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アナザー・グリーン・ワールド  作者: ENO
第1部 誘拐
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14 Alice - Father

 それまで暗かった車内が、急に眩し過ぎるほどの光で満たされた。なにもかもが真っ白な色に染まっていく。

 アリスは目を細めた。

 白い光が降り注ぐトンネルを抜けると、車内は暗さを取り戻す。左右には黒々としたビルが森の木々のごとく立ち並ぶ。ビルとビルの隙間から、夜の空をゆく旅客機が見えた。

 運転席のフクダは無言で運転を続ける。道を完璧に覚えていて、機械に頼る様子はまるでない。隣に座るイワマにいちいち道を尋ねることもしない。こういうところにこの男の性格が滲み出ている。厳格で、完璧主義的で、どこか他人を信用していない。

 イワマはときどきバックミラーでアリスの様子を見る。それは警護のためというよりは、アリスと雑談をしたいがため、という感じがする。だが、アリスはそんなイワマに声をかけようとはしない。

 高架道路を駆け抜けた車は道を逸れてアリスが住む建物の中へ滑り込んでいく。

警護の二人は、いつもアリスの部屋の前までついてくる。明日の予定を口頭で確認しあうと、彼らは去っていく。

 玄関の扉を閉め、鍵をかける。扉にもたれ、ため息をつく。そのため息が解放の証であり、一日の終わりの合図のようなものだ。

 警護に文句をつける気はない。文句をいう資格もないとアリスは思っている。だが、窮屈さを感じないといえば、それは嘘になる。

 だだっ広くて生活臭がまるでしないリビングの、真っ白で無機質なデザインのソファに横たわり、壁かけのテレビをつけた。

 ウガキの姿がまた映っていた。今日の明け方に続いて、今日の終わりにもこの男はアリスの前に現れる。

 嫌な気分だった。ウガキは父の仇敵なのだ。

 演説を行うウガキの姿が映し出される。大勢の市民の前にウガキは立っている。場所は下層部の市場だろうか。商売をする人の姿や露店のようなものが映像の中に映り込んでいる。ウガキは激しく政府を非難し、大衆は彼に同調し、叫び声を上げる。そこには熱狂があり、誰もが政府への憎しみに燃えている。

 朝の授業の言葉が蘇るようだ。憎しみはすべてを凌駕する。ウガキは政府への憎しみを煽っている。政府の攻撃が、下層部に生きる民間人の死を招いたといっている。民衆は理性をかなぐり捨て、憎しみに身を委ね、怒り狂って叫ぶ。

