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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第1部 誘拐
21/87

20 Nate - Missing Students

 身に余る憎しみを植えつけられ、兵士たちに送り出された。

 ネイト、ケイジ、ショウは、照明がまったく存在せず、極端に暗い線路内を歩く。

 歩くたびに女の顔がちらつく。セガワアリス。知的で、冷たい目をした女。背格好や髪形も頭に叩き込んでいる。ネイトたちの苦難の元凶であり、身に疼く憎しみの対象。アリスをそのように思い込むことで、ネイトたちは痛めつけられた精神をなんとか保っている。

 大昔に閉鎖された地下鉄の線路を利用し、政府の支配領域に入る。先行しているエマと同じルートを使う。少人数での移動なら、政府側に見つかる恐れはほとんどなかった。地下に張り巡らされた連絡通路のすべてを監視できるわけはないのだ。

 都市の超高層化と内戦によりそれまでの鉄道はほぼすべてが廃止に追い込まれ、その線路は閉鎖されることになった。それがいまでは政府側とAGW側の領域を行き来するためのルートとなっている。

 慎重に扉を開ける。暗い通路を何十分もかけて歩いていく。その間、ネイトたちは一言も喋らなかった。拷問で擦り減った精神に、恐怖と緊張がさらにのしかかってくる。言葉を交わす余裕などなかった。

 また扉を開ける。扉には鍵が壊された跡がある。エマの仕業だろう。階段室に出た。階段をのぼっていく。階段をのぼり切ったところの扉を開けると、地上に出た。

 どぎついネオンの輝きが目に飛び込んできた。どんよりとした都市の空気を感じる。

「よお、ガキども」

 闇の中から声がした。

 ネイトたちは一斉に身構えた。

「落ち着け。私だ。しばらく会ってなかったから、もう私のことを忘れたのか?」

 闇の中からエマが現れた。闇の中でも、エマの顔がにやついているのがわかる。それがネイトたちの苛立ちを強める。

「ついてこい」

 ネイトたちの苛立ちを一切気にすることなく、エマはネイトたちに背を向けて歩き始めた。本来のネイトたちであれば、なんの躊躇もなくエマの背中に蹴りを入れていただろう。だがいまはエマに殴りかかる気力さえ失せている。憎しみが立ち塞がる。アリスの顔が現れ、チョウの狂った声がきこえる。憎め、憎め、憎め。憎しみはすべてを凌駕する。女を攫わなければ、仲間が消される。レナの命が消し飛んでしまう。ネイトたちを裏切ったジュンのように。まずはあの女が優先なのだ。あの憎むべき女を確保することが、なによりも先んじなければならないのだ。

 空虚な目をして歩く。ケイジとショウの顔を見たくなかった。自分と同じように彼らの顔にも刻まれた惨めさと屈辱を、ネイトは視界に入れたくなかった。いま彼らの顔を見れば自分の精神が砕け散ってしまう気がした。

 悪臭が鼻につく。垢まみれの路上生活者たち、臓腑を晒して死んだ野良猫ども、飛び散った汚物やごみ。それらが放つ猛烈な悪臭が漂っている。下層部の臭いだ。

 気を紛らわせようと、空を見上げた。そこに空はなかった。建築群が空に突き刺さるほど高く伸びて、空を覆い隠してしまったのだ。

 天の近くで、星の代わりに光る部屋がある。金を溜め込み、地位に固執する人間のための部屋。そんな部屋が何千何百とネイトの目に映る。星のようにすべての部屋が砕け散ればいい。部屋どころかバベルの塔のような建築物の群れすべてが崩れ落ちればいい。遥か彼方、都市の上層部を見上げたとき、自分がもともと抱いていた憎しみが顔をもたげる。一瞬、アリスへの憎しみが弱まり、都市そのものへの憎しみが強まる。歯を剥き出しにした獣じみた表情で上層部を睨み、この都市すべてが消え去ればいいと願う。それは妄執か怨念か。憎しみの余り涙が溢れる。どうしてこの世には悲惨な人間がいる一方、安逸を貪る人間がいるのか。

