表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

灰色の猫

作者: たぐい

 

 水の音がする。


 何故か素っ裸で無人の女湯に放り込まれた僕は、焦りに焦っていた。何をどう間違えてこんな羽目に陥ったのか、全く分からない。しかしここが女湯であるということははっきりしている。その証拠に、曇りガラスの向こうの脱衣所から、明るい笑い声と人の影がちらちらと近づいてくる。絶体絶命だ。どうしよう。どうしよう。手近な洗面器を腰の前に当てた無様な格好で、僕はおろおろと、湯船の中にでも隠れようかと熱そうな湯に飛び込もうとして――


 目が覚めた。

 あと一秒で前科のつくところだった僕は、無罪のままでいつもの自分の部屋にいた。

 水の音は続いていて、すぐそばの窓枠に投げ出していた左手がひどく冷たい。目だけ動かして見た窓の外には、どんよりした灰色の空と、真面目に降っている雨の灰色の線があった。窓を開けたまま眠っていたせいで雨が吹き込んでいたらしく、左手の乗っている窓枠は湿っているという段階をそろそろ超えようとしている。

 とりあえず水音が夢に侵入した理由については納得することにして、僕は乱暴に濡れたままの左手でガラスに手のひらを密着させ、力を込めて引いた。


 ばしん。


 悲鳴を上げるサッシを無理やり叩きつけると、水の音が遠くなった。

 枕カバーの代わりにまきつけているバスタオルで左手を拭って、もう一度目を閉じる。何とも言えない、妙な感じがした。

 さっきの夢のせいではない。ずっと前に読んだ夢占いの本では、確か裸を他人に見られる夢は、何か隠し事をしていませんか――とかそういったことが書いてあったような気がするが、特に他人に知られて困ることもない。別に、特に女湯を覗きたかったわけでもない。じゃあ覗きたくないのかと言われると物凄く困るのだが無視する。ああ、でも熱い湯船に入りたかったのは事実かもしれない。


 血圧が上がらないまま、転がり落ちるようにしてベッドから床に降り、僕はよろよろとユニットバスでシャワーを浴びる。

 妙な感じは続いている。何かが来る。急いで支度をしなくてはいけない。今日は日曜日だから何の予定もないはずなのに、僕は何の根拠もなく確信する。

 そんな感じは、実は日頃からしょっちゅうあるのだが、本当に何かが起こるのは半分もあるかないかだ。当たらなければ単なる急ぎ損ということになる。でも今回はちょっと違う気がした。予感なんてものはいつもそうだろうと言われればそうなのだけれど。


 仕方がないのでさっさとシャワーを済ませると、僕はトランクスだけでなくTシャツとGパンまで着込んだ。頭をタオルでがしがしと拭きながら、飲み物しか入っていない冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出す。微炭酸と書いてあるラベルを眺めながら煙草に火をつけ、少しずつ回りだした思考回路で、微炭酸というのは具体的にどのぐらい炭酸なのか悩んでいると、電話が鳴った。受話器を取り上げ、特に考えもせずに、はいサイトウです、と発音する。



「○○急便ですが、サトウ様よりナマモノのお届けものがございます。本日これから、ご在宅でしょうか」



 最近の宅配便はこうやって事前に電話連絡をするものらしい。二度手間を省くためなのか、近頃流行っているらしい詐欺の類と間違われるのを防ぐためなのか、なんにしても喜ぶのは電話会社だな、と思いながら、はいいますよーと今度は少し思考を伴った返事をした。



「それではまもなくお届けに参ります」



 電話を切り、微炭酸という形容詞のついた液体を口に含んで、僕は疑問に思う。サトウというのはどのサトウさんなんだろう。

 ぼんやりと考える。砂糖さんから送られたナマモノ。僕は甘党ではないから、ちょっと困るかもしれないが、八橋ぐらいだったらがんばれば大丈夫。しかし左党さんからナマモノを送られたとしたら、ちょっと困ることになるな、と僕は煙を吸い込む。特に理由もないが物騒なことになりそうな響きだ。死体だって切り取られた手足だってナマモノといえばナマモノなわけだし。

