35 Nate, Alice - Ally
女の喉元は赤くなっていて、首を絞めた跡がくっきりと残っていた。
自分がつけてしまったものだ。女に暴力を振るってしまった。これではAGWの連中と同じように野蛮で卑劣ではないか。ネイトは女の喉元を見て、暗い気分になった。女も喉元を気にして、そこに手を当てる。その仕草を見て、より一層ネイトは落ち込む。
「策を教えてくれ」
ネイトはいう。
ネイトはアリスを解放した。彼女に馬乗りになり、さらに喉元を押さえていたが、それをやめて彼女を自由にした。もっとも彼女はネイトから銃を奪い、その銃をネイトの額に突きつけていたが。
対立を終える条件として、ネイトはアリスに対して、彼女が用意する策とはなんなのかをきかねばならなかった。
「それを話す前に、この場所を離れましょう。政府か、もしくはAGWの人間がここにきてしまう」
「俺は策を教えろといってるんだ」
ネイトは語気を荒げていった。
「わかっているわ。けど、邪魔者がここへきても困るでしょう」
アリスもまた強い口調でいい返した。
「いい? 私はあなたに協力しようといっているの。だけど、あなたが私の好意を拒んで、なにもかも駄目にしたいのなら好きにすればいいわ」
「どういう意味だ?」
「私もここで政府の人間がくるのを待つわ。もちろんAGWの人間が先にくるかもしれないけど、仮に政府の人間がくれば、私もあなたも身柄を確保される。私にはなんの問題もないけれど、あなたの場合は、私の誘拐が失敗したことで、あなたの仲間が殺される。それでいいのかしら?」
早口になってアリスはいう。彼女の目の印象がさらに冷たくなる。必要であればとことん冷酷になれる者の目。
アリスが捲し立てる言葉に、ネイトはなにもいい返すことができなかった。ただ唇を噛んでアリスを睨んでいた。まるで姉に叱られる弟のように。
「どう? なにかいってみなさい。私の言葉をきき入れないのなら、私はここに留まります」
決然とアリスはいうのだった。
ネイトはより強く唇を噛んだ。そして呟く。
「…畜生」
そう呟いたあとで、ネイトは吐き捨てるようにいう。
「わかった。あんたに従う」
そして機嫌の悪い顔のまま動き始める。この場から離れる前に、ネイトは地面に開いたままの落下傘を回収しようとした。
落下傘を回収しておけば、追っ手に対して気休めではあるが攪乱ができる。
だがアリスはネイトを制していう。
「落下傘はこのままにしておいて。追っ手に私が生きていると示したいの」
「時間稼ぎができなくなるぞ」
「それでもいい。政府、AGWどちらにも私が生存していると推測させる」
「あとで理由は説明してもらうからな」
ネイトはいった。落下傘を回収しないとなれば、もうこの場所にいる意味はなく、すぐに離れるべきだった。
足早に歩き出す。アリスがあとからついてくる。
「どこへ向かうの?」
アリスが背後で尋ねる。
ネイトは振り返ることなく返事する。
「商業ビルの類だ。夜間に出入りする人が多いところなら、簡単に忍び込める。それからなるべく顔は隠すようにしろ。人に見られないようにするんだ」
しんと静まり返った通りを二人で歩く。最下層部の通りを夜間に歩きたがる者はほとんどいない。それがたとえ政府が支配する領域の中心部に近い場所だったとしてもだ。犯罪に巻き込まれる可能性があり、助けもすぐにはこないからだ。
巨大な都市の夜は独特の色彩を持つ。通りを照らす怪しいオレンジ色の街灯、スモッグに包まれた夜空、星のかわりに遠くで白く揺らめく建物の灯、放出された光子のように高架道路をさすらう無数の車の灯。都市の夜の風景は闇ばかりではない。
夜の闇に紛れ込むのではなく、都市の風景にどう溶け込んで行動できるか、それが重要だった。顔をなるべく晒さず、動作は自然にする。服装が目立つのはこの際仕方がない。それを自分であまり意識しないようにして、動作に反映させない。
ネイトはアリスと並んで歩くようにする。彼女に動作を自分のそれと同期させる。あたかも自然に、しかし姿を見られぬよう注意して、歩いていく。
ビル風は異端者を拒むかの如く絶えず二人を襲う。二人ともコートがなくて寒さに震える。ネイトは上着をアリスに貸したが、それでも薄着だったため、アリスの肌はより青白くなっていた。
「…ひどい寒さ」
アリスは呟く。
「建物に潜り込んだら服を変えよう。こっちだ」
