ゲテモノ
「おはようございます」
燦々と、陽の光が雪を溶かしていく。
季節は春。
桜と――出会いの季節だ。
「ああ、おはよう」
僕は、『常迴古書堂』という店を営んでいる。
この間アルバイトを雇ってみたのだが、その子が言葉の出ない程の不思議っ子で、毎日何かを被っている。
今日はバケツを被って来たらしい。
「ほら、それ外さないと。ただでさえ少ない客が逃げてしまう」
「嫌です」
逃げてしまうとは言ったものの。
正直うちに来る客は大体、妙な事案に頭を悩まさせていたり、妙な事案を求めていたりするので、むしろそういう客を引き寄せてくれそうだが。
僕としては曰くつきの本だけでなくて、普通の本も売りたいのだ。
「こぉんにぃーちはぁ」
「こら、まだお店開いてないよ……」
妙に間延びした大きな声と、咎める様でいて、怯えた様なひそひそ声が、店の入口から聞こえた。
客の様だが、まだ開店前である。
「まだ開店していないけど――」
……さて、どうしようか。
入口を開けると、猫背の、何だか大人しめな印象を受ける黒髪の少女とその背後に大きな単眼と口のついた、本の様な浮遊する物質がいた。
「取り敢えずそのゲテモノ本、人が増えたら目立つから、店内に入りなよ」
「げてっ、ゲテモノじゃーないですよぅ!」
本が喚く。
僕は取り敢えず、少女と一冊が店内に入れる様に扉を開けて、どうぞと声をかけた。
「あ、ありがとうございます」
「へはぁ、入り組んでるねぇー」
店に当たる部分は半円形なので、書架の配置や大きさ、形は、少し珍しいのかも知れない。
ただ、これもこの店に客が来ない理由の一端である事は確かだろう。
何せ、本を探しにくい。
「あの、常迴店主。まだ開店前では」
「本を売り買いするのは開店後だけど……ちょっとした無駄話をするくらいなら、別に問題ないよ」
バケツを被ったアルバイトが店の奥から出てきて、僕にそう声をかけた。
ちなみに常迴店主という呼び名は、決して僕の苗字が常迴だからではなく、そう呼んでくれと頼んだからである。
「ば、バケツ……?」
「えっ……えっ?」
しかしアルバイトはどうやら、ゲテモノ本にまで驚かれてしまったらしい。
まあ、彼女もゲテモノ本に驚いているので、どっちもどっちだが。
「この超不思議っ子は、アルバイトの……アルバイトさんだ」
「ちょっと常迴店主、名前覚えて下さってなかったんですか!?」
アルバイトが声を荒らげる。
何だか少女と一冊まで、随分な目でこちらを見ていないでもないな。
「セキュリティとか以前に……アルバイトの、これからしばらく付き合っていく人間に対してそれは――人としてどうかと思います」
「あはは。まあ、僕としては別に問題ないよ」
少女の鋭いセリフは、しかし僕が気にしない事によって意味を成さなくなってしまった。
この子、見た目に反して口が悪いな。
「僕としてはってぇ、アナタ結構自己中心的な人間ですねぇー」
「ゲテモノ本に言われるとは思ってなかったかな」
「ふふっ」
少女が小さく笑みを零した。
「こほんっ」
ああ、そうだった。
アルバイトの名前について話していたんだった。
「私は佐藤春歌です、覚えてくださいね?特に……と、こ、の、え、て、ん、しゅ?」
「うん、佐藤春歌ね。覚えたよ」
僕がそう言うと、彼女はじとりとした目でこちらを睨んだ後、溜息を吐いた。
失礼な、いくら人の事に興味のない僕でも、佐藤……えっと、佐藤春歌くらい覚えてられる。
「しかし見た目に反してぇ、意外にもフツーのお名前ですねぇ?佐藤さん」
本の単眼が、ぱちぱちと驚いた様に瞬きをする。
「はい。この名前、普通なので気に入ってるんですよね」
「つまりそのバケツの下は普通でない顔が広がって――」
ゲテモノ本が軽率な発言をしたその瞬間。
ゲテモノ本が、視界から消えた。
「……え?」
ゲテモノ本は地面に思いきり叩きつけられていたのだ。
痛そうに呻き声を上げて、のろのろとゲテモノ本は、再び宙に浮き上がる。
「酷いですよぅ」
「酷いのは貴方です」
ふんすと息巻く佐藤、えっと……佐藤春歌に、ゲテモノ本は恐れおののいたとでもいう風に距離を取った。
「あ、そういえば、この古書堂にはどういった要件できたのかな」
「ええと、彼女を売りに」
「えっ」
いや、普通に仲良さそうだし、まさか売却が要件だとは思っていなかった。
ゲテモノ本を指さす少女に、僕は思わず戸惑いを口にした。
「ええ、ワタシ旅する本なのでぇー。彼女との旅も楽しかったんですけどねぇー?一箇所に留まっておく訳にはいかないんですよぉ」
多くの人の手を渡り、旅をする。
それはまあ、なんというか。
夢があって、良い。
「そういう訳で、その子をよろしくお願いします」
「あ、うん。じゃあ、精算するから待ってね」
こうして古書堂に、ゲテモノ本がやってきたのだった。