 まぁ普通に考えて、サトウさんは佐藤さんであると考えるべきだった。しかし佐藤さんという名前の、僕にナマモノを送ってくれそうな人は思いつかない。大体、サイトウという名前の僕が言えたことではないが、サトウやスズキなんて姓はそこらへんにありふれている。ありふれすぎて、市役所の何かの用紙の凡例の山田太郎とか、落語の熊さんはっつぁんと同じぐらい胡散臭い。

 全国の佐藤さんや鈴木さんや山田太郎さんを一度に敵に回しておいて、僕は更に考える。とりあえずサトウさんからナマモノが来ることは分かった。そしてそれがきっと、僕が待っているものだ。現に今、僕はTシャツもGパンもちゃんと着ているから、宅配便のお兄さんかおじさんを出迎えるために慌てて準備をする必要はなくなった。今日の予感はどうやら役に立ったようだ。


 しかし、どうせなら宅配便でなく可愛い女の子でも来ないものだろうか、とぼやきながら二本目の煙草を半分ぐらい吸ったところで、インターホンが鳴った。

 僕の住んでいる、この6畳の1Kにはオートロックなどという高尚なものはないので、煙草を灰皿に突っ込んで玄関までの数歩の距離を歩き、ろくに確認もせずにドアを開ける。



「こちらにサインをお願いしまーす」



 雨の音とアパートの濡れた廊下をバックにして、どう見ても美少女とは縁遠いお兄さんとおじさんの中間ぐらいの配達員が立っていた。印鑑などという面倒くさいものは使わない人が多いのだろう、実家の母親でも田舎の祖母でもない人からの食べ物が入っているにしては大きな、しかしそんなには重くなさそうなダンボールを玄関に置くと、配達員は手際よくボールペンと受領書を差し出し、僕は受け取って投げやりにサイトウと書き込んだ。


 別にカタカナだろうが漢字だろうが、フルネームでなくても何も問題がないということは、この数年間の一人暮らしで学んだことの一つだ。人の名前なんて何でもよいのだろう。だったら、そんなものはなくなってしまえばいいのに。しかし、E-7018V34とか、そんな名前が全ての人に付けられていたら、やっぱり呼ぶときに長いし発音しにくいし、省略しにくいしあだ名だってつけにくい。やっぱり多少胡散臭くてもサイトウとかサトウとかスズキとか山田太郎でいいんだ、と一人で納得しながら、僕は配達員に薄っぺらいカーボン紙の受領書とボールペンを返して、ご苦労様、とドアを閉めた。


 部屋に、ダンボールと僕が取り残された。


 そこで初めて、僕は届いた荷物の中身について真剣に考えた。ダンボールはありふれているけれど大して強度のなさそうな、ポテトチップスのロゴの書かれたもので、ガムテープで適当に封がしてある。伝票のあて先は確かに僕の住所になっていて、送り先の欄にはサイトウ様、送り主もサトウ、とカタカナで姓だけが書いてあって、内容の欄には生物と記されている。何もおかしいところはないようで、それでいてどうも奇妙だった。

 こういうよくわからない時には例の予感という奴に聞いてみるぐらいしかすることがない、というわけで聞いてみると、ろくに考えもせずに、別に大丈夫じゃない?といかにも適当な返事が返って来た。素直に受け取るには失礼な返事だが、確かに言われてみれば、そもそも僕は時限爆弾を仕掛けられるような大物ではないし、このダンボールはそんなものを安全に運べるほど頑丈には出来ていなさそうだった。

 

 そっと持ち上げてみる。大きさの割には軽く、かといって空っぽというほど軽くもなく、せいぜい三、四キロといったところ。とりあえず、部屋の中の灰皿と微炭酸の飲み物のところへ運ぼうと二歩歩いた。