 政府への報復を。政府に死を。

 会場の異様な熱気が、画面越しに伝わってくる。アリスは眉を顰めながらも、その画面に釘づけになっていた。

「嫌な映像だね」

 声がした。

 アリスは上半身を起こした。

 父が、リビングの入り口に立っていた。

 アリスはすぐに姿勢を正した。ソファにだらしなく横になる姿を父の前で晒し出すのは、さすがに恥ずかしかった。

「帰ってらしたのね」

「気づかなかったかい? ただいまと声はかけたつもりだが」

 父はいった。アリスはまったく気づかなかった。それだけ画面に集中していたということだ。

「夕飯は? なにを作ればいいかしら?」

 アリスがきくと、父は首を振った。

「いや、いい。食事はもう済ませた」

 どこか素っ気ない調子で父はいうのだった。

 その声の調子で、アリスはなんとなく父の機嫌が悪いと察した。常に重圧に晒される仕事ではあるが、今日は特になにか悪いことがあったのかもしれないとアリスは思った。

「そう。ならお酒は?」

「いや、それもいい」

 父はいった。背広を脱ぐことも、ネクタイを緩めることもせず、その場に突っ立って、父はテレビの画面を見つめていた。アリスと同じようにウガキを凝視しているのだ。

 ウガキに関することで、なにかあったのだろうか。

「政府への非難を繰り返しているわ。それに民衆が熱狂してる」

「実によくない話だ。民衆は彼が狂気的なテロリストだと認識していない。希代の革命家のように見ている」

「革命家とテロリストの境界線はそう明確でないわ。革命のためなら、テロリスト同然のことをする革命家もいる」

「ならどちらも私の敵に違いない。しかし家に帰ってまで、この男の姿を見るのは、やはりいい気分ではないね」

「消そうか?」

「いや、お前が先に観ていたのだから、どうこうする気はないよ」

「なら消すわ」

 いって、アリスはテレビを消した。

「それにしても、ここまで何度も映像に出てくると、他人の気がしないわ。家族を殺された人の気持ちで、あの男を見てしまう」

 アリスはいった。

 父は顔を歪ませた。それがアリスの言葉に同調したのか、そうではないのかはわからない。

「…今日は疲れた。お前は、今日はどうだった?」

 父にきかれたので、アリスは大学での出来事を語った。老教授の不思議な授業のこと、図書館での勉強のこと、特にシュトラウスの主著の晦渋さについて熱を込めて語った。

 自分に関心のある分野に話が及ぶと急に熱っぽくなる娘を見て、父は苦笑混じりにこういうのだった。

「年頃のお前が恋をしたのは男の子ではなくて哲学だったわけだな」

 アリスは珍しく顔を紅潮させた。

「お父さんが勉強するようにと仕向けたのよ」

「そうだったかね。なんにせよ学問に情熱的にのめり込むのはいいことだよ」

「まさに私にとっての初めての情事というわけね」

 アリスがそういうと、父はその際どい冗談に咳込んだ。

「それはアーレントの言葉かね? 彼女は偉大な学者ではあるが、倫理的に道を踏み外したこともある。お前はそうしないように願いたいね」

「それに関しては大丈夫ね。ハイデガーのような悪魔的魅力を持った男性は、私の前には現れてないもの」

「それはそれで少し寂しい気もするがね」

 父はいった。

 アリスにしてみれば、恋愛は誰とでもできるし、いつでも始めることができるものだ。ただ時間と労力は消費する。それらを惜しみなく注ぎ込んでもいいという相手がいないのであれば、恋愛などする必要があるのだろうか。恋愛は恩寵であり目的そのものであると古の小説に書かれてあったが、果たしてそうだろうか。

 世の中で恋人や伴侶がいる人は幸福だ、とアリスは思う。それだけ時間と労力を注ぎ込める相手が存在し、巡りあうことができたのだから。もっとも妥協の末に結合し、なにが幸福なのかもわからずに時間や労力をただ浪費しているような人たちも多いだろうが。 

このようにアリスは恋愛について極めて無味乾燥した意見を持っていたが、それを父に披瀝するのは、さすがに躊躇いがあった。

「でも安心して、お父さん。結婚願望はそれなりにあるつもりだから」

「リップサービス程度に思っておくよ」

「あら、本気でいってるのに」

「それなら申し訳ない。だがもしかすると、お前のような勤勉さならば、家庭を持たず、学問や仕事に身を捧げても悪くないのかもしれんな…。私は結局学者の道は諦めたが」

「そういう選択肢も考えておくわ」

 アリスは微笑した。

 政治家でありながら娘の将来にあれこれ強制や強要をしないのは、父の偉大なところだと思う。

「なんにせよ、好きな道を選ぶといい。お前は若く、未来があるのだから」

「そうね。でも、もう子どもでもなくなった」

「時の流れは速い。小さなお前が私の名を呼んだときのことを、いまでも覚えているよ」

 父は遠い目をした。

 アリスが思い浮かべたのは、泣きながら笑う父の顔だった。あれがアリスにとっての原初的記憶だった。アリスが父の名を呼んだことで、父は泣き、笑ったのか。しかし、その直前に自分をあやしていた女の人はどうなる。そのとききこえていた悲鳴や銃声はなんだったのか。

 疑問について父に尋ねようとして、声が出かかる。だが実際には、別の言葉しか出てこない。

「私はお父さんの顔をよく思い出すわ。私を見て、泣いていて、そして笑っていた」

「お前は私が四十を過ぎてできた子だった。嬉し過ぎたのだ」

「幼いころの幸福な記憶は、人を助ける、ときくわ。私にとってのそれは、お父さんの顔ね」

 アリスは嘘をついた。父と過ごした時間は幸福でも、あの原初的な記憶については極めて疑わしく思っている。疑問を父に面と向かっていうことができず、そんな嘘をついた。

 父はアリスの嘘を嘘と思わなかったのだろう。口元に微笑みを浮かべ、アリスをじっと見つめたのだった。

 記憶の真偽を探る手がかりはどこにあるのか。あの女の人は、自分にとってのどういう存在だったのか。

 無表情を装いながら、アリスはずっと考えていた。



【注釈】


「初めての情事」:政治思想家アーレントが、マールブルク大学在籍時に自身の哲学への傾倒ぶりを表現した言葉。


「倫理的に道を踏み外した」:アーレントはマールブルク大学在籍時に、自身の指導教官であり、妻子ある立場であったハイデガーと不倫関係にあった。ハイデガーが彼女に魅了され、積極的に言い寄ったとも伝えられる。


ハイデガー:20世紀大陸哲学における最重要人物とされる哲学者。主著に「存在と時間」。



「恋愛は恩寵であり目的そのもの」:ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説「コレラの時代の愛」における一節。


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