表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
36/87

34 Sugiyama - Left in the Dark

 敵が遠ざかる。空間に取り残される。

 暗闇の中で、スギヤマは目を瞬かせる。自分も、そして隣のナキリも、ともに呼吸が浅い。傷口は激しく痛むというのに、手足の先は血が抜かれたように力が入らず、そして冷たくなっている。火に炙られると同時に、氷漬けにされているような、両極端の責め苦を味わっている。

 目を閉じたい。このまま眠りに落ちてしまいたい。誘惑がスギヤマの頭にちらつく。数秒目を閉じてしまえば、眠りに落ちていけそうだ。だがそれは自分自身の死に直結するのだ。

 体を動かそうとするが、もはや手足に力が入らない。床に頽れ、壁に頭を凭れ、ナキリの体に片手を回しながら、過ぎていく時間を耐えるしかなかった。暗闇の中にいるせいで、傷を負った場所も詳しくはわからない。頬が抉れているのだけはわかる。数分前からは肩の周辺が異様に痛み始めた。

 なにも考えられなくなっている。知覚できるものは、この暗闇と、隣のナキリの状況、そして自分自身の痛みだけだ。

過去の記憶も蘇ってこなくなった。自分たちになにが起きたのか、振り返る余力すらなくなってしまった。

浅い呼吸の音をきく。死にゆく者の発する音。命の火が消えかかろうとしている。

「生きろ」

 スギヤマは自然と呟いていた。

「目を閉じるな、呼吸を続けろ」

 自分自身ひどい声になっている。不明朗な声で、ナキリに呼びかけ続ける。この声がナキリに届いているのだろうか。

「生きろ」

 また呟く。口元を動かすだけで、痛みが走るようになった。頬が鋭く痛む。

「死ぬな、目を閉じるな、意識を失うな」

 呟き続ける。

 やがて呟きだけがスギヤマの動作になる。手足が動かなくなる。目も開けてはいるが、まともにものを見ていない。目に溜まった血が固まり、それが視界を遮っているようだ。

 ナキリが生きているのか、死んでいるのか、それさえわからなくなる。ただそれでも、声を発し続ける。それは自分が生きるためだ。

 こんな極限状況に追い込まれて初めてナキリは生に対する執着心が湧くのを感じた。死が目の前まで近づいたときに、自分の存在の確かさを、自分の存在を消し去る死によって認識する。不思議なことに、そこに恐怖という感情はなかった。長年顔をあわせていなかった友がふらりと訪ねてくるように、死は思いがけず唐突に、そして静かに迫りくるものの、目の前まで近づいてしまえば、あまりに身近過ぎて、恐怖も消えてしまうようだ。だが同時に、生きていたいという激しい感情が芽生える。存在し続けたい、この世界に残留したい、死の影に搦めとられたくない、という思いに包まれる。これが本当の意味での生への執着心なのだとスギヤマは思った。そして視界に不思議な光が見える。体は動かず、朦朧とした思考と意識が、その光に向かっていく。

 その光に向かうということは、死に向かっているのか、それとも生に向かっているのか。スギヤマは疑問に思ったが、もはや判断をすることはできなかった。

 光の先にあったのは暗闇だった。

 音のない世界であり、なにも見えない世界、奥行さえも喪失した世界だった。ただその空間にぽつんと置かれた自分を感じる。

 隣にいたはずのナキリは、姿を消していた。手を回していたはずなのに、手にナキリの重みを感じないのだ。

 暗闇に取り残されてしまった。意識だけは朦朧と存在している。やがて激しくなにかに揺さぶられるのを感じる。引きずられる。どこかへ連れ出されようとしている。誰かの息遣いがして、ようやくそこで音を感じる。息遣いいだけなく叫びまできこえてきた。次に機械の音がきこえたその瞬間に、暗闇を一掃するような眩い光を知覚する。スギヤマはそこで初めて自分はそれまで目を閉じていたことに気がつく。

 照明が自分に当てられている。何人もの人が出入りしているのがわかる。自分は台に載せられているのがわかる。

 首を動かした。

 隣の台には、ナキリが載せられていた。


 目を開いた。照明ではない、太陽の光が目に飛び込んできた。

 手足は動かなかった。自由に動かせるのは首から上の部分だけだった。

 床から天井まで無機質なコンクリートに覆われた部屋に、ベッドや衝立や医療用の設備が並んでいる。衝立の向こうには人の気配がある。衝立と衝立の隙間からベッドも見えたことから、ここは相部屋の病室ということがわかる。