 とす。


 音がした。


 中身はいっぱいに詰まっているのではなく、何かが入っているというだけであるらしい。軽く揺すってみる。


 にゃあ。


 今度は声がした。とすとすとす、と中で「何か」が動いて、ダンボールの中の重心が移動した。


 僕はあっけに取られて、そのまま五秒立ち尽くし、それからそっとダンボールを床に置いた。もしかして、もしかしなくても、これはサトウさんから届けられたナマモノでなくて、サトウさんから届けられたイキモノなのではないだろうか。イキモノなのだとしたら、僕の知る限り、にゃあと鳴く可能性があって、三、四キロぐらいの重さで、このぐらいのダンボールの中で動ける大きさのイキモノは、


 べりべりとガムテープを引っぺがした。蓋を開けた。


 案の定というか、何というか、とにかく灰色の毛に覆われた前足がダンボールの縁から出てきて、ひっかかった。続いて同じ色の耳、そして鼻先と長いひげ、最後にはしなやかな動きでそのイキモノの全身がダンボールの外に降り立つ。全身と同じ、でも少し濃い灰色の大きな目が僕を見上げ、その下で口が開いてもう一度にゃあと音声を発し、そのイキモノは前足を二本揃えてキッチンの流しの下の、フローリングともタイルとも呼べない素材の床の上に、きちんと座った。


 どうみても、猫だった。

 何故。



「どうも、はじめまして」



 猫は明快な日本語にしか聞こえない、それでいて、音としてはにゃあ、以外の何物でもない声で、そう言った。

 へ?と発した僕の声は我ながらアホ臭かったし、中腰でダンボールの封を開けた体勢のまま、僕のすぐ横、20センチと離れていないところに降り立って座る猫を、中途半端に口をあけたまま見つめている僕の姿も十分アホ臭いに違いがなかったが、猫は真面目な「にゃあ」でもう一度言った。



「はじめまして、サイトウさん。私はサトウと申します。いきなりのことで、ご理解頂けないのももっともかとは思いますが――」



 ちょ、ちょっと待ってくれ、と僕は猫を制止する。

 君がサトウさんなのはともかくとして、まず猫が何故喋っているんだ、そもそも猫の声帯と言うのは人間とは違うものであるはずだし、そもそも猫が何故サトウさんで、日本語を喋っていて、大体ダンボールの中では普通ににゃあと言っていたじゃないか、いやそれよりも何故ダンボールの中に猫が入って宅配便で僕の部屋に届けられることになったのか、いや、これはそもそも現実なのか、非現実過ぎるのではないか、しかし現実的に猫が日本語を喋ることが絶対に無いと言い切れるだけの知識は僕には無いし、ダンボールに猫を入れて宅配便に出すなどというのはそもそも非常識すぎることであって、いやそれ以前に僕にはサトウさんという猫の心当たりが、



「ええと、まず落ち着いて私の話を聞いて頂けますか」



 あ、はいどうぞ、と僕は猫の尻尾に示されるまま床に座った。

 傍から見たらアホ臭いことこの上ない風景だろう。ダンボールから出てきた見ず知らずの猫に従って、何故か台所の床にかしこまって正座する人間。ここは僕の部屋なのに。


 しかし猫はとにかく落ち着き払っていた。ゆっくりと長い尻尾を揺らしながら辺りを見回し、部屋の中を持ち主が失礼に感じない程度に覗く動作は、実に礼儀正しい人間にしか見えなかった。

 すぐに部屋の状態の確認に満足したらしく、その猫は、いやサトウさんは僕にも状況を把握させようとするかのように真っ直ぐに僕を見上げた。



「どこからお話すれば納得して頂けるか分かりませんが、まずサイトウさんにご迷惑をおかけしたこと、少なからず驚かせてしまったであろうことをお詫び致します」



 サトウさんは重心を前の方へずらし、深々と、鼻先が床につくほどに頭を下げ、尻尾もぱたりと床につけた。しばらくそうして、それから頭をあげる。



「私が何故サイトウさんのお宅に伺うことになったのかお話する前に、まずお聞きします。サイトウさんは、人間であることの必要性を強く感じながら生きておられますか?」



 は?とまたアホ臭い声が出た。人間であることの必要性。いきなり何を言い出すんだこの人は、いやヒトじゃなかった。

 なんだかそれとは違う問題について聞く必要性を強く感じながらも、聞かれてしまったからには答えなければならない。人間であることの必要性、つまるところ僕は人間でなければならない、例えば猫などであっては絶対にいけないと思いながら毎日生きているかどうか、そういうことなのだろうか?



