30 Kuroki - Bloody Room
部下とともに大惨事が起きた現場に足を踏み入れる。エレベーターの扉が開いた瞬間に、血の匂いが漂ってきた。大混乱に陥った会場の空気はいまだ消えず、残っている。
現場検証が始まっていた。警察だけでなく治安関係者が大勢集まっていた。クロキの知った顔も多い。内務省の警護課長まで現場に駆けつけている。
クロキは警護課長の肩に手をかけた。警護課長は憔悴し切っていた。互いに頷きあう。言葉は必要なかった。
会場の前ですでに血の海ができていた。鮮やかな赤い色の絨毯に、どす黒い血が染み込んでいる。会場に入ると、異臭が一段とひどくなった。血だけでなく、ひっくり返った料理や飲料の臭いが混じったせいだろう。
クロキより先行して現場に入っていたフクシマが、クロキの前に立った。フクシマは憤然とした顔をしていた。憤りのあまり顔が赤黒くなっている。
「状況を再度教えてくれ」
クロキはフクシマにいった。フクシマは憤りを堪えながら、くぐもった声で話し始めた。
「武装した侵入者二名が会場内で銃を乱射。目撃者の証言から警護課職員を狙ったと思われます。被弾した職員二名が重体、七名が重傷。また会場の参加者からも、流れ弾によって十三名の重傷者が出ています。侵入者二名は応戦した警護課職員により射殺されました」
クロキは死体を見つめた。自動小銃を手にした死体。身なりは立派だが、顔をよく見ればまだ子どもだった。それぞれ胸に二発、頭に一発銃弾を叩き込まれている。
「…まだ子どもだ」
「そう、子どもです。AGWの連中はこんな年若い子どもに、テロを強要させている。どうかしている。狂気の沙汰だ」
「説明を続けてくれ」
「会場の外でも発砲が。こちらの発砲が時系列的には先に発生したようです」
「先に会場の外で銃撃、そのあとで会場内でも銃撃、ということか」
「そうです。警護課職員同士での撃ちあいです。なんということだ」
「話はきいている」
「撃ちあいの結果、職員一名が死亡しました。例の、イワマという警護課の職員です」
イワマの名前が出ても、クロキは微動だにしなかった。
「君は状況をどう推察するかね?」
クロキに問われたフクシマは、眉を顰めた。
「イワマが内通者で、会場の外から銃撃を行うことで、混乱を引き起こそうとしたのでしょう。実際、会場は大混乱に陥った。警護課の人間たちも会場の内外で二手に分かれて対応せざるを得なくなった。目論見通りですよ。自分自身が死んだことを除けばね」
「そこから会場内部での銃撃、混乱は収束不可能となった。それによって令嬢はどんどん孤立していったわけだ」
「令嬢の行動に関しては、不可解な点も多い。検証が必要でしょう」
会場の窓ガラスに、一つの巨大な穴が開いている。銃撃によってガラスが粉々に砕け散ることでできあがったその穴から容赦なく寒風が吹き込んでくる。アリスはそこから自由落下を決め込んだ。超高層建築物に法律が設置を義務づけた簡易落下傘を彼女は使った。襲撃者に追い込まれた末の緊急避難だったのだろうが、あまりに無茶苦茶で、危険極まりない行動。
クロキは巨大な穴の先に広がる闇を覗き込んだ。ここからでは高さと闇のせいで地上部分が見えない。まるで千尋の谷を覗き込んでいるようだ。
アリスにとって幸運だったのは、彼女が飛び降り、滑空しただろうその範囲内に、滑空の妨げとなるような各建築物を繋ぐ連結通路や道路がなかったことだ。すぐに落下傘を開き、周囲に聳える建築物に激突せぬよう緩やかに降下してさえいれば、助かる見込みはあった。
「検証よりも探索が先だ。生きてはいるんだろうな?」
「四十分前に探索に向かった警察隊より連絡がありました。令嬢が使用したと思しき落下傘が放棄されていました。着地には成功したようですが、そこから姿を消しております」
「一緒に落下に巻き込まれた男がいるときいた。AGWの手の者なら、彼に拉致されたのだろう。とにかく急いで探すのだ。どうせ徒歩だ。簡単には逃れられない」
