悪の自己嫌悪
プールの季節の仕事は、比較的楽だった。
五年二組の子どもらはみんな水が大好きで、ケンジローでさえも、プールのある日はちゃんと遅刻せずに学校に来るし(この子にとってそれだけでもものすごい努力が必要だ)、あんがい落ちついて終日過ごすこともできた。
そんな七月の授業参観時、
「ねえマサ先生」
プールサイドで見守っていたコーキのママ中心とした賑やかな連中に急に取り巻かれ、質問攻めにされた。
「リトミックマン来るらしいって聞いたけど、ホント?」
収録が九月末にあることから、学校からの発表は本来学期明けの予定だった、が夏休み中にスタッフが打合せに来るということで、その前に父兄には伝えた方がいいだろう、とのことで小学部全体にはすでにお便りが配られていた。
それには『教育番組のテレビ収録のため』としか記されていなかったので、マサヨシはあいまいに首を振った。
「いや、僕も聞いたばかりで、分かんないんすよ」
「えーーーっ」
ママたちはいっせいに喚声をあげる。「絶対そうだと思ったのに」
「こないだね、みんなでカラオケ行ってちょうど歌ったんですよぉ、リトミックロック、オーイェイ」
コーキママはエアマイクを片手にもう乗りまくりで歌っている。
「来るといいのにねえ、うちの学校にも」
「悪役誰だろ?」「キョートーセンセイ?」「ギャハハハハ、あの頭が武器!」
盛り上がりまくっている彼女たちに背を向けないように、気が散っているライオンの群れから撤退する探検家並みの慎重さをもって、彼は笑顔を絶やすことなく徐々にそこを離れて子どもらの方へと戻っていった。
あと数日で夏休みになるというある日、しかし、マサヨシはついにやらかしてしまった。
放課後、ごたごたと下校する児童生徒がようやく昇降口までたどり着く時間のこと。
ケンジローの母は、家の用事で少し遅くなる、と連絡があったのでいつものように玄関ではなく、三階の教室で引き渡しということで話がついていた。
だが、それを重度の自閉症であるケンジローが納得してくれない。
「教室で、待ちます」とマサヨシが何度伝えても金切り声で「おうちかえります」と繰り返し、しまいにはものすごい力で突き飛ばされた。
油断していたマサヨシ、廊下へと走り出たケンジローに追いつけなかった。
追いついた時にはすでにケンジローは階段の上の端にいた。
そこで、なぜか下から戻ってきたみすずと、ばったり鉢合わせとなった。
みすずは忘れ物でもしたらしく、わざわざ玄関から戻ってきたようだ。
ケンジロー、彼女を見おろす形となる。非常にまずいタイミングだった。
「けんちゃん」
みすずはうれしそうに声をかける。みすずはクラスメイトの誰にでも優しい。
が、ケンジローからの反応はない。ただ黙って彼女を見おろしている。
みすずは小さな体で手すりにつかまりながら一生懸命階段を上り切り、彼の真下に立った。
「けんちゃん、どうしたの」
みすずに急に問いかけられたせいか、何か全然別の理由か解り兼ねたが、次にケンジローがやろうとした事に気づき、マサヨシはとっさに彼の姿に飛びついて後ろから腕を押さえた。
「やめなさい!」
ぎゃあとケンジロー、普段出さないような押しつぶされたペットボトルのような低い悲鳴をあげた。
それでも先生の隙を狙って一段下のみすずを突き落とそうとするように両手を交互に前に突き出している。
「やめます、やめなさい」自分でも金切り声でそう叫びながらケンジローは完全にパニック状態だった。
突然、自分の目の前に盛り上がった前腕をみとめ、彼は急にそこに思い切り噛みついてきた。
今度叫んだのはマサヨシの方だった。
みすずはすっかり表情をこわばらせて固まっている。近くにいては危ないのでとにかく離れるようにマサヨシは彼女に指示を出した、そして同時にケンジローを抑える。
簡単そうなのに、実際に独りでやってみると絶対無理な感じだった。とにかくケンジローなどは身長も体重も人並みで、時々中学生と間違えられることもあるくらいだ。
「ケンくん、ケンジローくん、ほら、座ろう」
ありがたいことに、みすずは安全な踊り場まで下がって、更に階下まで下がっていたようで、いつの間にかその小さな姿は消えていた。
それでもケンジローのパニックは収まらない。
マサヨシはもう一度噛みつかれた。今度は手首。ズキンと心臓に響くような痛みがきて、ついケンジローの頭を思い切り殴りつけた。
「バカ!! やめろ!」
言葉を発してしまった直後、かあっと頭に血がのぼった。
踊り場には、ようやくたどり着いたケンジローの母親がいつの間にかつっ立っていた。彼女と完全に目が合う。
「あの」
ケンジローと言えば、いつの間にか電池が切れたように、静かにその場に座り込んでいた。
「あの……」
マサヨシの頭の中に、色んなことばが渦巻いた。
今の、聞きました? もしかして手を噛まれたのは見てなかった? みすずちゃんがあぶないと思ってとっさに、でもあのこれは。
俺は言ってはいけないことばを発してしまった。彼らに対して、教師が決して言ってはいけない一言を。
「……本当に申し訳ありません」
わずかに沈黙の時間が流れた。ケンジローに聴こえるのは、自分の早鐘のような心臓の鼓動くらい。さっきまで顔が熱かったが、今度は血が引いてしまったようだ。
「あの……本当に」
急にケンジローの母が言った。笑いながら。
「マサ先生は何にも気にすることないって。アタシなんか何度言ってるか。だって国が『バカ』だって認めてくれて、それでウチらはお手当貰っているんだから否定しようはないし。それに普通にそう言ってくれるって事の方がありがたいけど。
普段バカ扱いしてないからこそ、いざって言う時にそんな悪態が出るのよ、普段からバカにしている人の方が口に出して言えない、っていうもんなの。その方が差別なんじゃないのかな?」
その日の帰り道、マサヨシは学校の駐車場まで歩いている間もずっと、そのことを考え続けていた。サイテーだ。あの人だからああ言って許してくれたけど、俺は自分が許せない。あの子たちを何だと思ってたんだ、オマエは。ずっと指導すれば伸びる、何か応えてくれるようになる、そう信じて彼らの可能性や未来に賭けてきたんじゃないのか? それを何だよ、一言で全てを否定したんだ、バカはどっちだ。
駐車場には、もうほとんど他の車は残っていなかった。自分の車に乗り込んでから、エンジンもかけずに彼はハンドルにつっ伏した。抑えていた涙がずっと、手の甲を濡らし続けた。