美鈴、化粧して出かける
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「美鈴、どうしたんだ? 」美鈴の車が車庫から出て行くのを確認すると父親が聞いた。
「さぁ、どうだか? 」母親は夫をからかうように言った。「美鈴の花嫁姿を見られるかも? 」
「でも、相手は女と言ったじゃないか? 」と、父親。
「あんた、馬鹿ね。 化粧なんて滅多にしない娘が化粧して出かけたのよ。その娘の言葉を百パーセント信じるの? 」
父親は窓から遠ざかる娘の車を目で追った。
美鈴はコンビニに寄ってから和田君の官舎に向かった。寿町の警察官舎は4家族×4階だった。嘗ては署員は管内在住が原則だったそうだが、道路事情もよくなりそんな“固いこと”は言わなくなったこともあって、空き室が多い。警察官舎であることを示す表示はなかった。
和田君の部屋は2階の東側だった。
時間は八時四十五分。約束の時間より少し早かった。でも、美鈴がチャイムを鳴らすと直ぐに鉄製のドアが少し軋みながら開いた。
“待っていたのかな? ”と、美鈴は思った。
「お早う! 」美鈴は快活に言った。
「お早うございます」と、和田君が美鈴の顔を眩しそうに見つめ答えた。
和田君は荷解きを既に始めていた。でも、台所を覗いても和田君が朝食を食べた形跡がなかった。
「朝ごはんは? 」と、美鈴。
「ダメじゃない。これから力仕事よ、食べなきゃ……。それとも、朝ごはんを食べない主義? 」
「決して、そんなことは……。でも、冷蔵庫は使えないし、コンビニが何処にあるのかも分からなくて…… 」
「仕様がないわね。これお昼の分と思ったのだけれど、食べなさい」美鈴は母親と二人で(実際にはほとんど母親が)作った弁当を差し出した。
和田君はいくつかのダンボール箱の中からコップを引っ張りだし、妙な位置の置かれたテーブルと椅子を使って食事を始めた。
「美味しいです。杉内さん、料理上手いんだ」和田君は玉子焼きを一口食べると感心したように言った。
「たいした事無いわよ! 」
“大嘘だ。嘘は泥棒の始まり?”と、美鈴は思った。“いや、いや、ここは嘘も方便”
和田君が美味しそうに美鈴が持ってきた弁当を食べた。
“冗談でなく、料理の勉強、始めなきゃ”と、美鈴は思った。
「ピン・ポンー」玄関で音がした。
“誰? 気がきかないわね”と、美鈴は思った。“気がきかない? ”
「誰だろう? 」和田君が席を立った。
「和田、引越しの荷解きあるだろう? 手伝いに来た」地域課の品川の声がした。
「ありがとうございます」と、和田君。
「誰か来ているのか? 」あれは会計課長の声。二人ともこの官舎に住んでいた。
「杉内さんが……」和田君の言葉が途中で終わってしまった。
「杉内がいるのか……」と、品川の声。「女は細かい事に色々気づくから、こんな時は都合がいい」
「あっ、しまった。おれ、姉貴の所へ行く約束をしていたんだった」と、会計課長。くさい演技だ。「和田も何処か行くとか言ってなかったか? 」
「えっ、おれは別に……。 」
「……」会計課長が和田に何か言っているのが聞こえた。
「えっ…。……。そうだった……。女房と買い物に行く予定だった。すっぽかしたら家を出される。悪いな、おれも手伝えない……」これも臭い。
二人の声が遠ざかって行った。
「でも、山下が悲しむな……」と、品川の声。
「馬鹿……」と、会計課長。
ドアが開き閉まり、階段を登る足音がしてからドアが開き閉まり二人の気配がなくなった。
“和田君とずっと二人でいたい”と、美鈴は思った。
和田君と左手同士で繋がっていた“運命の赤い糸”が少し太くなったような気がした。