クロキはいった。
フクシマが拳を強く握り締めるのが見えた。体が小刻みに震えているようだ。
「どうした?」
「審議官」
フクシマの声には強い怒気が含まれていた。
「審議官、これは我々の失態だ。一名が死に、重体が二名、重傷者は二十名。犯人も含めれば三人も人間が死んだ。大臣令嬢も行方不明になった」
「いいたいことはわかる」
クロキは落ち着きを保ちながら、そういった。
「そんな言葉ですむ話ではありません」
フクシマは怒鳴った。
周囲の人間がクロキたちを見る。
周囲の視線を察したフクシマはクロキに近寄り、声を落としていう。
「大臣令嬢をここに連れてきてはいけなかった。もっというと、計画を察知した段階で情報を開示してパーティを中止にさせるべきだった」
「情報を開示すれば内通者の身元が割れる。それはどの道できなかった」
「内通者の安全が優先だと? そこまでして守るべき存在だと?」
フクシマのその一言に、クロキも顔を険しくした。
「ああ、そこまでしても守るべき存在だ。君もわかっているはずだ。内通が発覚した者の末路がどれだけ悲惨なものかを。殺されるだけではない、死体まで辱められる」
いいながらクロキはそれまでの人生で関わりのあった内通者や諜報員たちを思い出す。彼らもまた極限の重圧に耐え、一歩間違えれば即座に死が訪れる状況下で生きて、戦っている。そうした彼らの命が軽んじられていいわけがない。
「しかし、こんな結果は…。こんな結果になったのは、間違いなく我々の責任だ」
フクシマは痛切極まりないといった顔をする。古巣の部署の人間を失ったのだと思うと、フクシマがそういう顔をするのも無理はなかった。
「こんな結果にはなったが、それでも敵の進軍は食い止めた。敵の攻勢企図は挫いた。そうだろう?」
クロキはいった。まるでフクシマだけでなく自分をも宥めるようないい方だった。
スギヤマの襲撃とときを同じくして、ウガキが第四地区に奇襲を仕掛けた。政府からすれば完全に寝首をかかれた形で、第四地区は一時陥落寸前の危機に陥った。クロキはフクシマ、フジイと謀って政府の部隊を動かし、スギヤマが部隊を集結させていた第十三地区に逆攻勢をかけるように見せかけた。クロキの読みでは、ウガキの奇襲にあわせてスギヤマの部隊もそれに呼応すると思われた。ところがそれよりも先にクロキたちがスギヤマを襲撃したことでスギヤマは生死不明のまま行方がわからず、スギヤマの部隊は指揮系統に混乱が生じていた。そこでクロキたちは敵に逆攻勢を仕掛けようという欺瞞行動に出たのだ。企図したのは、ウガキに奇襲を中止させるか、もしくは部隊を割いてスギヤマの増援に向かわせるかのどちらかであった。狙いはまんまと当たった。ウガキは第四地区で一度政府軍と激しく衝突したが、短時間で撤退を決断した。ウガキはクロキたちの逆攻勢を警戒し、自身の部隊を撤退させたのち、スギヤマの部隊と合流したのだ。それにより第四地区は失陥の危機を免れた。
クロキたちがスギヤマの暗殺作戦を行っていなければ、また土壇場で欺瞞策を打っていなければ、第四地区は敵の手に落ち、スギヤマの部隊と対峙していた政府の部隊も多大な犠牲を払うことになったかもしれない。
「スギヤマの生死についての最新の情報は?」
フクシマはクロキにきいた。
「私がここへ出向く時点でまだ生死不明だった。逃げおおせたのかもしれん」
「くそっ」
「そう激するな。すぐに奴が部隊に復帰しなかったあたり、重篤な傷を負わせたかもしれん」
「奴を消さなければ意味がない」
「まだその機会は残っている。そのための手も打った」
「手を打った?」
「襲撃現場に細工を施した。内通者の正体を隠匿するためだ」
「なんの細工をしたというんです?」
「死体を一つ消した。その死体を内通者に仕立て上げる」
クロキはいった。
フクシマはまだ状況が呑み込めていないという顔で話をきいていた。