「答えにくいでしょうか、それでは少し違った質問にしましょう。サイトウさんは、人間と他の動物との違いは何だと思いますか?」



 人間と他の動物の違い。そんなものは分かりきっている、人間は原始レベルから二足歩行をして、道具を作り、火を操り、言語、特に文字を使ったコミュニケーションを行い社会を築き上げた唯一の動物である。現代社会での違いは言うに及ばない。だから何だというのだろう。



「では、サイトウさんは、その火を操ったり文字を使ったりすることが、サイトウさんがサイトウさんであるために絶対に不可欠なものであると思いますか?」



 猫は詰め寄る。その灰色の目の中で細められた黒い瞳孔を見つめると、何と答えるべきか分からなくなっていく。

 僕が例えばロビンソン・クルーソーのように無人島に放り出されて、火をおこすことも出来ずに拾った木の実や素手で捕まえた生の魚ばかり食べて、誰にも手紙を書かなかったら僕は僕でなくなるのか、いや、そんなわけはない。僕は何処へ行っても僕であるはずで、例えばそれが人間として正しくない動作を日常的に繰り返していても、例えば赤ん坊の時から僕だったわけだし、何十年か経っておじいちゃんになって、痴呆にかかって孫の顔もトイレの場所も分からなくなっても僕であるはずだ。

 ということはだ。例えば僕が人間でなくなったとしても僕は僕なのではないだろうか。僕が僕として生きていくために必ずしも人間でいなければならないなどと誰が決めたのだ。


 思考がぐらりと傾く。いやちょっと待ってくれ、しかし僕は今まで人間という生き物として生きてきたから今の僕であるのであって、犬や猫や雀として生まれ育っていたら今の僕とは別の人間に、いや違った、別の犬なり猫なり雀なりになっていたはずで、ということは今までの僕を認めてやるためには人間でなくてはならないのではないだろうか、人間という器の中に入っているから僕は僕なのであって、他の動物であってはいけないのではないだろうか、毎日猫の身体で、猫の視線で過ごしていたら価値観もきっと猫になる、それは少なくともサイトウケンタという今の僕とは違った人間に、いや人間ではなく猫に、でもそうなると人間と猫なのだから違って当然といえば当然なような、



「そういうわけで、私は人間である必要性を見失ったわけなのです」



 視線を少し落として、サトウさんは言った。埃でも触ったのだろうか、灰色の左の耳がぴくりと動いた。



「そして最初は真っ白な猫になりました。それまでの概念や常識といったものへの強い反発が、潔癖で純粋であると同時に全ての光を反射する、つまるところ全てを拒絶する白という色になったのだと私は思いましたが、たまたまだったのかもしれません。その内に、猫の視線から様々なものを見るうちに、人間として生きていくことを選択して生きていた自分の過去も含めて、全てを受け入れようと思い始めました。その頃丁度毛が抜け変わり、季節が変わる頃には私は黒猫になっていました。黒は白に相反するけれど同じように純粋で、それでいて全てを吸収し受け入れる色ですので、そのときの私の気分に本当にぴったりでした。勿論これも、たまたまだったのかもしれません。そうして今度は人間でなく猫の社会を見てみることにしました。猫の社会にも勿論概念や常識といったものがあり、それは情報網を広く持つ人間のものとは比べ物にならないほど小さく、強固なものでした。しばらくたつ内に私はそれを受け入れきれなくなってきまして、同時に猫である自分への疑問もまた抱くようになり、以前のように完全に拒絶することも、かといって完全に受容することも出来なくなって、毛は今の灰色になったのです」



