどんどん深くなって、街がもっとも静寂に包まれる時間まで、歩みを止めなかった。
「あの女の人、私覚えているわ」
歩いている途中でアリスはネイトに話しかけた。
「あの赤毛の女はAGWの人間だ。あんたの誘拐計画で俺に指示を出し、現場にも赴いていた。容赦がなく、残忍で、厄介な奴だ」
「あの建物に彼女がきたのはどういうことかしら? 私たちの位置がもう特定されていた?」
ネイトは首を振る。
「いや、あれは敵の居場所を掴んで追いかけてきた者の動きではない。周囲を観察する奴の目を見たか? あれは俺たちと同じく一時的な逃げ場を探している目だった」
「彼女も逃げている?」
「たぶんな。政府の領域内で、AGWの人間があんな派手な格好で出回るわけにもいかないだろう。おおかたなんとかあの会場から逃れてきたのだろう。これから服を変えて、俺たちを追い始めるか、それともAGWの人間と連絡を取ろうとするか、そのどちらかだろう。俺ならこんなぐちゃぐちゃな状況下で敵を追いたくはないな」
「それには同感ね。私ならまず誰かに状況の報告と今後の相談をしにいくわ」
「おそらくAGWは俺たちの位置を掴んでいない。さっさとあの女と距離を取ろう。あの女は手強い。まともにやりあっても歯が立たない。とにかくあの女の気配を察したら、なんの躊躇いも持たずに逃げるんだ」
不遜な言葉が目立つネイトだが、エマに対しては珍しく彼女を怖れているような言葉を吐く。
「彼女をよく知っているみたいね」
アリスがいうと、ネイトは露骨に嫌そうな顔をする。
「冗談じゃない。だが、あの女と俺の考えることは似ている。だから行動も思考も読みやすい」
「気質が似ているのよ、たぶんね」
アリスはいう。アリスは会場での二人の連携の取れた動きを思い出す。二人は共通の目的があれば、感情を差し置いて目的達成のための協調ができる人間同士なのだろう。
「…冗談じゃない」
エマと気質が似ていることを認めたくないネイトは、先ほどと同じ言葉を今度は呟くようにいうのだった。
遠くの空では複数のヘリが舞い、中層部や上層部に設けられた高架通路からは緊急車両のサイレンの音が漏れ伝わってくる。都市の上層部や中層部で発生した騒然さが、下層部に零れ落ちてくる。下層部は下層部で通りは驚くほど閑としていた。
都市に異変が起きている。二人はそれを肌で感じ取っていた。下層部が静まり返っているのは、中層部以上で起きた異変に巻き込まれぬよう、人々が外出を避けているからそうなっているのだ。静寂ではあるが、同時に、何者も寄せつけず、拒否するような空気感が張り詰めている。
アリスの脱走以外にも、なにか事件があったに違いないとネイトは思った。すぐに思いついたのは、政府とAGWの軍事的な衝突だった。街が静まり返るときは、たいてい軍同士の衝突が起きている。いまもそういう事態になっているということなのか。
アリスが歩き疲れを見せ始めたため、ネイトは周囲を見渡し、古びた超高層の公営住宅に目をつけた。築数十年は経過しただろう公営の集合住宅で、没個性的なデザインを避けるためか、広い間口の建物正面には規則的な凹凸やキャノピーがふんだんに設けられたデザインになっている。国家と建築家が手を組んで作った、超高層都市における未来志向建築のなれの果て。ただ、どれだけデザインに凝っていようと、この手の公営の集合住宅は費用を極力削ぎ落として建築されているため、セキュリティが杜撰だ。築年数が経過すればするほどセキュリティの質も落ちて忍び込みやすい。またそういう建物だから空室も目立つ。バルコニーや玄関の様子をよく観察し、部屋に生活の気配がなければそこは空室と思っていい。
建物に忍び込む前に、ネイトは外から入念に建物を観察した。特に明かりが落ちている部屋のバルコニーの様子を見る。だいたいの目星をつけると、今度は建物の裏に回り、建物外部に設置された避難階段に近づく。階段の手前には施錠された鉄格子の扉があったが、扉のすぐ上は人一人が入り込める程度の空隙になっていた。段差を利用し、空隙に体を滑り込ませて扉を乗り越える。鍵を外し、扉を開けて、アリスを招き入れる。
