31 Alice - Hate Conquer Everything
憎しみはすべてを凌駕する。
アリスは老教授の言葉を、真冬の夜の底で思い出していた。あの講義のとき、自分はまだ誰も憎んではいなかった。誰かを憎むときが本当にくるのだろうか、そう思いもした。
だが、いまアリスは本気で目の前の男を憎んでいる。アリスを組み敷いて、銃を突きつけている男。男の上着が目に入るたび、憎しみが激しく燃え立つ。上着のもとの持ち主のことを思う。ハナ。アリスに声をかけてくれたあの爽やかな青年を思う。この上着はきっと彼のものだ。それを目の前にいる見ず知らずの男が着ている。
「彼をどうしたの?」
アリスは男を睨みながら、そういった。
パーティの場に、ハナの姿はなかった。そして自分を襲ったこの男がハナのものと思しき上着を着ている。ハナの身が心配だった。
「俺の知ったことか」
男は冷然といった。男もまたアリスに対して激しい憎しみを燃え立たせている。彼の目を覗き込めば、彼が憎しみに支配されているのがわかる。彼の瞳の奥にどす黒い炎があった。
額に突きつけられる銃口は冷たかった。それに人間的な温かみなどあるはずもなかった。その銃口から飛び出す弾丸はやはり冷たいのだろうか。
銃を握る男の手は、不自然なほど震えている。男の意志とは別に、手が勝手に動いているようだ。
「その上着、私の友人のものね」
アリスはいう。
男は一瞬上着を見た。
「私の友人はどうなったの?」
男に尋ねる。男は答えようとせず、ただ黙っていた。
「答えて。いえ、答えなさい。彼は…」
そこまでいいかけたとき、男がアリスの額に銃を強く押しつけ、アリスの言葉を遮った。
「俺の知ったことではない」
先ほどよりも強い調子で男はいう。
「いいえ、あなたは知っている。私の友人がどうなったかを」
アリスは男の恫喝に屈することなく、まっすぐに彼の目を覗き込み、そういった。
「その銃で私を殺すのなら、せめて殺す前に教えて、私の友人の行方を」
「この上着の持ち主が、お前にとってのなんだったというんだ?」
苛立ったように男はいう。なぜそこまでこだわるのだと、言葉には出さないが男の目がそう問いかけている。
「…友達ともまだいえなかった。知りあいというぐらいの人だった」
アリスは正直にいった。いいながら、ハナの姿を思い浮かべた。
「そんな程度の奴になにをこだわっている」
「それでも彼は善意の人だった」
男の心ない言葉に対し、アリスは叫んだ。ハナのことを思った。涙が浮かび、目の端にたまっていく。
「彼は善意ある人だった。少なくとも、罪はなかった。こんなことに巻き込まれるような罪はなかった」
いったいあの青年になんの落ち度があったという。なんの罪があったという。どこにでもいる普通の学生で、善良な人だった彼が、どうしてこんなことに巻き込まれる必要があったのだ。
アリスの心からの叫びを、男は眉を顰めてきいていた。男の目の動きで、彼がなにかを逡巡しているのがわかった。良心や善性を完全に喪失したわけではない者の行動。
「教えて。彼はどうなったの?」
再度アリスは問いかける。
男はアリスの目を見ていられなくなったのか、目を逸らし、数秒の沈黙のあとで、呟くようにいう。
「この服の持ち主はたぶん生きてはいないだろう。きっと殺されたはずだ」
予想はしていた。そうだとはいえ、冷たい刃を体に刺し込まれる感覚がした。次に燃えるような感情が沸き上がる。アリスはそれが怒りと憎しみであることを知っている。アリスはそれらがこの世にあるどんな酒や薬物よりも人を突き動かすものであることを知っている。アリスは沸き上がる怒りと憎しみに自分を攫われないように、懸命に感情を抑制した。
「あなたは人を殺して、なんとも思わないの?」
感情を抑えたつもりだったが、それでもそんな言葉が口から零れていた。詰られたと感じた男が逆上し、それまでアリスの腕を押さえつけていた手を離して、今度はアリスの首を絞めつけた。息が苦しくなった。男の手の熱さがより一層伝わってくる。
「俺が殺したわけじゃない」
男はいった。
そのいいわけじみた発言に、アリスはかっとなっていった。
「あなたが殺していなくても、彼の死に加担したのは事実だわ」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって、あなたは…」
続きをいおうとしたが、男の手がぐっとアリスの首を押さえつけた。言葉が途切れる。苦しい。
「説教はいい。俺も望んでこんなことをしているわけじゃない。仲間のためだ。仲間の命がかかっている。仲間のためなら、誰が死のうとも、誰が殺されようとも、俺はあんたを捕まえ、奴らに身柄を引き渡す」
男はいう。
「友人を殺した人たちの手に落ちるくらいなら、私は死を選ぶわ」
アリスはいった。本気だった。怒りと憎しみは衝動を付与する。その衝動さえあれば、舌を噛み切って死ぬことくらい、たやすいことのように思えた。
「状況を考えろ。こっちには銃がある。手荒な真似はしたくない。大人しくするんだ」
男はいう。
アリスは冷笑した。
「そんな震える手で脅されても、なんの説得力もないわ」
男を嘲笑った瞬間に、首をまた絞めつけられた。アリスと同じく衝動を堪え切れない性質の人間。いや、衝動を堪え切れないのは男の人間性のためというよりは、男の年若さのためだ。年若く、未熟であるがゆえに、彼は衝動を堪え切れないのだ。考えてもみれば、目の前の男は少年といって差支えがなく、アリスよりもおそらくは歳下なのだ。
そんな男の手は病的なほど震えている。
「そんな手を震わせておいて、それで脅しているつもり? それで私を撃てるというの? 撃てるものなら、撃ってみるといいわ」
アリスは屹然とした態度と凛とした口調で男にいってのけた。男から目を逸らさず、まるで射抜くように彼の目を見る。
「なにを…」
男は呟く。
「さあ、撃ちなさい」
アリスは男を挑発した。憎しみはこちらも燃え立っている。
挑発を受けた男は、自身の震える手を見やった。彼はなんとかして手の震えを押さえて、平静を装おうと努めた。
男の視線がアリスから逸れたその瞬間、アリスは動いた。自身の手を動かし、銃身を掴んだ。必死でもがいた。男が首を掴むせいで、ひどく首が痛み、呼吸ができない。それでも銃を奪おうと抵抗を続ける。その病的な震えからして、男が銃を撃てないのはわかっていた。もっといえば、その手にどれほどの力がこもっているのか疑問だった。銃身を掴んだとき、はっきりとわかった。男の銃を握る手に、力はほとんどこめられていなかった。男から銃をもぎ取る。呼吸が苦しい。銃を握る手にはまったく力がこもっていないのに対して、アリスの首を掴む手は、アリスを窒息死させかねないほどの力がこもっている。もはや男の手は、なんらかの病気にかかっているとしか思えなかった。血液という血液が頭部で鬱血しているのがわかる。顔を真っ赤にさせながら、アリスは抵抗する。もがき、そして転がる。もぎ取った銃は決して離さなかった。銃を掴み直す。男の顔に銃を向ける。狙いを外して、発砲する。弾丸が男の頬を掠める。
男の動きが止まる。
「私は銃を撃てる」
アリスはいった。
男はまるで機械が停止したように、動かなくなる。自分の手の動きが信じられないといった顔で、銃を握っていた手を見つめる。
アリスは男の額に銃口を押しつける。男が自分にそうしていたように。