「今回の事態につき、不手際が多かったのも事実だ。だが失態ばかりでもない。こちら側の内通者は正体がまだ露見していない。潜伏を続けている。逆に敵方の内通者については、我々は手がかりを得ることができた。敵の攻勢は頓挫し、令嬢もまだ生きている。まだ挽回は可能だ」
「それが本当にできると?」
「そうするしかないだろう」
疑念を捨て切れぬフクシマに、クロキはそういった。
「その、死亡した警護課の者のところまで案内してくれ」
フクシマは会場の外へクロキを案内した。先ほどクロキも通り過ぎた会場外の廊下の陰で、死体は転がっていた。胸に三発の弾丸を浴びている。
その近くには、警察関係者にとり囲まれながら、壁にもたれかかって床に座り込み、呆然自失としている男がいた。
「あれは?」
クロキが尋ねる。
「イワマを射殺した同僚の者です。フクダといい、イワマとは二人で令嬢の警護を担当していました。銃撃戦の結果、彼が生き残ったようです」
フクシマがクロキに耳打ちする。
「どういう経緯で銃撃戦になった?」
声を落としながらクロキは尋ねる。
「フクダもあの状態ですからまだきっちりと聴取できていませんが、イワマが突如持ち場を離れようとし、フクダがイワマを引きとめたところ、イワマが銃を抜き、フクダを銃撃しようとしたとのことです。それにフクダが応戦したようです」
「映像かなにかは残っていないのか?」
「この物陰は死角に入っていますよ」
クロキは舌打ちを堪えた。これでは真偽を確かめようがない。
「イワマは本当に政府に潜む内通者だったのか?」
「彼は我々が仕組んだ令嬢の警護強化が発表された直後に、秘匿回線を利用して何者かと会話していました。そしてこの事態。もちろん確たる証拠はありませんが、疑惑は残されています」
「急には信じられんよ」
「なにかそう思われる根拠でも?」
「…いや、なんでもない」
フクシマに問われたクロキは、そう言葉を濁すしかなかった。
「彼は大丈夫なのかね?」
クロキは消沈しているフクダを見やった。
「…憔悴し切っています。同僚に裏切られ、撃ちあいになり、相手を殺してしまった。生き残ったとはいえ、衝撃が大きかったのでしょう」
フクダは虚ろな目で、イワマの死体をじっと見つめている。彼に裏切られ、挙句彼を殺してしまったのがよほど衝撃だったのか。
「彼がまともな状態に戻り次第、事情をきかねばならん。彼が正常に戻れればの話だが」
「人間、どういうことがきっかけで心が壊れるかわかりませんからな」
フクシマは目を伏せながらそういった。
「おい、待ちなさい」
現場を見張る警官が突然声を上げた。クロキたちがその警官の方向に視線を向けると、警察官の脇を無理やり通り抜けて、こちらへと走ってくる少女が見えた。髪が赤い。
「どうして一般人を通した」
警察関係者で上長らしき人物が叱責する。
「被害者の身内だそうです」
「関係ない。現場から遠ざけろ」
「離して。兄さんに会わせて」
赤い髪の少女が叫ぶ。警官たちが少女を取り押さえようとするが、少女は激しく抵抗し、彼らから逃れようとする。警官三人で少女を捕まえ、少女の身動きを奪った。
それでも少女はあがき続け、必死に声を上げる。
「兄さんに会わせて」
やがて少女の視界に、イワマの死体が映り込む。銃弾を浴び、床に転がるイワマを見て、少女の表情は一瞬凍りついた。現実を受け入れられないという顔だった。
急速に少女から力が抜け落ちていく。糸の切れた操り人形のように、少女は崩れ落ちる。
「兄さん」
少女はとめどなく涙を流す。
その場にいた関係者の少女を見つめる表情はさまざまだった。状況をすべて知ったわけではない警官たちは、死者の親族ということもあり、同情的な顔をしていた。一方で内務省の関係者たちは裏切り者の親族が泣き崩れる姿に複雑な顔を浮かべていた。
フクシマも険しい顔で少女を見つめていた。
クロキは少女に向かって歩いていった。




