10 Alice - Hanna and Old Profesor
午前の授業が終わり、アリスは学友たちに昼食に誘われた。
授業で隣に座っていたハナが、アリスに声をかけたがっているように見えたが、結局会話はできなかった。
学生食堂の窓際の席からは、淀んだ空に林立するビルと、ビルの隙間を縫うように走るたくさんの高架道路が見えた。高層建築から眺めているはずなのに、ここの景色は水平線も地平線も喪失している。空の青、海の青といった自然の要素は、どこにも存在しない。だからなのか、食堂内はやけに植物や植栽が多く設けられ、屋内緑化が図られている。
もはや緑や自然は、人工的に造成され、管理されるものとなったわけだ。
紅茶にトースト、スクランブルエッグとその上に乱暴に置かれた数本のフライドポテトという、イギリス人の朝食か軍人の朝食のようなそれらが、アリスの昼食だった。
品目のあまりの貧相さに、学友たちが笑う。彼女たちの昼食は逆に華やかだ。カフェオレに、色とりどりの野菜のサラダ、そして魚介類の入ったパスタ。とても学生の昼食のようには思えないが、ここは裕福な家庭の者しか通わない大学で、彼女たち学友もみな裕福な家庭の出だとすれば、選んで当然の品目といえる。
アリスの昼食を見てけらけらと笑う学友たちに、アリスはわずかに表情を曇らせた。アリスはこういう質素な料理も好みだったのだ。
「それにしても、あのお爺ちゃんの授業も困ったものね」
学友のリサがいった。
「クルス教授のこと?」
「そう。あんな憎しみがどうだとか、延々を自分の考えを披瀝されても、こっちは困惑するしかないわね。歴史を学んでいるというより、お爺ちゃんの独り言をずっときいてる感じだった」
アリスはクルス教授の授業を思い返した。年老いた教授が半ば呆けたような口調で、歴史を語っていたあの授業を。確かに今日の授業の内容は、歴史の具体的な事象よりも、憎悪について抽象的なことばかり言及していた。
「年老いた教授は、みなああなりがちだと思うわ。人生の最後に、人は誰でも自分が考えてきたことを次の世代に伝えたがるものだわ」
アリスはいった。皮肉めいた言葉ではあるが、アリスはクルス教授のような人間に悪い印象は持っていなかった。年老いた者が若者へ語る内容、伝達しようとする内容は、教訓や含蓄が詰め込まれている。老人の声に耳を傾けることは、古典を読むことに等しいとアリスは思っている。
もっとも、リサやもう一人の学友カレンには、クルス教授の語りは、ただの老人の独り言にしかきこえないのだろう。
「私もお婆ちゃんになると、あんな風になっちゃうのかしら? あんなのにはなりたくないわ」
カレンはいう。
「女だから、おしゃべりはいま以上にしているかもね。それも品のないおしゃべりばかりしてるかも。私の母親も、そうなりつつあるし」
そういってリサは笑う。
「私の母もいつもうるさくしてるわね。自分の母親を思えば、みんなそうなっていくのかもね。アリスのお母様はどうかしら?」
カレンにきかれ、アリスは、自分の母は病のこともあり、昔もいまももの静かだと答えた。
「それなりに重い病だから、母はこれからも大人しい性格のままだと思うわ。明るく、騒がしい人になれば、それはそれで嬉しいのだけど」
アリスはそうつけ加えた。心疾患の母が快方に向かうと本人も家族も楽観視はしていない。母を見舞うとき、いつもアリスは頭の片隅に死を意識している。
「病に伏せるっていうのは、大変ものね。気が滅入りそう」
リサの言葉には、病が厭わしいというような響きがある。病そのものだけでなく、看病することや病に伏せる人さえ、否定的に捉えるような響き。
「ある意味で気楽な立場でいられるわ。病院の方に任せきりで、私や父は特段なにかしてるわけじゃないもの」
とりあえずはそう答えておく。母を思い、気遣う気持ちは心の中でいつも複雑に渦巻いている。この気持ちをリサとカレンに訴えても、理解してもらえるとは思えなかった。
「アリスは心が強いわね。さすがは大臣の娘ね」
「心が強いだなんて思わないわ。いつも、いつだって私は迷っているもの」
リサの言葉に、アリスはそう返した。
「なにに対して迷うの?」
「自分の将来、いま現在の自分自身、家族のこと、この世の中のこと。これほど自分の立場や立ち位置が、あるいは自分の将来が不確かな時代があったかしら。自分の将来をどうしたいかを考えるだけでも、私は迷ってしまうわ」
「そうかしら。私はこれほど確かな時代はないと思うけど」
「どうしてそう思うの?」
