悪の下ごしらえ
ようやく夏休みだと言うのに、7月は末日までたっぷり仕事が入っていた。
なんとか教室の片付けや二学期への仕込みも終わり、8月、マサヨシはいよいよ現実と向き合うこととなる。
まず、制作スタッフと打合せを行うから、ということでマサヨシはわざわざ背広で出勤した。
呼ばれるまま校長室に入り、校長教頭、学部主任に学年主任と居並ぶ末席に腰掛け、目の前の4人をじっとみつめた。
制作の現場担当チーフと、映像と音声担当者が各一人ずつ、案外ラフな格好で、しかしさすがプロらしく資料を指しながらよどみなく自分たちに説明をしている。
聞きながら、ふと一番端、自分のほぼ正面に座る男を眺めた。彼だけなぜか、あまり目の前の打合せに集中していない雰囲気だった。ずっと黙って、さりげなくあちこちを眺めている。服装も4人の中では一番ラフで、よく見るとジーンズだった。
ふと彼と眼が合って、ようやく気がついた。
「そうそう、ご紹介が遅れましたが、そちらの彼がリトミックマン役の鵜飼君です」
プロデューサーがそう言った時、彼はすっと立ち上がり、
「宜しくお願いします」それでも深く、頭を下げた。教員側はその時ようやく気づいて「おお」と感心したような声をあげた。
まさか俳優の鵜飼正二郎さんが同行しているとは、と教頭も感激している。
「いつもならば俳優が同行することはないのですが、今回たまたま彼、近くに用事があってついでだから学校を見て行きたい、なんて言うものですから……」
チーフは言い訳がましく笑ったが、主任たちも嬉しそうにニコニコしている。鵜飼はひとり、涼しい顔をして前を見ていた。何だか、クールというのか、他人事みたいな顔だな。マサヨシは話を聞きながら時おりちらちらと彼を盗みみた。
リトミックマンの時はあんなにホットに燃えているようなのに、顔つきまで違うので別人のようだ。やっぱり演技は演技なんだな。
ここの学校には、大人の嘘を見破るのが得意な子が多い。普段他人の感情に無頓着であるような重い自閉があるような子ほど、そういった感情の機微に実は敏感だという時がある。本番の時子どもらが、一瞬でもリトミックマンの中にこんなクールさを垣間見てしまったら、いったいどんな反応が起こるのか……想像したくもなかった。
打合せの具体的な点まで詰まってきて(悪の化身は、この地域特産である綿花が詰まった枕、ということに決まった)、急にヤマベがマサヨシに言った。
「……じゃあ、使用する体育館をタカナシ先生、皆さんにご案内して頂けますか」
マサヨシ、あわてて立ち上がる。
一通り案内が済み、スタッフの三人が「ちょっと自分らで回らせてもらっても?」というのを快諾し、彼らがあちこちをうろうろしながら段取りをたてている様子を体育館のすぐ外に立って、ぼんやり眺めていた。
ふと、すぐ近くに鵜飼が立っているのが目に入った。彼はひとりきりで、遠い目をしたまま校舎を眺めている。
視線に気づいたのか、鵜飼がくるりとこちらを見て、にやりとした。悪い感じではなかった。
「悪役の、先生ですよね」
セイギ、と書いてマサヨシ、さんですか、面白いですね。そう言ってくれたので近くまで歩み寄る。
「今日はわざわざありがとうございます」殊勝にそう頭を下げると、相手の表情が消えた。少し遠い目になって彼は、さらりとこう口にした。
「実家が近くてね、姉の墓参りに来たついでに」
「はあ」次の言葉に、更にマサヨシは目を見開いた。
「ここの生徒だったんですよ、姉が」
「えっ」
「亡くなったのは、ずいぶん前です……ここの高等部卒業後すぐに」
「ご病気で」
「元々、ギリギリだったんでね」鵜飼は、はあ、とため息のように笑う。
「親は喜んでましたよ、それでも学校に行けて幸せだった、ってね」
たくさんの先生、友人、その親御さんたちからもたくさん幸せを分けてもらったんです、アネキは。僕もよく送り迎えの時一緒に来ましたよ、ここに。
急に『正義の味方』が自分と同じ背丈に見えた。
「僕も、がんばりますんで」なぜかそう口をついて出た。鵜飼は静かに笑った。