16 Emma - Brainwashing
写真どころか、映像まで持ち出して、子どもたちに女の姿を見せつける。そして憎悪を植えつけていく。その女こそが子どもたちの不幸の元凶であり、憎しみをぶつける相手なのだと刷り込ませていく。
「憎め、憎め、憎め。この女の顔を、脳裏に刻み込め」
兵士たちが少年たちに呪詛の言葉を伝授する。
「憎め、憎め、憎め」
憎しみの言葉が少年たちの思考に染み込んでいく。少年たちの思考を憎しみで埋め尽くすまで、兵士たちは憎しみの言葉をぶつけ続ける。
その執拗さにエマは舌を巻いた。尋常ではない。狂っている。だが、まさに理想の少年兵の教育法だ。
人道や道徳という観点を無視すれば、少年ほど軍隊にとって使い勝手のいい存在はない。洗脳と脅迫により彼らはこの上なく従順であり、彼らが死んだところで人的資源が減るわけでもない。別の少年を用意し、短期間で教育し、再補充すればいいだけのことだ。
少年兵に求められる仕事とは、生還の見込みのない作戦を行い、出来る限り多くの敵を巻き込み、命を散らすことだ。
少年たちへの洗脳が始まって三日が過ぎた。早朝から深夜まで、チョウが狂気じみた執拗さで、少年たちを肉体的にも心理的にも責め立てた。
エマは少年たちの姿を窓越しに観察している。少年たちの側から、エマの姿は見えない。
エマにとって意外だったのは、あのネイトという不遜な少年に、他の二人の少年より早くセガワアリスを憎む兆候が出たことだ。
極めて反抗的であるが、同時にとにかく頭の切れる少年、とエマはネイトを見ていた。こんなありがちな洗脳に容易に流れされるはずはないと思っていたが、それは思い違いだったようだ。
いまのネイトの目は、エマの赤い髪のように燃えているのがわかる。彼は憎しみを発火させている。
そうだ、憎しみを燃やせばいい。憎しみが、自分たちの不甲斐ない境遇も、激しい痛みも、死の恐怖も、生への執着も、忘れさせる。やがては命を捨てることさえ躊躇しなくなる。憎しみはある種の精神安定剤なのだ。
洗脳されていく少年たちを見て、エマは暗い喜びを感じた。人間から人形になる様を眺めるのは、表現しがたい快感がある。
兵士たちによる洗脳は、次の段階へ移る。
少年たちは部屋から出され、射撃訓練用の大部屋に連行された。そこで少年たちはそれぞれ拳銃を手に取らされる。
兵士たちが機械を作動させ、訓練用の的が飛び出してくる。的にはご丁寧にセガワアリスの写真が貼られている。
「あの的を撃つんだ」
兵士たちは少年たちに銃を突きつけ、そう命令する。少年たちは目を丸くしながら、彼らにいわれるがまま拳銃を構え、的に向かって発砲する。銃の構え方や発砲の方法に至らないところがあると、厳しい叱責を浴びせる。ときには少年たちの尻に蹴りを入れ、指導する。
「なぜだ、なぜお前は撃てないんだ」
兵士が叫ぶ。
少年たちの中で、ネイトだけは銃を構えることはできても、発砲することができなかった。銃を構えただけで、彼の手は異様なほど震えるのだ。そのときのネイトの表情は冷静であり、ときおり彼自身なぜ手が震えるのか理解しかねるといった表情もした。
エマはネイトの手の震えに、なにか病的なものを感じた。それが具体的な病によるものなのか、それとも過去のトラウマやストレスが体に現れたものなのか、エマには判別がつかない。
ともかくも、ネイトは拳銃を撃てない。
実はそれが狙いだった。兵士たちはネイトに他の少年以上に罵声を浴びせる。それどころか、苛烈な暴力まで振るう。二人の兵士がネイトを押さえつけ、無防備になったネイトの腹に、兵士が拳を打ち込み、蹴りを入れていく。顔は決して殴らない。顔に傷や痣をつけないためだ。
「撃て、撃ってみろ」