「この国が高層化を決め込んだ段階から、社会の固定化は進んでいるわけよね。ある程度の資産を背景に資産運用や投資を行っている者が強固な資産と社会的地位を確保し、一方でそうした術を知らぬ労働者の地位や待遇は落ち込み、搾取の猛威に長く曝されている。極端ないいかたをすれば、富める者は永遠に富を享受し、貧しい者は永遠に貧しさに喘ぐ社会構造にこの国はなっているわけ。そういう時代に、私たちは高等教育を受け、こうしてここで優雅な昼食を取っている。つまり私たちは社会の上位層に属している。法を犯す、AGWに身売りする、それくらいのことをしない限り、私たちほど安定した将来や未来を約束された立ち位置の人間はいないと思うけど」
平然とした顔で、リサはいった。
「内戦もある。国民の不満も燻っている。将来はとても不確かだわ」
「そこまで心配なら、亡命のプランでも考えておけば?」
リサは笑った。つられてカレンも笑う。杞憂であるといって、二人でアリスのことを笑う。
そうかもしれない、とそれだけいって、アリスは作り笑いを浮かべた。確かにアリスはこの国や社会の将来を憂いていたのではなかった。むしろ不確かな自分自身を憂いている。それも未来というよりは、どちらかというと過去や記憶に関して。
あっけらかんといまの自分や自分の立ち位置を肯定できるリサやカレンが、アリスには羨ましく思える。彼女たちは微塵の疑問も後ろめたい気持ちもなく、富裕層に収まる自分自身を受け入れ、生きている。
周囲の学生たちもみんなそうだ。この場所で昼食を取り、下層を見下ろしている人々はすべからく富裕層だ。アリスのような鬱屈を抱えた人は、この場所にどれだけいるのだろう。
学友たちにあわせて作り笑いを続けながら、アリスは心が冷え込んでいくのを感じた。
リサたちとの昼食後、アリスは大学図書館に向かった。法学部が入る階よりもさらに上階に図書館はある。エレベーターを降りるなり、四層吹抜の大空間がアリスを出迎える。図書館の入り口から奥までをまっすぐに繋ぐ大きな通路があり、その上の空間が四層分吹き抜けている。通路の左右には、背の高い無数の本棚がびっしりと並んでいる。上階は回廊になっている。
アリスは階を二つのぼり、自習用に設けられた席に座った。自習席は何十席とあったが、アリスの他に自習している学生は数名だけだった。
静謐な空間。汚れた空気も、雑多な景色も、雑念さえも入り込む余地のない場所。窓から差し込む冬の午後の淡い光が、宙に漂う微細な埃を照らし出す。
アリスはノートを開き、黙々とレポートの構想を書き込んでいく。題材は、レオ・シュトラウスの著作に関する考察だ。彼の主著である『自然権と歴史』、『政治哲学とはなにか』をテキストとして、彼の政治哲学の今日的意義をまとめていく。アリスがシュトラウスを学ぶのは、父の勧めがあったからだ。シュトラウスを理解するには、ギリシア哲学の基礎知識が必要であり、幅広い教養が得られるから、と父が勧めたのだ。
ときどき席を立っては、ギリシア哲学の本を取り寄せる。アリストテレス、プラトン。偉大な古典を机の上に積みあげ思索に耽るその瞬間は、まるで過去の偉大な賢人たちと知的な格闘をしている気分になる。そこには将来や自分自身の曖昧さに悩む自分は存在しない。
他の学生が開く本が、一瞬視界に映る。それは理系の専門書だった。その瞬間だけ、理系の勉強もしてみたかったという思いが過る。父の意向で法学や政治学を学んでいるが、本来アリスは理系科目が得意で、機械工学にも関心があったのだ。
限りなく静かで、知性が研ぎ澄まされていくこの空間が、アリスはたまらなく好きだった。ここには誰もいない。アリスの思索を遮る者はいないのだ。
古典を調べる。ノートに書き込みをする。腕を組んで、考えに耽る。そんなことを繰り返していると、時間は流れ、外の光が消えていき、夕闇が迫る。
アリスは窓の外の夕闇を見て、もうそろそろ帰る時間だと気づく。作業を止め、座ったままで手を前に突き出し、伸びをする。目は閉じていた。
目を開ける。
男が席の前に立っている。
「やあ」
ニイミハナだった。
「どうしたの?」
まったくの無表情で、アリスは尋ねた。
「クールな人だね。さっきは悪かったよ」
「謝られるようなことをされた覚えはないわ」
「君をからかった」
「気にしてないわ。それよりなんの用かしら?」
アリスはきいた。
「君は、例のパーティには出るんだろ?」
「パーティ。…ああ、学部の記念パーティのことかしら? 出席はするわ。気は乗らないけど」