ネイトはそういって、なに食わぬ顔でとある建物に入っていく。まるで初めからその建物を目的地としていたような素振りで。その建物は、下層階が商業施設、中層階以上が企業のオフィスとなっていた。夜になって営業を終えたのか商業施設は閉まっている。施設一階部分にセキュリティチェックが設けられていなかった。警備員も見当たらない。
「上の階までいこう」
「どうしてこの建物を選んだの?」
アリスはネイトにきく。
「建物の外に出ている看板を見て選んだ。複数の企業がオフィスとして使っていて、企業のショールームも入っている。そういう建物は来客もあるからセキュリティが厳しくない。実際、ここはろくに警備員も配置されてなければセキュリティチェックもなかっただろう」
ネイトは淡々と説明した。
二人はエレベーターに乗り込んだ。ネイトは案内板をちらりと見ただけですぐにいき先の階を決めてエレベーターを動かした。
「自然にしていろ。まるでここで働く人のように」
ネイトはアリスにいう。アリスは静かに頷いた。
「あなた、AGWに捕まるまでは下層部でなにをやっていたの?」
上昇するエレベーターの中で、アリスが問いかける。
「下層部でこそ泥をやっていた。いろんなところに忍び込んで、いろんなものを奪った。一番興奮したのは、政府やAGWの物資を奪うことだったけどな。…だが、ドジを踏んでしまった」
ネイトはいう。
盗みのため、またその下調べのために、ネイトはさまざまな施設に潜り込んだことがあった。政府、AGW、どちらの支配領域においても、その都市下層部の複雑に入り組んだ全体図をある程度は頭に入れていた。
「ねえ、あなた名前は? まだあなたの名前を知らないわ」
「ネイトだ」
アリスに尋ねられ、ネイトは素っ気なく名を教えた。
「そう、私は…」
「あんたのことは知ってる。AGWの資料で、あんたの経歴から趣味嗜好まで、頭に叩き込んだからな」
ネイトはアリスの発言を遮った。自己紹介されなくても、アリスのことはよくわかっていた。
「そんな資料、どこまで正確なのか…」
発言を遮られ不機嫌になったのか、アリスはネイトの言葉を鼻で笑った。
「専攻は政治哲学、レオ・シュトラウスの政治哲学の現代的意義が主たる研究テーマ。勉強熱心だが食に対しての関心は薄く、イギリス料理のような食事ばかりを取ると書かれていたが、それは事実か?」
ネイトはあえて無表情でいった。嘲笑する気はなかった。報告書の中で特に記憶に残ったことを口にしただけだ。
ネイトの言葉にアリスの頬がやや紅潮したのがわかった。どうやらそれは事実らしい。
アリスが反論をしようと口を開きかけたとき、ちょうどエレベーターの扉が開いた。ネイトは先にエレベーターを降りた。企業が借りているフロアで、夜も更けているがいくつかの部屋ではまだ明かりがついている。こんな時代になっても経済活動に熱中する人間は存在するのだとネイトは改めて思い知らされる。
明かりのついた部屋を避けて、備品室と書かれた部屋の前に立つ。明かりはなく、扉に鍵もかかっていなかった。ネイトとアリスは忍び込んだ。
「扉の近くで見張っていろ」
ネイトはアリスにいった。
ネイトは部屋を探る。部屋の左右に棚が設けられ、その棚に大量の段ボールが並べられている。オフィスで使う備品が中に入っている。備品以外にも、用途不明のものや書類が段ボールに入れられていた。
たいていこういう備品置き場には、企業の制服や作業着、清掃用に使う着替えが無造作に置かれてあったりするものだ。オフィスにそのまま置いておくわけにもいかず、かといって捨てることもできず、従業員の誰かがこうした部屋に押し込めてあるのだ。
ネイトは部屋の奥のほうの段ボールを探る。案の定、誰かの使い古しの作業着や会社が作った外套が出てくる。
ネイトは段ボールから取り出した服をアリスに投げて渡した。
「振り向いたりしないから、さっさと着替えてくれ」
ネイトはいう。
作業着と外套を受け取ったアリスは、服から漂う汗と埃の臭いに一瞬躊躇いを見せた。
「汗臭いわ」
「文句をいってる場合じゃない」
ネイトはぴしゃりといってのけた。都市下層部で生きてきたネイトは、悪臭など気にもしない。
ネイトも作業着に着替える。上に企業のロゴが入った外套を羽織る。それまで着ていた服は丸めて段ボールの中に詰めた。アリスにも同じことをさせた。アリスに貸した上着を箱に詰めるとき、もとの所有者のことを思ったのかアリスは複雑な表情を浮かべていた。
残酷なことを彼女に強いているのかもしれない。そんな思いがネイトの頭の中を一瞬過った。