避難階段を上り、建物の共用廊下に出る。先ほど外から目星をつけたいくつかの部屋の玄関前を改めて確認する。
「ここで待っていろ」
ネイトはアリスにいった。
ネイトはアリスを空室と思しき部屋の玄関前に待たせると、先ほど利用した避難階段まで戻っていった。
いったいなにをするつもりなのか。疲労感に見舞われながら、アリスはネイトの背中を不安げに見守った。やがてネイトの姿も見えなくなり、アリスは共用廊下に一人佇むことになる。自分以外に誰もいない共用廊下だが、住民が部屋から出てくるのではないか、また住民がどこかで自分たちの侵入に気がついていて、怪しんではいないかと思うと、気が気でなかった。
空気が重く感じる。誰かに見られている気がする。静かに佇みながらも、内心は落ち着かなかった。
ネイトはどこへ消えたのか、なにをするつもりなのか。
廊下からはもとより、周囲から一切の物音もきこえなかった。ネイトがなんらかの作業をする音、それこそガラスを叩き割る音でもよかったが、それさえもきこえてこない。それがアリスの不安を煽る。
時間が過ぎていく。計ってはいないが、きっと数分にも満たない時間なのだろう。時間は伸び縮みするという古くからの法則をいまにして実地で学ぶ。
やがて階下から自動扉が開く音と靴音がきこえてくる。夜の静まり返った空間では、その音がやけに大きくきこえる。そしてアリスの心臓に嫌な負荷をかけてくるのだ。
靴音の響きが変わる。それは階段を上っているからそうなったのだろう。響きを変えた靴音が徐々に大きくなっていく。アリスの方へ近づいてくる。
アリスは不安に耐え切れず、かすかに身じろぎをした。左右を見たが、共用廊下がずっと伸びていて、そこに身を隠せる場所はないと思い知らされるだけだった。靴音の主がこの廊下に出てくれば、即座にアリスの姿がその視界に入るだろう。
靴音の主の影が見える。もうすぐアリスの姿が視界に入る。
その瞬間、目の前の扉が開いた。
ネイトが立っていて、アリスの手を引いて部屋の中に入れた。
扉が閉まる。ネイトが鍵をかける。真っ暗で黴臭い部屋。ネイトの予想通り、ここは空き部屋のようだ。
アリスは深呼吸し、ゆっくりと息を吐く。心を落ち着かせ、それから口を開いた。
「どこへいってたの? どうやってここに入り込んだの?」
アリスがいうと、ネイトはこっちにきてみろと、バルコニーに面する部屋、その窓ガラスのところまでアリスを連れていった。
クレセントの周りのガラスが割れている。ネイトは服の上着からドライバー一本を取り出し、アリスに見せる。
「三角割りって知ってるか? 古典的だがいまだに使えるガラス破りの方法だ。さっきの備品室で拝借したドライバー一本でガラスが割れる」
ガラスにドライバーを素早く強く差し込むと、ガラスに罅が入り、三箇所に罅を入れれば、それでガラスが割れる。しかも音はほとんどしないのだとネイトは説明する。
「空き巣はよくバルコニーの窓を狙う。こういうキャノピーが多い建物だと、それを伝ってすぐバルコニーまで忍び込める」
だからネイトは入念に建物の外観を観察していたのだ。空室と思しく、かつキャノピー伝いに忍び込めそうな部屋を探っていた。
鮮やかな手並だと、アリスは認めざるを得なかった。アリスは舌を巻いた。AGWがこの少年を殺さずに脅迫して利用しようとした理由がわかった気がした。子どもながら頭が切れ、冷静でいながら大胆な実行力がある。この少年が犯罪稼業に対して適性があることに、異議を唱える者はいないだろう。
「歩き疲れただろう。少し休むといい」
ネイトはアリスにいう。
もう足はくたくただった。歩くたびに足が痛むのだ。
「あなたも休まないの?」
「あんたが眠るまで、見張りをするさ」
ネイトは窓の外を見ていった。外は黒々とした建物の群れが広がるだけの、単調な世界。
「空室ってだけに、さすがになにもないわね。電気も水も通ってない」
「そういう不便は、我慢してくれ。睡眠が取れるだけましだ」
「せめてシャワーで汗と体臭を洗い落としたかったけど、それもできないわね」
「残念ながらな」
ネイトはいう。