 自分の手足を見る。何本も管が差し込まれていることがわかる。手足を動かすことはできないが、見た限りで、四肢を喪失してはなさそうだった。

 頬が痛む。口元をあまり自由に動かせない。包帯を巻きつけられているのがわかる。首を動かすのに疲れ、一度枕に沈み込む。

 病室の天井を見つめる。光の新鮮さからして、それはどうも朝日のようだ。

 病室に誰かが入ってくるのがわかった。靴音と話声がする。おそらくは複数人で、自分に近づいてくる。

 スギヤマは警戒した。病室だが、ここは自軍の病院なのか。自分は政府に捕らわれたのではないか。疑念が生まれる。

 衝立の前に人が立ち、一瞬の間を置いたあとで、自分の枕元にやってくる。

 顔を見る。それはハタであった。

「よく無事で」

 ハタはいう。

 スギヤマは大きく息を吐いた。警戒を解く。

「ここは?」

「第三地区の軍病院だ。八時間前に第十三地区から移送されてきた」

「…私はどうなったのだ?」

「政府の襲撃を受けたのだ。護衛の兵士たちがほとんど殺される中、君は生き残った」

「生きた心地がしない」

 スギヤマがいうと、ハタは微笑んだ。

「無理もない。重篤な傷を負い、一時は意識もなかったからな」

「手足が動かない」

「手足は吹き飛んだり、切断したりすることはなかった。だが、君の顔は…」

「顔がどうなったという?」

「見てみたいか?」

「とにかく見せろ」

 スギヤマがいうと、ハタは頷き、近くにあった手鏡を持ち出して、スギヤマに見せた。包帯を巻きつけられた顔が映り込む。だがこれではどういう状態かわからない。

「これでは状態がわからん」

「医師が経過を記録するために残した写真がある。こちらを見るといい」

 ハタが写真を差し出す。

 スギヤマは写真を見つめた。頬を大きく抉られた男の顔があった。右の頬だった。それが大きく抉れ、他人が見ると頬に特大の窪みができているようだった。その窪みのために、顔の印象が奇怪なものになってしまった。

「異様な風貌になってしまったな」

 自虐的にスギヤマはいった。

「整形手術を受けるかね?」

「そんな時間が私にあるかどうか…」

 整形の手術を受ければ復帰が遅くなる。そんなことを思った。

「襲撃の前後の記憶さえあやふやだ。どうなったのか教えてくれ」

「政府はヘリで走行する君たちの車両を襲撃した。その後地上に降下した政府の部隊と、護衛部隊が戦闘状態になった。ヘリからの攻撃で負傷した君はその場から逃走し、近くの環境建築の内部に身を潜めた。結局敵は君を発見できずに撤退し、駆けつけた救援の部隊が、君を助け出した」

「私と一緒だった護衛の者はどうなった? 彼が私を助け出してくれた」

 ナキリ。途中から彼の状態さえわからなくなってしまった。

 ハタは言葉を告げる前に、躊躇う素振りを見せた。

「彼は、生きている。ただ、まだ意識が戻っていない」

「彼は助かるのか?」

「…重体だ。まだ第十三地区にいる。動かすことができなかった」

 スギヤマは落胆でため息をつく。ハタはスギヤマを慰めようとしたのか、肩に手を置く。

「彼が助かることを祈ろう」

 ハタはいった。

 スギヤマとハタは互いに項垂れた。ナキリの回復を祈った。

 祈りのあとで、スギヤマは周囲に時計がないか探った。

「襲撃からどれほどの時間が経過したのだ?」

「襲撃から四十二時間だ。君が発見されたのは襲撃からおよそ六時間後だ」

「我々の計画はどうなった?」

 スギヤマが尋ねるとハタは苦い顔になった。

「痛み分けといったところだ。君と私とで計画した第四地区への奇襲攻撃は、半ば成功していた」

「私の襲撃のせいで、第二十地区への攻撃は失敗したか」

「そうだ。しかも第二十地区の敵が、こちら側の第十三地区へ攻勢をかけようとしていた」

「私が不在で、指揮系統が乱れたところを攻撃か」

「ウガキ司令は第四地区から撤退し、部隊を十三地区に向かわせた」

「十三地区は大打撃を受けたのか?」

「いや、被害はまるでない。結局政府の攻勢はなかったのだ」

「攻勢をかけなかっただと?」

「おそらく第四地区の部隊が合流し、こちらの指揮系統が復活したからだろう。政府は攻勢をかけることはなかった」

 ハタはいった。

 いや、それは違うとスギヤマは叫び声を上げそうになった。スギヤマの頭にかっと血が上った。

「いや違う、それは違う。まんまと政府の策に踊らされたんだ。政府が逆攻勢をかける余裕はなかった。私は前線の状況を誰よりも知っている。第二十地区に展開する部隊に、そこまでの対応力はなかった。なにせ私があの地区を攻撃するはずだったのだから、それがわかるのだ。政府の攻勢は見せかけだ。欺瞞行動だ」

