13 Nate - Woman in the Picture
写真の中の女を、暗く狭く不衛生な監禁室の中でネイトはじっと睨み続けた。
冷たい目をした、そしてどこか他人を見下すような表情をした女。喜怒哀楽という明確な感情はこの写真からはまったく窺えない。絵画に登場する人のように、女はどこか謎めいている。
小窓から差し込んでいた光が、いつしか消えていた。外はもう夜なのだろう。
部屋に明かりは一つだけで、暖色系の光が部屋の隅にぽつりと落ちるだけだ。
七時間前、ハタという男とその副官チョウが、セガワアリスの資料をネイトたちに突きつけ、女の誘拐について詳細を説明した。
計画の概要はこうだ。いまから十日後に、女が在籍する大学でパーティが開かれる。そのパーティの場にネイトたちは学生の姿に変装の上潜入し、女を攫う。政府支配領域及び大学校舎への侵入の手引き、脱出の手引き、変装のための衣類調達などは、すべてAGWの支援員が行う。年齢的な理由からパーティの場に潜り込めるのはネイトとAGWの支援員一名のみで、ネイトたちはとにかく女を見分け、攫い、所定の脱出ルートまで運ばねばならない。
資料によれば、女の在籍する大学は警備が厳しく、政府関係者であっても立ち入りがかなり程度で制限される。そのパーティも例外ではなく、学生と教員以外は締め出される。
別の見方に立てば、このパーティの瞬間だけは、日ごろは厳重な警備がつくセガワアリスだが、その警備の手が薄くなるわけだ。酒の入った多数の学生が入り乱れる会場内であれば、人波に紛れ、女一人を攫うのはたやすい。
AGWがネイトたちを利用する理由が、なんとなく読めてきた。
だが、それでも無茶な計画だった。政府関係者による警備を遠ざけるほど自前で厳重な警備を施す大学に潜入し、女を攫い、AGWの支配領域まで連れ出すのは、困難である以前に危険極まりなかった。
いつどの段階で計画が露見し、命を落としても不思議はない。それでもAGWがこの計画をネイトたちに強要させるのは、実のところ女の誘拐の成否はどうでもよく、誘拐行為をすることそれ自体が目的だからだろう。誘拐行為により政府に巻き起こる混乱。そのためならば誘拐の成功も失敗も、ネイトたちの犠牲もどうでもいいとさえ思っているのだろう。だから無茶な計画も平気で強要する。
怒りで資料を持つ手が震える。だが、拒否することはできない。レナが人質に取られているからだ。
仲間のケイジとショウは疲れからか眠り込んでいる。
少し前にネイトは二人に滾々と状況を説明した。AGWの意図も、そして自分たちの危険についても。二人が、特にケイジが、ネイトに不信感を持っているのはわかっていた。それでも三人で協力し、事態を切り抜けなければならないとネイトはいった。自分自身が助かるためにも、レナの命を救うためにも、女をなんとしても誘拐しなければならない。
二人の反応は淡々としていた。あまりに絶望が深かったか、それとも怒りが極まって忘我の状態にあったのか定かではない。ただ、ネイトの話の最後には、二人は納得をしたようだった。
薄汚れた壁にもたれながら、資料を眺め、沈思する。胸に去来するのは煮え滾るような憎しみだけだ。
写真の中の女。
奇妙な現象だが、この写真の中の女さえ、憎く思えてくる。女になんの責任もないのはわかっていた。だが、それでも憎まないではいられなかった。そうしなければ、自分を取りつく恐怖や絶望のせいで完全に狂ってしまいそうだ。
女。セガワアリス。ネイトよりも幾らか歳上だった。アリスに関する資料は、身長、体重、容姿、目の色、経歴、性格に至るまで、偏執的と思えるほど子細に記述されていた。ネイトはその記述を一字一句頭に叩き込んでいく。どれだけ遠くからでも女がわかるように。女の心理や行動傾向も把握できるように。
女性では平均的か、少し高いくらいの背丈。髪は黒で、肩までかかっている。容貌には知的な雰囲気がはっきりと出ており、特に彼女の目は強烈な知的深遠を感じさせる。
必ずこの女を攫わなければならない。それができなければ、自分も、仲間も、死を待つしかないのだ。
ネイトが女の資料を読み終えたとき、部屋の扉が開いた。がさつな扉の開け方だった。その音で眠っていたケイジとショウは目を覚ました。