「おい、小僧」

 その声で我に返る。

 エマが目の前にいた。

「どうした? ちゃんとついてこい」

 エマだけでなく、ケイジもショウも振り返ってネイトを見ていた。

 ネイトは妄念を一度捨てて、また歩き出した。暗い通りを何分歩いたのか。悪臭が薄らいだことで比較的まともな街区に入ったことはわかった。この時代にしては古めかしい建物が見えてくる。そこにエマは入っていく。日雇い労働者向けの簡易宿泊施設との看板が掲げられている。

 フロントに、干からびた顔の老婆がいる。物静かだが、金にはがめつそうだ。だがある程度信用は置けるかもしれない。金にうるさい人間は、金を掴ませればある程度まで忠実に、こちらの意に沿って動くからだ。

 建物をぐるりと見回す。自分たち以外の人の気配を探る。

「安心しろ。不審なところはない。私が前もって調べた」

 エマがいう。

 だがネイトはエマの言葉を無視する形で、周囲をじろじろと観察し続けた。誰も信用することなどできなかった。

 そんなネイトに一瞬エマは苛立った表情を見せたが、すぐにもとの表情に戻り、ネイトたちを部屋に通した。

 意外と広い部屋。ただ調度品はほとんどなく、殺風景だ。ベッドは四つ。

「貴様らの監視をかねて相部屋だ。不本意だがな」

「俺らにはどうでもいい」

 ネイトはいう。ケイジ、ショウと目をあわせる。二人も頷きを返した。いままでの生活でもレイ、レオナの姉妹と寝泊まりをともにしていた。だから、女と一緒の部屋で寝ようが、なんの気兼ねもしなかった。

「ここに三日間、潜伏する。それまでにいろいろと覚えてもらうことがある」

 エマはいった。この三日間で、襲撃に関する情報共有を行い、詳細を詰めていくという。

 エマはネイトたちにさまざまなデータを提示する。襲撃する会場の図面、会場までの侵入経路と脱出経路、警備の状況。それらを見せつけられた瞬間、ネイトの心の中に火がついた。与えられた多くの情報を丹念に読み解いていく。それは強盗の下準備とまるで同じだ。図面や情報を分析し、それらを自らの頭の中で具体化させ、映像化させ、動かしてみる。どのような危険が想定されるかを考え抜き、そこから自分たちがどこまで慎重かつ大胆に動けるかを想像する。

 盗みという卑しむべき行為においてさえ、熟練の技量や天分は確かに存在するものだ。

 ある男にそう教わった。その男はネイトに盗みの技術を教え、育て、手駒にして利用した。盗みの計画を立てるとき、いつも男の言葉を思い出す。その意図するところはこうだ。盗みという行為であっても、才能を働かせること、周到かつ綿密な計画立案と実行が必要となる。

 ネイトは時間を気にせず、目の前に散らばる情報を読み込んでいった。情報の分析と整理に文字通り没頭する。

「用意された衣服と身分証、これは本当に信用できるんだな?」

 思いついた疑問はすぐエマに尋ねる。

「協力者の話ではな」

「その協力者はどうなってる? 衣服と身分証の手配、銃器の配置をやって終わりか?」

「協力者は素性を伏せなければならん。これ以上の協力を期待するな」

「脱出路の確保、対象確保後の警報装置及び警備員の攪乱は絶対にやってもらう。資料にも、脱出路の用意と攪乱は協力者が担当するとある」

「期待はするなといっている」

「それでは不十分だ。お互いの命を守るためだ」

「なんだと?」

「俺たちは事態を切り抜けたい。あんたもとばっちりは食いたくない。そうだろう? なら、要求をすることには意義がある」

 ネイトはいった。AGWにとって成功を求めない捨て身の作戦であっても、現場に赴くエマにとっては、自身にも危険が及ぶのは避けたいところだろう。

 エマは腕を組み、しばらく逡巡する。

「…わかった。協力者に改めて連絡する」

 数十秒の沈黙のあとで、エマはネイトの要望をきき入れた。

 このように疑問があるごとにネイトはエマに問いただし、そして要望を突きつけていった。

 結局宿に到着してから休みなく作戦の検討と議論は続けられた。ネイトが書き込んだ何枚ものメモが、部屋の壁に貼られていていく。殺風景だった部屋は、メモで埋め尽くされたオフィスに様変わりしたようだ。