 これまでに何人にも同じ話を聞かせたかのような、あらかじめ書いてある物語のあらすじを朗読するかのような、淀みのない説明。僕はすっかりサトウさんのペースにはまってしまった。しかし何かが引っかかる。なんだか分からないけれど、とても重要なことが抜け落ちている気がする。


 ええと、とりあえずサトウさんが今の灰色の猫になった理由は分かりました、と僕は言った。つまり、サトウさんは以前は人間だったわけだ。



「そうです、三ヶ月ほど前までは。しかし、サトウという人間として生きていく事は、必ずしも私が私であるために不可欠な要素ではなかったのです」



 サトウさんは軽く咳払いをした。

 ええと、お茶でも出しましょうか。あ、熱いものは苦手ですか、と僕は聞いた。一つには僕自身が煙草でも吸って少しサトウさんから離れたかったのと、もう一つには、台所で正座していたせいで足が痺れ始めていたからだ。



「いえ、御気遣いなく。もしご厚意に甘えさせて頂けるなら、牛乳か水を、冷たいままで適当なお皿に少々頂けると嬉しいですが」



 嗜好や体質はやはり猫であるらしい。身体が猫であるということはそういうことなのだろうか、と僕は考えながら部屋の中へサトウさんを招き入れ、牛乳を小皿に入れて床においてすすめた。

 サトウさんは丁寧に礼を述べて牛乳をぴちゃぴちゃと舐め始め、僕はサトウさんに一応断りを入れてから煙草に火をつける。微炭酸のペットボトルを口に含みながら、僕はまた考える。


 人間である必要性。人間として生きていくのは大変だ。金を稼ぎ、衣食住を手に入れて、ただ生命体として生きていく以上に人間関係を考慮し、社会的に生きなければならない。しかしそうでなくて、単に食べて寝ていればいい状況になったら何ができるか。

 遊ぶことだと誰もが考える。しかし人間として遊ぶためには金がかかる。やはり金を稼ぐ必要が出てくる。そこで人間としてでなく生きていたとしたら。例えばサトウさんのように猫になって、食べて寝て猫として遊んでいくとすれば。


 僕は煙草の煙を吸いこむ。しかし猫になったら少なくとも煙草は吸えなくなる。きっと毎日何かを考えるか外を観察するぐらいしかすることがなくなるだろう。

 考えたことを誰かに伝えることが出来るかどうか。猫というのは実際話し相手としてどのぐらい面白いのかそうでないのか、猫を飼ったこともなく、まして喋ったのは今日が初めての僕には見当もつかない。

 だからといって人間に話すのも難しいだろう。誰だって、猫が日本語を喋ったら驚くし、下手をすれば大騒ぎになるだろう。大騒ぎになるだけなら良い、どこかの研究所にでも連れ去られて脳波を調べられたり研究材料になったりするのはいただけない。そうなった僕にはきっと人権はないのだ、猫権では動物愛護団体が立ち上がってくれたにしても研究所で「保護」されている特殊な猫に手出しが出来るかどうか。それを避けるとすると、別の方法でなくてはいけない。

 文字は書けるのかもしれない。「吾輩は猫である」のリアルな現代版ということで本が出せたりするのだろうか。しかし猫が書いた文章を真面目に出版社が取り合ってくれるかどうか。それに原稿を送るには切手がいる。郵便局まで封筒をくわえ、財布を持って猫が行く図も想像できないが、第一その金はどうするというのだ、それに原稿料を受け取るにせよ銀行口座が作れるとも思えない。また金の話か。人間の動作には何故こんなにも金がつきまとうのか、いや、しかしそもそも本を出すなどというのは人間の行為であって、猫として生きていくということにはならないような。



「ごちそうさまでした。助かりました、ありがとうございます」



 サトウさんは牛乳を飲み終えて、口の周りを前足で拭う。その動作は紛れもない猫の動作で、生まれた時からずっと猫であったように見える。同業の猫から見ると差異はあるのかもしれないが、僕には少なくともそうは見えなかった。僕は聞いてみた。