「やあ、気分はどうだい?」
あの女兵士が立っていた。朝と同じ言葉をかけてきた。
「…なんの用だ?」
ネイトは女兵士を睨みつけた。
女兵士はふっと笑う。その直後に、ネイトの胸倉を掴み、凶悪な顔つきで凄んだ。
「口のききかたに気をつけるんだ。立場を考えろ」
唾でも吐きかけられそうな剣幕だった。女兵士はネイトをじっくりと睨みつけたあとで、胸倉を掴む手を離した。
「貴様らの支援役を、私が務めることになった」
「なんの冗談だ」
ネイトは思わず顔を歪ませた。
「それについては私も同感だ。だが、これも命令だ。軍人は従うしかない。貴様らの潜入及び誘拐を支援する。目標と接触する現地会場にも同行する」
ハタから説明のあった同行する支援員とは、この女兵士だったのか。
「十日後の実行に向けて、すでに計画は動き出している。明日から、またさまざまな指示や情報が与えられるだろう。それをよく理解することだ」
「お前もずっと作戦に同行するのか?」
「私の名はエマだ。基本的には同行するが、支援作業の一環で、貴様らから離れるときもある」
「他に支援員はいるのか?」
「それを貴様が知る必要はない。ただ、政府領域内に諜報員はいる。彼らと連絡をすることもあるかもしれん」
「…なんだって、お前とこんな危険な計画を進めなければならない?」
「それについても同感だが、命令だから仕方がない。信頼しろとも、信用しろともいわない。仲間である必要もない。命令をこなす上での一時的な協力関係だ。せいぜい上手くやれ。くれぐれも変な気は起こすな」
「同じ言葉をそっくり返してやる。お前は仲間を殺した」
「ああ。そしてお前は仲間を救えなかった。それどころか銃さえも撃てず、醜態を晒した。覚えているぞ、貴様の情けない姿をな」
にたりとエマは笑う。
頭にかっと血が上った。手を出す寸前で、冷静さを取り戻した。拳を握り締め、立ち尽くした。
ネイトの一瞬の変化を、エマは愉快に見つめている。
「…畜生」
悔しさに、呟きが零れ出た。
「ふふ、無様だな」
残酷な笑みをエマは浮かべた。
「十日間で銃の扱い方は覚えてくれよ。それから、傷を癒すことだ。貴様らの顔は、ひどく汚れているからな」
そういって、エマは部屋を出ていった。
ネイトたち三人はそれぞれ視線を交わした。三人とも無言で、重たい空気が三人の間に流れただけだった。
それから一時間ほどして、粗末な食事が出された。軍用の簡易糧食と薄いスープ。最低限の栄養素だけ確保した食事。腹に流し込むと、大人しく眠りについた。
朝になって、チョウとその部下と思しき男たちが部屋に入ってきた。彼らは部屋に入るなり部下に命じてネイトたちの頭に麻袋を被せた。
驚き抵抗しようとした三人にチョウはいう。
「落ち着け。医師にかからせるのと、シャワーを浴びに連れ出すだけだ」
目隠しをさせて、施設の詳細をネイトたちにわからせないようにするためらしい。男たちに小突かれながら、ネイトたちは歩いた。
陰険な目をした医師の診察を受ける。消毒液をあちこちに塗られ、ガーゼや包帯を当てられる。あと九日で体中の痣や傷が消えるとはとても思えない。
そのあとでシャワー室へ連行され、熱いシャワーを浴びた。傷が沁みて呻き声を漏らした。
想像以上に整然としていて清潔なシャワー室には、ネイトたち三人だけしかいなかった。本来なら一度に百から二百人規模で人を収容できる広いシャワー室では、ネイトたちのシャワーの音はか細い水音でしかない。
シャワーを終えると、再び男たちに麻袋を被せられて、もとの部屋に戻った。
部屋に戻るなり、男たちはネイトたちの首根っこを掴む。チョウがネイトたちの眼前にセガワアリスの写真を突きつける。
「この女を憎みように見つめろ」
チョウはいう。
「この女が貴様らの苦境の原因だと思うがいい。憎むように見ろ。そしてどれだけ遠くでも女のことがわかるようにしろ。憎しみはそれを可能にする」
目を閉じようとしても、首根っこを掴む男のもう片方の手が、強制的にネイトたちの目をこじ開ける。
「いいか、憎しみはすべてを凌駕する。憎むのだ。そうすれば貴様らに降りかかる困難は困難でなくなる」
女の冷ややかな表情が見える。いや、見させられている。
チョウは憎めという。
いや、もうすでにネイトはこの女を憎み始めている。