 外はもう明るくなっている。

 資料から目を離し、明るんだ外の景色を見た瞬間に、時間がどれほど過ぎたのかをネイトたちは知った。そして各々が猛烈な眠気を感じた。

 エマは議論が終わると、椅子から立ち上がり、一言外出するといって部屋を出ようとした。エマは表情に疲れや眠気をおくびにも出さなかった。

「どこへいく?」

 ネイトはエマに尋ねた。

「協力者と連絡を取る。こちらの要望を伝えてくる」

「必ず要望を通してくれ」

 エマは頷きこそしたものの返事はせずに部屋を出た。

 エマがいなくなったあとで、ネイトは、ケイジとショウが暗い目でネイトを見つめているのに気がついた。

「どうした?」

 二人の目を見るのが嫌で、視線を逸らしながらネイトはいう。

「お前はまた同じ過ちを繰り返そうとしている」

 ケイジはいった。

「過ちって、なんだ?」

「盗みへの、妙な自信だよ。自分には盗みの才能があると思い込んでる。だからまた喜んで盗みをやろうとしている」

 ケイジの目は暗く、怨嗟に満ちていた。

「喜んで盗みをやっていない。才能があるとも思っていない。ただ、この状況を切り抜けるために、俺たち自身の命を救い、レナの命も救うために、仕方なくやっている。非難される覚えはない」

「いいや、お前は自分の満足のためにこの仕事をやろうとしていた。さっきまでのお前の様子を見ていて俺はわかったよ。お前は、俺たちやレナを救うなんてことを、二の次にするってね」

「なんだと」

 ネイトは怒り、ケイジを睨んだ。

「お前がやってたことは自己満足に過ぎないんだよ。なんだあの偉そうな口ぶりは? 一人前ぶった態度は? 俺たちの仲間を殺したあのいかれた女と、べらべらと口をききやがって」

 ケイジは喚いた。

 ネイトも激高する。

「だったらお前はどうしたいんだ。このままむざむざ死ぬのか? 俺たちは爆弾を巻きつけてテロを起こす人間と変わりないんだ。だが、女さえ攫えば、生き残ることはできる。それに全力をかけてなにが悪い。文句をいう余裕さえないことに、気づいてないのか」

 ネイトは叫んだ。ケイジの胸倉を掴もうとしたが、ショウが間に入り、二人を引き離した。

「やめろよ、二人とも」

 ショウはいう。

「ショウ。お前だってその目はなんだ。ケイジと同じような目をしやがって。お前も文句があるんだろう? だがな、もはや文句なんざいえる状況じゃないんだ。お前らこそ、状況に気づくべきなんだ」

 全身を駆け巡った興奮は抑えがたく、ネイトはショウにも怒りの叫びをぶつけた。

 ショウは必死にネイトを押しとどめようとした。壁際までネイトの体を押しつけた。

「声を抑えろ。外に漏れる」

 ネイトから体を離すと、ショウはネイト、ケイジの双方にいった。

「くそっ」

 ネイトはいった。

 三人の間の空気は張り詰め、陰鬱な沈黙が流れる。ネイトはこの状況に至ってなおネイトヘの不満を募らせる二人に怒っていた。ケイジとショウはネイトが自己満足的にことを進め、また悲惨な失敗を繰り返すのではないかと懸念を深める。三人は睨みあい、何分もその場に立っていた。

 不毛な諍いだ、とネイトは思った。逃げ場はもはや存在しない。それなのになぜこの二人は、不平不満をいっているのだ。ネイトはケイジとショウを睨みつけながら、そんな思いを抱いている。

 ネイトは壁に貼ったセガワアリスの写真を引き剥がした。それを持って部屋を出た。頭を冷やすことが必要だと思った。

 外に出る前、フロントの前に立つ老婆と遭遇する。

「部屋からなにかきこえたか?」

 ネイトは老婆に尋ねた。

「いいや、なにも」

 どこかうんざりした表情で、老婆はいう。

「それならいい」

 ネイトは老婆にわずかだが金を掴ませた。老婆は黙って金を受けとった。

 外に出る。凍てつく寒さだ。下層部の混沌とした朝の風景が目の前に広がる。路上に散らかる無数のごみ、それらごみをかき集めて焚火をして暖をとる路上生活者。そんな彼ら目がけて、上層階からものを投げつける人がいる。喧騒が空から降ってくる。