「動作ですか?最初は多少まごつきましたが、身体はなんといっても猫ですから、本能というものですぐに分かるようになります。一週間ぐらいで何も考えずとも大抵の動作は出来るようになりました」



 サトウさんはひげの先まで丁寧に綺麗にすると、僕の方へ姿勢を正す。つられて、僕もあぐらをかいたままだったが少し背筋を伸ばした。



「突然押しかけてしまって厚かましいのですが、サイトウさんにお願いがあるのです」



 はい、なんでしょうと僕は聞いた。



「しばらくの間、私をここに置いて頂けないでしょうか。雨露をしのげれば、玄関でもトイレでもどこでも構いませんし、食事は残飯でも結構ですし、特に頂かなくても、窓からの出入りを許していただければ自力でなんとかできます。お休みやお仕事の邪魔は致しませんので」



 僕の住んでいるこのアパートは確かペット禁止ではなかっただろうか。まぁいいか、と僕は軽く考えることにした。正確に言えばサトウさんは猫ではないし、見知らぬ人と一緒に住むのには抵抗はあるが、見知らぬ猫ならどうということはない。キャットフードと水ぐらいでよければそのぐらいは用意できる。僕は平日いないことが多いから手近なところにおいておくとして、自分で適当に食べてもらえれば。



「ありがとうございます。何分猫なので出来ることは限られますが、言って頂ければできるだけのことはします。新聞を取ってくるとかズボンのプレスとか」



 用事が出来たらお願いします、と僕は言い、そして考える。

 僕は人間が好きだろうか。人間でいるということの煩わしさから、猫になったら解き放たれるのだろうか。サトウさんは誰よりも自由な人間であり、同時に誰よりも不自由な人間だろう。猫になるということは、同時に猫の世界の不自由に束縛されることになる。

 猫の不自由。人間の不自由。本当に自由な状態というのは、生き物として生きていく上で存在するのかどうか。人間は他の動物よりも自由な存在なのか、不自由な存在なのか。僕は人間としての不自由に耐えながら生きていきたいと本気で思っているのかどうか。


 考えるほどに分からなくなっていく。サトウさんの黒に近いような濃い灰色の目が僕の考えを頷きながら聞いている。ふと眠くなる。つい数時間前に起きたばかりなのに、と思いながら僕は床の上にごろりと寝そべって、目を閉じて、考えて、考えて。



 * * *



 水の音がする。


 誰かがシャワーを浴びている。僕は目を開けて、視界に入った自分の手が黒いことに驚いた。


 うわ、と叫んだつもりが、にゃあという音になった。

 身体を起こす。いつもよりもずっと身軽になっていて、僕の手は黒い毛皮に覆われて、引っくり返すと手のひらには肉球があって、爪が出し入れできる猫の手になっていた。


 落ち着け。考えろ。思い出せ。今日は休みの日で、ダンボールに猫が入っていて、その猫はサトウさんで、僕はサトウさんという灰色の猫と話していて、眠って、目が覚めたということは、これはもしかして、もしかしなくても、


 立ち上がった。いや、立ち上がれなかった。足は全部の体重をかけるには適さない形になっていた。四つん這いの状態で四肢をぴんと伸ばすと、人間ならば足が長くて手が短いが故に前に倒れるはずが、丁度良く頭が地面に対して直角になる角度におさまって、尻尾を揺らすことが出来た。


 下半身を振り向く。

 黒い毛皮に覆われた背中と、足と、尻尾。


 間違いなかった。


 シャワーの音が止まった。



「サイトウさん、お目覚めですか?」



 バスタオルを身体に巻きつけて、見慣れた僕自身の顔がユニットバスから顔を出し、僕は心底驚いた。毛が逆立つ。尻尾も逆立つ。



「驚かれましたか。私も驚きました。お分かりかと思いますが、私はサトウです。先程私も眠っている間に、サイトウさんになっていました。人間の身体は本当に久しぶりで、余りに懐かしかったので勝手にシャワーを使わせて頂きました」



