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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第2部 逃走
35/87

33 Emma - Chasing Alice

 落下傘が残されている。

 だが女の姿はない。死体もない。あるのは凍てつく夜の闇と人気のない大通り。建築物は夜のおかげで存在感を埋没させている。

 誰もいない大通りの上に落下傘が破棄されている。場所は女が飛び降りた超高層建築からはさして離れていなかった。もうあと数分もすれば、政府の人間もここに到着するだろう。

 他に手がかりはないかを探った。だが、なにも見つからなかった。

 エマは唇を噛み締めながらその場から離れる。

 誘拐は失敗に終わった。成功する見込みがほとんどない計画だということはわかっていた。そして自分自身も生き残った。だが、どこかで目標を達成できなかった悔しさがあった。あの女をあと一歩のところで逃した。もう少し行動が機敏であれば、あの女の体に触れていることもできたはずだった。エマの心に燻る悔しさは、あの女を逃したことによるものだった。

 数ブロック歩いた先にあった商用建築物にエマは身を潜めた。夜間に女の一人歩きは目立つ。建築物内部を人目につかぬよう気をつけながら歩き回り、隠れる場所を探した。企業が借りているフロアの更衣室に入り込み、鍵をかけ忘れたロッカーから作業着を奪い、着替える。それまで着ていた服はダストボックスに投げ込んで廃棄する。

 更衣室の鏡に映る、女の作業員の姿。肉体労働者を装えば、外を出歩くにしても人目を引くことはあまりないだろう。

 思考を整理する。考えをまとめようとする。状況は錯綜している。自分の想定になかった事態が起きている。まずは女が消えた。そして女の行動に巻き込まれた少年の姿もない。二人は逃走をしているのか、あるいは少年が女の身柄を押さえ、移動しているのか、ともかくも二人になにが起きているのかがわからない。次に、あの会場で起きた想定外の銃撃だ。エマたち以外の誰かが介入し、あの銃撃が起きた。エマにはそうとしか思えない。最初に起こったあの銃撃で事態の収拾がつかなくなった。誘拐に成功したかどうかは別にして、少なくともエマが統御し切れるような事態ではなくなってしまった。

 チョウの判断を一度仰ぐべきだとエマは思った。急いで女を追いかけないと完全に見失ってしまうが、それにしても不測の事態が続いている。独自に行動したところで、危険がさらに増すだけだ。

 エマは建築物を出て、闇の中を歩いた。連絡係である司祭のいる教会まで戻る。それはひどく長い旅路に思えた。各所で検問が敷かれ、夜空に哨戒ヘリが舞う政府の厳戒態勢をすり抜けていく必要があった。エマは明け方近くまで歩き続けた。作業着が汗でぐしゃぐしゃに濡れ、赤い髪の先からも汗が滴っている。

 教会の扉をこじ開ける。誰もいないはずの教会。蒼ざめた月明かりが差し込んでいる。告解室へ歩く。

 告解室に近づくにつれ血の臭いが漂っていることにエマは気づく。銃を抜いた。警戒しながら告解室の扉を開ける。

 司祭は殺されていた。眉間と胸部に銃弾を撃ち込まれている。抵抗の痕跡は見られない。抵抗する間もなく銃撃されたのだろう。無駄のない、鮮やかな殺害。銃撃方法は軍人のそれだ。

 またしても状況がおかしくなった。

 エマは潜伏場所にしていた宿に向かった。フロントの奥で老婆が倒れていた。老婆も殺害されていた。自分たちが使っていた部屋に入ると、そこに置いてきたはずの資料やものが一切なくなっていた。

 状況に対する戸惑いと蓄積した疲労で頭がくらくらとする。落ち着いて考えようとするが、それも上手くいかない。おそらく政府の仕業ではない。だがこちら側の人間の仕業なのか。

 フロントに戻る。老婆の死体と流れ出る血を踏まぬようにして、フロントのカウンターを探り、地図を取り出す。目的地を確認する。

 もう夜が明ける。もう店は開いているだろうか。

 まる一日寝ていない。さすがに疲労を感じるが、まだ動ける。歩き続けてはいるが足に痛みもない。ひどいのは汗だ。真冬だというのに運動をし続けているせいで汗をかき過ぎている。服が濡れて不快だった。汗で赤毛の髪が輝く。

 都市は迷宮のようだ。いったい誰がどういう意図で計画したのか、整然とした大通りや巨大ビルの並びの真裏には、進んで人が寄りつかないような奇矯な建築物が必ず存在する。それらは人知れず、おそらくは行政に届け出も出さずに地下や空中で他の建築物と繋ぎあわされたりして、容易に解体ができなくなっている。超高層かつ巨大な建築物が都市の大半を覆う一方で、その建築物の周縁にはまるで寄生虫のように中小規模の建築物が寄り添っている。そうした建築物は、貧しい人間といかがわしい人間で溢れている。

 エマが向かう目的の店も、巨大高層建築の裏にある古臭いビルに入っていて、そうしたいかがわしい人間で朝から溢れていた。夜間労働者向けの酒場。朝から営業を始め、昼過ぎには店は閉まる。

