1 Alice - Wake Up
「始まりが為されんために人間は創られた」とアウグスティヌスはいった。
この始まりは、一人々々の人間の誕生ということによって保障されている。始まりとは、実は一人々々の人間なのだ。
ハンナ・アーレント(「全体主義の起源 第三巻」より)
―政府と反政府組織が、限定された超高層都市の内部で、果てのない闘争を繰り広げる時代―
第1部
1
赫奕とした朝陽は、その部屋と限りなく平行に近い位置にあった。黄金色の光は分厚いガラスを通り抜けて、下層も見えぬほど高みにある部屋を照らした。
光は、ベッドで眠る女の頬と瞼に触れた。だが、女を覚醒させたのは、光のせいではない。
耳障りな羽音が、遠くからきこえたためだ。
アリスは目を開いて、彼方の朝陽と見つめあった。自分と朝陽を遮るものは、せいぜいガラスだけだ。
ベッドから抜け出して、ガラスの前に立つ。アリスは裸だった。季節は厳冬だが、室内は機械による温度管理が徹底されていて、裸でいても問題ない。誰かの視線を気にすることもない。外部に同じ高さの建物はなく、あったとしてもこの太陽の光で、外からはろくになにも見えないだろう。もっとも、仮に誰かが自分を覗き見ていても、アリスは特に気にはしなかったが。
ガラスの外には、四百万棟を超える夥しい数の超高層建築物によって構成される街と国家が広がる。放射能の猛威を前に環境保護の大義と国土のほぼすべてをかなぐり捨て、領域すべてを高層化した都市。天空から都市を眺めると、それはまるで塔の海が広がっているように見える。国民の多くは劣悪な環境の下層を忌避し、建築物の中層から上層に居住し、貧民や移民は下層部に住みつき、スラムや無法地帯を形成する。歪に発展し尽した硝子の街だ。
ガラスに自分の姿がうっすらと映る。二十一歳の体はしなやかで、子供らしさはようやくなくなりつつあった。父が開くパーティの際に着る煌びやかなドレスも、似あう体になってきた。
しかし、だ。アリスは、このガラス越しの自分が、本当の自分なのかと疑ってしまうことがある。政府閣僚の一人娘、裕福かつ厳重警備の暮らし。大学に通いつつ、病に伏せる母の代理として、父の公務や会合にたびたび同伴する日々。これは果たして自分なのか。もしかすると、自分はこんな上層部ではなく、ずっと下層部にいたのでは、あるいはいるべきではないのかと思ってしまう。
アリスにそう思わせる原因は、アリスが見る夢だった。子どものころから、たびたび見ていた夢である。ここよりずっと下層部、政府の手が及ばない、現在では反政府組織、公共幸福結社(AGW)の勢力下にある最下層の廃墟で、誰かに抱かれている夢。自分は幼子で、女の人が、自分をあやしている。その次に必ず誰かの悲鳴がきこえる。自分は激しく揺さぶられ、なにが起こったのかわからないでいる。悲鳴と銃声。政府とAGWの闘争だろう。自分をあやしていた女の人の手が離れ、遠ざかる。また悲鳴と銃声。視界が揺れる。今度は自分が泣き喚いている。夢の最後は、そんな自分を不器用にあやしながら、なぜか泣き笑いの表情をする、父の姿で締めくくられる。
自分をあやしていた女の人の手の感触や、匂い、その後ろに映る廃墟の景色さえも、アリスは覚えていた。そして、思い出すたびに、深い安らぎを感じるのだった。だから自分は下層にいたのでは、あるいはいるべきでは、と思ってしまうのだ。
そういう思いが頭の中を支配すると、現在の自分自身が虚しく見えてしまう。偽りのなにか、もしくは仮初のなにか。豪奢なドレスを着る自分は、虚飾そのもの。こうして裸でいる自分でさえ、本当の自分ではないという気さえする。なんの傷もなく成長してきたこの体は、本当のものだろうか。
十七年前から始まった政府とAGWの闘争以前は、サイバネティックオーガニズムやバイオニクスを応用した整形、脳移植、記憶の形成あるいは偽造が、広く行われていたときく。自分もなにかされていたのではないか。そんな疑問さえ浮かんでしまうのだ。
ガラスに映る自分の顔を見つめる。自分自身を特徴づけるものがない顔のように思えるが、唯一自他ともに気に入っているのが、虹彩が色濃く、斑の美しい、燃えるような目であった。初対面の人の多くは、アリスのこの目を褒め称える。ある人は、この燃える目に否応なく惹きつけられてしまうとまでいう。
この目だけが、自分自身を証明するものかもしれない、とアリスは思った。
そのとき不意に、ガラスに映る自分の姿が消えた。
三つの巨大な黒い塊が、下から舞いあがり、アリスの頭上高くにまで昇りつめる。
最新鋭の軍用ヘリだ。父に同行した軍演習の視察で見たものと同じだ。AGWへの急襲に用いると、説明をうけた。
アリスを目覚めさせたのは、このヘリの羽音だった。
ヘリはアリスが住む超高層建築より遥か高みに昇り、そこから驚異的な機動力で降下していた。上昇から降下まで動作の無駄が削ぎ落とされていた。
朝陽を背負い、三機のヘリは下層部へと迷いなく突き進んでいく。
政府による急襲が始まるのだ。急襲、別の名をいえば、一方的な殺戮。武装、非武装を問わず、何十人と死者が出るのだろう。
アリスはその豊かな肢体を剝き出しのまま、冷ややかな目をして、下層を見つめた。
【注釈】
アウグスティヌス:ローマ帝政末期の哲学者、神学者、教父。北アフリカのカルタゴ出身。初期キリスト教における最大の教父ともいわれる。代表的な著書に「告白」、「神の国」があり、西洋哲学や思想に大きな影響を与えた。
ハンナ・アーレント:ドイツ出身、のちに亡命先のアメリカで活躍した政治思想家、哲学者。大衆社会や全体主義に関する鋭い洞察と研究で知られる。
「全体主義の起源」:アーレントの代表的な著作。20世紀に猛威を振るった全体主義の本質とはなにか、そしてそれが歴史の中でどのように生み出されたのかについて三部構成で考察した大作。「始まりが為されんために…」から始まる文章は、この大作の末尾を飾る一文である。