 興奮し、捲し立てるようにスギヤマはいった。

「落ち着くんだ。なら、あのまま第四地区から撤退しなければ…」

「そうだ、第四地区は我々の手に落ちた。それから、逆攻勢に怯まずに第二十地区へ攻撃をかけていれば、そこも我々の手に落ちたかもしれんのだ」

「政府に一杯喰わされたわけか」

「そうだ。第四地区を襲われた段階で、政府は狼狽し切っていたに違いない。ところが私の襲撃を利用し、さらには欺瞞の逆攻勢をその場で思いついて、実行に移した。大した役者だよ、名演技だ」

 いい終わってから、スギヤマは口元に痛みを感じた。興奮して喋り過ぎたせいで、口元の傷が開いたのかもしれない。

 政府の誰がこんな芝居を打ったのか、おおよその検討はついていた。かつて司令官のウガキと同僚だった男。官僚然としていて、鼻持ちならない印象の男。かつて政府の軍にいたころ、スギヤマも一度だけその男の顔を見たことがある。

 スギヤマがその男に対する激しい敵愾心を燃やす隣で、ハタがいう。

「…ともかくも、政府も我々もどこかの地区を得たり、失ったりすることはなかった。もちろん、政府には少なくない動揺は与えた。そういう意味で、痛み分けに終わったのだ」

「あの、大臣令嬢の誘拐はどうなった? 私はあの計画にはあまり前向きではなかったが…」

「あれも大成功とはいかなかったな」

「もとより誘拐など成功するはずがない」

 スギヤマはいった。あの計画はあまりに成功の見込みがない、とスギヤマは思っていた。下層社会の浮浪児たちに大臣令嬢を誘拐させるというのは、無茶がある計画だった。

「誘拐には失敗したが、令嬢の行方が掴めなくなっている」

「なんだって?」

「どういうわけかわからんが、令嬢は姿を消した。しかも姿を消したのは、下層部においてだ。我々も政府も、追跡している」

「予想外の事態だ」

「そうだな。だが、おかげ政府側ではひっくり返ったような大騒ぎになっているようだ。動揺や不安が広がっている。あとで政府側の報道などを見るといい」

 大臣令嬢がテロに遭い、行方が知れない。その情報だけでも、どれほどの混乱が起きるか想像はつく。

「報道は確認しておく。それより、やらなければならないことがある」

 スギヤマはいった。

「それはなんだ?」

「内通者狩りだ。あやふやだった記憶が蘇ってきた。どうして私の位置や予定や行動が政府に特定できた? どうすればあのような襲撃が政府にできたのか? 答えは簡単だ。内通者だ。我々の中に内通者がいて、情報を政府に送ったのだ。そいつを見つけ出さねばならん」

「内通者の存在は司令が前々から指摘していた」

「私への襲撃、それに先立つ司令への襲撃も、同じ者の手引きによるかもしれん。そいつを見つけ出して、見せしめで惨く殺す。それをしなければいけない」

「そのためにはなにから始める?」

「襲撃に至る情報を整理する。それと、襲撃当時の状況も、もう一度検証する。その検証作業を通じて、手がかりを探る。私に人をつけてくれ。私が動けぬ代わりに、作業をしてもらいたいのだ」

「わかった。手配しよう。また連絡を入れる」

 ハタはそういって、病室を去った。

 枕元に、ハタは手鏡を置き忘れていった。スギヤマは鏡を覗き込んだ。包帯を巻きつけられた顔。その下には、奇怪で巨大な窪みがあるという。まだ現実感がせず、他人事のように思えた。

 ハタは、整形手術はどうかといっていたが、スギヤマは気乗りしなかった。顔を治すよりも先に、やるべきことがあった。

 自分自身をこのような顔にした内通者を見つけ出し、殺害するのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