何度いわれても、ネイトは銃を撃てなかった。そしてそのたびに押し倒され、殴られる。蹴られる。男たちの荒々しい罵りが、ネイトに降りかかる。
「なにを見てる。貴様らは撃て、撃つんだ」
他の少年たちは、ネイトへの過酷な仕打ちに怯え、慄く。撃たなければ、自分もネイトのようになるという恐怖で、彼らは突き動かされていく。彼らは狂ったような目つきで、発砲を繰り返す。
自尊心の強いネイトには屈辱を与え、他の二人には恐怖を与える。そうすることで彼らを分断させ、孤立させ、こちらの思う通りに動くよう洗脳する。
「もっと憎んで撃て、容赦なく撃ち込め」
兵士たちは少年たちにそう命令する。少年たちの目に憎しみが宿り始める。顔は生気を失っていく。まるで悪霊に撮りつかれたようになっている。
エマはその光景を眺め、悦に浸る。生意気な少年たちに、極限の苦しみと憎しみを植えつけてやりたいと思った。
ネイトは床に倒され、腹を蹴られ続けている。意識は吹き飛ぶ寸前といったところだ。
エマはネイトの前に立った。片手にセガワアリスの写真を持っていた。エマは床に膝をつき、屈み込んでネイトの耳元で囁く。
「この女を見ろ」
ネイトの瞳が動く。息は切れ切れになっている。視界が霞んでいるのか、何度もネイトは瞬きをする。
「いい女だろう?」
エマは囁く。それはアリスに対するエマの本音でもある。この女の冷たく、しかし燃え立つような目は素晴らしい。
「どうだ、この女が憎いか? 貴様の不幸の元凶は、この女なんだ。この女をその瞳に焼きつけろ。この女の身を捕え、痛めつけ、犯し、慰みものにする光景を想像しろ。憎しみを燃え上がらせてみろ」
ネイトの瞳の近くまで、写真を持っていく。朦朧としていても、女のことがわかるように。
「…アリス」
ネイトは呟いた。その目に一瞬だけ強い光が宿った。憎しみの感情がそこにあったのかどうか、エマにはわからなかった。その呟きにどこか親愛の響きがあったような気がして、不意にエマは嫉妬のような感情を覚えて苛立った。
エマは立ち上がり、残忍な笑みを浮かべ、全力で踵をネイトの腹に叩きつけた。
その一撃によって、ネイトは失神する。
「なにをみている」
他の少年二人が、エマを恐怖の目で凝視していた。
「さっさと銃を撃て」
エマは獣のように叫んだ。
少年たちは怯えながら、銃を再び撃ち始めた。
エマはあとを他の兵士に任せ、訓練場を出た。苛立ちを抑えることができず、荒々しい足取りで廊下を歩いていく。
AGWの兵士たちが利用する休憩室で、ナキリは煙草を吹かしていた。壁には禁煙という二文字が張り出されている。ナキリはその文字をまったく気にしていない。
休憩室にいる他の兵士たちもナキリと同じく煙草を吸ったり、酒を飲んだりと好きにしている。
超高層建築の下層部に設けられたこの無駄に広い休憩室は、下級の兵士たちが利用する部屋であり、士官級の人間は利用することもなければ訪れることもない。だから兵士たちは、自分たちの好きなように振る舞う。
機械が窓に映し出す仮想の景色を目にしながら、ナキリは煙草を吸い続ける。白い粉塵が舞う冬山の景色。雲間に見える天からは恩寵のような光が注いでいる。この街にはない、遥か遠く、この国が放棄した土地に存在する景色。
ナキリはこの冬山の景色が好きだった。そこは誰も寄りつかず、誰も寄せつけず、なにからも隔絶され、孤独のままにある。凍てつく寒さと吹き荒ぶ風。なにもかもが、この厳しい環境に耐えねばならない。しかし、それはこの時代の人々が忘れてしまった、あるがままの自然なのだ。
ナキリは紫煙を吐き出す。冬山の景色は曇った。あるがままの自然だが、この景色もまた機械が作り出した幻想に過ぎない。なぜなら、極度の汚染により、何人もこの都市から外へ出ることはできないがゆえに、美しい自然の景色を撮影することもできないのだ。本物らしく見えるこの景色も、きっと機械が高度に作りあげた幻想なのだ。