「…それで、あんたがいう策を詳しく教えてくれ」
感傷的な気分になりたくなかったので、ネイトは喫緊の課題を口にした。
服を着替えたアリスが、臭いに顔を顰めている。
「下層部では誰も体臭など気にしない」
ネイトはいった。まるで妹を窘めるように。
アリスは不本意そうな表情のままだったが、それを口に出していうことはなかった。
「…策はこうよ。私を囮にして、AGWに取引を持ちかけるの。私をAGWに引き渡す代わりに、仲間を解放しろとね。場所も時間も、こちらが指定する。あなたの仲間もその場所に連れてきてもらう」
「あんたはどうするんだ? AGWに捕まってもいいのか?」
「まさか、そんなわけないわ。嘘の取引よ。周囲には、味方を配置する。なにかあればその味方が事態を収拾する」
「味方というのは、政府の人間か」
「まあそうなるでしょうね。警察か、もしくは内務省に、そういう事態に対処する部隊があったはず。そこを動かす」
アリスはかつて父親の執務室ですれ違った男を思い浮かべた。知的で棘があり、しかしどこか憂いや疲れを隠し切れていない印象の中年男性。アリスの見立てでは、彼がおそらく父の最側近であり、内務省お抱えの部隊を統括している立場にあるはずだった。父は家族以外の人間に心を許すことはなかった。つねに他人には鷹揚に接しているが、父のその目は一切笑っていないというのが、心を許していない証拠であった。だが、父が家族以外で唯一心を許しているのが、かつて自分が直接指揮していたという部隊の隊員たちだった。彼らに対しては、父は家族と同様に心を開いて接する。アリスがすれ違った男に対しても、父は心を開いて接していた。父の男に向ける暖かな眼差しを、アリスは覚えていたのだ。
政府の部隊を動かすとなれば、まずはその男を動かす必要が今後出てくるだろう。
「だがどうやって? 困ってるから助けてくれと通報でもするのか?」
ネイトがいうと、アリスは薄笑いを浮かべる。
「結論からいえばそうなるわね。でも、それをいう時期が重要よ」
そしてアリスは説明する。ネイトがアリスを拉致したということにして、しばらく二人は姿を晦ませる。政府、AGW両勢力が血眼になって二人を捜索し、捜索疲れが出たところで政府には支援を求め、AGWには取引を持ちかける。
「なぜしばらく姿を晦ませる? その時間は必要なのか?」
「あなたが交渉相手だと政府に認めてもらうのに、時間が必要だわ。政府はテロリストを交渉の相手としない、どんな教科書にも載っている原則があるでしょう? ましてやあなたはテロの実行犯の一人よ。父や政府を信用しないわけじゃないけど、いまのこの段階では政府もあなたをまともな交渉相手とみなさず、取りあわない事態も考えられる。政府だって今回の件で頭に相当血が上っているでしょうからね。だから生存の可能性をちらつかせ、時間を稼ぐの」
「両勢力が頭を冷やし、しかし捜索に疲れを見せ始めたところで、動く。時間が経過したところで連絡を入れれば、政府も俺の事情を理解するということか」
「そういうことね」
「だがこれには大きな問題がある」
ネイトはいう。
「なにかしら?」
「しばらく姿を晦ますといっても、それから政府に連絡を取るといっても、どうやって? 俺にはそんな手段も方法も持ちあわせていないぞ」
「あら? 下層部で盗みをやっていた経験を活かしてもらおうと思っていたのに」
「買い被りが過ぎる。俺にはできない」
「盗みで利用していたアジトやセーフハウスみたいなものは?」
「アジトはおそらくAGWに押さえられたはずだ。利用するには危険過ぎる。セーフハウスも持っていない。当然、政府への連絡手段もない」
ネイトはいった。事実その通りで、ネイトはセーフハウスを所有していなければ政府と安全に連絡を取りあう方法も知らなかった。そして当座の金もない状態だ。
アリスの顔に落胆の色がはっきりと滲む。偉そうな口を叩いていたわりには、たいしたことがない。そんな台詞が彼女の心の中にある。ネイトはそれが透視できた。
顎に手を当て、アリスは考え込む。知恵を働かせている仕草。わずか数秒のこと。
「あなたはできない。わかったわ。なら、他の人は?」
アリスはいう。睨むように、ネイトを見る。
「他の人? どういう…」
そこまで呟いて、ネイトも案を思いつく。頭の中に閃きが走る。
「俺にはできないが、できる奴はいる。頼れる奴は知っている」
頼りになるとしたら、あの男しかネイトは知らない。




