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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第1部 誘拐
19/87

18 Kuroki - The Mole

 夜が明けていく。紺碧色の空に黎明の兆したる薄明が現れ、風の匂いが甘く澄んだものになっていく。無数の建築物が整然と灯す光が、明星の代替物のごとく地上で輝いている。それは出来損ないの地上の星だ。

 黒々とした川の向こう、AGWが支配する対岸の第十三地区は不気味な静寂を保っていた。一日の始まりを告げる曙光さえ受けつけぬかのごとく、かの地区からは一切の排気煙も立ち上ることはなく、工場や機械が作動する音さえもきこえなかった。地区全体が沈黙しているかのようだった。

 クロキは高層建築の屋上から、対岸の状況を視察している。フクシマ、フジイ、ハギノも伴っていた。

「ここからだと、対岸はなんの変化もないようだが」

 望遠鏡を覗き込んでいたフクシマがいった。

「諜報員からの情報は確かなのか?」

 フクシマは疑念を口にする。

 クロキは返事をせず、サングラス越しに黎明を見つめていた。この都市に残る美しい自然の景色は、夜明けと夕暮れの空しかなかった。

 風が吹いて髪が乱れた。空を眺めて憩いを見出そうとする自分を戒めるかのように、風はクロキの頬を打った。

「集めた部隊をすべて建築物の中に紛れ込ませたようです。変化がないように見えるのは当然でしょう」

 フジイがいった。

「部隊が集結しているという情報を確かめようがない」

 フクシマは不満げな声を上げた。

 潜伏させた諜報員から、第十三地区に複数の部隊が集結を命ぜられたとの情報が深夜に入った。AGWの動きは、先日の政府側襲撃に対する報復行動の前触れと推測できた。クロキは急遽部下を招集し、現状視察に出向いた。

「なにか部隊集結を確認できる兆候はないか?」

 クロキはフジイとハギノに向かって声をかけた。

 ハギノは首を横に振る。

「現状ではなにもわかりません」

 他方で、フジイは黙々と望遠鏡を覗き込んでいた。

 冬の空が明るんでいく。風の匂いは甘く、しかしその冷気は刺すようだ。

 フジイは静かながら機敏に対岸の各地点を観察する。

 クロキは自然とフジイの傍らに立っていた。

「なにが見える?」

 目視だと、規則正しく並ぶ高層建築の集まりしか見えない。

「光」

 フジイはいう。

「光?」

「各建物から発せられる光が、数日前と比較して増えている」

 フジイはクロキに写真を差し出した。それは数日前にいまと同じ時間帯で、監視用として対岸を撮影した写真だった。

 写真と現在の景色とを比較する。確かに対岸の各建築物の灯は、写真よりも増えている気がする。

「人をかき集めれば、当然使う灯の数も多くなります」

「頭隠して尻隠さず、ということか」

「そもそも連中に隠す意図があるのかどうか」

「確かに、こちらを欺きたいのなら、灯火管制もきっちりと行うはずだ。どういう意図なのだ?」

「そこまではわかりません」

 クロキはフクシマとハギノを呼び寄せ、状況を伝えた。

「いまの段階では、連中の意図はなんともわかりませんな」

 フクシマはいった。

「ともかく部隊を集めているのは確かであり、なにかを仕出かすつもりなのでしょう」

「対岸への攻勢でしょうか?」

 ハギノが問いかける。

「かもしれん。それを見せつけるような素振りがあるのが引っかかるがね」

 フクシマが答えた。

「まだなにも断定できない状態ということだ。灯が増えていることも、あとで正確に検証する必要がある。ともかくも、この周辺に展開している部隊には、敵の動向を伝えろ。攻勢の可能性があるとな。防衛計画をいつでも実行に移せるようにしてもらわねばならん」

