何かと気づく、ようやく
その沈黙を打ち破ったのは、聞き覚えのあるだみ声だった。
「また来た。花を捨ててくバカな連中が」
俺はぎょっとしてふり返る。
「オバサン!」
アユムがびっくりして叫んだが、その声は弾んで嬉しそうだった。
「オバサン、ていうか……オバアサン! もしかして、ぼくらのことが見えるの? いったいどうして?」
「死んじまったからだよ、ついに」
白髪は乱れ、顔はむくんでいたが、パジャマ姿のオバサンの目は活き活きと輝いていた。
「あれ、アンタの奥さんかい? なかなか若々しいじゃないか。かなり鈍くさそうだけどね」
「ど……どんくさい?」
ことばに詰まる俺に、オバサンの容赦ないだみ声が続く。
「今朝の明け方、耳元でしつこく言ってやったんだよ。『アンタの死んだダンナが毎日のように、アンタの名前を叫んでうるさいんだよ。早く行って黙らせておくれ。他のヤツらにゃ聞こえないらしいが、アタシにゃうるさくてうるさくて』ってさ」
俺は何が何だか分からず、傍らで祈るミナミと反対側のオバサンとを交互に見ていた。
「オバサン、病院で死んだんじゃないの?」
「アタシャ、あんたらみたいに場所に縛られた死に方じゃないからね。大好きな川辺の家で送った人生に悔いなんてないし、病院なんてもうウンザリだし、さっさとダンナの待ってるあっちへ行くのさ。その前にちょっとだけアンタの奥さんに苦情言いに行って、それからご挨拶に寄ったんさね。ここにいるアンタたちにだよ」
オバサンはにやりと笑った。
「ずっとフン縛られてるだろうな、と思って様子を見に来てやったんだよ」
じゃあ、御先にね、と飛び立とうとするオバアサンの足を、俺は慌てて捕まえた。
「教えてくれ。俺たち……どうしてオバサンみたいに動けないんだ?」
ははあ、と彼女は宙に浮いたままふり向いて笑った。
「動けない? 動こうとしないんじゃないか、アンタたちが」
えっ、発想の転換?
……どころではない。
動けるんだって?
ものすごく口が開いていたのだろう。オバサンは俺の顔を見て更に大声で笑う。からっとした爽やかな笑い声だった。
「そりゃあ、いつかは薄くなって消えることはできるんだろうさ。それでもいいんだけと、やっぱり消える時には潔く、ぱあっとあの世に行っちまうのがアタシは理想だね。アンタらはさ……思い残すことが多すぎたんじゃないの? きっと、行きたくない理由があるのさ」
「行きたくない理由?」
俺とアユムの声が揃う。
「ははーん、わかった」
オバサンは二人の方をかわるがわる見つめてちょっと意地悪そうな笑みをみせる。
「アンタらは、お互いに遠慮してるんだ。動けないと言ってる相手を置いて、自分だけあの世に行くのは悪いかなーって。そんでさ、大切な人にだって、会いに行けるのにそれすら遠慮し合っててさ」
俺とアユムは互いに顔を見合わせる。
「アユム、そうなのか?」
「わかんないよ……コウスケさんは、どうなの?」
「いや……待ってくれ」
アユムは、命を犠牲にして助けようとしてくれた俺に遠慮していたのか? そして俺も、助けられなかったこの子に引け目があったのだろうか。
どちらも少しも悪いことをしたわけではない。その時できることを精一杯しただけだ。なのに、タケハルを、アユムの母親を、ミナミを――大切な人たちを長い間苦しめてしまった。
少しでも表情を動かせば、俺は泣いてしまいそうだった。アユムも同じなのだろうか。
「じゃあ、アタシは愛するダンナが待ってるから~」
オバサンは巧みに俺の手を外し、夕焼け空の彼方へと飛び立って、そのまま消えていった。
「ねえ、タケちゃん」
アユムはいつの間にか、タケハルのすぐ脇に佇んでいた。かつての友人を見上げるように仰いで、そっと寄り添っている。
「助けようとしたわけじゃないよ、別に。全然何とも思ってないから、ぼくは。だからさ……タケちゃん、ちゃんと大学行って、たくさん人生楽しんでよね」
アユムの声が少し湿って聞こえた。