 庇の下で、ネイトは風景を眺める。下層部のそれは、政府の領域でも、AGWの領域でも同じだった。衛生環境的には劣悪極まりなく、貧困に喘ぐ人々が天に向かって憎悪を募らせている。退廃と俗悪があらゆるところから立ち上っている。

 手に持った女の写真に見入る。写真の中の女は清潔な身なりだ。女はきっと穢れを知らないだろう。悪臭も、貧困も、憎悪も、この世の負の部分の一切を知らずに生きているのだろう。

 だからこそ憎しみが募る。この女は、ネイトが憎む安逸を貪る者に他ならない。生まれつき裕福な家庭に生まれ、この世の穢れをなにも知らず、安逸に人生を送ってきた者なのだ。ネイトたち下層部に生まれついた者の苦痛や絶望を、この女は知るはずもなければ、真に理解できるはずもない。

 憎め、憎め、憎め。

 チョウの言葉が蘇る。そうだ、この女が憎くてたまらない。この女に憎しみをぶつけてやるのだ。この女をAGWに引き渡し、苦痛と絶望がなんたるかを身に染みてわからせてやる。

 そして、自分たちは解放される。囚われたレナも救い出すのだ。

 写真を見つめながら、ネイトは決心した。その決心は、ケイジとショウに対する怒りをどこか遠くに押しやった。あの二人と対立するよりも優先すべきことは、この女の誘拐なのである。

 その瞬間は迫っている。もはや逃げることは許されない。立ち向かう。それ以外に選択肢はない。ネイトは自分にそういいきかせた。

 エマが宿舎に戻ってくるのが見えた。

「小僧、ここでなにをしている?」

 エマはネイトを見下ろしながら、そう尋ねた。

「外の空気を吸いにきただけだ」

 ネイトは、ケイジたちとの諍いについて伏せることにした。

「そうか」

 エマは無関心にいった。

「こちらの要望は通ったのか?」

「伝達は確かにした。協力者はおそらく動くだろう」

「その根拠は?」

 ネイトは尋ねた。

 エマは一瞬にやりと笑う。まるでいい質問だ、とでもいうように。

「お前、服の匂いを嗅いだことはあるか?」

「なに?」

「お前たちに渡した服、いい匂いがしたろ? 上層階に住む人間の、香水の匂いがしなかったか?」

 渡された衣装についた匂いなど、気にもしなかった。悪臭はしなかったことだけしか覚えていない。

「どういう意味なんだ?」

「協力者は、学生から直接衣装と身分証を入手したってことさ。私の衣装にも、いい香水の匂いがしたな。きっとアジアの粗悪品でなく、本場欧州のものだろう」

「直接入手したって、それだと政府に情報が漏れる…」

「情報は一切漏れていない。学生たちの失踪も、まったく気づかれていない」

「そんなことがあり得るのか?」

「私たちの協力者は、私たちを会場に潜入させるため、そこまでのことをやってのけたということだ。そういう人間だ、要望を伝えれば、すぐに動き出すだろう」

「学生たちは?」

「私の知ったことか」

 エマは酷薄に笑う。

 ネイトは部屋に走って戻った。衣装を調べる。その中の一着、ツイードのジャケットを手に取ると、香水の匂いが確かにした。そのジャケットは清潔だが使い込まれた印象があり、誰かが使用していたのは間違いなかった。

 衣装はエマのものも含めて四着あった。

つまり、四人の学生が、消された。

 それが頭に浮かび、ぞっとした。

 エマも部屋に戻ってきた。

「どうした、その顔は? 我々が生易しい人間だと、まだ思っているのか?」

 意地の悪い笑みをして、エマはいう。

「…いや」

 ネイトはとりあえずそれだけいった。それだけしかいえなかった。

 冷汗が滲む。不快感が胸の中を這いずり回る。だが、決心は揺らがなかった。なおさら誘拐に全力を尽くさねばならない。そう思った。

 


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