 クロキはフジイとハギノに命じた。

「やはりスギヤマは第十三地区に入っているのでしょうか?」

 フジイはいった。

「間違いないだろう。奴の正確な居場所はじきに諜報員から情報が届く。居場所を特定次第、奴を急襲する」

 クロキの言葉に、フジイとハギノは頷いた。

 スギヤマの動向はかなり正確に掴んでいる、という自信がクロキにはあった。あともう少しの努力と準備で、奴の首を取ることができる。そういう段階まできている。

 対岸に太陽がはっきりと姿を現した。サングラス越しではあったが、太陽の直射日光を受けて顔を顰める。

 クロキはフジイとハギノを状況の精査のため先に本部へ戻した。

 フクシマだけそばに残した。フクシマはクロキと同じように顰め面をして、クロキの言葉を待っている。本人には自覚も悪気もないのだが、彼は常に顔を顰めているように見える。生来の陰気な顔立ちがそういう印象を生むのだろう。

「君は敵の動きをどう見るかね」

「審議官殿、先ほども申したとおり、現状ではまだなにも」

「大臣の娘への襲撃とは、どう関連があるだろうか?」

 諜報員から持ち込まれた別の情報。セガワアリスの襲撃計画。同計画には、政府内に潜り込んだ敵の諜報員も関与しているらしい。先日、セガワ大臣にはその情報を伝えた。

 情報に接した大臣はクロキとフクシマに指示を出した。計画をいまの時点で潰せば、AGWに潜伏し情報を齎した政府側諜報員の存在が特定され、危険が及んでしまう。よって、いまの段階で敵の計画を潰すわけにはいかない。一方で政府内に潜む敵諜報員を炙り出す好機でもある。計画の決行直前までは事態を慎重に監視し、敵諜報員を炙り出した上で、瀬戸際で計画を阻止せよ。それが大臣の指示だった。

 愛娘を危険に晒すことを承知の上で、セガワ大臣はそうした指示を出した。大臣は報告をうけたときも、指示を出したときも、一切の動揺や躊躇を見せなかった。口調は冷淡にきこえたほどだ。そうした大臣の態度に、クロキは改めて畏怖の念を抱いた。

「審議官、仮定の話ですが、対岸の攻勢でこちらが対応をかかりきりになっている間に、連中は大臣令嬢を攫う気では?」

「やはりそう考えるか」

「大臣令嬢の誘拐にどんな意義があるのか、私にはわかりませんが」

「意義としては、先日の報復だろう。それから政府への取引材料にもなる。こちらが捕えたAGWの人間は大勢いる。交換条件にはちょうどいい」

「誘拐が成功するにしろ、失敗するにしろ、社会には動揺をきたすことができる。この点、テロリスト側は有利ですな」

「それは我々が常に抱える悩みだ。ただ今回は、情報面ではこちらが制している」

「内部のもぐらさえいなければ」

「同感だ。もぐらさえいなければ、即座に奴らの企図を挫くことができるというのに」

「いったい誰がもぐらなんです? 審議官はこの情報を次官にも秘匿し、仲間のフジイやハギノにも伝えない。内務省? 軍関係者? いったいどこの部署の者が…」

「いずれわかる。いや、必ず炙り出す」

 クロキは強い決意を剥き出しにしていう。

「その公算はあるということですか?」

「内通者は襲撃計画の協力のため、必ず姿を現す。その瞬間を逃さないことだ」

「それに失敗すれば?」

「あとはなんとしても令嬢を守り抜くだけだ。だがそれについては、君がすでに動いているだろう?」

 クロキはフクシマを見つめた。

「警護課長には極秘裏に依頼をかけています。警護担当者の増員はすでに決まりました。令嬢が通う大学にも、警戒を強化するよう要請してあります」

「監察への連絡は?」

「それも依頼完了です。令嬢に関わる政府の人間すべてに、監視の目がつきます」

「その情報は外部に漏れていないだろうな?」

「もちろんです」

 フクシマはいった。

「ならば、あとは敵の動きを待とう。連中は陥穽があるとは思ってもいないはずだ」

「そうなればいいですが」

「そうなってもらわないと困るのだ」

 フクシマの不安げな言葉に、クロキはそのように返事をした。クロキの脳裏にも、敵が予想外の動きをする危険性はちらつく。だが、いまは内通者をおびき出すことに全力を注ぐべきだった。この機を逃せば、内通者はまた用心深く潜伏を続けるに違いないからだ。