 そんなことはどうでもいい。これはどういうことだ、僕は黒猫になっていて、灰色の猫だったはずのサトウさんが僕になっている。身体が入れ替わったとでも言うのか。今すぐに戻してくれ、猫では何処にも行けない。


 僕の身体をしたサトウさんは、脱いできちんと畳んであった僕の服を着た。完全に僕の姿で、サトウさんは言う。



「サイトウさんが人間に戻りたいとお思いになるなら、すぐにでも戻れるのではないでしょうか。でも人間でいることは不可欠ではないと考えられたために、猫になっているのではないのですか?とはいえ、私の方も真剣にサイトウさんになりたいと思ってなったわけではありません。私がサイトウさんとお話して、私がサイトウさんになり、サイトウさんが黒い猫になった、これが偶然なのか必然なのかわかりませんが、事実です。私に分かることでしたら、もちろんサイトウさんのお手伝いを致しますが、猫としてしばらく暮らす内にまた本当に人間になりたくなってからでもよいのではないでしょうか」



 それもそうか、と僕は納得した。確かに僕も、人間でなくてはならないという結論には達しなかった。だから猫になったのかもしれない。今までそうならなかったのは、そんなことを考えたことがなかったからだと言われればそういう気もする。

 しかしさっきからどうも、思考が単純になっているように感じる。猫の思考回路というものなのか、あまりにも混乱しているせいなのか。



「実のところ、私が猫になったのは、カトウさんという三毛猫がダンボールで届けられた日のことでした。カトウさんは、今の私と同じように人間の私の姿になりました。私は始めカトウさんと猫として暮らし、それからしばらく野良猫として生活し、再び人間と暮らそうと考えて、カトウさんに相談しまして、サイトウさんのお宅に伺うことにしたのです」



 そうだったのか、と僕は素直に受け止める。しかし何故僕のところだったのだろう。



「同じ人間と二度以上暮らしても新しい経験は得られないと思っただけで、サイトウさんを直接に知っていたわけではありません。しかし宅急便で送られる以上は近距離でないと何が起こるか分かりませんし、実際、現在こうなっているわけですが、このようにその人になってしまった場合に名前が近い人の方が覚えやすく、かつ呼ばれ慣れている感じがするので便利だとカトウさんが電話帳でサイトウさんの住所とお名前を調べたわけです。カトウさんの前の方はカイトウさん、その前の方はイトウさん、と伺いましたが」



 サトウさんは重ねて言う。



「勿論、私はサイトウさんの身体になっても私です。しかし、またいつか私が猫になり、サイトウさんが元に戻られたときのことも考えて、サイトウさんの代わりに仕事や学校については全力で責任を果たします。サイトウさんが望まれる間はサイトウさんのお宅やそのほか色々なものをお借りしているわけですから、当然のことながらサイトウさんの食事や寝る場所などもお世話します。そしてもし、他の誰かと暮らしたくなられた場合には、私が宅配便を手配致しますし、送り先も探します。そうですね、その場合はサイトウさんに近いお名前で探すとすると・・・この近所に、ナイトウさんとか、もしくは私以外のサトウさんがいらっしゃるといいんですが」



 なるほど、実に合理的だ。と僕は納得する。


 そのまま伸びをすると、気持ちよかった。自分の部屋なのだから構わない、とばりばりと床で爪を研ぐと、なんとも爽快な気分だった。人間よりもずっと広い視界で部屋を見、人間よりもずっと鋭い嗅覚で煙草の匂いの残る部屋の空気を吸う。

 よし、それならしばらく猫でいることにしてみよう。だから、と僕はサトウさんに言った。



「今は、まだいいです。それではサトウさん、髪が乾いたらでいいですから、カバンの中にある僕のサイフを持って、スーパーでキャットフードか何かを買ってきて頂けませんか。サトウさんに必要なもの、サトウさんから見て僕に必要だと思われるものも、一緒にお願いします」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