「こういうとき煙草があればいいのに。臭いをかき消してくれるから」
落ち着かない心を宥めたいときにも、煙草は使える。悠然と煙草を燻らせるアーレントの姿が心に浮かぶ。
互いにひどい臭いだった。この暗く黴臭い部屋でも、互いの体臭と汗の臭いがわかる。どれほど自分たちは歩き回ったのか。日付はもうとっくに変わっているだろう。夜の色と静けさでそれがなんとなくわかる。
「とにかく休め」
ネイトがいう。アリスは頷いた。ちゃんと返事をしようと思ったが、欠伸が出てきて、それができなかった。床に横たわり、胎児のように体を丸める。目を閉じる。疲れからか自分でも驚くくらいの素早さで、眠りに落ちていく。
夢さえ見なかった。すっと眠りに落ちて、すっと目覚める。
床で寝たせいで体の節々が痛い。顔に埃がついているのがわかる。そして窓から鮮やかな陽射しが差し込んでいるのがわかる。
朝陽。太陽の姿は見えない。だが、この若々しく透き通るような陽射しは、なんという美しさだろう。長い夜を過ごしたあとに見る陽射しは、これまでになくアリスの心を打ち、恐怖と混乱で乱された精神を浄化させていく。
アリスは体を起こした。ネイトは自分とは反対側の壁に凭れかかる形で、眠りに落ちていた。二人の間に、無造作に大きな袋が置かれてあった。
気になって、アリスは袋を開けてみた。袋の中には、水や食料が詰め込まれていた。
「目が覚めたか」
ネイトの声がした。アリスの動きで、ネイトもまた目覚めたようだ。
「これは…」
「あんたが寝てるあいだに奪ってきた。一日を凌ぐには十分な量だろう」
目をかきながら、ネイトはいう。
一方のアリスは警戒する。
「大丈夫なの? 追われている身で、盗みをすれば…」
「下層部の空き巣なんざ毎日数え切れないくらい発生してる。それに発見が遅そうな場所を選んで盗んだ。すぐには気づかれないよ」
「それでも心配だわ。政府にしろ、AGWにしろ血眼で私たちを追ってるはずだもの」
「下層部だけじゃない。中層部や上層部でも犯罪は起こる。追っ手は俺たちが中層部以上にも潜んでいることを考えて動いている。これだけ極端に上下に伸びた都市で、隠れている二人の人間を見つけるのは、そこまで簡単でもない」
ネイトはアリスを宥める。
「そうだといいけれど」
「あんたは頭が良過ぎるぶん、悲観的にもなりやすいようだ」
「頭が良いと自分で思ったことはないわ。悲観的、というより臆病だとは自分でも思うけどね」
アリスがそういうと、ネイトは苦笑した。
「臆病だって? 臆病な奴は銃を撃たないし、ビルから飛び降りたりしない。あんたは臆病なんかじゃないよ」
ネイトに指摘され、アリスはいわれてみればそうだと思い直す。
「そういえば、あんたに土産を持ってきた」
ネイトは袋から煙草のケースとライターを取り出す。煙草を一本取り出して、ネイトは自分でも吸った。アリスにも一本を渡す。
「気休め程度にはなるだろう」
「私がいったこと、覚えていたの? 気が利くじゃない」
ネイトがアリスの煙草に火をつける。アリスは煙草を燻らせた。
朝陽の照る埃塗れの部屋で、二人して煙草を吸う。
「そういえば、あなた未成年じゃないの?」
「未成年は煙草を吸うなってか? 説教はいい」
「別に咎めるわけでいったわけじゃない。私の憧れの人も、煙草を吸っていた。たぶん十代のころからね」
「こういうときだけ、気休め程度に吸うだけだ。いつもは吸わない」
「私もそう。それがいいわね」
「大臣令嬢が煙草を吹かしてるなんて、なかなか面白いもんだ」
「意外に思った? 例の私を調べた資料にも、載っていなかったんじゃない?」
アリスは片目を瞑った。立ち上る紫煙の向こうにある、にこやかな笑み。ネイトは一瞬アリスに見惚れた。
「ああ、それは載ってなかったな」
ネイトはいう。
「…それから、あんたに土産はもう一つある」
「なにかしら?」
ネイトは袋からアリスに髪染めに必要なセットを渡した。
「悪いが身なりを変えてもらう。まずは髪からだ」
【注釈】
アーレントと煙草:政治思想家・哲学者のハンナ・アーレントは愛煙家で知られた。煙草を手にする彼女の写真が多く残されている。