 黄金色に染まる空に、夜の残滓はもう見当たらなかった。一日の始まりが到来し、巨大な街はこれから動き始めるだろう。

「第十三地区は、奇妙なほど静かですな」

 フクシマは対岸に目を向ける。

「灯火管制が不十分なわりに平穏を装っているようだ。解せない動きだ」

「逐一監視するしかありませんな。…しかし、第十三地区というのは、どうも味気ない名前ですな」

「なにがいいたい?」

「この国が国土の放棄と都市の超高層化を決定した段階で、各市区町村は解体、新たに第一から第三十三までの地区が出来あがった。地区それぞれに固有の名称はなく、ただ番号だけが割り振られている。我々が住む街はかつての姿を失い、歴史と伝統を失い、ついには名前さえ失った。これを味気ないといわずしてなんといいましょう」

 フクシマの発言に、クロキは苦笑を禁じえなかった。

「君は面白い男だな。たかが行政区画の名前について、そこまで憂慮する必要があるのかね?」

「私には数字でしか呼ばれない地域や地区というのは、どうも違和感を覚えます。人間を番号で呼ぶ者はおらんでしょう。それと似たような感覚です」

「君のいわんとすることはわかるよ」

 クロキはいった。

「だが、ある視点からすれば当然の帰結ではないだろうか。そもそも我々や我々の親の代、いやもっと前の世代からでもいい、この国の街や地域の名前、歴史、伝統に関心を払った人間がいたのかね? そんな人間などごくわずかで、大多数は愛着どころか興味関心さえ持っていなかったのではないか? そうだとするなら、名前のない番号だけの行政区画になったところで、なんの不都合があるのだろう? 名前さえ存在しないのは、ある意味で当然なのではないか?」

「人間が自己同一性の確立のために、固有の名前を必要とするのと同じように、街にも名前が必要だ。そうは思いませんか?」

「それぞれ数字で名前がつけられている。それで十分だろう。我々にはそれがお似合いだ」

 クロキはフクシマに対して冷笑した。

 目の前に広がる超高層化を果たした街。この国が超高層化を始めて何十年もの歳月が流れた。クロキが生まれたときにはもう都市は超高層化されていたのだ。自然を喪失し、汚染と汚濁に塗れた街。階級の固定化が著しく進行し、下層階級では怨嗟が限界まで募った。挙句の果てが都市を二分しての内戦だ。

官憲の責任ある立場にいるクロキは、よく憂愁にとらわれる。一体この国は、この街はどうなっているのかと。二十世紀の大戦敗北のあと、まさしく無から築きあげた経済的繁栄と平和はどこへ消え去ったのか。いま我々は窮屈な都市に押し込められ、あろうことか同じ国の人間同士で殺しあいを続けている。

この国は歴史の課程の中でなにかを間違えたのだ。その間違えが、環境汚染の恐怖に耐えかねて始めた都市の超高層化なのか、あるいは前々世紀に経済的繁栄を追求するあまり軍事力を軽視する政策をとったことだったのか、国内外の安全保障に関する国民的な視野の狭さか、経済格差や社会階級の固定化を是正できなかった政治の不手際なのか、クロキには判断ができなかった。明らかなのは、この国はどこかで舵取りを誤り、そしてその結果、十七年にも渡る最悪の内戦を引き起こしているということだ。

 このような時代、このような事態において、人々に国家や都市、地域や社会に対する関心や愛着を期待するのは無理がある。危難の時代に人々がまず求めるのは、保身に他ならないからだ。街から伝統や文化、名前さえ喪失したのは、この国のどうしようもない歴史の歩みゆえだ。

「数字でしか呼ばれぬ街を憂慮するのなら、ずっと昔にこの国はすべきことがあったはずなのだ。我々の親は、地域や街に対する愛着を子どもに教えただろうか。その街が形成してきた歴史や伝統を教えただろうか」

 独り言のようにクロキはいった。

 フクシマはクロキの言葉がきこえていたはずだが、黙ったままでいた。

 街に鐘の音が鳴り響く。どこかの教会が朝の到来を告げるため、毎日鐘を鳴らしているのだ。その音を合図にして、鳥たちが空へ羽ばたいていく。

 クロキは朝焼けの空に背を向けた。ここから十日間ほどは、外出もできぬほど業務に忙殺されるだろう。次に空を眺めるとき、自分たちの任務は成功しているのだろうか。クロキはそんなことを考えていた。

 敵が動き出すまであと数日と時間はないのだ。


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