暗い気分になりながら煙草を吸い続けていると、誰かが乱暴に扉を開けて、部屋に入ってきた。その兵士の体型と赤い髪を見て、それが誰だかすぐにわかった。
エマは、彼女に指一本でも触れようものなら、殴りかからんばかりの殺気を纏いながら、部屋の中を歩く。他の兵士たちは彼女に視線を注ぐが、彼女と視線をあわせようとする者はいなかった。
ナキリの隣にエマはやってきた。無言で彼女は手を差し出す。煙草を寄越せという合図。それも箱ごとだ。
「箱はやらないぞ。俺もまだ吸いたいんだ」
ナキリは煙草の箱を軽く揺すり、一本を浮かばせる。エマがそれを摘み、口に咥える。ナキリは火を貸してやった。
彼女は顔を上向かせ、煙草を深く吸う。唇から煙草が離れたとき、艶めかしい音がきこえた。彼女は一気に煙を吐き出すと、恍惚の表情を浮かべた。かすかな鼻息がきこえる。煙草の吸い口は唾に濡れ、てらてらと光っている。
エマと目をあわせた。部屋に入ってきたときの殺気は消えている。
「どうした? なにかあったか?」
「なにかあったわけじゃない。ただ、息抜きがしたかったのさ」
「どういう任務を与えられてるんだ?」
「たいした任務じゃない」
「でも、息抜きをしたいくらい、重い任務なのだろう?」
「…さあね」
「まったく、部隊が移った途端に秘密主義か」
「命令だから仕方ない。些細なことも口に出せないのさ」
「その鬱憤を晴らしにきたのか?」
「そういうことにしておいてくれ」
エマは煙草の吸い口を見つめている。
「それより私が離れてから、部隊はなにかあったか?」
「まだ数日しかたってないから特になにも。ただ、スギヤマ大佐がまた前線に赴くようだ」
「政府の急襲を受けておきながら、またか」
「何名かの側近も止めたようだが、それでも赴くつもりらしい」
「なにか作戦でも考えているのか?」
「それしかないだろう。だが、なにをどうするつもりなのかは、前線の人間にしかわからないだろうが」
「市民に爆弾を投げ込むだけの作業は、飽き飽きだ。政府軍と直接ぶつかりあうなら、興奮するが」
「それには同感だ。前線に幾つかの部隊が集められてるって噂もある。ひょっとすると、ひょっとするかもな」
「その場にいられないのが無念だ」
「戦闘狂め。どの道、俺は護衛任務だ。戦闘に加わることはないだろう。それが実際に起こるかどうかわからないが」
「戦闘の動きを観察するだけで私は興奮する。各所から届けられる報告にも、雷鳴のような砲声にも」
戦場に身を置くことが、この女にとっては無上の快感なのだ、とナキリは悟った。こういう女を、前にもあとにもナキリは見たことがない。
彼女の身の上を、ナキリはよく知らない。殺しあいを快く思えるのだから、これまでに相当な経験をしてきたのだろう。ごろつきどもの血腥い争いに関与し、殺人や戦闘に快楽を覚えてしまったというなら、これほど哀れなことはない。
「なんだ、どうした? 急に感傷的な目になって」
ナキリの顔を見て、エマはそういった。
こういう女に、余計な感傷を覚える必要はない。ナキリは自分にそういいきかせた。
「いや、なんでもない。それより、お前こそどうなんだ。休憩室に入ってきたとき、苛立っていたようだが」
「なんでもないさ。お前が気にする必要はない」
「ふん、あえてきかないさ。だが、お前の顔、なんだか嫉妬に駆られた女のそれだったぞ」
ナキリはエマをからかった。反撃の一言か一撃が返ってくるかと思ったが、エマは口を噤んで黙り込んだ。
自分がいったことは案外図星なのかもしれない、とナキリは思った。