一週間ほど先にはなるが、法学部創立何十周年だかを祝うパーティがあった。アリスは大学側から学生代表として式辞を読んでほしいと要請があり、断るに断り切れず、出席する予定だった。
「あのパーティ、僕も参加する予定なんだ」
そのパーティは学生全員が参加できるわけではなく、成績優秀な学生のみ参加できるときいていた。
「大学から成績優秀者と見なされたわけね。よかったわね」
「君には敵わないね。学生代表だもの」
「私が政治家の娘だから選ばれたのよ。成績優秀だった記憶もない」
「記憶はなくても、優秀であることに間違いはない。前に、試験の優秀成績者の張り出しで、君の名前を見た」
「なにかの見間違いじゃないかしら。…それで、パーティに私もあなたも出るわけだけど、それがどうかしたのかしら?」
「僕の仲間は誰も呼ばれてないんだ。…だから、僕は一人でパーティに出ることになる」
「そう。だから?」
「なにもダンスの相手を頼むわけじゃない。僕の話し相手になってくれたら…、その、嬉しいな」
アリスは吹き出す。
「用件はそれだけ?」
「ああ」
「いいわ、それくらい。でも、パーティは、みんなと会話をするから楽しいのではなくて?」
「知りあいが一人もいないパーティは、辛過ぎる」
「それじゃあ、私は辛そうなあなたに声をかければいいわけね。もっとも、人が多過ぎて、あなたを見分けられないかもしれないけど」
「大丈夫さ。とっておきのツイードのジャケットがあるんだ。それを着ていく」
「それで見分けがつくの? この時期だと、ツイードなんて珍しくないわ」
「濃いチェック柄が印象的なんだ。親父から譲られたものだけど、とても気に入ってる」
「なるほど、わかったわ」
「僕が所在なさげだったら、その、よろしく頼むよ」
「ええ、助け船を出せばいいのね」
アリスがそういうと、ハナはにっこりと笑い、ありがとうといった。
「それじゃ、今度の会場で」
「ええ、わかったわ」
満足した顔でハナは図書館を後にした。
アリスはハナの背中を見送った。わざわざパーティの話をするためだけに、ハナは図書館へきたのだろうか。
ハナの足取りはどこか軽やかで、そして一度もこちらを振り返ることはなかった。
窓の外はもうすっかり暗くなっている。
アリスは棚から持ち出した本を片づけに席を立った。この時間帯になると、夕方過ぎの授業が終わり、学生だけでなく教授も図書館にやってくる。下の階の賑やかさが吹抜を通じてアリスのいる階にも伝わってくる。
哲学書をもとの棚に戻そうとしていたら、その棚の前で屈み込んでいる人を見つける。それは午前の講義を担当した、クルス教授だった。
書棚の前で屈みながら、呆けた表情をしている。まるで他人のことなど視界に入っていないようだ。しばらくしてアリスがそばに立っているのに気づき、教授はアリスを見あげた。
「申し訳ありません、教授。この本をもとの位置に戻したくて」
アリスがいうと、一瞬そこで沈黙が生まれる。一秒後に教授が言葉の意味に気づき、こちらこそ申し訳ないといって、その場所をどいた。
「申し訳ない。歳をとると、耳が遠くなったようで…」
教授はそういい、別の棚で書物を探り始める。そしてまたあの呆けた表情をする。またしても周囲の世界は彼から遠ざかる。
アリスが本を戻しているあいだに、老教授はぶつぶつと何事かを呟く。
「…愛は私たちの悲惨のしるし」
それはヴェイユの言葉だ。狂気的な性格であったといえなくもない、夭折した女哲学者。教授のお気に入りの言葉なのだろうか。
クルス教授はアリスの視線などお構いなしに、ぶつぶつとヴェイユの言葉をつぶやきながら、本を探り続けていた。
常人ならば老人の戯言に気味の悪さを感じる光景かもしれない。だが、アリスは、老いてなお学究に耽溺する教授の姿にある種の無邪気さを見出し、言葉は発さずに微笑し、その場を立ち去ったのだった。
【注釈】
シュトラウス:ドイツ出身、亡命先のアメリカで活躍した政治哲学者。ギリシア哲学などの古典テクストの丹念な精読を通じて、社会科学の基礎たる政治哲学の復権を試みた。後進育成にも功績があり、彼の門下はシュトラウス学派と呼ばれた。
ヴェイユ:フランスの哲学者、活動家。数学者アンドレ・ヴェイユを兄に持つ。生前は無名の活動家で、ナチスドイツの迫害を逃れてフランスを離れ、亡命先のロンドンで客死した。死後、その著作が刊行されることで注目を集めた。社会的弱者への同情、極端な自己抑制、神秘思想への傾倒が渾然となった独特の思想が特徴。