 店の看板には、堂々と華龍盟の文字と紋章が刻まれている。

「店主はいるか?」

 エマは店先に立つ従業員に声をかけた。

「従業員室にいますが」

「邪魔をするぞ」

「ちょっと、あんたいったいどこの…」

 従業員がエマを止めようとエマの肩に手をかけた。エマは看板に顔を向けた。従業員にわかるよう、さらに目線を紋章に向けた。

 その動作で従業員は事情を察したのか、エマから手を離した。

 従業員室に入る。白髪の目立つ中年女が椅子に腰かけ、煙草を吸い、そして酒を呷っている。エマを見て女は微笑んだ。

「エマ。懐かしい顔だ。久しぶりじゃないか」

「ソン、少し邪魔をする」

「普通なら組織を抜けた人間の世話は焼かないが」

「それなりに恩は売ったつもりだ。組織にも、あんたにも」

「マオを殺したことかい?」

「マオのようなチンピラだけじゃない。組織にいわれるまま対立組織の人間や警官も殺した」

 十年以上前の記憶。過去を振り返るのはあまり好きではなかった。ろくでもない人生だと痛感するだけだからだ。だが、過去の縁故を頼ろうとするいま、過去を振り返るなというのが無理な話かもしれない。身寄りのないエマは華龍盟に拾われ、育てられた。銃の扱い方と人殺しの方法を学んだ。そして組織にいわれるがまま、抗争相手や組織と揉めた警官を殺した。

「…誰もが小さかったあんたに油断したんだね。あんたが優れていたのか、教育者が優れていたのか」

 エマは首を振った。

「どちらでもない。運がよかっただけに過ぎない」

「随分と謙虚じゃないか」

 ソンは笑った。

「それが事実だからだ」

「謙虚でいるのはいいことだ。自信過剰になるといけない。激情に駆られるのもいけない」

 教訓めいたことをソンはいう。昔にも同じことをいわれた。その言葉が彼女の処世訓なのだろう。だからソンは常に落ち着き払っている。夫と息子をマオというチンピラに殺されたときも、そしてその復讐をエマに命じたときも、彼女は落ち着いていた。

「AGWと連絡が取りたい。ものを借りる」

 エマはいった。

「昨日から街は大変な騒ぎになっている。軍隊の衝突だけじゃない、テロも起きた。あんたも関与しているのかい?」

「テロには関与した。だが、私も全体像を知っているわけじゃない」

「華龍盟も動き出したようだ」

「組織が? なぜ?」

「金儲けの機会になると思ったんじゃないかね?」

「抜け目がないのか、愚かなのか」

「賢明な組織とはいえないね。軍隊同士の争いに首を突っ込むなんてさ」

「組織の人間に、その言葉をそのまま投げつけてやるといい」

「あんたの教育者にそう伝えておくよ」

 ソンはいった。

 エマは無言で、しかし、勝手にしろと手を振って合図した。

 部屋の奥に進む。ソンが用意した通信機材を使って、AGWに無線を飛ばす。暗号を利用しての会話。

「状況を報告しろ」

 チョウの声がした。朝から高圧的な声の調子だったためエマは眉を顰めた。

「誘拐は失敗。女は逃亡した。想定外の事態が発生している」

「具体的には?」

「襲撃に際して第三者の介入があった。それから、襲撃後に計画に間接的に関与した人間が二名消されていた。これはどういうことだ? 説明と今後の指示を求める」

「おそらく協力者の行動だと思われる。君たちを支援するつもりで襲撃に介入したのだろう。それから、自身に繋がる痕跡を隠滅するため、他の関与者を殺害したようだ」

「まったくもって迷惑な行動だ。それで事態を統制できなくなった」

「こちら側が彼の反対を押し切り、襲撃を強行したせいでもある。彼はその件で怒り狂っているようだ。だがなんにせよ政府には動揺を与えたという評価は得た」

 評価などどうでもいい。お前の出世など興味はない。そんな言葉を吐きたくなったが、エマはそれを堪えた。

「女はどうする?」

「追跡しろ。政府もまだ行方を掴めていないようだ」

「華龍盟が動き出したときいた。他の犯罪組織の動向も含めてなにか情報はないか?」

「現状ではない。なにを企んでいるかはわからんが、注意しろ」

「わかった。女を追跡する。それから…」

「それから、なんだ?」

「協力者に伝えろ。私の邪魔をするなと」

「…伝えておこう」

 会話を終える。

 協力者。いったい何者なのか。単独で行動しているのか、それとも複数で行動しているのかさえ読めない。目的のためなら情け容赦なく人を殺して回る手口には、自分にまで牙を剥くのではないかと懸念を覚える。こうした混沌とした状況で、不安材料をこれ以上抱え込みたくはなかった。

 ため息をつく。疲労がのしかかってくる。

 だが歩みを止めてはいけない。女を追わなければならない。

 ソンに声をかける。

「邪魔をした」

「もう行くのかい?」

「仕事がある」

 エマはソンの横を通ろうとした。ソンが手を差し出す。手には札束が握られている。

「持っていくといい」

「どういう風の吹き回しだ?」

 エマは笑う。

「…マオ殺しの礼だ。あのころ渡しそびれた金さ。当座の金に使うといい」

「私はあんたに命令されて奴を殺した。報酬がどうこういえる立場じゃなかった。もう昔の話だ」

「だからいま渡すのさ」

 ソンはいう。ソンの目線がエマの服装に移る。汗で濡れ、臭いがする作業服。修羅場を切り抜けたはいいが、エマが苦境にあることをソンは悟っている。

 迷った末にエマは金を受け取った。

「この金は必ず返す」

「ちっぽけな子どもに人殺しを命じた。ろくでもない人生に引き込んだ」

「もう過ぎた話だ」

「歳をとったのさ。あのころの自分の冷酷さに、耐えられなくなっている」

 そういってソンは酒を呷る。煙草を吸い、煙を吐く。表情は変わらず落ち着いている。良心の呵責に苦しんでいる、そんな様子は微塵も感じさせなかった。

「恩に着る」

 エマはそういって部屋を出た。

 朝の酒場。夜間労働者たちが上手そうに酒を飲んでいる。エマは従業員を捕まえる。ソンから受け取った金をちらつかせる。昨日からの数時間で情報が流れていないか問いただす。女を追うにしても、まずはそこからだ。


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