舞台袖のヒーロー
暗がりの舞台袖。観客席から隠れた暗がりに彼らはいた。
前の男は厳しい目つきで様子を伺うように背筋を伸ばし、煌々と白い照明に満たされた空間を凝視していた。
歳の頃は40前後であろうか、引き締まった体つき、真冬なのに半袖の白いTシャツに細めの黒いジーンズ。銀縁眼鏡を外し、少し下がって脇に立っていたダウンジャケットの青年にそれを手渡す。青年は寒そうに両手をポケットに突っ込んでいたがあわてて手を出して、その眼鏡を受け取った。
「あと何分だ?」
「マルガリ☆テリーヌですか? トーク挟んで歌があと2曲なんで……20分で終わりです」
青年が時計をみてそう告げると、暗がりに白い息が見えた。
ここは屋外ステージの袖。観客は総勢300名ほど。今は地元高校生アイドル4人グループ『マルガリ☆テリーヌ』が、お世辞にも上手いとはいいがたい、しかし弾けそうにジューシーな『オレンジはホットで』を熱唱していた。
青年がかすかに震え気味なのに比べ、舞台を見守る男は寒さなど全く意に介さないような表情だった。目つきは鋭く、口もとに緊張したような皺を作っている。やや後退が始まった半白の髪は、汗まみれの額にいくらか貼りつき気味になっていた。
「入る時間か……」彼は人目の届かぬ暗がりから少しだけ半身を覗かせた。
舞台中央にある、ステージへと上がる階段をじっと見ていたが突然、青年にふり返って厳しくこう言った。
「あの階段」指さした先を青年は同じように伸びあがる。「はい」
「もう一度確認したい、登場は」
「あの階段を、両手を上げて振りながらまず左に体ひねって一段上がり、二段目に右にひねりながら……」
「無理だね」イライラしたような口調だった。
「馬鹿かお前。右にひねる二段目、ケーブルがひっかかる。落ちたら一巻の終わりだ」
「えっ」
青年は身をかがめて階段に駆け寄る。マルガリ☆テリーヌはちょっとしたコントで沸き上がった爆笑の渦の中、なだれ込むように次の曲に入っていた。聴衆から更にわあっと歓声が上がる。
舞台下の暗がりを利用して、青年は黒いガムテープでケーブルを手早くまとめ、台の後ろ側に留めつけ、またあわてて駆け戻った。
「オレの視界のことも考えてくれ」彼は舞い踊るダンス集団を見ながら堅い声で言った。
「はい、気が付きませんでした、すみません」
青年が更に言葉を継ぐ。「それにしても、客席から登場してくれ、なんて急なお願いで本当にすみません、主催者が、あの……」そこを男は遮った。
「階段の奥行きは、34センチだな、確かに」
「はい」
「重なりは考慮に入れてるのか」
彼は水色の薄い手袋をはめた手で青年からタオルを受け取り、額の汗を拭いた。青年がすぐにタオルを引き取った。
「はい、足だけ履いて」ぎろっと彼に睨まれ、青年はあわてて言い直す。
「足だけ先に、上ってみましたから大丈夫です、真直ぐ足を置けます」
「ふ……ん」
彼はその場でゆっくりとステップを踏んで体のイメージを頭に思い浮かべるように軽く目をつぶった。「一段目、両手上、振りながら左、二段目、右、三段目は左で四に上に着く、そのまま正面に手を振りつつ舞台を一周、反時計回りでポイントXへ」
後ろから声がかかる。「タイム切りました、用意願います」
男の両脇に助手が一人ずつついた。男は舞台上を睨むように立ったまま、慣れたように彼らに肩をあずけ、脇から差し出される『足』に自らの足を通す。
「そうだ」青年があわてて口を挟んだ。「気をつけてください、舞台サークル上2時と10時に突起物……」
「この上で何年やってると思ってんだ、馬鹿」
男はふり返って、口の端をゆがめて笑ってみせた。
続けて上から、てっぺんに色とりどりのリボンを垂らした水色の細長い円錐形が、彼にすっぽりとかぶせられた。
「腕いきます」男はまっすぐ水平に腕を伸ばし、助手がうやうやしく差し出した『腕』に我が腕を差し入れる。助手がそれぞれ、腕のジョイントを確認。タグを中にしまいこみ、フックで固定。「動作確認願います」その声で、スーツを装着した男はゆっくりと腕をまわしてみた。右に、左に、そして上下へ。最後にぐるぐる回転。
「前進3歩、後退3歩」水色の円錐形は言われた通りに動く、そして、今度はスイングするように左へ、右へ、膝を曲げ伸ばして最後にくるりと一回転。
「どうでしょうか」
おそるおそるたずねる青年に、いきなりその水色の物体はペンギンポーズでお尻をぷりっと後ろに突き出し、大きく何度かうなずく。そして水色の指先で大きくOKサイン。
神が降りた。
「はいっ、『マルガリ☆テリーヌ』のみなさんでした~~~」会場が沸いた。ぺこりとおじぎをして両手を大きく振りながら女子高生たちが舞台から駆け降り、まっすぐこちらに走ってくる。すごい歓声に押されるように、はあはあしながら彼女たちは袖の狭い通を抜けようとして、くらがりの『彼』に気づいた。とたんに黄色い嬌声。
「やっだ~~~っっ♡」
その声に反応して、水色の物体は大きくお尻を振りながら、愛想よくご挨拶。『マルガリ☆テリーヌ』は地元でもそこそこ人気のある可愛ゆい女子高生アイドルグループだったが、誰もが素のJKに戻って、その姿を前にぴょんぴょんと跳びはねて大興奮。
「こんなところにいたんだ~~触っていいですかぁぁぁ?」「きゃ~~!」
そこにステージで司会者の声が響く。
「続きまして、みなさま、たっいへんお待たせしました~~~
ご当地キャラの『かすっぴ』くん、登場です!」会場が更に沸く。
マルガリ連中の憧れに満ちた視線の中、地元の観光名所『春日山』をかたどったゆるキャラ『かすっぴ』くんは、颯爽と舞台へ向かって疾走した。高く挙げた両手を目いっぱい振りながら。
『かすっぴ』くんが地元の子どもたちと踊っている最中、青年はくるりと私の方へとふり向いた。手にはまだ、あの銀縁の眼鏡を持っていた。
「……見ていたんですか?」静かな物言い、しかし有無を言わせぬ目つきだった。
「い、いいえ」とっさに嘘をついた。私は単に受付の手伝いをしていたボランティアに過ぎない。ここにいたのも偶然、入場者数を主催者に報告するため舞台に上がったままの人を待っているためだけだった。
「中の人……」続けようとして、彼に遮られた。
「中の人など、いません」そして、舞台をじっと見つめていた。
『かすっぴ』くんはちょうど数名の子どもとかけあい漫才の最中だった。どつかれて大きくよろめく『かすっぴ』くん、観衆がどっと笑っていた。
「あそこにおわしますが、永遠の『かすっぴ』くんなのです」
15年間、地元に根付いたそのキャラは愛も変わらずちょこまかと舞台を走りまわっている。それを追いかける子ども、『かすっぴ』くん、後ろうしろ!! と子どもの大合唱。
それを見守る青年、すでに英雄を見守る光がその眼に満ち満ちていた。