「タケちゃんに会えただけで、すごく良かった。お母さんの声も聞けたし」
タケハルの心を覗いてよくわかった。彼はこれからもずっと、アユムの母の心の支えになってくれるだろう。そしてまた、アユムの母もタケハルを支え続けていくに違いない。
「でもちょっと……悔しいかな」
うつむいた少年に、俺はそっと手を伸ばした。
「なあ、アユム。そろそろ空に上ろうか。一緒に行くか」
アユムが顔を伏せたまま答える。
「まだイヤだよ、おかあさんのところに帰りたいよ」
急に幼い口調になった。ほとんど透明になった足は、地団駄を踏んでいるようにも見える。
「帰りたい。でも動けないんだもん。空を飛ぶのもどうやったらいいかよく分んないし」
俺は口もとをかすかに緩めた。
今まで、アユムがどんな思いを心の中に溜めこんでいたのか、ようやく読むことができた。
俺に対する感謝と罪の意識とが、この幼い心の中でせめぎ合っていたのだ。そしてこの場にとどまることを心の奥底で選んでいた――一番会いたかったはずの母親にも会いに行かずに。
「そうだ」
さりげない口調で俺はつぶやく。
「最初は一緒にさ、手をつないで、俺がせーの、って持ち上げてやるから一緒に飛び上がってみようか。浮かび上がれたら、そっからオマエは一人で行くんだ」
「え? どこに」
「自分の家にだよ、決まってるじゃないか。お母さんにちゃんと言っておいで」
「でも、なんて?」
「何て言いたいか? そりゃ自分でちゃんと考えてごらん」
「……できるかな」
すっかり途方にくれた表情のアユム。
助けを求める視線を感じるが、俺は黙ってアユムが口を開くのを待った。
やがてアユムは、自分の言葉で話し始めた。たどたどしい口調が、よけいに俺の胸を突く。
「お母さんには、すごくいっぱい、お話があるよ。あの日学校で苦手なピーマンを初めて食べられたんだ。それに、算数の授業で手をあげて答えられたし、あと……」
アユムは急に落ち着かない様子になって、俺の手を取った。
「早くしよう、早く。ぼく早くうちに帰らなくちゃ。お母さんに会わなくちゃ」
アユムのあどけない笑顔を見たのは、本当に久しぶりだった。
「じゃあしっかり手をつないどけよ」
「うん!」
俺たちは固く手をつなぎ、大地を蹴った。死んでから初めて、土の感触を覚えた。
蹴った小石がいくつか、コロコロと土手を転がり落ち、途中で跳ねて川面に輪を重ねた。
「うわあ」
アユムが歓声をあげる。
みるみるうちに土手が足下から遠ざかる。
「さようならー、ミナミー!」
聞こえるはずはないが、俺は最後に大声で叫んでみた。
「幸せになれよぉ! ずっとバアサンになったら会ってやるからなぁ」
「タケちゃん、バイバーイ!」
アユムも叫んで空いた片手をぶんぶん振っている。
そして息を弾ませて、こう告げた。
「コウスケさん、もうだいじょうぶだよ。ぼくもう行くから」
「おお、ちゃんと伝えて来いよ」
「うん」
遠心力で放り投げるように、俺は手を離す。
「わぁぁぁぁい」とアトラクションで歓声をあげるかのようなアユムの叫び、そして続けて可愛らしい声。
「またねー! またどっかで会おうね、コウスケさーーーーん」
その小さな姿は瞬く間に大気に霞んで消えた。、それを見届けた俺はそっと目を閉じる。
ああ、このまま空に溶けていくのか。
はるか地上から声が聞こえる。
「ありがとう、コウスケー!」
「ありがとう、アユムうう!」
俺は再び目を開き、声のした方を確かめる。
はるか下に見える川岸に、二つの影――ミナミとタケハルが見えた。
二人は旅立つ俺たちをまるで見守るかのように、空を見上げている。
俺やアユムが見えているのか偶然なのか、確かめようはない。しかし、俺には聞こえたのだ。
俺は散ってゆく。夕闇の優しい大気の中にほろほろとくだけるように。
川面の波紋はいつの間にか消え、川岸に佇むミナミとタケハルの上には、一番星が道しるべのごとく輝いていた。
〈川岸のヒーロー 了〉




